4話5
ファレスは戸惑い、目をそらす。
だが、すでに遅かった。
客の肩がびくりと震えた。
茂みの向こうで背を向けて、客は無言で立っている。
あのお喋りにしては珍しく、文句を言うでも言い返すでもなく。
そらした視線の片隅で、気配がごそごそ身じろいだ。いや、何をしたかは見ずとも分かる。
「──悪りィ」
ファレスは自分の間の悪さに、忌々しい思いで舌打ちした。
そう、そんなものは見ずとも分かる。他人の気配に気がついて、あわてて顔をぬぐったろうことは。
嫌な具合に胸がざわめく。
日頃のふてぶてしさのかけらもなかった。もろく、か弱く、頼りない。客はあんなに小さかったか?
肩は、あんなに華奢だったか?
手足は、あんなに細かったか?
今目にした光景が、困惑した脳裏をよぎる。
背中を覆う、うつむいた黒髪。白い腕がもちあがり、か細い指が頬をぬぐって──。
そういや、あのケネルの周囲が、今日は珍しく賑わっていた。
クロウが顔を見せたからだが、普段とは違う活気にあてられ、客は気後れしただろう。
首長たちも部下といて、近寄ることをためらった。
ならば、とこちらへ戻ってみるが、世話係は定時連絡を終え、元の場所から移動した後。
だから、一人で
──逃げてきた。
苦々しさがこみあげて、ファレスは嘆息、顔をしかめた。
理由にようやく思い至った。客を追い払ったあの時に、客が見せた表情の。
驚いたような、傷ついたような、途方に暮れているような。
客からすれば、世話係は、やっと見つけた自分の居場所。
だが、あわてて方々捜しまわったのだろう手を、駆け寄ろうとして伸ばしたその手を、こちらは無下に振り払った。
古い記憶が、不意に重なる。
赤い落日。大人ばかりが群れ歩く、日暮れの寂れた天幕群。
一日をやり果せた安堵感と、倦んだように気怠い喧騒。
蒼い帳に包まれた、肌寒くなり始めた薄暗い道で、どこかへ消えた母親を、ひとり必死で捜したあの日。怯えにも似たあの焦燥──
「──なんのつもりだ、あのタヌキ!」
ファレスはごち、吐き捨てた。趣味の悪い見世物、とんだ茶番だ。
茂みの先が大きく鳴った。
藪を掻き分け、こちらに出てくる。もう、気は済んだらしい。
内心そわつき、一瞥すれば、案の定、うつむいて、客は目をこすっている。
ファレスは辟易と舌打ちした。
(だから嫌なんだ、女ってのは)
気にも留めない下らないところで、どうしようもなく手がかかる。早い話が面倒くさい。
その認識を新たにしながら、いささか持てあまして天を仰いだ。「なあ。おい、さっきはよ──」
「もう、参っちゃったわ。だって──」
「──だから、悪かったって言ってんだろ!」
思わずファレスはさえぎった。
気まずい思いで舌打ちする。「話が長引いちまってよ。手早く片付ける気では、いたんだが」
ゆめ思いもしなかった。
まさか、今日この時に、ケネルが鳥師を呼ぼうとは。
客は少し離れた場所で、ぐずぐず目をこすっている。
体の中がむずむず疼いた。
ファレスはそれを発散すべく、野草を強く蹴りつける。あの音が、脳裏で鳴っている。
いつの頃からか、耳の底で、鳴り続けている音がある。
どこにいても、何をしていても、音は常にそこにある。
密やかでうるさいざわめきは、ある時には小さすぎ、ある時には大きすぎ、そちらへ意識をやった途端、雲散霧消してしまう。捕らえた指の間から、するりと逃げゆく逃げ水のように。
空虚な追いかけっこの顛末は、あたかも己の影法師。捕まえることは決してできない。
足元に在るのはわかっていても。
音が、不意に跳ねあがった。
普段は低いくすぶりが、一気に弾けて拡張し、羽音のようなざわめきが頭の中を埋めつくす。
高く、低く、それはうねって、うるさいくらいに膨張し、頭の中を占拠する。
耳障りなあの音に、思考がすっかり遮蔽される。
その何とも言えないもどかしさに、苛立ちばかりがいや増しに募る。
刹那、激しい衝動に駆られた。
──客を懐に引きずりこんで、あの口、いっそ、ふさいでやろうか。
目をこすっていた黒髪が、うつむいた口を動かした。
「×××××」
ファレスは怪訝に客を見る。
つむじの下から、小声が漏れた。
「メ、イタイ」
拍子抜けして見返した。
「……め?」
とっさに詰まり、思い当たる。
今のは、もしや「目」が「痛い」か?
「もー、さっきから、とれなくってえ」
──とれない?
目が?
客の発した二つの言葉が、結びつかずに面食らう。
客は目尻を指でぬぐって、口の先を尖らせる。
「なんか砂が、入っちゃって、目に」
ファレスは絶句で顔をゆがめた。
客は涙目で文句を垂れる。
「んもー。これだから未開の地って。ほらあ、あたしってば都会派じゃない? こーゆーとこって向いてないと思うのよねえ。だって、道はぐちゃぐちゃだし、ずるって滑って転びそうになるし、茶店とかないし、蚊とかいるし。虫とかいるし、蛇とかいるし──あー! もーっ! まだとれないっ!」
「……。てめえ」
ファレスはわなわな打ち震えた。
ぐっ、と密かに拳を握る。
「ん、あれ? そーいえば」
客が顔を振りあげた。
散々こすって潤んだ瞳で、きょろきょろ木立を見まわしている。
「なんでいんの? あんたがここに。──あ、なに? 迎えにきてくれたとか?」
言って、客が顔を見あげた。
しげしげ見やったその顔は 「なんか用?」 とか 「何してんのー?」 だとか、そんなようなことを言いたげだ。
その顔が、にんまっと笑い、ぽん、とファレスの腕を叩いた。「やー。お迎えご苦労」
「まぎらわしい真似してんじゃねえっ!」
ぎょっと客がたじろいだ。
「なっ──なによなによ、どしたのよ。なんで、あんたが怒るわけ? てか、なんで、あたし、怒られてんの? あたしが一体何したっていう──」
「やかましい! 何度言ったらわかるんだ! 一人で森をぶらつくな! 俺に無断で姿を消すな!」
客がぽかんと口をあけた。
むっとふくれて腕を組む。
「はあ? どーやって断れってのよ! どこ捜しても、あんたいないし。大体あんたが、あっち行けって言ったんじゃないよ。だから散歩してたのに、どーしてあたしが怒られなくっちゃなんないわけ!?」
「言ったろうが! 勝手に森には入るなと! 危ねえ獣がうようよいんだよ! 何べん言ったら、わかるんだ!」
「なあによ! 危ない危ないって! あんただって、いるじゃん、ここに!」
「てめえと俺を一緒にすんなっ!」
ぷい、と客がそっぽを向いた。
グーに握った両手を振って、ぷりぷりしながら歩き出す。
見向きもしない背中から「なにそれ横暴! 信じらんないっ!」と聞こえよがしに声がする。
ファレスもずかずか、それに続いた。
「てめえは本当にろくなことしねえな! 背中斬られたあの時だって、考えなしに飛び出しやがって!」
むっ、と客が、髪を払って振り向いた。
「だからー! 何度おんなじこと言わせんの! だって背中斬られるとか、まさかこっちだって思ってないしっ!」
「──だからっ! だったらどうなると思っていたんだっ!」
「あんたって、まじで信じらんない。なによ、女男の怒りんぼ。まじで、わけわかんないっ!」
「てめえにだけは、言われたかねえよっ!」
高い梢が、さわさわなびく。
昼の樹海の泥道が、静かに木漏れ日を浴びている。梢から降る日差しがたゆたい、風が涼やかに吹き抜ける。
「なんで性懲りもなく、歩きまわりやがる! 襲われたばっかりだってのに!」
「だあってえ」
「だって、なんだ!」
「捕まったんでしょ、強盗は」
「──それは、そうだが」
ぐっ、とファレスは返事につまる。
ふふん、と客が勝ち誇った。
「なら、気にすること、ないでしょ別に。あんたって案外 小 心 ね」
ファレスはぎりぎり歯噛みした。
「──たく! 畜生! 道悪リィなっ!」
水溜りを蹴り飛ばす。即行で言い返したいところだが、あの森での一件には、深入りしたくない事情がある。
ちなみに今ので"負け犬"スキルが、確実にランクアップしたはずだ。
「ぐっちゃぐちゃじゃねえかよ! 地べたがよっ!」
「知らないわよそんなことっ! そんなの、あたしのせいじゃないぃーっ!」
ぷい、と客はそっぽを向いて、ずんずん道を歩いていく。
実に小憎らしく、刺々しい態度で。
「おい、そこのミンミンぜみ!」
ファレスは苛立ちを押し殺す。「その態度はねえだろう。そもそも事の発端は、いつでも、あんたが、勝手に──」
ぎろり、と客が肩越しに睨んだ。
「ふんっ!」
ぷい、と髪を殊更に払い、すたすた道を歩き出す。
「──てっ、てんめえ──じゃじゃ馬ぁ~!」
ぶちり、と何かがブチ切れた。
「てめえ、ちょっと、そこ座れや!」
びしっと地面をファレスは指さす。部下なら、到底ありえない態度だ。
「て、コラ待てっ! 待てってんだオタンコナス!」
客はすたすた、勝手に我が道を歩いていく。
「てめえは何を聞いてんだ! 勝手に行くなと言ったばかり──て、聞けっ! 話を!」
客はぶんぶん拳を振って、あからさまにぷりぷり歩いていく。
足を止める気配もない。
ファレスはわなわな絶句した。
客に完璧にナメられている。完全にこっちをナメくさっている。
客は余裕で無視の態度。もう、返事もしやがらない。
あっさり通過で置き去りにされ、副長の威厳はこっぱ微塵。
もっとも客は部外者で、いわゆる実効範囲外。
権力ピラミッドの三角斜面で、日々睨みをきかせる副長でも、ひらひら気ままに飛びまわる蝶々なんかが相手では、捕まえるだけでも至難の業。
まして、そんな心許ないもの、しかと捻じ伏せるには難がある。
「勝手にしろ!」
とうとうファレスは怒鳴りつけた。
いや、怒鳴っていたのは初めからだが。
ぴたりと黒髪が足を止めた。
半身ひねって、くるりと振り向く。ふくれっ面で腕を組んだ。
「なによお、ついてこないでよお。あんた、あたしの追っかけなワケ?」
「同じ方向だろうが! てめえとは!」
態度があまりにも憎たらしいから、大人を縦に並べて三人分、きっちりあけて歩いてやる。
機嫌をとってやる義理などない。
どこかで蝉が鳴いていた。
雨でぬかるんだ風道には、大小様々の水たまり。濡れそぼった茶色の落ち葉が、いくえにも敷きつめられている。
小柄で華奢な客の背は、すたすた勝手に歩いていく。ふてくさって見向きもしない。
その後についていきながら、ファレスはむかむかと客をながめる。
(たく! なんて神経の図太い女だ)
なぜ、ああも平気でいられる。
今こうしている間にも、捕虜になった自分の亭主が、危険のただ中にあるというのに。
かわいそうな亭主の顔など、もう忘れてしまったか?
振り向きもしない女の背中を、ファレスはつくづくながめやる。
自分をトラビアへ連れていけ、とケネルを泣き落としたのは誰だったというのか。
女というのは、つくづく不思議な生き物だ。一見か弱そうに見えるのに、何を考えているのか得体が知れない。
深い樹海に風が吹き、高い梢がさらさら鳴る。
音が、耳に戻っていた。いつの頃からか、鳴り続けている、あの──。
ファレスは不愉快な気分で舌打ちした。
無数の羽虫が羽ばたくような、何かが軋むような、耳ざわりな音。
いつの間に居付いてしまったのか。これを拾ってきたのは、どこだったか。
見るともなしに客をながめて、ふと、ファレスは眉をひそめた。
(こいつ、いやにうるせえな)
奇妙な雑感に囚われる。
かつて見ていた光景が、だが、確かに見ていたはずなのに、それが"何"か分からない。
焦れったく、歯がゆく、もどかしい。嫌な感じに胸がくすぶる。
『 お前は知っていると思ったがな 』
あの声が淡々とよぎった。
引っかかったままの、ケネルの謎かけ。
『 どうして客が、ああもよく喋るのか 』
ファレスは苦々しく舌打ちする。
「知るかよ、俺が。そんなこと」
方々にできた水たまりに、晴れた青空が写っていた。
黙々と歩く行く手には、雨に叩かれた茶色の泥道。そういや客は、うつむいて目をこすっていた。砂が目に入った、と──。
なにがそんなに引っかかるのか。
頭が勝手に、あの光景を反芻する。
いや、あれは勘違いだ。泣いているように見えたのは。
だが、理屈では納得しても、頭のどこかが承服しない。
思えば、出会った初めから、変だったのだ、あの客は。
気丈を超えたはしゃぎっぷリ。
忘れてきた痛み止め。いつもどこか上の空。謂れのない、あの癇癪──。
先の雨に暴かれて、土の匂いがむっとする。
樹海の中の沿道の緑が、雨に打たれてうなだれている。
あたり一面に光る露。
大気が溶けた雨の匂い。先の雨で湿気った服が、肌に張りつき、気持ちが悪い。
通り雨。湿った空気。濡れそぼった樹海の木立。雨を含んだぬかるんだ道──
──ぬかるんだ?
はっとしてファレスは息を呑んだ。
高い梢がさわさわと鳴る。
「──あの意地っ張りが」
ファレスは客の背中に目を据え、眉をひそめて舌打ちした。
「飛んでくるわけ、ねえじゃねえかよ。こんな雨あがりに──」
砂なんか。




