4話2
「んねえ、見て見て?」
「……」
「ねーねーねー! ねーってばあっ!」
「……」
ほらほらほらあっ! とケネルに向けて、エレーンは腕を突き伸ばす。
ケネルは馬の手綱をさばいて、進路を淡々と見つめている。
いつものごとく反応なし。
ケネルの袖をくいくい引くも、それでもやっぱり反応なし。
彼の視界でうろちょろし、お手々なんかも振ってみる。
それでもケネルは反応な──
「あっそお! そーなんだ。そーいう態度とっちゃうわけえ?」
むぅ、とエレーンはぶんむくれた。
「いーわよ別に。だったら、あたし、みんなの前で呼んじゃうもんっ!」
片手を頬にセットして、すう──と大きく息を吸う。
「ケネ(ぴー)──っ!」
ぱっ、とケネルが口を押さえた。
馬群に視線を走らせて、片頬引きつらせ、振りかえる。
「君の話を聞こうじゃないか」
たいへん友好的な態度である。
左の腕をポリポリ掻いて「あのねえー」とエレーンはケネルを仰ぐ。
「かゆい。蚊にくわれた」
「だから?」
間髪を容れずにケネルは返答。
意地悪しているわけではない。
隊長は今忙しいのだ。なにせ馬を走らせている。
エレーンは、むう、とふくれっ面。
「ケネルー! かゆいー! すんごくかゆいー!」
じたばた騒いだ。
全力で。
「爪でバッテンでもつけておけ」
ケネルは一蹴。けんもほろろ。
隊長は今、馬の運転で忙し──
「ケネルぅ~……」
エレーンはしょぼくれて寄りかかり、ケネルの懐からその顔を仰ぐ。
瞳を潤ませ、じぃっ、と凝視。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……。あー! もうっ!」
ケネルが腕をひっつかんだ。
額に「怒」の字を貼り付けて、ぷっくり腫れた虫刺されに、ふみふみ×バッテンをつけていく。
こらえきれずにケネルの負け。
が、
「痛いぃー! もっと優しくぅ~っ!」
エレーンはぶんぶん首を振る。
毛先でビシバシ顔を叩かれ、ケネルはわなわな手綱の拳固を震わせる。
はた、と何かに気づいた顔で、エレーンの腕をひっつかんだ。
優しく×をつけ直す。
なにせ馬群で移動中。
大勢の部下の面前で「ケネぴー」などと呼ばれた日には、
隊長の面目、こっぱ微塵。
中央のケネルと馬を並べて馬群の中を駆けながら、ファレスはその顔を盗み見た。
客はケネルにじゃれつきながら、今日もケネルで遊んでいる。相も変わらずかしましく。
(変だよな……)とファレスは思う。
客の反応がちくはぐだ。
危機感というものがまるでない。まだ、きのうの今日だというのに。
何度も森で襲われて、連れこまれそうになって尚、ああものほほんとしていられるものか?
むしろ、あんな目に一度でも遭えば、
「──わかりそうなものだがな」
自分が狩りの標的に、なっている、くらいのことは。
なのに、なぜ、ぺちゃくちゃと、平気な顔で喋っていられる。
襲われたことなど忘れた顔で。
客はいつものふくれっ面で、ケネルに文句を垂れている。
ケネルは顔を、客に両手で引っ張られ、驚愕顔でジタバタしている。鈍感を絵に描いたような男だが、今度は何を言ったんだか──。
ふと思い出して、顔をしかめた。ケネルに言われたあの言葉を。
『 お前は知っていると思ったがな 』
──どうして客が、ああもよく喋るのか
あの時ほうられた奇妙な謎かけ。
まったく、ケネルはいつでもそうだ。仄めかして、はぐらかす。
指示事項は別として、ケネルは何も強要しない。
相手が自ら動くよう、さりげなく物事を仕向けていく。
相手は自分で判断するから、ケネルの意図に気づかない。誘導されていることに。
結果ケネルは動かない。
懸案事項を周囲に振り分け、都度、各自に丸投げするから、ケネル自身の手は空いて、常に余力を残している。
考えてみれば、怠慢だ。他人をせっせと働かせ、高みの見物を決めこもうというのだから。そして、自分は余力の分だけ、別のことを考えている。
まったく、あの男は質が悪い。上に立つ者の器量といえば、それまでの話ではあるのだろうが──
ふと、それに気づいて、空を仰いだ。
水滴が頬をかすめたのだ。空は晴れているが。
「通り雨、か」
常なら、そんなものは無視するが、いかんせん今は客がいる。
案の定ケネルが振り向いて、停止するよう指示を出した。
ややあって、ばらばら降りはじめ、急きょ樹海で雨宿り。
客を木陰へ連れていき、ファレスもごちつつ腰を降ろす。「たく。今度は雨ってか。まったく。ちっとも進みやしねえ」
またケネルと別々になった、と客はふくれて文句タラタラ。
ファレスはそれを盗み見て、それにしても、と舌を巻いた。
不思議なほどの回復力だ。顔はもう元通り。腫れがすっかり引いている。
まるで何事もなかったように。
気絶していた当人は何も気づいていないだろうが、ゆうべはあの唇が真っ赤になって腫れあがっていた。吸入麻酔剤に反応して。
現場で拾ったハンカチに、甘い微香が残っていた。例の薬物に特徴的な。
分量と吸引時間を誤れば、死に至ることもある劇物だ。即効性で知られるが、その情報は正しくない。暴挙に出た犯人にすれば、完全に誤算だったろう。
犯人の目星はついている。
客を保護した木立の先で、散り散りになった一人の顔に、あの特徴を見たからだ。
あれは、蓬髪の首長アドルファスの配下、二班の長とその一派。いわゆる札付きの連中だ。
だが、現行犯で捕らえたのでなければ、うかつに苦情はねじ込めない。
配下の監理・懲罰については、各部隊の首長に権限がある。これは総隊を指揮する隊長といえども手出しできない聖域だ。
実際に隊員を仕切るのは首長ではなく腹心だが、アドルファス隊を仕切るカーシュは、今回の行程には同行していない。とはいえ首長は日々の雑務には口を出さない。
そも、この程度のお遊びは、常なら黙認の範疇だ。今回ばかりを騒ぎ立てては、難癖をつけたとも取られかねない。
他人の領分を侵さない──これは暗黙の了解だ。
風道から左へ入った場所で、客は目を回していた。
揮発性が極めて高いこの薬は、皮膚からも吸収され、中毒症状を引き起こす。
ただちに客を上着で包んで、客の身体をあたためた。そして、薬を押し当てられた口の周囲を、近くの湧き水で洗浄し、呼吸困難を起こしていた客に救急措置を施した。
この件について、ケネルは客に「残党の仕業」と説明したらしい。
まったく苦しい世迷言だが、なぜか客は信じたらしい。保護が少しでも遅れれば、無事では済まなかったとわかりそうなものだが。
強くなった雨足が、一面の夏草を叩いていた。
樹海の豊かな傘の下、馬から下りた隊員たちが、低く広くざわめいている。
ふと、休憩中の部隊に目を凝らした。
野戦服の隊員が一面群がるその中に、一人だけ異質な旅装がいる。定時連絡にはまだ早いが。
腕の時計を確認し、一人でぺちゃくちゃ喋っている黒髪の客に目を向けた。
「しばらく向こうに行っていろ」
短髪の首長と話しているケネルの方を顎でさす。
ぴたりと客が口をつぐんだ。
「えええー!? なにそれ。話の途中ですんごい失礼っ!」
顔じゅうを口にしてキンキンわめく。
だが、足はそわそわ立ちあがる。
言い返すのもそこそこに、そそくさ黒髪をひるがえした。
「ねー! ケネル、今の聞いたあ? 女男ってば、あたしのことを邪魔にして──!」
ケネルに言いつけ、駆けていく客が十分離れたのを見計い、ファレスはおもむろに腰をあげた。
件の人影へ向かって歩く。
舞い戻った客を見て、ぎょっとしたケネルが見えるようだが、そっちは無視で放っておく。
あの途方もないお喋りを押しつけられて迷惑だろうが、旅装の男の姿を見れば、急用だと分かるはずだ。
「おう、ここだ。ワタリ」
声をかけると、野戦服の中をうろついていた部下が、気づいて、ただちに駆けてきた。
街道の町と部隊をつなぎ、情報を届ける連絡員ワタリ。
ファレスは部隊に一瞥をくれ、旅装の部下に目を戻した。
「動きがあったか」




