3話9
首長の無精ひげの口から、くわえた煙草が、ぽろりと落ちた。
茂みの前に立っていたケネルも、目をみはって驚いた顔。
熱くしびれた頬に手をあて、エレーンは呆然と靴先を見る。
「この大ばか野郎が!」
ファレスが頭上で一喝した。
「何度言わせりゃ気が済むんだ! 貴重な戦力ぶっ潰しやがって!」
首長の負傷を目で示し、その目を戻してねめつける。
「言いつけ無視して、好き勝手したあげくがこれだ。てめえの身も守れねえくせに、いっぱしの口を叩くんじゃねえっ!」
首長がたまりかねた様子で身じろいだ。地面に手をつき、腰をあげ──
藪から"白"が飛び出した。
風を切ってファレスへ接近。ケネルがそれに気がついて、手を突き伸ばしたが遅かった。
たちまちファレスが薙ぎ払われ、長い髪が宙を舞った。
殴り飛ばされたファレスの足が、数歩よろめき、踏み止まる。
「──何しやがる!」
食ってかかったファレスの顔を、ウォードが剣呑にねめつけていた。
それをファレスも睨み返して、殴られた頬を剣呑にさする。
「他人の領分に首突っこむたァ、いい根性してるじゃねえかよ。てめえ、どうなるかわかってんだろうな!」
「──おい、よせ! お前ら!」
ケネルが駆け寄り、割って入った。
つかみかかったウォードの肩を、引きずり戻して引き離す。
尚も突っかかるウォードを制して、舌打ちまじりに見返した。「急にどうした」
ウォードは応えず、無言でファレスを睨めつけている。
ファレスの方も見るからに胡乱だ。
首長は立ちあがりかけた中腰で、三者の様子をあぜんと見ている。ファレスとウォード。そして、ケネル──。
そして、おもむろに腰をおろした。
静かな視線で、ケネルを見る。隊長の手並みを見届けようというように。
「……おい、なんだ?」
「へっ、面白れえ。仲間割れかよ……」
拘束された賊たちが、ひそひそ囁き交わしている。
聞こえよがしなその野次を、ケネルが一睨みで黙らせた。
今にもファレスにつかみかかりそうなウォードに、戸惑ったように言って聞かせる。
「落ち着け、ウォード。大して強くは叩いてない」
だが、内にみなぎる闘気を示して、ウォードの腕がかすかに震える。
ファレスを睨み据えたまま、きつく奥歯を食いしばる。「……許さない!」
「こっちの台詞だ、ド阿呆が」
ファレスが冷めた口調で吐き捨てた。
もう挑発に乗るでもなく、ウォードの顔を訝しげに見やる。
「勘違いしてんじゃねえ。客が悪い」
血液の混じった唾を吐き、殴られた口元を乱暴にぬぐう。
「あんまり言うことを聞かねえから、ちょっと懲らしめただけのことだ。考えなしにうろつきやがって」
まだ熱くしびれている頬を、エレーンはさすった。
顔をあげてファレスを見、まなじり吊りあげ、手をあげる。
「なあにすんのよっ!」
ファレスの長髪がひるがえった。
平手打ちされてのけぞったファレスが、あっけにとられて目を戻す。「──あ、あァっ?」
二の句がつげない顔つきだ。
よもや叩き返されようとは夢にも思わなかったものらしい。
そして、それに関してはケネルとウォードも同様だ。
「ぶったわね~!? 今、あたしのこと、ぶったわねえええっ!?」
呆然として突っ立ったファレスの前へ、まなじり吊りあげてつかつか進み、エレーンは大きく息を吸いこむ。
「野っ蛮ーん! 最っ低っ! 信じらんなあーいっ! 男のくせにか弱い女の子をぶつなんて一体どういう神経よっ! しかも顔ってどーゆーことっ!?アザとか残ってお嫁に行けなくなっちゃったらどう責任とってくれるわけ?(←領主の嫁) 冗―談じゃないわよ!ふざけんじゃないわよ!なんであたしがあんたにぶたれなきゃなんないのよ!え?なんとか言ったらどーなのよ!(←口をはさむ余地がない)そーゆーのを"男の風上にも置けない"っていうのよ!そーゆーのを " 負 け 犬 " っていうのよ!」
ファレスが顔をしかめてたじろいだ。「て、てめえ、じゃじゃ馬。そんな言葉、一体どこで──」
「なによっ! あんた話そらす気!? 上等じゃないのよっ! 負け犬! 負け犬! 負け犬っ!」
ひるんだ相手にすかさず連呼。
そして、凶器をスタンバイ。それを高く振りあげた。
「何すんのよ何すんのよ何すんのよっ!」
ばりばり爪で引っ掻かれ、ファレスが顔をゆがめてのけぞった。
「──痛てっ! 何すんだこのアマ!──調子に乗ってんじゃねえぞコラっ!」
腕で顔を防御して、ファレスは辛くも攻撃を避ける。
だが、その腕で視界がきかず、草に足をとられて転げこんだ。
首を振って起きあがった背に、すかさずエレーンは乗りかかる。
「な!? てめえ、何をしてる!?──こら、降りろバカ女っ! さっさと背中から降りろってんだ! 重てえじゃねえかよっバカ女っ!」
ぐいぐい髪を引っ張られ、ファレスは平手で地面を連打。
「なあによ、勝手なことばっか言っちゃって! あたしにだってね! あたしにだってね!」
キッとエレーンは睨み据えた。
「あたしにだって都合があんのよっ!」
引っ掻き、噛みつき、髪を引っ張り、ここぞとばかりにやりたい放題。
「あっ、てめっ、グーはよせっ! グーはよせって! ぽかすか叩くな! 頭は馬鹿になるって前から言っ……お……?」
ゴン──と不穏な音がした。
くたりとファレスが地面に突っ伏す。
ふんっ、とエレーンは息を吐き、ファレスの上からずかずか降りた。
くるりと涙目で振りかえる。
「ケネル~!」
ぎくりと後ずさった懐に、両手を広げて、わたわた突進。
ひっし、と両手でしがみついだ。
くったり伸びた長髪を指さし、くすん、くすん、と嘘泣きで仰ぐ。
「女男がぶったあ~!」
「……(=あんただって、ぶっただろ)」
むしろファレスの何倍も。
思わずまじまじエレーンを見、ケネルは地面へ一瞥をくれる。
「たいがいにしておけよ。ファレス」
「……(ちっ!)」( ← でも、死んだフリ )
エレーンは、むう、と口の先を尖らした。「ええー。それだけ~?」
ぷい、とむくれてて走り出す。
「アドぉ~!」
木陰にいる首長へ直行。
一瞬で隣へ滑り込み、熊のような蓬髪の首長と、仲良しのごとく腕を組む。
「聞いて聞いて? 今の見たあ~!? 女男の奴、信じらんなあ~いっ!」
首長を仲間に引きずり込み、聞こえよがしにぺらぺら告げ口。
首長に引っついた客の様子を、ファレスは薄目をあけて確認する。
むくり、と地べたから身を起こした。
あぐらで地べたに座りこみ、頬の痛みに顔をしかめる。
「──たく、ウォードのクソ野郎。本気で殴りやがってよ。ちょこっと撫でただけじゃねえかよ」
ケネルがファレスに近づいて、呆れ顔で腕を組んだ。「手荒いな」
「ああでもしねえと、分かんねえんだよ」
ファレスは舌打ち、ケネルを仰ぐ。
「文句があるなら、いつでも降りるぜ。降りていいんだろ。そう言ったよな」
ケネルが「お……?」と腕時計を見た。
しれっとファレスに目を戻す。
「残念。時間切れだ」
ファレスはぎりぎり歯噛みした。
苦虫噛み潰して懐を探り、顔をしかめて煙草をくわえる。「──このタヌキが!」
「しかし、ウォードが突っかかるとはな。お前にはあんなに近寄らなかったのに」
緑の中を遠ざかる白シャツの背を見送って、ケネルはファレスのしかめっ面に目を戻す。
「お前も少しは弁えろ。何をカッカしてるんだ」
「──あの行動は目にあまる」
ファレスは一服、吐き捨てた。
「あれをこのまま放置すれば、支障が出るのは確実だ。外から付け込まれる隙にもなるし、事実、部隊が振りまわされている。今回のことにしたってそうだ。あんなしけた物盗り風情に、むざむざ斬られる首長じゃねえだろ。それもこれも、客が能天気に歩き回った結果だ。だが、どれだけ注意をしても、口答えばっかりで、これっぽっちも聞いちゃいねえ。この状態は好ましくない。被害が拡大する前に、適切に対処する必要がある。部隊の統轄はお前の役目だ。だが、お前に客は叩けねえだろ」
ケネルが名指しされて面食らった。「──何も叩くことはないだろう」
「痛い思いをしねえと分かんねえんだよ、あのバカは。そこらの犬ころとおんなじだ」
「叩いたところで収まりはしないさ」
わかったふうな物言いに、ファレスはいぶかしげに目をあげる。
ケネルは夏空を仰ぎやる。
「根はもっと深い場所にある。そこには誰も立ち入れず、取り除くことは誰にもできない。だから、お前に任せている」
ファレスは戸惑い、目をそらした。「──なんで、俺だよ」
「適任だろ」
ケネルが苦笑いで目を向けた。
「お前は知っていると思ったがな。どうして客が、ああもよく喋るのか」
「──なんで俺が。知ったことかよ」
ファレスは舌打ち、膝を立てて、立ちあがった。
服のほこりを、くわえ煙草ではたき落とす。「たく。なにが負け犬だ、生意気言いやがって! 誰が吹き込みやがった、あんな言葉を」
客のほうへと、辟易と目をやる。思い出した顔で、振り向いた。
「そういや、なんのことだ? 客が言ってた"都合"ってのは」
「知るわけないだろ。俺に訊くなよ負け犬」
「──あァ!?」
うっかり口を滑らせたケネルが、遅まきながら口を押さえた。「……悪い」
客が放った"負け犬"の、感染力は抜群らしい。
度肝を抜かれた彼らは知らない。
彼女が後日、短髪の首長に「役に立った♪」と戦勝報告をしたことを。