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この日の残りはずっと『犬小屋』もとい、異世界征服の橋頭堡となった俺の屋敷で過ごした。
それにしてもさすが『犬小屋』。廊下も部屋も窮屈なことこの上ない。こんな狭い屋敷で生活できるなんて人間は器用だなと思う。
俺の部屋だというところに通されると、清治は「これでしばらく時間潰していてよ」と言って、長方形の薄い金属性の物体を手渡してきた。タブレットPCと呼ばれるものらしい。こいつは辞書であり、分からないことがあれば大抵のことが調べられるとのこと。
「このアプリを立ち上げて、調べたい言葉を喋る。……『松沼市』。ほら、僕たちの住む市の情報が出てきた」
タブレットPCの使い方を聞いて、俺の世界にある魔法の鏡を思い出した。魔法の鏡も「鏡よ鏡、世界で一番格好よくて頭が良いのはだあれ?」と尋ねれば、「はい、あなた様です」とたちどころに教えてくれる。しかしそれは、大人の身長以上の大きさでとても片手で持てるものでもないし、非常に高価で貧乏貴族には手が出せない代物だ。
ますますこの世界が不思議に思えてくる。魔法のまの字も使えず、みすぼらしい家屋に住んでいるくせに、勝手に動く階段やら、自動車やら、コンパクトな魔法の鏡やら、驚嘆すべきアイテムの数々に囲まれている。こっちの世界を征服するにはこれら秘密を解き明かす必要がある。
しかし、今は喫緊で確かめるべきことが他にあった。
早速『魔法の鏡』に向かって尋ねた。
「鏡よ鏡、用を足したいのだがどうすれば良い?」
……こっちの世界に来てからずっと我慢していたのだ。
異世界における最大の懸念事項を片付けたあと、陽が沈むのも忘れて『魔法の鏡』を触っていたら——こっちの世界の言語にしか反応しないので、良い発音練習にもなった——、従者二号である聡美が「夕ご飯だからこっち来て」と、愛想の欠片もなく言ってきやがった。
聡美に案内されたダイニングルームは、大人四人も入れば身動き取れなくなりそうなほどの狭さで、中央に背の低い小さな丸テーブルがあって、清治が床の上で直接胡座をかいていた。
清治は俺の姿を認めて手招きした。
「あっ、レノンくん。まあ座って」
従者の分際で主人より先に席——よれよれの四角い布団が席なのか?——に着くなど良い度胸だな、と思ったが、清治の柔和な表情を見ていると、文句を言う気も失せてくる。
清治の対面に座ろうとすると、聡美が肩で押しのけてきた。
「ここは、あたしの場所だから」
と言って、聡美は俺が座ろうとしていた場所に座ってしまった。
「……っ!」
なんて無礼な奴だ! 今すぐ手打ちにしてやりたい。
「まあまあ、レノンくん、こっち座って」
肩を震わせていた俺に向かって清治か声をかけてきた。俺はもう食べ始めている聡美の後頭部を睨みつけてから、空いていたよれよれ布団の上に座った。
「口に合うかどうか分からないけど、食べてみてよ……。これが白米で日本人の主食。こっちが味噌汁、これがニラレバ炒め、こっちは蓮根の煮物、サラダ、冷や奴……」
清治の料理の説明を聞きながら、俺はテーブル一杯に広がる料理の山に衝撃を受けていた。今日は特別な祝典でもあったのだろうか、と思わせるほどの量と種類! 俺の家の普段の食事がパンと豆入りスープだけだというのに。こっちの世界は相当食料が豊かに違いない。
しかし、量は豊富でも味も良いとは限らない。どれもこれも雑草の煮汁のような味かもしれないのだ。食べて確かめてみる必要がある。
「……ちょっと、アンタ、何するつもり?」
聡美が蓮根の煮物へ向かって伸ばした俺の腕を掴んだ。
「おい、放せ。料理が取れないだろ」
「どうやって料理を取るつもりなの?」
「……? もちろん手掴かみだが」
「冗談でしょ! アンタのためにスプーンとフォークも用意したから、それ使ってよ」
聡美は呆れた表情で叫んだが、どうして彼女が驚いているのか俺には分からなかった。
「スプーンはスープ……その味噌汁とやらを飲むために使って、フォークは肉を切るためだろ? 後は手掴かみじゃないのか?」
「ちょっと、お父さん!」
聡美の悲痛な声に、味噌汁を啜っていた清治が顔を上げた。
「いつものことじゃないか。まっ、プレエクソダス世界群の年代だと、他の異世界旅行者と比べてズレてる部分も多いけど。根気よく教えてやって」
清治はにこやかな表情のまま言って、ニラを口に運んだ。
「まったく信じられない……」聡美は苛立った様子で頭を振ると、再び俺の方へ向いて強い口調で言った。「手掴かみは禁止。箸またはスプーン、フォークで食べて。これがこっちの作法だから」
「……作法なのか?」
俺の質問に、聡美と清治が同時に頷いた。
作法だと言われてしまったら従うほかない。貴族として、作法に敏感なのだ。……しかしもっと優しく丁寧に教えてくれても良いものを。
改めて、フォークとスプーンで蓮根の煮物を挟んでそのまま口へ運んだ。聡美はまだ呆れた表情だったがもう何も言ってこなかった。
蓮根の煮物は旨かった。少し苦みがあったが、逆にそれが味を引き立てている。今度はスプーンで味噌汁をすくって飲み込んだ。こっちも旨い!
雑草の煮汁なんてとんでもない。味にこんなバラエティがあるなんて初めて知った! 俺の普段の食事が霞んで見える。魔王や成金貴族どもも、こんな旨い料理を食べたことないんじゃないか? ……くそっ、人間ども、昼のハンバーガーにしろ、この煮物にしろ、いつもこんな旨いものを食っているなんて羨ましい。
もう手を止められなかった。片っ端から料理を平らげていく。
「美味しい?」
清治の質問に答えるのももどかしく、ただこくこくと頷いた。
「そりゃあ良かった。食事はいつも聡美が作ってくれているんだよ。親の僕が言うのもなんだけど、娘の料理は絶品だ」
俺は料理を運ぶ手を止め、じっと聡美の顔を見た。
「な、なに……?」
聡美は胡乱な表情で俺を見返してきた。
「おい、女。ファテルベルク家の居城で給仕として働かないか? この料理を是非おばあさまやアンにも食べさせてやりたい」
「はっ、はあ?」
聡美は何馬鹿なこと言ってんだこいつ? と言いたげな表情を見せる。
「変な話じゃない、とても名誉なことだぞ、天下無双のファテルベルク家の屋敷で働けるのだ。……いや待て。その無愛想すぎる表情は問題だが、なかなか綺麗な顔立ち」
「ななななっ、何を急に」聡美の顔が一瞬にしてサラダに添えられたトマトのように真っ赤になった。「突然そんなお世辞を言っても何も出ないから」
「人間に世辞など言ってどうする。そこまで俺は落ちぶれちゃいない。お前は綺麗だ、と本心を言ったまでだ。魔人族の貴婦人にも決して引けを取らない、と思うぞ」
「ちょ、ちょ……突然そんなこと、……言われても」
聡美は慌てふためいていた。
「よし、……こっちの世界での俺の側室一号にしてやろう!」
その瞬間、聡美の表情が固まったような気がしたが、話を続ける。
「やはり将来この世界の王となる身として、ハレムの設立は威光を示すためにも欠かせんからな。俺の側室としてその料理の腕を思う存分……うぎゃっ!」
突然、腹に激痛が走った。
「な……何をする……」
「ふ、ふざけないでよ!」と俺の腹に肘打ちをかました聡美の怒鳴り声と、「すっかり仲良しだねえ」と言って笑う清治の声が、あまりの痛みで意識がもうろうとする中でかすかに聞こえてきた。
食事が終わり——途中から記憶がない——、空いた食器を聡美がせっせと片付けていく。
何を怒っているのか、聡美はさっきから一言も発しない。それどころか親の仇を見るような目で俺を睨みつけてくる。俺の側室になれるという名誉を与えてやったのに何が気に入らないのだろう。さっきの肘打ちにしろ、主人に怒りの矛先を向けるとは非常識極まりない。将来ちゃんと俺の妾になれるよう教育していく必要があるだろう。
もちろんさっきの言葉は本気だ。やはり妾の一人でもいないと征服者として箔がつかない。料理も上手だし、それにあくまで俺主観だが、雰囲気は男っぽいが、教育すれば将来は気品を備えた華麗な淑女になると思う。……まあ、成長したアンには負けるだろうけど。俺の妹は数多ある世界の中で最も可愛くて、将来は最も美しくなるからだ!
「……レノンくん、どうしたんだい。さっきからニヤニヤ笑って」
夕刊とやらを広げていた清治が顔を上げた。
「妹のことを思い出していたのだ」
「妹……」清治が興味深そうな目をこちらへ向けてきた。「レノンくんの家族構成って、どうなっているの? さっきもおばあさまと言っていたけど。そのおばあさまに言われてこっちの世界に来たんでしょ?」
「そうだ。おばあさまこそ、ファテルベルク家の栄光を取り戻さんと、長年尽力してきた偉大な方で、魔王ですら一目置いているんだ。それに小さい頃からずっと親のように俺を育ててくれて、厳しいところもあるけど、俺はおばあさまをとても尊敬している」
「なんだかパワフルそうなおばあさんだね。……で、妹さんというのは?」
「アンベルカはもうなんて言ったらいいんだろう、とにかく可愛くて、一日中、ただ見ているだけで幸せになれるんだ。こっちの世界へ出発する前に描いてくれた俺の似顔絵は一生の宝だ。身肌離さず持っている」
俺はジャケットの内ポケットから似顔絵を取り出した。絵を見ただけで涙が出てきそうだ。早く帰ってアンの笑顔が見たい!
「おばあちゃん子の上にシスコン……? キモッ」
隣の調理場からガチャガチャと皿が触れ合う音に混じって、聡美の声がした。
……シスコン? どういう意味だろう? あとで『魔法の鏡』に聞いてみるか。
「じゃ、じゃあ……えっと、ご両親は?」
わずかに顔を引きつらせていた清治が続きを促した。
「母上はとても優しくて、俺やアンをいつも気遣ってくれるが、体が弱くてあまり姿を見せてくれない。しかし、乳母を雇う余裕はない。使用人の老使い魔夫婦はいるが子供の面倒までは無理だ。そういう理由もあって、ずっとおばあさまが俺やアンの面倒を見てくれたんだ。それに親父は……」
一瞬、言葉に詰まってしまった。
俺が旅立つとき、見送りにすら来なかった親父。
最低の息子、ファテルベルク家の面汚し……。おばあさまは事ある毎に親父をそう罵っていた。
おばあさまが家の栄光を取り戻すため心血を注いでいたとは対照に、親父はファテルベルク家の誇りを忘れ、かつては家格が下だった貴族たちに対してしょっちゅう頭を下げてご機嫌取りに終始し、対価としてわずかばかりの施しを受け取っているのだ。
親父は異世界征服計画にも反対していた。その理由は、危険だし、それにそんな事をしたら他の貴族たちと軋轢を生むから、ということだ。
実に下劣、実に軟弱。これが俺の親父だということが恥ずかしく、反吐が出る。どうしてファテルベルク家の仮にも当主が、三流貴族どもを慮る必要があるのだ。
軋轢、確執、上等! かつての恩義を忘れ、俺たちを散々蔑んできたのはどっちだ。柔弱な親父に代わって、俺がファテルベルク家の栄華を取り戻し、格の違いというものを他の貴族どもに思い知らせてやらねばならない!
「大丈夫かい?」
清治が心配そうな様子で俺の顔を覗いていた。俺はへどろのように貼り付いた重い気持ちを振り払おうと、顔を左右に振った。
「問題ない。……親父は、ろくでもない最低な奴だ」
「そうなのか……」
清治は天井を仰ぎ見た。
調理場も急に静かになった。
何かを思い出したかのように、清治ははっと体を起こすと、俺の顔を覗き見た。その表情は食事時に見せていた朗らかなものへ戻っていた。
そして唐突に口にした。
「そうそう、レノンくん。高校へ通ってみないか?」
質問の意味が分からなかった。
……高校? 通う?
なんと答えていいか分からず黙っていると、だしぬけに調理場から「はあっ!」と声がした。
続いてドタバタと大きな足音を立てて、両手に泡がついたままで聡美がやってきた。
「何言っているのお父さん! 無理に決まってるでしょ、コイツが学校に行くなんて」
清治は聡美の言葉が聞こえなかったかのように、俺に向かって話を続けた。
「どうだい、レノンくん。学校へ行けばこっちの世界のことが色々学べると思うけど?」
貴族や富豪の子供たちを集めて教育する機関が俺の世界にもあり、こっちの世界に来る前にはそこに通っていたので、高校が何かは大体想像がついた。
……興味はある。やみくもに世界征服へ乗り出すよりは、今は情報を集める方が大切だろう。であれば教育機関へ潜り込むことは悪くない案だ。
「そうだな……。行ってみても良いな」
俺の答えに、清治は嬉しそうに頷いた。
「そう言うと思って、もう高校に届けを出しておいたよ。明日から通えるよう手配したから」
おお、なんて準備のいい! 本格的にこの世界を征服する段階になったら、俺の参謀として清治を改めて雇い入れたいところだ。
ところが、このやり取りを快く思わない奴もいたようだ。聡美が愕然とした表情で俺と清治へ交互に視線を動かしていた。
「お父さん、もしかしてコイツが通う高校って……?」
「もちろん、聡美の通っている高校だよ。ちゃんとフォローしてあげてよ。……おっと父さんは先に風呂に入ってくるから」
清治は立ち上がると、逃げるようにダイニングルームを出ていってしまった。
取り残された聡美は何かを必死に我慢するように歯ぎしりしていた。
「案内を頼むぞ、俺の将来の側室よ」
と言って、俺は笑って聡美の肩をポンと叩いた。