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お読みいただきありがとうございます。
ここから第三章です。
昨日は何という失態を犯してしまったのだろう。
よりにもよって、聡美にあんな恥ずかしい姿を見られるなんて。電車賃が無くなって途方に暮れていたところを……いや、あのときは泣いてない、決して泣いていないぞ。確かに視界は霞んでいたけど、零れてはいないからセーフだ。
——強くあらねばならない。絶対に泣くものか……。
そう、少し取り乱しただけだ。
だが、これでは、将来の帝王として従者や臣民どもに示しがつかない。これからはもっと気を引き締めていかないと。
それにしても、こっちの世界に来てから初日で清治と聡美の親子が俺の従者となり、昨日も一人、蒼馬が下僕となった。魔法がまともに使えない悪条件下で、世界征服に向けて順調に滑り出していると言えるのではないか。早くこの成果をおばあさまにお伝えしたいものだ。
さて、今日も一日、世界征服を目指して頑張っていこう!
「レノンくんおはよう、……目の下に隈があるけど寝不足かい?」
すっかり見慣れた『犬小屋』のダイニングルームで、清治が声をかけてきた。
「問題ない、気にするな」
昨日の駅での失態を聡美に見られたのが恥ずかしくて、ほとんど寝られなかった、なんて口が裂けても言えない。
話題を逸らそうと、いつもと雰囲気の違う格好をした清治に質問した。
「それにしても筆頭従者よ。その格好は何だ?」
「狩衣だよ。……今日は朝から地鎮祭に呼ばれて。こっちが一応僕の本職だから」
と答え、清治は両手を広げてみせた。普段着ているよれよれのカッターシャツだと、ただのくたびれた中年親父にしか見えないが、真っ白な着物のような格好だと少しだけ凛々しさが感じられた。
「なかなか格好良いな」
「ありがとう、レノンくんもその格好似合っているよ」
「……そうか?」俺は、自身が着ている真新しい長袖の白いカッターシャツ、灰色のズボンを見た。「ズボンはともかく、上は無防備じゃないか?」
昨日、清治が服を大量に仕入れてきたのだ。その中に高校の夏服もあった。上着もなくカッターシャツだけだと、何だろう、少し恥ずかしい。
「でもそっちの方が涼しいでしょ。それに、レノンくんが初日から着ていたあのボロい服、ずっと着続けるわけにはいかないでしょ?」
「ボロいとは無礼な。ファテルベルク家に代々伝わる軍服だぞ。二千年前の統一戦争のときにご先祖様はこの軍服を着て戦い、敵総大将の首を打ち取ったのだ。それに、清治のカッターシャツに比べればずっとマシだ」
「それは……否定できないね」
「それに、戦時体制下では常に軍服を着用しているのは当然だろう」
俺にとって、別世界にいることは戦争状態と同じなのだ。
「戦時下ね……。でもだからといってずっと同じものを着ていたら、臭くなるよ」
「……それは、まあ」
清治とそんなやり取りをしているところへ、廊下から聡美が姿を現した。
「ちょっとレノン、まだ朝ご飯食べてないじゃない。学校遅れるからさっさとしてよ」
ダイニングルームにやってくるなり、いきなり俺に向かって文句を言ってきやがった。しかも俺のことを呼び捨てだと、偉くなったものだな。
「うるさい奴だ。俺に指図するつもりか?」
「さっさと食べて」
恐ろしい形相で聡美に睨まれ、俺は言葉が続かなかった。しかたなくテーブルの前に座る。
蒼馬の感動的なまでの従僕さと比べて、なんと口答えの多い奴だ。蒼馬の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。
服装を正しながら、清治が聡美に声をかけた。
「……聡美、今日お父さん地域の会合だから夕食は要らない。……それより、レノンくんが、神主の仕事に興味があるって」
仕事に興味があるとまでは言っていない、興味深い格好だと言っただけだ。俺はパン——なんて柔らかい!——をかじりながら、心の中で突っ込みを入れた。
聡美は清治の顔を見ないまま「あっそう……」と素っ気ない返事をした。二つの弁当箱をそれぞれ布袋に入れて、一つを自分の鞄に、もう一つを俺の前に差し出してきた。
「お弁当、今日は忘れずに渡しておくから。……食べた? 学校行くよ」
「おいおい、食べ始めたばかりだぞ」俺はテーブルに置かれたパンの切れ端と目玉焼きを指差した。「一日の始まりである朝食は、朝露に濡れる草木が陽に照らされて輝く様を遠くに愛でながら、ゆったりと心を落ち着かせて食べるものだろうが、と昨日も言ったはずだが」
「アンタはヴィクトリア朝の英国貴族か?」
「英国ではないが、貴族だ」
聡美は一瞬ひるんだような表情を見せたが、すぐに言い返してきた。「……と、とにかく、そんな生活を送りたかったらもっと早く起きてよ。日本の高校生には朝食をゆっくり食べる時間なんてないんだから、って昨日も言ったはずだけど」
「……ったく、忙しい世界だな、ここは」
俺は大急ぎで——と言っても聡美にはまだ不満らしい、目元が怒っていた——、パンと目玉焼きを口に運び、冷めた紅茶を飲み干した。そのまま弁当箱を掴んで、聡美に続いてダイニングルームを出た。
「いやあ、ますます仲が良くなって、お父さん嬉しいなあ」
と、背後から清治の独り言が聞こえた。
今日も満員電車にフラフラになりながら、なんとか学校に辿り着くと、机に職員室へ来いと書かれた置き手紙があった。
「俺を呼び出すとは良い身分だな、水澤よ。用事があるのならお前が俺のもとに来るのが筋だろう」
昨日初めて学校へ来た時にも座った応接席で、水澤と顔を合わせるなり、俺は言ってやった。
「先生の言うことはちゃんと聞くものだ」
水澤は昨日と同じ爽やか笑顔を全面に押し出してきた。白い歯がキラリと光ったような錯覚がした。
「どうでもいい、さっさと用件を言え」
何故だろう、朝っぱらから水澤の顔を見ていると無性に腹立たしくなってくる。さっさと用事を済ませてここから出ていきたかった。
「レノン、昨日、須賀を押し倒したらしいな。……昨日、須賀たちが顔面蒼白になって訴えてきたぞ」
「……はっ、はあ?」
須賀って、昨日俺の大切な下僕をイジメていた、あのイケメン野郎か。
「おいおい、あれは……あっちが勝手に転んだ……」
俺の魔法は須賀の前髪をほんの少し焦がしただけで、そのあと尻餅を付いたのは、肝っ玉の小さいアイツがビビっただけだろ。
「須賀は、お前が突然、ライターと木刀で脅してきたと言っているぞ」
「いや、待て、俺はそんなこと……」
「それから、首を絞められ押し倒されたって……」
「おい、こっちの話を聞け!」
「レノン、男が言い訳なんて見苦しいぞ。学校初日から問題を起こすなんて、だから留学生は……」
ダメだこりゃ、と俺は頭を抱えた。
水澤に小言を言わせるため、須賀があることないことを吹き込んだのだろう。
俺が気に入らないのなら、直接俺に挑めばいいものを。貴族の誇りに賭けて、売られた決闘は逃げも隠れもしない。それなのに、安易に権力に頼ろうとするとは陰湿な奴だ。
それ以上に気に食わないのは水澤だ。仮にも教師という権力を行使する側が、公平性を欠如するとは最低最悪。
水澤をこの場で木っ端微塵に吹き飛ばしてやりたい。それが叶わないなら、せめて一発顔面に……。
ふと、清治や聡美の顔が思い浮かんだ。
……。
握りしめた拳から力を抜いた。
そんなことをしても何の益もないじゃないか。今は野望実現に向けて耐え忍ぶ時期だ。しかし、俺がこの世界を征服した暁には、いの一番にこういった連中をまとめて葬り去ってやる。
「……で、本来なら警察に連絡しないといけないところだけど、幸い須賀に大した怪我はないし、本人も大事にしたくないって言ってたし、今回は反省文だけで許してやるから。……これからはちゃんと真面目に生活するんだぞ」
「……話はそれだけか?」
俺は立ち上がると、白い歯を見せたまま唖然とする水澤を残して、職員室をあとにした。
職員室前の廊下には、なんと聡美が立っていた。
「大丈夫? なんか怒られていたみたいだけど、須賀くんと何かあったの?」
「大したことではない。あいつが俺の下僕に手を出していたから、報復に少し脅してやったら、根に持ったらしい。あることないこと含めて水澤に吹き込んだようだ」
俺の説明に、聡美はポケットから失くしたはずの小銭を発見したかのように目を見開いた。「……本当だったんだ?」
「……何が『本当だったんだ』だ?」
「べ、別に」聡美は大きく頭を振った。「……先生に言われたこと、あんまり気にしなくてもいいよ。水澤先生、本人は熱血教師のつもりみたいだけど、偉い先生や声の大きい生徒たちの顔色をいつも窺っているって、皆知ってるから」
「どこの世界でも普遍的だな。必ずしも間違っているとは言わないが、アイツは露骨すぎる。……ところで妾よ。どうしてお前はここにいるんだ?」
「あっいや、そのう……。それは……」
聡美の歯切れが悪い。
「……まさか、この俺を心配して来たのか!」
自分の閃きに俺自身が驚いて、一歩後ずさった。
「馬鹿! どこまで自信過剰なの? ……あたしはただ、アンタが職員室で暴れ出さないか心配して……」聡美はぷいっとそっぽを向いた。「何でもない。もう教室行くから」
聡美は踵を返して、ドスドスと足を踏み鳴らして廊下を歩いていった。
——なんだ、これは一体なんなのだ?
思えば今日の朝から聡美の様子がおかしい。昨日の昼間は俺を無視して一言たりとも話したくないような態度だったのに、今日は過剰なくらい俺を気にかけてくる。
何故だ?
ようやく俺の高貴さに感服して、従者としての心構えが出来たのだろうか?
それとも……、やはり昨日の夜のことか?
背筋が震えた。
まずいな、もっと俺の偉大さを強く示していかないと、ますます聡美たちに舐められてしまう。
もっと威厳を持って接しよう、そう心に誓った。




