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もやを抜けた瞬間、すぐ目前に象牙色の壁が迫っていた。
「あっ!」と声を上げる余裕すらなかった。勢いよく飛び出した体を止めることはできず、おもいっきり額を壁にぶつけてしまった。
「……っ!」
あまりの痛みに涙が出そうだった。
「何やってんだい、いきなり」
もやの向こう側から、おばあさまの呆れたような声がした。
「大丈夫ですか、お兄さま? 今ドスンって大きな鈍い音が……」
アンの心配そうな声も聞こえる。
「だ、大丈夫、大丈夫……」
ずきずきと痛む額をさすりながら周囲を見渡した。『トリイ』の出口が開いた場所は、人一人がようやく入れるほどの狭い空間だった。壁には何本もの棒が立てかけられ、地面も汚れた布やら、桶のような物が所狭しと置かれていて、ほとんど足の踏み場もない。薄暗く、天井と壁の隙間からわずかに光が差し込んでいるだけだった。小さい頃におばあさまにこっぴどく叱られ、暗く狭い物置部屋に閉じ込められた記憶が蘇ってきて、思わず身震いした。
頭をぶつけた壁をそっと指で触れてみる。石でも藁でも泥でもない、とても硬い物質で出来ているようだった。俺の世界では見たことがない。
……って、ちょっと待て!
こっちの世界の連中は、木や泥でできた家に住んでいるんじゃなかったのか?
「どうしたんだい?」
「あっ、いえ、おばあさま。ちゃんと異世界には渡れたみたいです、……ここは建物の中のようです」
「そうかい、うまくいったようだね。ぶっつけ本番で内心ヒヤヒヤしてたんだけどさ」
おばあさまは満足そうな様子で、さらりと怖いことを口走っていた。
「お……おばあさま、一つ確認したいのですけど。こっちの世界の人間は、土や木で作られた建物に住んでいるのですよね。目の前に見たこともない、硬い壁があるのですが」
「ご先祖様の記録にはそう書いてあったからね。でも、かれこれ千年も前の話だから、さすがにそれだけ経てば、人間どもも少しはまともな建物に住むようになるだろうさ」
「えっ、千年前!」
異世界移動は久し振りだと聞いていたが、それほど昔だったとは……。
「安心しな。人間なんて所詮は魔法すら使えない愚かな蛮族さ。腕力が強いわけでも、目にも止まらぬ高速移動が出来たりするわけでもあるまいし、私たち魔人族の足下にも及ばない」
「そ、そうですよね」
……そうさ、多少建物が立派になっても所詮相手は野蛮人、恐れることはない。
「もうすぐ『トリイ』が閉じられる。そろそろ本当にお別れだよ」
異世界移動の役目を終えた『トリイ』のもやが急速に薄くなり、その向こうにいるおばあさまとアンの姿もぼやけていくのが見えた
「今度こそ行って参ります。おばあさま」
姿勢を正して、おばあさまたちに向かって頭を下げる。
「……ファテルベルク家としての誇りを持って、……何事にも媚びることなく、その世界を……征服……。……いい報告を……期待してるよ」
徐々におばあさまの声が遠くなっていく。
「……お兄様。……どうか……ご無事で!」
アンベルカの心の底から俺を応援する声に、消えかかるもやに飛び込んで、元の世界へ戻りたくなる衝動に駆られる。
「……アン!」
妹の姿に向かって手を伸ばしかけたとき、もやは完全に消滅した。
もうそこには埃にまみれた薄暗い地下室も、おばあさまとアンベルカの姿も見えず、冷たい象牙色の壁があるだけだった。
「……」
しばらくもやがあった場所を呆然と見つめていたが、はっと我に返ると、両手で頬を叩き、大きく深呼吸した。
感傷に浸っている場合ではない。この世界を一刻も早く征服しなければならないのだ。そのためには、まずこの狭い空間から外に出ないと。
今一度、注意深く小部屋を見渡すと、出入り口とおぼしき戸が見つかった。壁に立て掛けられていた棒を引っ掛けて倒しつつ、地面に置かれた布に足を取られて危うく滑りそうになりながらも、なんとか戸に近づいた。そして把手を掴み、開こうとした瞬間、わずかに手が震えた。
——果たしてこの先にどんな世界が広がっているのだろう?
こっちの世界の支配者が、いくら野蛮で下等な人間だとしても油断は禁物。戸を開けた瞬間、待ち伏せしていた人間たちが集団で襲いかかってくるかもしれない。
俺は左耳につけた巻貝状のイヤリングを軽く触れる。
いつでも魔法を使用できる体勢で、ゆっくりと戸を押した。
戸は音も立てず開いた。
……反応はない。
そろそろと狭い空間から抜け出して、外の様子を確認する。
狭い空間の外は廊下だった。一方は行き止まりだが、もう一方は奥まで続いている。廊下の脇には開いた戸がずらりと並んでいた。
行き止まりでない方へ向かって歩を進める。
小部屋の一つを覗き込むと、さっき俺が出てきた部屋と同じぐらいの広さの空間が存在していた。しかし棒や桶はなく、その代わり、部屋の奥に地面から白いお椀のような物が伸びていた。
ここはどこだろうか? 何かの建物の中であることは分かるが……。
柑橘系の匂いに混じって微かに胸が痛くなるような不快な匂いが漂っていた。
もしかしてここは何かの儀式に使われる空間かもしれない。この不思議な匂いは儀式に使用する香料だろうか? ……どんな儀式だろう? ご先祖様の記録には人間の祭りごとまで記録に残っていないので想像もつかない。
不意にコツッコツッと廊下の奥から物音が響いてきた。
音はこちらへ近づいてきている! きっと人間の足音に違いない。
遂に現れたな!
俺はいつでも迎え撃てるよう、身構える。
足音はどんどん近づいてきて、とうとう廊下の突き当たりの曲がり角から人影が姿を現した。
その体型からして女性だろう。確かに俺たち魔人族と姿形は似ていた。しかし着ている服や髪型はだいぶ雰囲気が違う。母上やアンが着ている魔人族のドレスよりもずっと安っぽく軽装で、肌は二の腕まで露わになっている。それに黒々とした髪もずっと短い。
ご先祖様が残した記録に依ると、人間の世界にも序列があって、身分の高い女性ほどたくさんの衣で着飾るらしい。場合によっては十二枚以上重ね着することもあるとか。だとすると、この女は身分の低い奴隷か使用人だろう。
と、身構えたまま俺は初めて見る人間の女を冷静に観察していたわけだが、一方、俺と目が合った人間の女は、ギロチン台の前に立たされた罪人のような表情を浮かべていた。
向こう側に攻撃の意思はなさそうだ。それどころか怯えてさえいないか?
ここで気付いた。生物は原始的であるほど他者と対峙したとき、本能的に相手との力関係を理解できてしまうという。であれば、この人間の女も、高位な存在である魔人族の偉大さが瞬時に理解できたということか!
急に笑いがこみ上げてきた。
「はっはっはっはっ! この様子なら、こっちの世界の征服も実に容易いな!」
俺は胸を張って歩き出した。戦意喪失した人間に最早興味はない。恐怖で声が出なくなっている女性の脇を通り過ぎ、意気揚々と廊下を進んでいった。
しかし、廊下を抜けた瞬間、今度は俺が度肝を抜かれた。
そこは依然として建物の中だったが、先ほどまでの狭く無機質な廊下とはがらりと様子が変わって、道幅も天井もぐっと広がり、周囲は明るく彩られ、華やかで開放的な空間が広がっていた。
そして何より驚いたのが、溢れかえる人、人、人! 男、女、大人、子供、集団で移動する者たち、一人で早足に歩いていく者、それらが無秩序に入り乱れていた。耳が痛くなるような喧騒も押し寄せてくる。
あまりに異質な光景に目を奪われ、しばらく身動きが取れなかった。これほどまでに人間が集まっていたとは予想外……。
いや、先ほどいた儀式の部屋と合わせて考えると、想像できたはずだ。
きっと今日は人間たちにとって重大な式典か祭事の日なのだろう。なるほど、俺の世界での収穫祭の雰囲気にどことなく似ている。魔人族の貴族一同が魔王の宮殿に集まると、大体こんな無秩序で雑踏な雰囲気になる。
……ということは、まさかこの建物は人間たちの王の宮殿か! 確か人間たちの王は帝、その宮殿は御所と呼ばれていると、ご先祖様の記録にあった。それなら、これだけたくさん集まった人間、儀式の間、広大な敷地、全て辻褄が合う。
ならば、あとはこの建物のどこかにいる帝を倒すなり、屈服させてしまえば……。
と、ここで人間たちの様子がおかしいことに気付いた。
先ほどまで右へ左へと歩いていた人間たちが足を止め、じっと俺の方を見ているではないか。そして皆一様に、儀式の間で会った女性と同様、驚いたような表情を浮かべていたのだ。
人間たちの変化に一瞬戸惑ったが、すぐに合点がいった。
皆、俺の体から発せられる魔人族の中で最も偉大なファテルベルク家の威厳を感じ取り、屈服したに違いない。
異世界征服完了!
ある程度の長期戦は覚悟していたのに、まさか一日、いや一時間もかからなかったなんて!
やりました、おばあさま。あなたの可愛い孫にして次期当主、レノン=ファテルベルクが家を見事に再興してみせました!
愛しのアンベルカ。お兄ちゃんはすぐお前のもとへ帰れるよ。そうしたら一緒にまたお人形遊びしようね!
そのとき、達成感に浸る俺を邪魔せんとする、大きな悲鳴が人間の集団の中から発せられた。
人間と深く意思疎通するつもりはなかったので、人間の言葉は最低限しか習得していない。だから女性の叫び声が音として聞き取れても、何を意味しているのか分からなかった。
女性はこう叫んでいた。
「きゃー! ちかんよ!」