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この世界で魔法が使えないと分かったとき、良くて囚われの身、下手すれば野垂れ死にすら覚悟していたのに、一転、由良清治という実に心強い従者を手に入れることができた。さすがに一日で世界征服というわけにはいかないが、まずまずの出だしだ。この調子でいけば世界の半分くらいならさほど時間もかからず、たやすく手に入れられるんじゃないだろうか。
そんなふうにこれからの征服計画を頭に巡らせながら、俺は清治に案内されてショッピングモールを出た。
途中、自動で動く階段に衝撃を受けたが、動揺している姿を見られたら従者に舐められてしまう。見た目は冷静に——でも、内心ヒヤヒヤしながら——ゆっくりと動く階段に足を載せた。途端、足が引っ張られ、体が倒れそうになったが、前を進む清治に倣って、手摺りに掴まることで事なきを得た。そんな俺の脇を駆け下っていく子供たちがいたが、不安定な動く階段の上を走るなんてどう考えても危険な、勇気と無謀を履き違えた行為にしか見えない。
なんとか動く階段に耐えきったものの、次に、清治に促されて乗り込んだ金属製の乗り物には驚きで危うく漏らしそうになった。
「動いてる、き、金属の箱が動いてる!」
この世界には魔法が無いんじゃなかったのか! 魔法も使わずこんな重たい金属の塊、どうやって動かせるというのだ? しかも驚くべきことに前後左右、どちらを見渡しても色は違えど似たような乗り物が並走していた。
「た、確かご先祖様の記録に、こっちの世界には牛車と呼ばれる、牛が籠を曳く乗り物があると書いてあったな……。相当強靭な体を持った牛に違いない。その牛はどこにいるんだ?」
俺の質問に、隣で輪状の物体を掴んでいる清治は、前方を見たままゲラゲラと笑いやがった。
「ぶ、無礼な、従者の分際で、主人を笑うなど」
「ごめん、ごめん。……でも牛車だなんていつの時代だい? 確かに千年以上昔にはあったけど、少なくとも今の日本じゃ、まず見かけないよ」
清治が足をぐっと踏み込むと、乗り物が止まった。思わず前のめりになって、前方のガラス——あまりに透明で存在に気付けないほどだ——にぶつかりそうになった。
「危ないからシートベルトを着けてよ。座席の脇にぶら下がっているやつ。……そう、それそれ。僕みたいにこうやって装着するんだ。……この乗り物は自動車だよ。牛なんていない。ガソリンで動いているんだ」
「自動車、ガソリン? 何だそれは?」
初めて聞く単語のオンパレードでめまいすら覚えた。まさかここまで世界が違うとは予想外だ。
「何だって言われても……」
清治が再び足を踏み込むと自動車が動き出した。今度は見えない力で椅子に押さえつけられるような感覚がした。
「そうだ、後部座席にある僕の鞄に、こっちの世界の簡単な手引書があるから、今のうちにそれを見ておいてよ。僕の家まであと三十分ぐらいかかるから」
と、後ろを指差しながら清治が言った。
「筆頭従者の家、だと?」
「君をいきなり一人暮らしさせるわけにはいかないだろ。こっちの世界の生活に慣れるまで僕の家に住んでよ」
「……なるほど、そこがこっちの世界での俺の屋敷……根城というわけだな」
「ま……まあ、そんな所かな」
清治は表情を引きつらせていた。
俺は後部座席にある清治の鞄から書類の束を取り出した。表紙に『入界管理局編 子供でも分かる世界の常識超入門編』と書かれていた。無性に腹が立つタイトルだ。紙——俺の家じゃあまずお目にかかれない上質なものだ——をペラペラとめくって中身を確かめた。魔人族の言語で色々と書かれている。更に途中からこっちの世界の言語の発音や訳が書かれた辞書になっていた。これを読めばこの世界のことが多少は分かるようになるらしい。
実に準備が良く、従者として非常に有能ではないか、清治という男は。俺の家に仕えている口ばっかり達者な老使い魔も見習ってほしいものだ。
しかし、入界管理局に俺がこっちの世界に来ると伝えたのは誰だろうか? ……まあいい、利用できるものは利用すればいいのだ。気にしてもしようがない。俺は資料を読み始めた。
気付くと三十分経過していた。
ショッピングモールを出たときは広い道路にたくさんの自動車、それに広大な農園がどこまでも続いていたのに、今は道幅がずっと狭くなり、左右にはみすぼらしい小屋らしきものが立ち並んでいた。
「こ……、これは……、なんだ?」
資料を読んで習得したこっちの世界の言語を早速使ってみた。
「凄い、もう言葉を覚えたのかい!」
清治は驚いた様子でこっちの世界の言語で応えた。
「ふん……。この程度の原始的な言語、魔人族の有能な知性を以てすれば、使いこなすことなど造作もない」
実際はまだまだ単語数が足りないが、大体の言語構造は覚えた。あとは数をこなしていけばいいだけだ。この程度難なくやってのけねば、超エリートたるファテルベルク家の名が廃る。
「おおっ、そんな長い文節をもう話せるなんて。頭が良いんだね、レノンくんは」
「まあ、それほどでもあるな。人間側視点からすれば」
魔法は使えなくともこっちにはまだ人間を遥かに凌駕する知性を持っているのだ。まだ悲観することはない、世界征服を成し遂げる方法なんて、いくらでも思いつくに違いない!
「ところで、あの犬小屋みたいな建物は何だ?」
俺は流れるように去っていく小さな建物を指差した。
「い、犬小屋!」清治は苦笑した。「……あれは、民家だよ。資料にも書いてあったでしょ」
「あんな小さく狭い建物が家だと! 絵付きの説明はあったが、縮尺までは分からなかったからな。もっと大きいかと思っていたぞ。俺の居城に比べれば、まるで『犬小屋』じゃないか」
「悪かったね、小さくて。……国土の狭い島国だからしかたないんだよ」
あんな狭い家しか与えられないなんて、さすがに人間たちを不憫に思った。俺がこの世界を征服した暁には、もう少し広い家に住めるよう、領土配分を考えてやらねば……、
って、ちょっと待て。
「まさかとは思うが俺の屋敷となる……筆頭従者の家は、こんな狭いものじゃないだろうな。もっと俺にふさわしい、少なくともさっきのショッピングモールの半分くらいの広さはあるんだろうな?」
俺の問いかけに、清治はさっと目を逸らした。
「……おっと、もうすぐ着くからね。ちょっと揺れるから気をつけて」
自動車が左折すると、緩やかな坂道を登り始めた。
坂を登りきった先は、ちょっとした広場になっていた。広場の隅に清治は自動車を停止させた。地面は細かな砂利に覆われ、広場の周囲を囲むように生えている木々の葉は午後の日差しを浴びて生き生きと輝いていた。雑草だらけで荒れ放題な俺の屋敷の庭よりは手入れが行き届いている。
敷地内に二つの建物が見えた。手前にある建物はここへ来る途中に見た『犬小屋』そっくりだ。敷地奥にあるもう一つの建物は、『犬小屋』よりもさらに小さくみすぼらしいが、屋根と入り口だけは不釣り合いなほど立派な作りだった。
自動車から降りた瞬間、どっと汗が吹き出てきた。まあ真っ黒なジャケットとズボンという、今の俺の格好も原因の一つなのだが。
「いやあ、まだまだ残暑も厳しいなあ。あと一二週間の辛抱だと思うけど。……こっちが、僕の家だよ」
清治が片手の甲で額を拭いながら、もう片方の手で広場手前にある建物を指差した。
「……ちっ、やっぱり『犬小屋』か」
半ば想像通りとはいえ、それでも悪態をつかなければ気が済まない。
「雨露が防げるだけでもありがいと思ってよ。……住めば都っていうでしょ?」
「何だ、それは? さっきの辞典には載っていなかったぞ」
「……最初は嫌でも、住んでみたらそのうち心地良くなるって意味だよ」
「訳の分からんことを……。『犬小屋』はいつまで経っても『犬小屋』だろ」
清治は困ったような表情を浮かべながら、頭をぽりぽりと掻いた。
「じゃああっちの建物は何だ? 物置か? 蔵か?」
俺は敷地の奥にある突風が吹けば崩れてしまいそうなボロい建物を指差した。
「ああ、あれは社だよ」
「社?」また初耳の単語だ。資料には載ってなかったと思うが……。「何だそれは?」
「んっ? んん?」急に清治の細目が大きく見開かれた。「もしかしてレノンくん。興味があるのかい?」
「まっ、まあ……」
清治の声の調子が急に上がり、一瞬面食らってしまった。
「あれは神様が祭ってある所だよ。……と言っても、ちょっとこの社は変わっているんだけど。社の名前は双照神社。僕の本職はここの神主さ。ただ、神職だけじゃ食べていけないから、こうやって入界管理局の非常勤職員も兼ねているのだけど」
「神様、神主……?」
未知の単語のオンパレードで話についていけない。
「……その説明はとても今できるものじゃないなあ。……とりあえず、神様はとっても偉い存在で生けとし生きるものすべてを見守ってくれている存在、神主は神様と人間をつなげる存在と思ってくれればそれで良いよ。僕たち日本人の宗教観はそのうちじっくり説明してあげるから。……そうかそうか、レノンくん興味を持ってくれたか……」
清治はやけに嬉しそうな表情で呟きながら、『犬小屋』に向かって歩き出した。
そんな政治の後ろ姿を見ながら考える。こっちの世界の神様や神主は、俺の世界で言うところの魔王と、魔王を守護する親衛隊みたいなものだろうか? ということは、神様を服従させてやればこの世界を征服できるのか? それにしても、そんな偉い存在が、あんなボロい建物に祭られているとは、神様も可哀想に。その上、清治も親衛隊とは思えないほど、悲しいまでにみすぼらしい格好だ。そう考えると神様なんて大したことないんじゃないか?
今一度社へ目を向ける。そのとき気付いた。
社の周囲に俺の世界では見慣れた、しかしこっちの世界では存在しないもの、空気に溶け込んで存在する魔法増幅の源であるマナが漂っていた。
どうしてここだけ……? ショッピングモールにも途中の道にもまったく見当たらなかったのに。
でもここなら、魔法が多少は使えるんじゃ?
早速、炎の呪文を詠唱してみる。すると、掌から俺の顔ぐらいの大きさの炎が吹き出した。小さい頃、おばあさまに教わって、初めて魔法を使ったとき以来の感動があった。威力はまだまだ弱いが、ショッピングモールのときと比べれば、ずっとマシだ。理由は分からないが、こっちの世界では魔法がまったく役に立たないわけじゃなく、ごく限られた場所でしかまともに使えないようだ。
一時はどうなるかと思ったが、優秀な従者の登場、そして魔法の復活。こっちの世界は俺に征服されることを望んでいるかのような展開じゃないか。
思わず笑みがこぼれる。
「これでもう怖いものなし、ファテルベルク王国の成立も近い! はっはっはっはっはっ!」
と、気持ちよく笑っているところへ、突然背後からぶっきらぼうに声をかけられた。
「なに人の家の前で馬鹿笑いしてるの?」
とっさに俺は後ろを振り返った。
そこには、両手に袋を抱えた少女が首を傾げて立っていた。
年齢はほぼ俺と同じくらいだろうか。くせ毛のあるショートヘアにぱっちりと大きな瞳、それに血色の良さそうな肌から、快活そうな印象を受けた。少女は季節感不明な格好をしていた。上は生地が薄そうな服——Tシャツと言うらしい、そう資料に書いてあった——にフードも付いた長袖を羽織っているのに、下はショートパンツで太ももが露になっている。
じ、実にけしからん。ショッピングモールでも似たような格好をする人間を何人か見たが、例え身分が低くとも守るべき節度というものがあるだろうに、女性が肌をそこまで露出するなど……。
「ちょっと、何なの? 人の足をじっと見て!」
少女の苛立った声に、はっと顔を上げた。ついつい視線が下へ向かってしまったようだ。
「あたしの家に何の用? ……そんな変な格好して、もしかして変質者? け、警察呼ばなきゃ」
早口で捲し立てながら、少女は俺を睨みつけたまま一歩近づいた。
突然現れて、俺の格好を見て変だとは失礼な奴だ。今の俺の格好はファテルベルク家に代々伝わる、その昔、ご先祖様が百万の軍勢を率いていたときにも着用していた由緒正しい軍服だぞ。確かに時代が経ち過ぎて、ボタンの金メッキは全部はがれ落ち、上着も所々虫喰っていて、カビ臭さもあることは認めるが。……ところで変質者って何だ?
「あっ、聡美。帰ってきたのか」
一度『犬小屋』に入っていった清治が、再び玄関から顔を出していた。
「お父さん……」聡美と呼ばれた少女が、清治の方へ振り向いた。「お父さんこそ仕事で出かけたんじゃなかったの?」
「丁度戻ってきたところだよ」清治は俺に向かって手を広げた。「……彼が例の異世界から来た子だよ。レノン=ファテルベルクくん。こっちの世界の換算で聡美と同い年だね。三千五百年くらい前に分岐した世界からやって来て、まだほとんどこっちの世界のことを知らないから。聡美、色々教えてやってよ。……彼しばらくこの家に住んでもらうし」
「ええっ、うそ!」少女は、露骨に嫌そうな表情で俺を見た。「またなの。……他の入界管理局の人って、普通はそこまではしないんでしょ? どうしてお父さんは……」
少女の言葉を遮るように清治が言った。「たった一人で異世界に来た子を見たら、放っておけないじゃないか」
「捨て猫じゃないんだから……。本当にお人好しというか」
少女は肩を落として「はぁーっ」と、大きな溜息をついた。
「レノンくん。僕の娘の聡美だ。この世界で分からないことがあったら聡美に聞いてよ」
清治からの紹介に、ぽたぽたと雫が垂れ落ちる袋を持ったまま少女は軽く頭を下げた。そして、無愛想に、「聡美です。よろしく……」と言った。
魔人族である俺に向かって反抗的な態度を取るとはいい度胸だな。本来であれば身分差というのをきっちり教えてやりたいところだけど、今は気分が高揚しているので、今回だけは特別に許してやろう。
「俺の名前はレノン=ファテルベルク。栄光あるファテルベルク家の次期当主にして、ゆくゆくはこの世界の王となる男。今より俺の従者として仕えられることを誇りに思うが良い」
俺の威厳溢れる挨拶を、聡美はぽかんと口を開けながらも聞き入っていたようだ。なるほど、感動のあまり声も出ないといったところか。
聡美は意識を取り戻したかのように顔をブルリと振るわせると、清治に向かって叫んだ。
「お父さん! 何コイツ。暑さで頭が壊れちゃったの?」
「仲良くしてあげてよ。……彼の寝室用に部屋片付けるから、手伝ってくれないか」
と言って、清治は再び『犬小屋』へ入っていった。
聡美が叫んだ言葉の意味は分からなかったが、清治の柔和な表情から推察するに、俺の従者になれることをお互い喜んでいるのだろう。
俺は唖然とした表情を浮かべる聡美を残して、堂々とこっちの世界の俺の屋敷となった『犬小屋』へ入城した。