1話1
キャンプで暮らす遊牧民は、もう放牧に出たのだろう。
古くくすんだ杖をつき、修行者が着るような土ぼこりの長衣をまとって。
ゲルの中ほどに設えた土間が、凪いだ陽射しを浴びていた。
のどかでうららかな原野の午後。
遊牧民から借り受けた丸い壁の移動式住居は、ひっそりとして音もない。
「──さっさと運んでしまいたかったんだがな」
ケネルが苦笑いで寝顔をながめ、あぐらで湯呑みに手を伸ばした。「予定通りにはいかないものだ」
「まったくだぜ、畜生」
ファレスも舌打ちで寝床を見る。
「今頃はとうに商都に着いて、羽を伸ばしていた頃だってのに」
土間をはさんだ北側の寝床に、背までの黒髪が流れていた。
背中を向けた薄い肩は、毛布に包まったまま動かない。ケネルに文字通り噛みついて散々憂さを晴らしたようが、痛み止めが効いたらしい。
癇癪を起して不貞寝して、気づけば、ことりと寝入っていた。期せずして部隊で面倒をみている、北の領家からの預かりもの。クレスト領家の正夫人、エレーン。
ファレスは煙草の手を伸ばし、土間に吸い殻を押し付ける。
「たく。つべこべ抜かしやがるもんだから、未だにこんな原っぱだぜ。何がそんなに気に入らねえんだか」
その口をつぐんで、ケネルを見た。
「何見てんだ、さっきから」
ケネルが目を細めて微笑んでいた。あの無表情な男が珍しく。
目を落とした視線の先は、上着の懐から取り出していた紙片? そもそも、そうした手紙の類いを持ち歩くことからして珍しい。戦場へ赴く者の大抵は、命を預ける自分の戦馬に大切な者の名を付ける等して心の支えにするものだが、ケネルはそうしたことにさえ一切興味を示さない男だ。
一体どんな心境の変化か、と興味を引かれてファレスはうかがう。「最近しょっちゅう見てるよな、それ。なんだよ。あれか? 熱烈な恋文とか」
「似たようなものだ」
ケネルが苦笑いして、ほうって寄越した。
ファレスは面食らって紙片を拾う。「──いいのかよ、見ちまっても」
女性好みの体裁の、ほんのり色の付いた便箋。だが、なぜか皺だらけだ。
一度丸めて開いたらしい曰くありげなケネル宛ての信書を、ファレスは開いて一読する。
「──まだ持っていたのか、こんなもの」
面食らって顔をしかめ、やれやれと嘆息した。「にしたって、どんな神経してんだか。平気で"死ぬ"だの"生きる"だの、書いて寄こす奴の気が知れねえよ。まったく、これだから女ってのは──」
けど、とケネルの顔を見た。
「捨てなかったか? お前、あの時」
「いつの間にか上着に突っこんであった」
油断も隙もありゃしねえ、とファレスは顔をしかめて嘆息する。もっとも、客ならやりかねないが。
休憩を切りあげ、腰をあげた。客が寝ている寝床へ歩き、異常のないことを確認し、土間をまわって南側へ戻る。
ケネルの脇を通りすぎざま、その肩に便箋を突っ返した。「相変わらずモテるじゃねえかよ」
「お前ほどじゃないさ、"ウェルギリウス"」
ケネルが含みを持たせて応酬、便箋を肩から片手で取った。
丁寧な手つきで畳んで仕舞う。「降りたいなら、降りてもいいぞ」
ファレスは聞き咎め、振り向いた。
ケネルは絨毯に手をついて、不貞寝の寝床をながめている。
「客のお守りの話かよ」
ファレスも怪訝に寝床を見た。
あの客の我がままには確かに手を焼いてはいたが、それで任務を放免するほど、この隊長は甘くない。らしくないことを言い出した静かな横顔の魂胆を探る。「今回はバカにお優しいじゃねえかよ」
「これから、まだまだひどくなる」
「──あ?」
ケネルがあぐらで後ろ手をつき、ゲルの天井に紫煙を吐いた。
「張りつめ続けた緊張の糸が、そろそろ切れる頃合だ」