3話4
迫りくる刃を凝視したまま、身動き一つとれなかった。
向かってくるのは分かっているが、足が萎えて動けない。
「──危ねえっ!」
飛びこんできた何かに突き飛ばされた。
叩きつけられた地面から、はっ、とエレーンは目をあげる。ざらりと嗄れた野太いあの声。あれは──
戻りが遅いのを心配して、探しにきてくれたに違いない!
転げた地面から、跳ね起きる。
「……え?」
あわてて地を蹴り、駆け寄った。
「アド!?」
蓬髪の首長がうずくまり、左の腕をつかんでいた。
指の間から流れる鮮血。その前に滑りこみ、膝をついておろおろ覗く。「アド!──アドっ、大丈夫?」
ぽたぽた地面に血が滴る。
おびただしい出血だ。首長は蓬髪の顔をあげ、向かいを訝しげにすがめ見ている。
「ねえ、アド、腕が……」
その無精ひげの口元が、苦笑いをするように歪んだ。
「なんでもねえよ、こんなもん」
肩に添えた手を軽く押しやり、首長がおもむろに立ちあがる。
気を呑まれたように後ずさった賊に、その視線は据えたまま、短刀を引き抜く横顔で言った。「ケネルの所へ戻ってな」
「──でも、アドっ!」
「ここは俺が食い止める。あんたはまっすぐ走ればいい」
「けど!」
エレーンは必死で首を振る。「だって、そんなことしたら、アドが一人に──」
「心配ねえって、俺のことなら」
敵を見据える頬がゆがんで、困ったように苦笑いした。「さ、早く行け」
「だめよ! だって、そっちの腕も──!」
はっと息を呑み、口を閉じた。
ひやりと悪寒、身がすくむ。──又だ。なんて馬鹿なことを口走るのか。
敵にそんなことを知らせてはいけない。
領邸襲撃の一件で、利き腕も痛めているなどと。
アドも当然気づいたろう。もしかして、怒っている──?
気になり、横顔を盗み見る。
面食らって動きを止めた。
思いがけない、落ち着いた顔つき。少しの動揺も、そこにはない。五人もの賊に囲まれているのに。
挑発に乗るでも威嚇するでもない。ただ向かいを眺めている。怪我の痛みなどないような顔で。──でも、痛くないはずがない。斬りつけられた腕からは、今も血が滴っている。
はっと横顔を見返した。もしや、虚勢を張っている?
アドは大勢を従える首長。非力な自分を抱えていては、弱音など吐けないに違いない。ひどい怪我をしていても。
真っ当すぎる結論がひらめく。
──助けを呼んだ方がいい。
首長の側についていても、自分はなんの役にも立たない。足手まといにしか、きっとならない。それどころか、自分がここにいるばかりに、アドは逃げたくても逃げられない。
でも、今、離れたら、見捨てることになりはしないか。
ケネルの馬群が集合している草原までは距離がある。
どんなに全力で走っても、ケネルを連れて戻った頃には、賊と残されたこの首長は──。
それは容易く想像できた。
血にまみれた夏草が。
地面の血溜まりに突っ伏した、変わり果てた首長の姿が。
──あの時と同じように。
よぎった光景に怖気が走り、手の翠石を思わず握る。戦後の道端に積みあげられた、あの軍服の躯たち──。
首長は顎を振り、追い立てる。「ほら、行け。早く」
「でも!」
進退窮まり、すがる思いで見まわした。
だが、見渡すかぎり、人はいない。そもそも自分が森に入れば、部隊の人は立ち入らない、そういう決まりだ。
奥歯を強く噛みしめる。
翠石を握り、とっさに願う。
(──お願い! 助けて!)
高い梢が、風にそよいだ。
ひっそり森は静まっている。手の石に変化はない。ただ固く静まって。
首長の風貌に気圧されたのか、賊は仕掛けるのをためらっている。
だが、長くは続かないだろう。両腕が利かない首長には、対峙を維持する以外の選択肢がない。
(──どうしたら)
エレーンはじりじり唇を噛んだ。
この自分だけだった。身の振り方を選べるのは。
自分がとる行動が、彼の命を左右する。
助けを呼ぶか、留まるか、どちらが最適な選択なのだ。どうすれば彼を
──助けられる。
じり、と包囲が徐々に狭まる。
首長の動きを警戒しつつ、覆面の賊がにじり寄る。
「こ、来ないでっ!」
矢も楯もたまらず、とっさに叫ぶ。
「あァ? なんだァ?」
しゃがれた声が、どこかで、した。




