3話12
「……男だったら、よかったのにな」
どこかで男が溜息をついた。
語りかけるような口ぶりなのに、たぶん、これは独り言。
誰かが遠い所で喋っている。
途切れ途切れに聞こえる声が、大きくふくれた意識に邪魔され、大きくなったり、小さくなったり──。
誰だろう、この声は。
安心できる落ち着いた声だ。親の庇護のもとにいるような。
たぶん、この人は知っている人だ。
この人のことを知っている、そんな気がする。
「すぐに……たから……ようなものの……」
途切れ途切れに、声は続ける。
「……んなに気になるか、バリーの奴……」
誰だろう。"バリー"というのは。
どこかで聞いた名前のような──
意識が、急速に浮上した。
重たい瞼をこじ開ける。
目の前に、深緑の薄汚れた布──?
休憩の時に地面に敷く、防水シートであるらしい。すぐにそれと分からなかったのは、あまりに近くにありすぎて、赤い日差しを浴びていたから。
シートの向こうには原野が見えた。
手前のシートに、深緑色のズボン。防水シートに後ろ手をついて、足を投げて座っている。
誰だろうと相手を見あげ、だが、身じろいだだけで目を閉じた。
ひどいめまいで目がまわる。すさまじい頭痛と吐き気に襲われ、体がだるくて動けない。
それでも彼へと手を伸ばし、シートについている手の甲に触れた。
ふと、彼が振りかえる。「──気がついたか」
「……あたし……なんで、こんな所に……」
どうしたのだろう。口が強ばって喋りにくい。
あたりの景色は、もうすっかり夕刻だ。
原野一面、夕陽を浴びて、がらんとしていて誰もいない。
馬もいないし、話し声もしない。ケネルと自分の二人きり。
「あんたを襲った賊の仲間が、まだ残っていたらしい」
……賊?
ああ、あの覆面の。
「大丈夫だ。少し、気絶していただけだから」
肌寒いほどの風が吹いた。
ざわりと夕陽の草海がなびく。
肩を毛布で包まれていた。馬の背中に敷いていた毛布で。
「……みんな、は?」
「今日の移動は取り止めだ。この付近の遊牧民のキャンプに、ファレスが交渉に行っている。今夜の寝床が決まり次第、俺たちもそちらへ向かう」
ケネルがなぜか、ゆっくり話す。どことなくためらいがちな。
何かを確かめるように、ケネルが覗いた。「気分はどうだ」
「気持ち、悪い……頭が、すごく痛くて……」
やっとのことで訴えた。頭がガンガンして割れそうだ。
「──そう、だろうな」
ケネルが言葉を詰まらせた。
「横になっていろ。そのうち収まる」
痛む頭の片端で、やりとりをぼんやりと反芻した。
そうか。まだ仲間がいたのか。森で襲ってきた覆面の──
ぎくり、と全身が身構えた。
あわててシートから起きあがり──だが、すぐにまたに突っ伏した。
目がまわる。
ずきんと割れるように頭が痛む。強い吐き気が込みあげる。そうして突っ伏している間にも、生きた心地がしなかった。鼓動が速く、息が乱れる。だって、指輪──
── あの指輪は!?
指の先が、小刻みに震えた。
万一、指輪を失くしたりすれば、
──大変なことになってしまう!
ごくりと唾を呑みこんで、おそるおそる左手を探った。
指に、固い金属の感触。左の手の、薬指に。
(……ぶ、無事)
息を、細く吐き出した。
震える唇を、軽く噛む。
夕陽を浴びた無人の原野を、ケネルは無言でながめている。
その姿に、後ろめたさを覚えた。
こんなに良くしてもらっているのに、自分は彼に隠し事をしている。
信用しないわけではない。
けれど、誰にも話せない。この指輪のことだけは。だって、気づいてしまったら、
──この指輪の絶大な価値に。
見渡すかぎりの草海を、夕陽が鮮やかに染めていた。
そこにある全てのものが、あいまいな薄蒼に包まれる。
ケネルの横顔の輪郭だけが、いやにくっきり、はっきり見えた。
なぜか、いつもよりも険しい顔の。
なぜだか無性に人恋しいのは、うら寂しい夕刻だから?
シートについた彼の手の、シャツの袖へと手を伸ばす。
「……ねーケネル、膝枕がいい」
どうせ無視するだろうけど、ケネルに甘えて言ってみる。
夕刻の原野を眺めていたケネルが、無言でこちらへ目を向けた。
座ったままで体をひねり、両脇をもって引き寄せる。
自分の腿へと、頭を降ろした。
思わぬ振る舞いにうろたえた。
どうしたのだろう。今日のケネルは。
なぜか今日は、不思議なほど優しい。
枕にしていた丸めた布が、シートに無造作に放り出されていた。
あのくすんだ色合いは、ケネルがいつも着ている上着? ならば、ケネルは自分の上着を丸めて枕を作ってくれた──?
「すまない。こっちの手落ちだ」
珍しく、ケネルが謝った。
けれど、意味が分からない。
覆面の賊に襲われたのは、別にケネルのせいじゃない。
横たわった腕に、重みがかかった。
ケネルが腕を叩いてくれている。
夕陽の原野をながめたままで。ゆっくりと。同じ間隔で。小さな子供をあやすように。
心が静まり、落ち着いた。
人の温もりを感じると、なぜ、こんなにも安らげるのか。
大きく無造作なケネルの手──。
だんだん瞼が重くなる。
「眠いなら、眠っていい。寝床にはこっちで運んでおく」
無断で森に行ったのに、ケネルは文句の一つも言わない。
理由さえも尋ねない。ただそばにいて、腕をなでてくれている。
ケネルのそばは、呼吸が楽だ。子供のままでいられるから。
「……心配を、かけるなよ」
途方に暮れたような声だった。ケネルにしては珍しく。
勝手に森に入ったのだ。ファレスならば、怒るだろう。目を三角に吊りあげて。
けれど、これはわかって欲しい。
そばにいるのが嫌なんじゃない。
女の子は、仲間がいないと、死んでしまう生き物なのだ。
共感してくれる相手が必要なのだ。
一人きりでは不安になって、足がすくんで動けなくなってしまう。
草海をそよがせ、夕風が渡る。
ケネルの腿に横たわった頬に、夕風が少し冷たかった。