4話6
肩にさんさん 麗らかな日射し。
身体が上下に揺すぶられる、規則正しくも心地よい振動。
よだれの垂れそうな惰眠から、ふっと現実に引き戻される。
エレーンは軽く目をこすり、上目使いで呼びかけた。
「ねー。ケネルぅ~」
「……」
ケネルは無言。
いつものごとくに。
もっとも、前を見据えた頬が、ひくりと若干引きつったようだが。
エレーンは顔を手のひらであおいで「あのねえー」とケネルに寄りかかる。
「なんか暑っつい、さっきから」
それでも無言。
いつものごとくに。
ケネルは悠然たる顔つきだ。
何も聞こえていないかのような。
が、
そんなわけはないんである。
なにせ馬に同乗中。
ぴったり密着した近距離で、聞こえないなら難聴である。
ただいま隊長の得意技「知らんぷり」作戦、発動中。
知らんぷりさせたら天下一品。この世の中広しといえども、彼の右に出る者なし! と大向こうを唸らせる御仁である。
手綱をあやつるケネルのシャツを、エレーンはぐいぐい容赦なく引っ張る。「ねーケネルぅ~。ケネルってばぁ~」
「……」
「むっ!?──ちょっとお! ねえ、返事くらいしてよ! ねーっ! ケネルぅ!」
「……」
「ねえってば、ねーっ! ねーってばあっ!」
「……。殺す気か」
ケネルが渋々返事をした。
力任せに引っ張られ、シャツの首がむぎゅっと絞まって。
そう、この奥方様は、返事をするまで呼ぶんである。
ちなみに、絶え間なくわめかれ続けて、根負けしたのも事実であろうが、一番の敗因が何かといえば、やはり、むに──っと頬っぺたを、またも引っ張られそうになったことか。
ケネルは何気に肩を引き、顔をゆがめて警戒の顔つき。「──なんだ」
「だから、あっついぃ~!」
「この辺りは、まだ北方だ。暑いというほどの気候じゃな──」
「けど、あたし、あっついもんっ!」
エレーンは返答を吹っ飛ばし、口を尖らせ、顔をぱたぱた。
「あっつい! あっつい! あたし、あっついぃ~っ!」
「夏は暑い。そういうものだ」
バサリとケネルがぶった切る。
もっとも、こうしたツレない態度は、この隊長の仕様である。
「やだっ!」
むぅっ、とエレーンも、ぶんむくれて対抗。
そして、
「あっつい! あっつい! あっついぃ~!」
ぴーちくぱーちく大合唱。
グーに握った拳固を振って、ぐるぐる駆けまわりそうな勢いで。
ケネルが、はぁ~、と天を仰いだ。
原野を疾走する轟音が荒々しく轟く中、顔を見あげるふくれっ面を、もてあましたようにながめやる。
そして
「ファレス。休憩にする──」
並走していた副長に、馬群を止めるよう、げんなりと指示した。
馬を止めて、背から降り、ケネルは自分のザックをつかんだ。
使い古したザックの中から、放牧用の足枷を取り出し、馬の足元にかがみこむ。
「ねー、ケネルぅ~。お風呂ぉ~」
「オフロ?」
怪訝に客へと目をあげた。
「風呂がどうした」
「──だからあ~! あたしお風呂に入りたいぃ~!」
むくりとケネルは背を起こした。
「トラビアの方はどうすんだっ!」
まなじり吊りあげ、客を一喝。
そうだ。のんきに浸ってる場合か。
あわれ囚われの領主はどうなる!?
当の客は髪をいじって、ぶちぶち口を尖らせている。
「だあって、頭とかも洗いたいしぃ? なんかベトベトで嫌なんだもん」
「だったら、次の休憩で洗え。川の近くで止めてやる」
「えーっ! 川ぁ!?」
客が目を剥き、ぶんむくれた。
「そんなの嫌だもん川なんてぇ! あたし洗濯物とか野菜じゃないもん! だいたい川になんか入ったら、絶対あたし風邪ひくもんっ!」
「今は夏だろうがっ!」
そう、紛うことなく今は夏。
わざわざ川に繰り出して、水浴びしちゃう季節である。
ぷい、と客がそっぽを向いた。
「やだっ! ちゃんとお風呂がいい! あたしのお肌デリケートだもん!」
「……。(嘘をつけ)」
ケネルは顔をゆがめて口をつぐんだ。背中を軍刀で斬りつけられても、ピンピンしているのは、どこのどいつだ。
客の駄々は捨ておいて、馬の足へと目を戻す。足枷をつける作業を再開。
「あのねえ、ケネル、あたしねえ~」
「──こら。後ろに立つな。蹴られるぞ」
「温泉行きたい! あたし、温泉っ!」
ケネルは馬を放して立ちあがり、呆れはてて客を見た。
「あんたはどうして思いつき一つで、ぽんぽん我がままぬかすんだ。急ぐと言うから、俺たちはこうして──」
「温泉、近くにあるんでしょ?」
客は手を組み、キラキラ瞳を輝かせる。
「ほらあ、森の奥とかにさ。ちょっとくらい寄ってもいいでしょ? ねっ?」
「──聞けよ! 話をっ!」
客は顔じゅう口にして、満面の笑みでわめき散らす。
「温泉っ! 温泉っ! 温泉っ!」
「だめだ!」
一喝でケネルは黙らせた。
すたすた木陰へ歩き出す。
むぅっ、と客は口をつぐみ、だが、すぐに早足でまとわりつく。
「なによ、意地悪っ! いーじゃないっ!」
「だめだ。無謀だ。論外だ」
客は口を尖らせて、じぃっと顔を見あげている。
その口を「へ」の字にひん曲げた。
「あっそお!」
ちなみに、この返事、一般には 「はい、わかりました、さようなら」を意味する、主に「了解」の意思表示であるが、彼女の場合はさにあらず。
「いーもん! だったら言っちゃうもんっ!」
すぅ、と大きく息を吸い、片手を頬に押し当てた。
「ケ(ネぴ―)──」
「だめなものは、だめだっ!」
ケネルは即行で瞬殺し(──ぃよしっ!)と内心拳を握る。
ちなみに声は、腹から出すのがコツである。
「森の中の温泉が、どんな代物か知っているのか」
ケネルはやれやれと客を諭して、思わせぶりにチラと見た。
「虫が出るぞ?」
ギクリと客が氷結した。
実は一騒動あったんである。
ゆうべ、ゲルに黒虫が出没。
たちまちゲルの室内は、阿鼻叫喚の地獄絵図。
客は絶叫、逃げまどい、ゲルの壁沿いに疾走し、日がな馬を駆っていたケネルは、熟睡中に叩き起こされた。
そして、恐慌をきたした客から、悲鳴と罵声を存分に浴びつつ、家具の裏手へ逃げ込んだ虫と明け方近くまで格闘し──。
「森の中じゃ、うようよいるぞ? 虫もいるし、蛇もいる。なんなら蛇と混浴するか?」
むう、と客が引きつり黙った。
そう、ようやくわかったようだ。ステキな露天風呂のなんたるかが。しっとりと発酵、湿った樹海の草葉でうごめく虫の数たるや、ゆうべの一匹の比ではない。
「どーして、そーゆーいじわる言うかな!?」
ギッと客が睨めつけた。
「ケネルのいじわるっ! ケネルの石頭! ケネルの、ケネルの──( 似たような罵倒がいっぱい続く )──!」
ケネルは手をはたきつつ、はい、終了~、と歩き出す。
「ねーねーねー! でもさー! やっぱさー!」
シャツの後ろを引っ張って、ぶちぶち客がついてくる。
ちなみに白いズボンの尻には、くっきり茶色く乾いた土くれ。もう、どこかで転んだらしい。
「いーじゃん! いーでしょ!? ねーねーねーっ!」
うららかな原野をぐるぐる回る、追いかけっこ集団、若干二名。
「──もーっ! なんで、だめなのよー!」
「なんでもなにも怪我人だろ」
「平気だってば、背中は全然! 大体あたし、お風呂なら、もう何度も入ったし」
ぎょっとケネルは振り向いた。
「──嘘をつけ」
「嘘じゃないぃっ!」
ふんっと客は言い放つ。
鼻息荒く訴える顔を、ケネルはまじまじと見おろした。
あ、さては──と腕を組む。
「医者の指示は大人しくきけ!」
「入っていいって言われたもんっ!」
ケネルは面食らい、口をつぐむ。
「……医者が、そう言ったのか?」
「そーよ?」
「本当に、医者があんたに許可を──」
「そーよ!」
「本当に医者が許可したのか? あんたが 脅 迫 したんじゃなくて?」
「──もー。だからあ~! しつこいケネル!」
客がじれて拳を握った。
「そう言ってるでしょうが、さっきから! だいたいお風呂入っとかないと、汗臭くなっちゃうじゃない。もー。マジで失礼しゃうぅー。あたし、そんなに不潔じゃないもん」
客の話にケネルは戸惑い、思い当たって舌打ちした。「──ウの奴!」
ひょいと客が覗きこむ。
「なに? 今なんてったの?」
ぎょっとケネルは肩を引いた。
「──別に」
なんて瞬発力だこの女。
「それより、何ともなかったのか。傷があるのに、湯になんか浸かって」
「もお! 平気だって言ってんでしょー?」
うんざりしたようにしかめた顔を、ケネルはつくづくながめやる。客は目の前でけろりとしている。無理をしているふうでもなく──
はた、と気づいて首を振った。
「いいや、だめだ。そんなもの! 森の露天の水なんか、一体何が湧いていることか。そんな不衛生なものに浸かってみろ。背中の傷が化膿して、取り返しがつかなくな──」
「だあって、あっついから汗かいたもんっ! ドロドロの道歩いたから、汚れちゃったもんっ!」
「あんたが勝手に行ったんだろうが!」
そうだ。誰も頼んじゃいない。
「でっもお~」と客はぶんむくれる。
「ノースカレリアのお屋敷を出てから、ずぅぅっとお風呂に入ってないし、ぜんぜん頭洗ってないから、ペタペタになってて気持ち悪いしぃ──」
その頭をぐいと引き寄せ、ケネルはくんくん匂いを嗅いだ。
「大丈夫だ。まだ臭くない」
客が頬をひくつかせて絶句した。「く、くさ──!?」
ギッと目を剥き、抗議する。
「なに!? その、まだってえ──!?」
「さっ。休憩だ休憩」
ケネルはすたすた木陰へ歩いた。
その肩越しに、チラと見る。
「少しは大人しくしていてくれよ……」
むう、と客が瞳を怒らせ、またもジタバタわめき散らす。
「絶―対っ、あたし、温泉に行くっ!」
「いいじゃねえかよ、行かせてやれば」
快活な声が割りこんだ。
ふと、客が振りかえる。途端、
「──ああ~、バパさあん」
とろけそうに笑み崩れた。
顔を赤らめた客の元へと、やってきたのは首長バパ。
首長はぶらぶら近づいて、樹海の緑をながめやる。
「近くにあったろ、源泉が。中々きれいでお勧めだぞ。確か少し戻った先を──」
ぎょっ、とケネルはバパを見た。「あっ、バパ、いや、それは──!」
「おすすめっ!?」
きらん──! と客の目がきらめいた。
両手を組んで、たちまちわめく。
「いっや~ん! 行きたあいっ! 行ってみた~いっ!──ね! ね! ケネル。おすすめおすすめっ!?」
「だめだ」
ケネルはしかめっ面で一蹴した。
が、
「げんせんっ♪ おすすめっ♪ たっのしみぃ~♪」
「だめだ」
「なんでよ、いーでしょ? きれいだって!」
「だめっ!」
ぷぷい、とケネルはそっぽを向く。
「えええー!? なによ、どしてよケネル。だあって、ほらあ! あたし今、怪我人してるとこだしさあ!」
「……」
なんだそれは。
「行きたあーい! 行きたあーい! あたし行きたあーいっ!」
キンキン声に顔をしかめて、ケネルは溜息まじりに目を向けた。「あんたは先を急ぐんだろう」
「いいじゃねえかよ、少しくらいは」
バパが苦笑いで目を向けた。
「この子は俺たちとは違うんだ。こんな夏場に湯浴みなしじゃ、若い娘には辛いだろう。お前も少しは察してやれよ」
客が瞳を輝かせ、ぴょん、とその首に飛びついた。
「バパさん大好きぃっ!」
首長の頬に、すりすり頬ずり。
バパは苦笑いで受け止める。「──おいおい、そうくっ付くな。きれいな服が汚れるぞ」
そうは言いつつ、首長は満更でもなさそうな顔。
が、
「バパさん。おひげ痛ぁい……」
客が涙目で後ずさった。
首長は困ったように苦笑い。
「だから言ったろ、くっ付くなって。埃と汗で汚れているし」
「こうもしょっちゅう寄り道していちゃ、いつまで経っても辿り着けない」
ケネルはげんなりと割り込んだ。
バパを見やって腕を組む。「ただでさえ遅れてるのに」
客をあやしていたバパが、笑顔のままで目を向けた。
「まったく、お前は頭が固いな」
──なにおう!? とケネルは拳固を握る。
にやにやバパが顎を出した。
「 "ケネルのイジワルぅ~ん♪" 」
「──あんたまで、なんだっ!」
「先はまだまだ長いんだ。少しくらい骨休めしたって、別にバチは当たらんだろ」
「なにを言ってる。客は背中が──」
「ふさがってんだろ、傷なんかよ。どれだけ経ったと思ってんだ」
「そうはいっても──」
「切り傷に効くぞ。あそこの湯は」
畳みかけられ、反論につまった。
バパはおもむろに目を向ける。
「知ってるだろうが、お前だって。あそこは付近の遊牧民も、湯治場として使ってんだ」
「──それは、そうかも知れないが」
「何がそんなに問題なんだ」
バパが呆れたように腕を組んだ。
「のんびり湯にでも浸かってくりゃあ、いい気晴らしになるってもんだろ。ああ、それとも──」
ちらと探るようにうかがった。「何かあるのか?」
「何かって何が」
「だから、まずいこととかさ」
「──まさか」
ケネルは一蹴、苛々視線をめぐらせる。「俺はさっさと進みたいだけだ。──ファレス!」
「えーっ! 女男ぉ?!」
ぎょっ、と客が目をみはった。
ギッと睨んで黙らせる。「選り好みをするな!」
「でっもーおっ!」
「でも、じゃない! ファレスと行け!」
「えええーっ!」
客があからさまにふてくさった。
上目遣いでぶちぶち見、ぱっと首長にしがみつく。
「だったらあたし、バパさんがいいっ!」
「首長はそんなに暇じゃない」
襟首つかんで引っぺがす。
ぷい、と客がそっぽを向いた。「なら、ケネルにする」
「……あ゛?」
「だったら、あたし、ケネルがいいっ!」
ケネルはわなわな拳を握った。
「駄々をこねるな! あんたはガキか! ファレスと一緒に行ってこい!」
「やだっ! やだっ! 絶対やだっ! だって、あいついじめるもんっ! だったらあたし、ケネルがいいっ! だったらケネルが一緒にきてっ!」
「いい加減にしろ! 俺は寝るっ!」
たった一匹の虫のことで寝不足になったのは誰のせいだ!
「おう。とっとと行くぞ」
その声を、客が振り向いた。
近くの木立にもたれていたのは、くわえ煙草で見ていたファレス。
客がたじろぎ、顔をゆがめた。「な、なによ、あんたっ。いつから、そこに……」
にこりともせずに、ファレスは近づく。
「ケネルの気が変わんねえ内によ」
む? と客が口をつぐんだ。
 




