6-3
目を開けると、世界が一変していた。
外にいることに変わりはない。しかしさっきまで砂利で敷き詰められていた地面は、膝丈ほどもある雑草に覆われ、敷地を囲っていた青々と葉が茂る木々は枯れ木に変わっていた。頬を冷たく撫ぜていた微風も今は感じられない。ふと頭上を見上げると、先ほどまでとは比べ物にならないほどの無数の星々が瞬いていた。
枯れ木林の向こう側から明かりが見えた。光は黒ずんだ石造りの館の窓から漏れている。
正真正銘、俺の、ファテルベルク家の屋敷だった。
背後から声が聞こえた。
「レノンくん、無事についたかい?」
清治の声だ。振り返ると、枯れ草の野原と黒い森を背景に、光のカーテンが揺らめいていた。声はその光の奥から聞こえてくる。
「ああ、確かに着いた。俺の世界だ」
「それほど長期間『トリイ』は開いていられないから。一度閉じてしまうと、再び開くのにしばらく時間がかかってしまう。だから早く、薬を持ってきて」
「……もし、俺が戻って来なかったら?」
意地悪したいわけではなかったが、ふと思いついたことを口にした。清治は、俺の気が変わって戻って来ない可能性を考えているのだろうか。なにせ俺の世界にもこのまま居座りたいと思わせる誘惑は多い、例えばアンとか妹とか……。
「必ず戻ってくるよ」
しかし、清治はすぐさま答えた。
「俺を信じているのか?」
——本当は、今にも足が震えて倒れそうだっていうのに。
自分のせいで大勢の人が死んでしまうのかもしれない状況。正直、今すぐにも逃げ出せるのなら逃げ出したかった。このままこっちの世界に引きこもってしまえば、彼らと関わりを止めてしまえば、なかったことにできるんじゃないか……。
「君は、自分の部下や従者を見捨てるような人じゃないでしょ」
清治の言葉が耳に届いたとき、誰かに両肩を強く叩かれたような感覚がした。魔人族最高位の貴族の末裔として、その責務を果たさなければならない、と内なる声が囁きかけてくる。
俺は気合いを入れようと、両手の拳を強く握りしめた。
「……まったく、主人使いの荒い奴らだ」
「この埋め合わせはいつかするよ」清治の柔らかい声が光のカーテンの奥から聞こえた。「急いで」
俺は『トリイ』に背を向けて、遠くに見える生家に向かって早足で歩き始めた。
長らく手入れがされていない、枯れた雑草に覆われ朽ちた石像が点在する、ファテルベルク家の庭を通り抜け、屋敷の裏口へ回った。
何故、素直に表玄関に回らないのか? それは家の者に見つかりたくないからだ。見つかったら色々面倒なことになりそうだ。特におばあさまと親父。この二人だけには決して出会いたくない。
そっと音を立てず裏口の扉を開けた。
「だ、誰じゃ!」
突然背後から叫ばれ、危うく悲鳴を上げそうになった。ゆっくりと後ろへ振り返ると、俺の膝丈ほどの小人が真っ黒な大きな瞳で見上げていた。片手に羽をむしられた鳥を持ち、もう一方の手で包丁を握りしめ、俺の方へ向けていた。
「ぞ、賊め。こんなところに押し入っても、盗むもんなんぞ何もありゃせんぞ。何せここは最も貧乏な貴族で名高いファテルベルク家の屋敷じゃからな!」
この小人はよく知っている。この屋敷の唯一の使用人である老使い魔夫婦の夫の方だ。暗がりで俺のことが分からないらしい。
「待て。俺だ。レノンだ」
俺は顔が見えるように老使い魔に近づいた。老使い魔の不釣り合いなほど大きな黒い瞳が、ますます大きく広がった。
「ま、まさか……」老使い魔が声を震わせる。「ぼ、坊ちゃま!」
「声が大きい!」慌てて、老使い魔の口を押さえつけた。「……貧乏な家で悪かったな」
老使い魔は大きく体を震わせると、しゃがみ込んで頭を地面に深く押し付けた。
「め、滅相もございません。言葉の綾にございます。ああ言えば賊は皆、おとなしく帰って行くのでございます。決して本心ではございません。……どうして、わしの人生そのものであるファテルベルク家を悪く言うことができましょうや。いかほどの恩義を先代の旦那様より承ったことにございましょう。あれは確か五十年前……」
「分かった、分かった、黙れ」
このまま放っておくと、いつまででも弁明が終わりそうになかったので、無理矢理中断させた。この老使い魔、口だけは達者なのだ。
「それよりじい、皆は今どうしている?」
老使い魔は恭しく答えた。
「大奥様は書斎でございます。旦那様は……、はて、鳥をわしに預けてくださったあと、どこかへ行ってしまいました。奥様は寝室でお休みなっておられます。嬢ちゃまもきっと今の時間は自室でございましょう。わしの家内は台所で夕食の支度中です」
「そうか」
「……ところで坊ちゃま。今は異世界とやらへ行っておいでだったのでは?」
老使い魔がようやく思い出したかのように付け足して、首を傾けると、一緒に鳥の首も傾いだ。
「あ、いや……。ちょっと野暮用で、……わ、忘れ物を取りにきたんだ」
「そうでございましたか。せっかくお戻りになったことにございますし、これを見てくださいませ」老使い魔は羽のない丸々と太った鳥を持ち上げた。「旦那様が、鳥を手に入れてくださいまして、今からさばこうとしていたところにございますじゃ。ご夕食は久しぶりの肉でございます。大奥様も嬢ちゃまもお喜びになられましょう」
親父が持ってきた鳥肉か……。どうせ、三流貴族に頭を下げて貰ってきた余り物だろう。そんな物、おばあさまが喜ぶものか。
「いや、すぐに行かないとだめなんだ。……ところでじい、薬が置いてある場所を知らないか? 母上がいつも使っている薬箱があっただろ。あそこにならアーバドン病の薬も入っているはずだ」
「ええ、そうですとも。坊ちゃまも最近ご使用なされたじゃございませんか。あのときは驚きましたぞ。旅立ちの直前でございましたから。大奥様は祈祷師を呼べ! とか仰って大騒ぎでしたからな。嬢ちゃまは泣き叫び出しますし、それに奥様も寝室を飛び出して……」
「分かった分かった。そのおしゃべりを止めろ、といつも言っているだろ。それより、母上の薬箱はどこにある?」
「わしの家内が大切に預かっております。奥様より託されたファテルベルク家の家宝とも言える薬箱、わしら夫婦が命をかけてお守りいたしますじゃ」
「家宝って……、それは言い過ぎだろ?」
老使い魔は首を振った。
「いえいえ、坊ちゃま。今このお屋敷にあの薬箱より高価で貴重な物はございません。箱自体は奥様がファテルベルク家にお輿入なされるときにご持参されたもので、名のある工匠が作ったと聞いております。それに薬もこの家にとっては貴重な品々。決して無駄にはできませんですじゃ。あの箱を丸ごと売却すれば、軽く一年は衣食に困らない生活を続けられましょう」
まさかそんなに貴重なものだったとは……。一瞬、持っていくことがためらわれたが、聡美たちを守り、ファテルベルク家の名誉を保つためにはしかたない。母上には申し訳ないと思いつつ、俺は老使い魔に向かって言った。
「……よ、よし、じい。その薬箱を丸ごと持ってきてくれないか?」
「丸ごと、にございますか?」老使い魔の瞳に疑念の色が宿った。「どうしてそのようなことを?」
「いいから。それとも、俺の言うことが聞けないのか?」
「め、滅相もございません」再び老使い魔は地面に額をこすりつけた。「このじいが、坊ちゃまのご命令に従わないはずがありましょうか。坊ちゃまが生まれた時からわしはずっとお側にいたのでございます。じいにとって坊ちゃまは息子以上の存在。その息子の言葉を聞き届けない親などいましょうか?」
一瞬、親父の表情が思い浮かんだがすぐに振り払った。
「だったらすぐに、持って来い」
「しかし、坊ちゃま。薬箱は大切な奥様の持ち物。奥様に無断で持ち出すわけにはまいりません」
「は……、母上にはもう了解を取っている、と言うか、本当は異世界へ旅立つ際に餞別としてもらう予定だったのだ。だ、大丈夫だ、じいは何も心配するな」
少しだけ声が上擦っていたかもしれない。老使い魔が一瞬怪訝な表情を浮かべたが、すぐに立ち上がると、
「分かりました。取って参りましょう」
と言って、屋敷の中へ入っていった。
俺は胸に詰まっていたもやもやしたものを追い出すように、ふーっ、と息を吐き出した。
一時はどうなることかと思ったが、これですぐに薬も手に入るだろう。
あとは……。
両手に抱えた袋を持ち直して、俺も屋敷の中へ入った。
俺が戸を叩く音に、机に向かっていたアンベルカはさっとこちらへ振り向いた。
「お、お兄さま!」
そう歓声あげるや否や、俺に向かって一直線に駆け寄り抱きついてくる。
「お兄さま、本当にお兄さまなの!」
アンはお兄さまと連呼しながら頬ずりしてきた。俺もアンのサラサラの髪の毛の上から頭を撫でてやる。
「そうだ、お兄ちゃんだよ」
アンと触れ合えるなんて、ああ、なんて至福な時間だろう。もうこの手を離したくない!
「夢じゃないかしら。いつお会いできるのかずっと心待ちにしておりましたのに。こんなに早く帰ってくださるなんて!」アンは太陽のように眩しい笑顔を向けてきた。「もう、異世界の征服は済んだのですか。さすがはお兄さま!」
「違うよ、ちょっと用事があって戻ってきただけなんだ。すぐまた行かないと……」
アンの表情がみるみるうちに陰っていった。
「そんなの嫌です。もうアンはお兄さまと離れたくありません!」
アンのまん丸の目から大粒の涙が溢れ出した。
胸が張り裂けそうなくらいに心が痛んだ。俺だって、出来ることならこのままずっと最愛の妹と一緒にここにいたい。しかし……。
俺はそっとアンを俺の体から引き離した。
「そんな悲しい顔をしないでくれ、アン。向こうの世界に、お兄ちゃんの帰りを待っている人たちがいるんだ。その人のために、俺は行かないといけない」
「お兄さまを待っている人……、まさかお兄さま、その方はお兄さまの恋人!」
アンが両手で頭を抑えた。
「いや、違う……。いや、そうとも言えるのか?」
言われてみると、今更ながら俺と聡美の関係って何だ? ハレム創設こそ力ある支配者の証、というわけで、近くにいて、容姿も好みの聡美のことをとりあえず妾と呼んではいたが、それは恋人だと言えるのか? ……改めて考えてみると難しい。
一方、アンは突然ヒステリックに叫び出した。
「そんな。お兄さまはアンを捨てて、他の女の元へ行くわけですね。酷い、酷過ぎます。お兄さまなんて、もう大っ嫌いです! こうなったら、お兄さまを刺して、アンも死にます!」
「待って、待って! 大声は出さないで」
おばあさまや親父に気付かれたら大変だ。
机に走り戻って、尖った羽ペンを掴もうとするアンを寸でのところで取り押さえた。
「違うんだ、アン。聡美とはそういう関係じゃない」
「聡美とおっしゃるのですね、お兄さまの恋人は! もうアンは生きる望みを失いました。さようならお兄さま。わたしの血でお兄さまとその女は呪われてしまえばいいんです」
「だから、違う!」アンの手から羽ペンをもぎ取って、遠くへ放り捨てた。「あっちの世界での、俺の従者なんだ」
アンの動きがピタリと止まった。「……そうなんですの?」
「そうだ、その従者どもが今とても困ったことになっているから、主人であるこの俺が、助けてやろうとしているだけなんだ。……俺が一番愛しているのはアン、お前だよ」
アンは顔を赤らめ、もじもじと体を揺らした。
「お兄さま。分かっていますわ、そんなこと」
ようやくおとなしくなったアンに、俺はほっと胸を撫で下ろした。……でも将来世界征服を果たしハレムが創立できた際には、毎度アンとこんなやり取りをするのかな? なんてふと思ってしまった。……それはとても疲れる。
とにかく、このまま話題を変えようと、俺は部屋の入り口に置いておいた袋をアンの目の前に置いた。
「アンのために土産を持ってきた」
と言いながら、袋の中身を広げた。こぼれ出てくる色とりどりのお菓子の袋に、アンの表情がみるみるうちに好奇心に満たされていった。
「な、なんですの、これ?」
「菓子だ、あっちの世界の。どれもこれも旨いから、食べてみなよ」
俺は近くにあった細長い筒状のスナック菓子を渡した。アンはまじまじと菓子袋を見つめる。
「これがあっちの世界の文字ですの? 変わっていますね。……何て書いてあるんですか?」
「博多明太味。……俺も詳しい意味は知らないけど、旨さは保証する」
アンは袋からスナック菓子を取り出すと、パクリと小さな口でかぶりついた。するとプリンのようにアンの頬がプルプルと波打った。
「お、美味しいです! お兄さま。こんなのアンは食べたことがありません!」
アンはパクパクと一気にスナック菓子を食べきってしまった。
「気に入った?」
「気に入りました!」
アンの目は既に次食べるお菓子をどれにしようか、と、せわしなく動いていた。
しばらく、アンがお菓子の袋を持ち上げては興味深げに眺める仕草を見つめ、それから俺はゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ行かないと。……アン、会えて良かった」
ポテトチップスの袋を抱えたまま、アンが俺を見上げた。
「もう行ってしまいますの。せめて今夜くらい一緒に……」
「そういうわけにはいかないんだ、待っている奴らがいるから」
猛烈に後ろ髪をひかれる思いで、俺はアンに背中を向けた。
「お兄さま、頑張ってください。アンはここでいつまでもお兄さまの帰りを待っています」
背後から、アンの力強い声がした。
「ありがとう。今度はアンをあっちの世界に招待するよ。その時、アンは王女様だ!」
そう言い残して、俺はアンの部屋を出た。
扉を閉めた瞬間、奥から響いてきた悲鳴のような鳴き声に、俺は胸が締め付けられた。
——アン。あっちの世界を征服したら、すぐに戻ってくるから。
でもその前に今はやることがある。
俺は大きく深呼吸した。そして、裏口に戻ろうと、薄暗い静寂に包まれた廊下を忍び足でゆっくりと歩き出す。
「……坊ちゃま」
暗い廊下から老使い魔の姿がぼうっと浮かび出てきた。黒く大きな瞳が何かを咎めるかのように俺を見上げていた。
「どうした、薬箱は持ってきたか?」
老使い魔はゆっくりと首を振った。そして表情を変えることなく抑揚のない声で言った。
「書斎で、大奥様がお待ちです」




