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ここまで、お読みいただきありがとうございます。
ここから終盤で、第5章となります。
週明け、結局聡美は学校を休んだ。
昨日、少し体が怠いと言っていたが、今日の朝には悪化して、寒気と頭痛、それにくしゃみが止まらないらしい。俺がわざわざ気を使ってやったのに、主人のありがたい忠告を無視するからだ。
『犬小屋』周辺はマナが少しはあることだし、俺の優秀さを示すための絶好の機会として、魔法で聡美の体調を回復してやり、彼らを改めて心酔させたいところだが、肝心の病気を治癒する魔法などないのである。俺の世界でも、外傷なら魔法で治せないこともないが、病気は薬に頼らざるを得ない。
しようがないので今日は俺一人で通学だ。今やすっかり満員電車にも慣れ、降りる駅を一つ間違えそうになった以外はなんの問題もなかった。
教室へ入ると、驚いたことに、白いマスクをつけている生徒たちがたくさんいた。辛そうにくしゃみを繰り返している。ホームルームで担任の水澤が「風邪が流行ってるみたいだ、皆気をつけろよ」と、大きなマスクをつけたまま言っていた。そのおかげで、奴の鬱陶しい白い歯を見ずに済んだ。
ホームルーム後、餌へ向かって駆け寄ってくる子犬のように蒼馬が走り寄ってきた。よしよしと頭と喉をさすってやったら、「くーん」と気持ち良さそうな鳴き声を出しそうだな。
「おはよう、レノンく……、ご主人様、体は平気なの?」
「まったく問題ない」
頭も喉も痛くない、いたって元気だ。俺の普段の心がけが良いからに違いない。……まあこの世界に来る直前に病気で倒れていたことはこの際忘れよう。
「ところで下僕、お前の方こそ大丈夫なのか?」
蒼馬はマスクをしてなかった。
「ぼく……? ぼくは平気だよ。馬鹿は風邪ひかないし」
「なんだそれは? 風邪……という病気に、馬鹿は耐性があるのか? それは凄い能力だな」
馬鹿って、相手を罵る言葉だと思っていたが、病気知らずの能力を持つ者への称号の意味もあったとは。やはり俺が見込んだだけのことはある、蒼馬はただ者ではない。
「違う違う、ものの例えだよ。諺、慣用句、ジャパニーズトラディショナルイデオム。でも馬鹿を崇拝する社会か……、面白い設定だね。ちょっと真剣に検討してみよう」
と言って、蒼馬は腕を組んで頭を捻っていた。……何を考えているのか俺にはさっぱり理解できなかった。
そこら中でクシュンクシュンとくしゃみする物音がうるさかったが、授業自体は滞りなく終了し、放課後は今日も生徒会の手伝いだった。高校征服のためとはいえ、今週も天野にこき使われるのか、と思うと少し気は重い。それに昨日聡美から散々、天野への愚痴を聞かされたものだから、ますますどう接してよいものか……。
などと悩んでいる余裕など微塵もなかった。文化祭本番まで残り二週間を切り、ただでさえ忙しくなりつつある状況下で、聡美が休み、その穴を埋めるべく生徒会室は修羅場と化していた。
「ちょっと、生徒指導の先生への報告書、まだ出来てないじゃない!」「今、わたしが書いてます!」
「ねー、この数字合ってるの?」「あとで確認しとく!」
「文芸部が、印刷会社から連絡がないって、言って来てるんだけど、誰か今どうなってるか知らない?」「えーっ、そんなこと言われても。ちょっと文芸部行って話聞いてきてよ」
「グラウンドの整備はまだかって、陸上部が言ってるぞ」「……ったく、あいつら少しは自分たちでやれよ。しようがない俺が行く」
「吹奏楽部が文化祭に必要な材料の買い出しに行くから、手伝ってほしいって」「数学研究会からも買い出しを頼まれてるから、一緒に来いと伝えてくれ」
悲鳴とも怒号とも取れる言葉が飛び交う中、生徒会メンバーは休む間もなく右へ左へと駆けずり回っていていた。俺とて例外ではない。
「ねえ、この資料、二十部コピーお願い」
聡美の友人で生徒会メンバーでもある大橋に懇願され、コピーやら紙束の整頓やらを手伝ってやっていた。大橋も俺の偉大さがようやく理解できたに違いない、今や俺なしに彼女の仕事は回らないだろう。
コピーした資料を大橋に手渡すと、今度は部屋の奥から声をかけられた。
「ファテルベルクくん、お茶」
「分かった」と、反射的に返事しそうになった。
「って、貴様、何が茶だ! よくこの状況でそんなことが言えるな。誰のせいだと思っている!」
俺は生徒会室の一番奥で唯一、ただ席に座って、俺たちの様子を見つめているだけの天野に向かって叫んだ。この忙しさの八割は、天野が方々で引き受けてきた生徒会とは直接関係のない雑用のせいだ。
「お茶汲みだって、ファテルベルクくんの大切な仕事じゃないか」
天野は悪びれる様子など微塵もなく、むしろ笑顔で、赤眼鏡の位置を正した。
「茶が飲みたきゃ、自分で淹れろ。何もしてないんだろ」
「何もしてないなんてことないさ、ぼくはこの後にある、生徒指導の先生への報告を頭の中でリハーサルしていたのだから」
いやいや、まだ資料出来ていないだろ……。
昨日の聡美の愚痴の通りだ。人をこき使って、美味しいところだけを持っていくタイプ。こういう奴が組織の長だと、外部からの受けはいいかもしれないが、その組織はいずれ内部から崩壊するに違いない。今ここで天野を叩きのめし生徒会長の座から追い出したら、少なくともこの部屋にいる連中は、喜んで俺の部下になってくれるだろう。
……よし、ヤッちまうか? ……選挙? そんなものくそくらえ。今度こそ力づくで、その地位から引き摺り下ろしてやる。
天野に向かって一歩踏み出そうとしたとき、生徒会室の入口の戸がガラガラと音を立てて開いた。息を切らせた柔道着姿の丸刈り男子が部屋に転がり込んできた。
「会長、ちょっと来てくれ。俺んところの部長と、剣道部の部長が……」
柔道着男が言い終わる前に、天野は素早く立ち上がった。
「またか……、本当に血の気の多い奴らだな。よし、案内してくれ!」
天野は柔道着男を連れて、さっさと生徒会室から出ていってしまった。
出鼻をくじかれてしまった……。
生徒会メンバーは何事もなかったかのように作業を続けている。しかたなく俺も席に座って、中断していた作業を再開した。
しかし腹の虫が収まらない。
そのとき、隣の大橋が声をかけてきた。
「まあ、会長はあんなもんだから。いちいち怒ってもしようがないよ」
俺は驚いて、大橋の顔をじっと見つめた。今まで俺に対して必要最低限の事しか話しかけてこなかった彼女が、初めて仕事以外の話題を振ってきたのだ。遂に真の王者のみが持つ圧倒的存在感を無視できなくなったのだろう。
興奮する気持ちを抑えて俺は落ち着いた口調で喋った。
「とは言えあれは酷すぎるだろ。上に立つ者の態度とは思えん」
上に立つ者は、そう、戦場ではいつも先頭に立って戦っていた、ご先祖様のような方こそ相応しいのだ。あんな見せかけ野郎をいつまでも、のさばらせておくわけにはいかない。
「まあ、そうかもしれないけど。……でも、今さっき呼ばれたように、面倒くさいもめ事が起こったときは、会長じゃないと解決できないんだよね。適材適所ってやつでしょ。それに会長、見た目は凄く有能そうなのに本当は実務能力ゼロだから。黙って座っていてくれた方が、こちらとしてもありがたいし。それよりも、ファテルベルクくんの方がまだ役に立つし」
周囲から失笑が漏れた。……最後の台詞は俺の実力が認められたと素直に喜ぶべきところだろうか?
「でもあいつが出張っていくのは、ひとえに自分が目立ちたいためだろう? 悔しくはないのか、あんな似合わない赤眼鏡を掛けた野郎にこき使われ、その上手柄を持っていかれて」
「手柄……? そんなこと考えもしないなあ」
大橋が首を傾げると、光沢のある長い髪がさらりと肩から落ちていった。
「じゃあ、どうしてこんなところで仕事をしているのだ?」
聡美の友人である、この女子生徒をはじめ、ここにいる連中は何の理由で生徒会を手伝っているというのだろう?
「そうねえ、最初は、会長にうまいこと言いくるめられたことは否定できないけど……。でも実際やってみて、皆の役に立って嬉しい部分もあるし、……あとなんだかんだ言って、皆で働いていることが楽しいからかな。わたしにとってはこれが部活動みたいなものだから」
俺と大橋の会話に聞き耳を立てていた他のメンバーも、コクリと小さく頷いていた。
「……なんだそれは?」
楽しいから? そんな理由で働いているなんて、まったく実利に合わないじゃないか。理解に苦しむ。
「君だって、案外楽しくやってるんでしょ? 先週この学校へ来た時は、凄く表情固かったのに。なんだかんだ言って、ここにも結構溶け込んでるよね。前だったらきっとわたしが話しかけても、君に相手にされなかったと思うし」
「そ、……そんなことあるか。俺は最初から何も変わっていない。俺はここで名前を売って、赤眼鏡を生徒会長の座からたたき落とし、代わってこの高校を支配するためにいるんだ」
「はいはい、せいぜい期待してますよ。……聡美ちゃんも大変だわ。こんな堅物さんと一緒に……、って、君と聡美ちゃん、昨日、中央駅でデートしてたって、本当?」
部屋にいた連中が一斉に手を止めた。そして「えっ、えー!」「……やっぱり」「おっ、会長は失恋?」とざわめき始めた。
俺一人だけ、空気が一変したことに付いて行けず、首を傾げながら周囲を見渡した。
「ちょっと待て、何だ、デートというのは?」
「デートはデートよ。恋人同士が一緒に遊びにいくこと」と大橋。
「……ああ、そういうことか。確かにあいつは将来、こっちの世界での俺の側室の一人となる予定。恋人の定義に当てはまらんでもないな。そういう意味ではデートだったのだろう」
「やっぱり」「国際恋愛、チョー羨ましい!」「会長、ざんねーん」
周囲が目の色を変えてはやし立ててくる。
「そっか、聡美ちゃんが風邪で倒れたのも、興奮しすぎたからかもね。……ねっねっ、どこまで行ったの、お二人さん」
大橋は何かを期待するような、キラキラ輝かせた瞳をこちらへ向けてきた。
「どこまで行ったって……、パンケーキを食べに行っただけだが? ……本当はお前と行く予定だったと聞いたぞ」
「なんだ……」急に白けたような様子で大橋は言った。「まっ、最初はそんなもんか。……クシュン!」
「お前も風邪というやつか?」
「そうかも……、少し寒気もしてきた。さっさと片付けて帰ろ」
大橋は鼻をすすると、PCに向かってキーボードを叩き始めた。
……ここで皆といることが楽しい、か。先ほどの大橋の発言を思い出しながら、机に広がった紙の束を見下ろした。
こんな地味で面倒な仕事、何が楽しいものか。
でも、大橋や、聡美、それに蒼馬たちと話しているとき、どうだっただろう。楽しかっただろうか? 俺は首を振った。ダメだダメだ。下等なる人間どもと交わって楽しいなどという感情を持つなど、魔人族として、それにファテルベルク家として愚の骨頂。生まれながらの支配者として、搾取する側として、そのような感情は無用だ。
中断していた作業を開始しようとして、赤ペンを手にしたとき、ノック音がして、再び生徒会室の戸が開かれた。天野が戻ってきたのだろうか?
しかしそこに立っていたのはまったく見ず知らずの男子生徒だった。
「会長……、いますか?」
男子生徒が消え入るような声で言った。
「ごめんなさい、会長は今ちょっと別の用事で出払ってるの」
入り口に一番近いところに座っていた女子生徒が返答する。
「あのう……、校舎の隅で揉め事……イジメっぽいものを、見ちゃったんですけど……」
男子生徒の話に、生徒会メンバーは互いに顔を見合わせた。確実に生徒会長である天野の出番だけどどうしよう、といった様子だ。
……ふむ、天野はいない。であればここは次期生徒会長の俺の出番、というわけか!
俺は席を立った。




