3話11
「信じらんない! ケネルのばか!」
エレーンはわなわな拳を握り、ケネルの顔をねめつけた。
「ケネルの鈍感! ケネルのスケベ! ケネルの、ケネルの──」
顔を覆って、樹海へ駆け出す。
「ばかーーーっ!」
ケネルはぱちくり瞬いた。
俺……? と己を指さした横へ、ファレスが歩き、客を見る。「逃げたな」
「ああ、逃げた」
脱兎のごとく駆けこんだ先は、梢のゆれる大樹海。
ファレスがげんなりと嘆息した。
「どうしちまったんだ、あの阿呆。ほんのつい今しがたまで、お前にべったりだったくせによ」
足元のそれを目で示す。
「覗いたろ」
茶髪の隊員が寝そべって、雑誌を広げてながめていた。
紙面に大きく描かれているのは、官能的な美女の肉体。
ケネルはぽりぽり頬を掻いた。「……ま、ちょっとな」
もっとも卑猥な雑誌など、ここでは珍しくもなんともないが。
「ま、森へ入っちまっちゃ、ほっとくわけにもいかねえか」
ファレスが顔をしかめて舌打ちした。
「ちょっと行って、連れ戻してくら」
まったくもー、めんどくせーな、と、ごちつつ樹海の風道へ向かう。
「ご苦労さん」
ケネルはひらひら片手を振った。
木漏れ日ちらつく風道で、エレーンは額の汗をぬぐった。
はあはあ乱れた呼吸を整え、かたく目を閉じ、首を振る。
今はまだお昼時、他人が大勢周りにいる。まだ気を抜いて良い時ではない──
小石を蹴って、うなだれた。
地面に落ちた自分の影に、エレーンは小さく溜息をつく。
「……なんか、疲れた」
周囲はいつも、どこを見ても男だらけ。一対多数の劣勢だ。
皆が寛ぐその中で、自分一人が浮いている。彼らの前を通る都度、口笛で冷やかされたり、意味深に目配せされたり──。
何かひそひそ囁かれている気がして、いつもじろじろ見られている気がして。品定めでもするような、あからさまな冷やかしの視線で。
そうでなくてもぞんざいな彼らが許せなくなってきたのに。
初めの内こそ身構えていたが、朝から晩まで一緒にいれば、肩肘張った気負いがとれて、することなすこと鼻に付く。
男は野蛮だ。無神経だ。
卑猥な雑誌を平気で見るし、下品な話を平気でするし、汚れた服をいつまでも着てるし。
ズボンに手を突っ込んだり、下腹あたりをぼりぼり掻いたり、こっちのことをじろじろ見たり、人前なのに服を脱いだり、半裸のままでうろうろしたり──。
彼らは違う。
自分とは違う。
感覚が違う。感性が違う。
傭兵たちのあの成りは、ただでさえ威圧的なのに。
息苦しくて、たまらない。
じっと群れに埋もれているのが、もうたまらなく息苦しい。
不意に叫びだしたくなる。
無性にどこかへ逃げたくなる。
いつもどこかで苛々していて、何かが胸につかえている。
けれど、逃げ場はどこにもない。
ここは原野のただ中だ。
癇癪を起こして飛び出しても、戻れる場所はあそこしかない。
誰か女性と話したかった。
ここに一人でも女性がいれば、少しは気も楽だったろうに。
毎日毎日そばにいてケネル達には慣れたけど、どんなに慣れてもケネルは男だ。長い髪でもファレスは男だ。
親しくしようにも限度がある。
ふと、地面から目をあげた。
視線を感じて、戸惑い、見まわす。
「……誰?」
かさ、とどこかで藪が鳴った。
高い梢、午後の日ざし、木立はのどかに静まっている。
風のゆるやかな音がした。
青い梢のこすれる音、鳥の羽ばたき、甲高い鳴き声──
ほっとエレーンは力を抜いた。
「……なんだ、あの子か」
茶色のリスが、立ちあがって見ていた。
左の木立の根の上で、か細い両手を口元に、鼻とひげをひくつかせている。
黒く濡れた丸い瞳で、リスがじっとこちらを見ていた。
ふさふさのシッポをひょいと持ちあげ、機敏に動いて、木の裏に消える。
その様子を見届けて、エレーンは再び歩き出す。
どこかで、また藪が鳴る。
それにはもう目を向けず、くすりと思わず微笑んだ。今度の連れはどの子だろう。小鳥? ウサギ? それとも別の──。
近ごろ森を歩いていると、こうしたことがよくあった。
森の小さな動物が、気配を察して会いにくる。なぜか、彼らに人気がある。
地面でちらつく木漏れ日を眺めて、静かな樹海を散策する。
気分が大分落ち着いてきた。
ひとつ、大きく息を吐く。
体の強張りがとれていく。
どうやら自分でも知らない間に、ひどく身構えていたらしい。
一回、二回と、ゆっくり呼吸を繰り返す。
あのケネルに当たり散らして沸騰した頭も冷えてきた。
なぜだろう。止められない。
自分で自分が止められない。なぜ、こんなに苛立っているのか、自分でも理由が分からない。
つい、ケネルに当たってしまう。ケネルは何も悪くないのに。
それが自分でも分かっているから、もう余計にやりきれない。
ケネルは何を言うでもない。黙って好きにさせておく。
ケネルは本気で怒らない。文句も言わなければ、やり返しもしない。
無関心というのとも違う、わかった上で受け入れてくれる、そんな感じ。
道に落ちた影を見つめて、エレーンは唇を噛みしめる。
ざわりと胸がざわめいた。
こんな所を呑気に歩いていていいのだろうか。こうする間にもダドリーが、酷い目にあっているかもしれないのに。なのに、どうして、自分はまだ、
──こんな所にいるんだろう。
鼓動が激しく打ち鳴った。
呼吸が浅く、速くなる。
なぜか脳裏に面影がよぎった。亡き父の面影が。
かあっと頭に血がのぼり、どうしていいのかわからなくなる──
「──いけない」
唇を噛んで、目尻をぬぐった。
震える指を握りしめ、そわつく足で歩き出す。
いつでも心の片隅に、焼け付くような焦燥があった。
けれど、なるべく見ないようにしている。
もし、認めてしまったら、それを直視してしまったら、世界が壊れてしまうから。
それは、封じ込めた密やかな祈り。
それと向き合った瞬間に、無残な現実が押し寄せてしまう。
──海が、見たい。
不意に渇望が突きあげた。
今となっては馴染みになった理不尽なほどに強い欲求。
短髪の首長に邪魔されて、あの時は果たすことができなかったけれど。
もどかしい思いで、足を踏み出す。
無性に海が見たかった。
どうしてこんなに焦がれるのか、理由は自分でも分からない。
広い場所に、とにかく行きたい。
静かで、誰もいない海。圧倒的に広い場所。
大きな青空と広い海。二つの青が交わる境界線。青くまっすぐな水平線──。
重苦しい胸のつかえを、すべて吐き出してしまいたかった。洗いざらい。一刻も早く。
この胸のもやもやを、わけのわからぬ苛々を、思い切り叫んでしまいたい。
それらを全部吐き出して、すっきりしてから戻ってこよう。
なんだか無性に気が急いた。
見たこともない懐かしい景色が、行く手を見つめる脳裏にチラつく。
風道をたどる足が速まる。だって、海が、
海が、呼んでる──!
「奥方さま、ゲットぉ!」
がくん、と体がつんのめった。
踏みこんだはずの爪先が浮き、地面をかすって宙を掻く。
(な、なに!?)
我に返って目をみはった。
わけが分からず動揺する。一体何が起きたのだ?
今の、勝ち誇ったような男の声は──愉しそうに高揚した──
体が引っ張り戻された。
耳と頬とが押し付けられる。薄い綿地の胸板に。
真後ろに、硬い筋肉の気配。
上背のある男の体に、後ろから抱えこまれていた。
相手を振り仰いだその矢先、口を何かでふさがれる。
ツン──と強烈な匂いがした。
噎せ返りそうな甘い匂い。
布切れを持った大きな手が、顔を丸ごとつかむようにして、鼻と口をふさいでいた。
両手で取りつき、爪を立てるが、頑丈なその手は外れない。
首を振るが、ほどけない。
闇雲に手足を突き出して、未知の脅威に必死でもがいた。
とっさに息を大きく吸いこむ。
手足が一気に冷たくなった。体が熱くなってきて、キーン……と嫌な耳鳴りがする。
口を押さえる力が強くて、まともに息を吸うことができない。
意識が、朦朧とし始める。
「俺の勝ちだな!」
知らない声が快哉を叫んだ。
男が後ろへ身をよじり、他の誰かに叫んでいる。
注意が逸れたその隙に、その手に思いきり噛みついた。
「──痛て!」
男がとっさに手を払った。
無我夢中で胸板を押しやる。
よろけた足を踏みしめて、エレーンは懐から転げ出る。
髪を、ぐっとつかまれた。
力任せに引っ張り戻され、男の素手が口をふさぐ。
顔を荒っぽくわし掴まれた。
首を振ろうが、足を蹴ろうが、全力で抗っても、びくともしない。
「ちっ! なんだ、利かねえじゃねえかよ」
男が憎々しげな口調でごちた。
「せっかくガメてきたのによぉ」
方々で、藪がガサガサと鳴った。
その音がどんどん大きくなる。後ろの男が舌打ちした。
「たく、とんだジャジャ馬だぜ」
息が、止まった。
目の前で火花が散り、視界の地面がぐらりと傾ぐ。
昼の穏やかな陽を浴びた、まばゆい緑を背景に、上から覗きこむ男の顔。
意識が途切れるその刹那、
嘲笑にゆがんだ口元に、不穏なものを見た気がした。