6-2
「薬、だと……?」
俺は清治から聞かされた言葉を繰り返した。
自動車のハンドルを握り、前を向く清治は静かに頷いた。
俺は清治と一緒に拉致された建物——どうやらあそこが病院だったらしい——を出て、今は清治の運転する自動車に乗っている。
「薬があれば、妾……聡美は助かるのか?」
「おそらく」
と言って、清治はブレーキを踏んだ。真っ暗な夜空に赤く不気味な信号機の光がこちらを見下ろすように灯っていた。
車内で、今起こっていることを清治から聞かされた。
体調を崩し学校を休んでいた聡美は、一向に改善する気配が見えず、むしろ悪化していった。それを見て単なる風邪とは思えず、心配になった清治は、昼前に病院へ連れて行った。しかし医師の最初の診察では何の病気かさえ分からなかった。その後、様々な精密検査をしたところ、夕方に未知の病原菌が見つかったという。
「しかし、聡美の体から見つかった未知の病原菌とやらと、俺の世界に行って薬を取ってきてくれという話と、どこがどう結びつくんだ?」
清治の頼みは、俺に元の世界へ戻って薬を持ってきてほしい、というものだった。しかし聡美の今の状態と、俺の世界の薬に何の関係があるのかさっぱり分からない。
「聡美はレノンくんの世界の病気にかかったみたいなんだ」
清治が苛立たしげに、信号機の赤い光を見つめていた。
「どうして? どうして聡美が俺の世界の病気にかかるのだ? そもそも病気ってそれぞれの世界で違うものなのか?」
「ああ違う。僕らや病原菌の進化の過程で、それぞれの世界で独自の病気が存在することはある。そして、レノンくんがこっちの世界に来るときに、レノンくんの世界に特有の病原菌も一緒に付いてきてしまったようなんだ……」
「なっ!」
ずしんと腹に鈍い衝撃を受けたような感覚がした。
反対側の車線を自動車が次々とテイルランプの光の筋を残して走り去っていく。
「……お、俺のせいで、聡美が病気になった、と……?」
「違う、レノンくんのせいじゃない。僕のせいだ!」清治はハンドルに両手を叩き付けた。「確かに本来だったら、世界移動するとき、移動元の世界の責任で検疫すべきだと協定が決まっている。でも、そんな技術が確立されていない世界や、入界管理局の連盟に加入していない世界から来るときは、受け入れ側が代わりにやらなくちゃいけない。……レノンくんが来た時、それを僕はすっかり忘れていて。だから、聡美のことも今の状況も管理局員として責任を果たせなかった僕が、僕が悪いんだ!」
清治が額を何度もハンドルに打ち付け始めた。俺は慌てて、清治の肩と頭を押さえつける。
「落ち着け……。信号が青になったぞ」
清治は荒い呼吸のまま、アクセルを踏んだ。目は大きく開かれ血走っていた。俺は助手席の脇に置いてあった、ペットボトルの蓋を開けて、清治の口元に差し出した。清治は片手で受け取ると、そのまま一気に飲み干した。口の端から水が滴り落ちていった。
清治には落ち着け、と言ったものの、俺自身心の中ではかなり動揺していた。真の貴族で指導者は感情を周りに見せてはいけない、というおばあさまの教えを信じて、なんとか表に出さないように踏みとどまっているが、でもふっと力を抜いたら足が震え出しそうだった。
実際こっちの世界にやってきたのは俺だ。俺がもしこっちの世界にやって来なかったのなら、聡美が病気にかかることもなかったろうと思うと、太鼓腹の佐々木が俺に向かって怒鳴りつけてきたように、俺の問題だ。
「聡美の容態は実際のところ、どうなんだ?」
清治の焦燥しきった様子からある程度想像がつくが、ここは聞いておかなければならない。
「さっぱり分からない。僕らにとっては何せ未知の病原菌だから。ただ熱も高いし、くしゃみもどんどん激しくなっている。嘔吐を繰り返して、脱水症状も見られる。軽い症状じゃない。最悪の場合……覚悟してくれって医者に言われた」
「……」
車が左折し、緩やかな暗い坂道をのぼり始めた。
「病原菌自体は見つかっているから、そのうちワクチンなり薬が作られるだろう。でもそれじゃあ遅いんだ。聡美に、それに……グシャン!」
清治が大きなくしゃみをした。
日曜日、聡美も苦しそうにくしゃみをしていた。……それに今日高校でも。
「ちょ、ちょ、ちょっと待て。筆頭従者、お前も……」
「個人差があるみたいだけど、おおよそ潜伏期間は一週間らしい。今夜中にはこの街や学校一帯を隔離閉鎖すると決定が下った。悠長なことは言っていられない。……本当は僕も隔離されるはずなんだけど。娘の……聡美のためなら……」
駄目だ、もう足の震えが止められなかった。
聡美の顔、そして蒼馬や天野、生徒会の連中、この短い期間で出会ってきた人たちの顔が次々と浮かんでくる。
——俺が何も知らずこっちの世界に来たせいで、あいつらは……。
いつも清治たちに向かって使っている口調も忘れて、懇願するように尋ねた。
「せ、清治。俺は、俺はどうしたら……。薬といっても、種類は多いし」
「分かっている。レノンくん、思い出してほしいんだ。こっちの世界に来る直前に、自身が病気にかからなかったか? 病気持ちの人に近づかなかったか?」
清治に聞かれ、すぐに思い出した。
「……俺、こっちの世界に来る直前に、アーバドン病にかかったんだ」
「アーバドン病?」
「お、俺の世界じゃよくある病気なんだよ。その病気にかかるとくしゃみが止まらなくなる」
「じゃあ、多分それだ。出来る限り多くの薬を持ってきてほしいけど、その病気の薬は確実に持ってきてほしい」
「でもこれはそれほど危険な病気じゃない。確かに、大昔は重病化すると生命に危険が及ぶ病気だったって聞かされたことあるけど、今じゃあちゃんとした薬があって、魔法で体内に直接送り込めば簡単に、……あっ!」
ようやく話が一本につながった。俺たちの世界にとっては当たり前の病気で当たり前の治療が、こっちの世界にとっては当たり前じゃないのか。一週間もこっちにいて全然学習できてないじゃないか、俺!
清治が自動車を止めた。「着いたよ」
自動車から降りると、冷たい風が肌を撫でていった。
広い敷地、手前には二階建ての小さな建物、奥には今にも崩れてしまいそうな寂れた小屋……。
「なんだ、『犬小屋』じゃないか」
到着したのは見慣れた清治と聡美の家だった。明かり一つ灯らず真っ暗闇の家屋は、悲しげに住人たちの帰りを待っているかのようだった。
「僕は社に行って必要なものを取ってくるから。レノンくんはあっちで待っていて」
清治が指差した先には、敷地の入り口、大きな石造りの扉のない門のようなものが立っていた。その門の先には下の道路へと続く下り階段がある。いつも高校へ行くとき、あの門らしきものを通り抜けて階段を下っていったが、改めて見ると、不思議な造形物だった。
「あれは?」
「鳥居だよ。神社だったらどこにでもある。……それと同時に、僕が管理する異世界移動装置『トリイ』でもある」
門のようなものがこっちの世界の異世界移動装置なのか。俺の世界の装置と随分雰囲気が異なる。……それにしても、
「ダジャレ?」
鳥居が『トリイ』? 酷すぎでしょ!
「さあ、どうだろう。元々『トリイ』だったものが、やがて機能を忘れられて鳥居という名前だけが残った、なんて説もあるけど……。どちらにせよ、昔の人がそう名付けたのだからしようがないよ。……それよりレノンくん、一度家に行って着替えたほうがいい。そんな格好で、実家に帰るわけにはいかないだろう」
清治に指摘され、自分がほぼ裸に近い格好であることを思い出した。
一旦清治と別れ、部屋に戻り、着替えを引っ張り出した。この世界へ来たときに着ていた、由緒正しきファテルベルク家の軍服だ。
姿見に映った軍服に着替えた自身の姿をじっと見つめる。
まずは気持ちを引き締めるため頬を軽く叩いた。自動車の中で清治の話を聞かされたときはかなり動転したが、今はだいぶ気持ちが落ち着いてきた。
それから服装に乱れがないことを確認しようと、体を左右に捻った。相変わらず虫食いが酷い軍服……。
「あれっ?」
よく見ると、ほつれていたところが全て縫われていた。真新しい、とはとても言えないが、汚れやシミも目立たなくなっている。
清治か聡美か……、おそらくは聡美だろう。この軍服を洗濯して、修繕してくれたのだ。
聡美はどんな気持ちで俺の軍服を縫ってくれたのだろう?
ブツブツ文句を言いながら、それでも針を縫う聡美の姿が浮かんできて、思わず苦笑した。
——主人として、一人の男として、死なせるわけにはいかない。
俺はもう一度服装を確認して、部屋を出た。
鳥居前には既に清治が立っていた。スーツの上着を脱いだ清治は、はたきのようなものを鳥居に向かって払っていた。俺がやってきたことに気付いて、清治がこちらへ振り向いた。
「レノンくん、やっと来た……って、その手に持っているのは何だい?」
清治の視線が俺の手元へと向けられた。
「何って……土産だが?」
「土産って、誰に?」
「もちろん、俺の愛しの妹、アンベルカに向けてだ」
両手に抱えていた袋を持ち上げた。中にはいつかアンに食べさせてやろうと思って溜めておいたお菓子がたくさん入っている。
「遊びに行くんじゃないって、分かっているよね?」
清治の声が急に低くなり、細い目が吊り上がった。いつもの柔和さはない。普段温厚なだけ尚更恐怖心が煽られる。俺は思わず身震いした。
「も、もちろん分かっていますよ。でもせっかく戻るんだから、土産を少し持って帰るぐらい良いですよね?」
恐ろしさで口調が乱れ、頭を低くしてお伺いを立てた。
「少しって……」清治は顔をしかめた「しようがないなあ。乾物だけ、生ものは絶対に駄目だよ」
「あ、ありがとう」
俺はほっと胸を撫で下ろした。
「準備できたらこっちへ来て」
清治が手招きする。俺はお菓子の袋を両手に抱え、鳥居の前に立った。
「じゃあ、ここからレノンくんを元の世界に送る。……腕を出して」
清治に言われるがまま、右腕を前に出した。清治は袖を捲りあげ……。
「痛っ、何をする!」
慌てて腕をひっこめた。清治はいつの間にか針を持っていて、それで俺の腕を刺したのだ。刺されたところがズキズキと痛んだ。
「注射だよ。こっちの世界の病原菌を君の世界に持ち込まないための。本当はレノンくんがこの世界に来た直後に、打たなきゃいけなかったのに!」
と、言った途端、清治は両手で頭を抱えてその場にうずくまってしまった。
「おい、しっかりしろ、清治。そんなところで後悔している暇があるか」
意外に引きずるタイプだな、面倒くさい。
俺の呼びかけに応えて清治はゆっくりと立ち上がった。そして「そ、そうだね、レノンくん。時間がない、急ごう」と言って、指で両目を拭いた。
改めて俺の前に立つと、清治ははたきのようなもの——大幣と言うらしい——を右へ左へと振った。続いて、白い粉の山を俺に向かって投げつけてきた。
「今度は何だ? これも病気を防ぐものなのか?」
唇に付いた白い粉を舐めてみた。……しょっぱい。
「いや、ただの塩だよ。深い意味はない、これは気分の問題さ」
「紛らわしい……」
「レノンくんには言われたくないね。君が大げさな前口上で魔法を使うのとたいして変わらない。……じゃあ行くよ。必ず薬を持って帰ってきてくれ!」
「分かった」
俺はコクリと頷いた。
清治が大幣を大きく振り上げた。「頼んだよレノンくん」
次の瞬間、目の前が真っ白な光に包まれた。




