2-4
長かった昼休みも終わり、始まった午後の授業。
蒸し暑い中、グラウンドでボールを蹴り合う体育という授業は欠席し——体操着などという締まりのない格好で体を動かすなどまっぴらご免だし、そもそも体操着自体持っていなかった——、古典という授業はこれまた意味不明な呪文を唱えさせられた。
こうして、学校での一日目が終わった。夕方のホームルームで、水澤が「明日も頑張れよ」とだけ言い残して教室を去っていくと、生徒たちは一斉に席から立ち上がり、昼休みのときのように騒がしくなる。
俺はこれからどうすれば良いのだ?
帰れば良いのか、それともまだイベントがあるのか?
教えてくれる者は誰もいない。グループで集まる者もいれば、さっさと教室をあとにする者もいた。まるで俺など存在しないかのように。
ここはやはり聡美に聞いてみるか。
俺は髪の長い女生徒と一緒に教室を出ていこうとする聡美を呼び止めた。
「おい、これから俺はどうすれば良いんだ?」
聡美が振り返る。昼休みのときと同様、露骨に不快そうな表情をこちらへ向けてきた。そして、
「勝手にすれば」と一言。
「勝手にすればって、……あんまりだろ」
「学校に残りたければ残れば良いし、帰りたければ帰れば良いし、……家と学校の道は覚えたでしょ?」
「馬鹿にするな。俺の頭脳を以てすれば、一度通った道は二度と忘れん」
「なら好きに帰れば? あたしこれから生徒会の仕事があるから。……じゃあさようなら、留学生くん」
と言って、俺が呼び止めるのを無視して、聡美は入り口で待っていた女生徒と一緒に、教室を出ていってしまった。
主人の世話よりも別の仕事を優先させるとは生意気な!
教室内を見渡すと、半分ぐらいの生徒たちは既に教室からいなくなっていて、残り半分ぐらいの生徒たちは複数のグループを作り始めていた。
こいつらまた集まってメシでも食うのか? と最初は考えたが、しかし弁当箱は見当たらなかった。気になって、教室の隅から彼らの様子を窺う。
男女混合のあるグループは机に何冊も雑誌を広げ、ああだこうだと話し合い、やたら眼鏡率の高い男だけの別グループはハサミで紙を切ったり、切った紙を糊で貼付けたりしている。
集団で作業をしている彼らの行動に興味がそそられた。俺の世界の学園じゃ見慣れない光景だ。そこで一番近い場所にいた、ハサミで紙を切っているグループに近づいて、声をかけてみた。
「おい」
「……」
反応はなかった。皆黙々と紙を切っている。
作業に集中していて聞こえていないだけかもしれない。さっきよりも大きな声で話しかけた。
「おい、お前たち。何をしている?」
「……」
しかし返事はない。チョキチョキと厚紙を切る音がリズミカルに響く。
奴らは耳栓でもしているのだろうか? このグループから話を聞くことはあとにして、今度は雑誌を真ん中にして膝を突き合わせているグループに近づいた。
「……どっちが良い?」「やっぱりこっちの方が簡単じゃない……」
彼らは雑誌に載っている絵を指差しながら、熱心に何かを話し合っている。こっちなら確実に俺の声も届くだろう。
「おい、何の話をしている?」
「……外身は良いとして、中はどうするの?」「それに色も……」
途切れることなく、彼らの議論は続いている。
ここに来て、俺はとうとう一つの結論に達した。
——間違いない! こいつら俺を無視している!
ゆっくりと後ずさりして、グループの輪から距離を取った。
さて、どんな方法でこいつらに怒りの鉄槌を下してやろうか。光り輝くファテルベルク家の次期当主たるこの俺を敬わないどころか、あまつさえ無視するという愚行を、その血を以て贖え!
左手で巻貝のイヤリングを握りしめ、右手をグループの輪の中心に向けて伸ばし、狙いを定める。
「……」
——帰るか。
イヤリングから手を離した。
下等種である人間どもの浅はかな行為に対して、いちいち腹を立てていたらこっちの身が持たない。きっと奴らは俺がこの世界を征服するのを恐れて、僅かばかりな抵抗を試みているのだろう。将来の王としては、過ちを無理に咎めず、じっと耐え、彼らの成長を暖かく見守ってやる必要もあるだろう。溢れ出る俺の存在感をそういつまでも無視できまい。じきに崇拝の念で俺を見上げることになるはずだ。
静かに教室を出て、放課後の廊下を進む。周囲をよく見ると、別の教室ではひたすら新聞紙を丸め続けている集団がいたり、校庭の隅に集まって木板を切っている集団がいたりした。この学校で近々何かの儀式があってその準備だろうか?
ここでようやく理解できた。
そうか、俺がこの学校へ降臨したことを祝して、盛大な宴が開かれるのか! なら、俺を驚かせようと内緒にしたがるのも無理はない。可愛い奴らじゃないか!
邪魔するのも悪い、やはりこのまま帰るとしよう。お前たちの心のこもったもてなしを期待しているぞ。はっはっはっはっ……、
……はぁ。
今日一日この学校で何か得るものがあっただろうか? 時間を無駄にしただけじゃないのか?
——どうして異世界まで来て同じ目に遭わなければならないのだ、俺の世界でも受けてきた屈辱を……。
色々考えている間に、うっかり昇降口を通り過ぎてしまっていた。
来た廊下を引き返そうとしたとき、
「……ん?」
俺は足を止めた。
廊下の一番奥、階段の陰になっているところから、微かに複数の話声が聞こえてくる。
「……いいからちょっと貸せよ」「……えっと、その」「ったく、のろのろしてんじゃねえよ」
足音を立てないようにゆっくりと声がする方へ近づき、こっそりと陰から様子を覗き見た。
そこには四人の男子生徒がいた。一番奥に一人、それと向かい合うように三人。三人組の中央に立っている人間は見覚えがあった。須賀とかいう、今日の朝、俺に対して馴れ馴れしい態度で接してきた身の程知らずだ。残りの連中は知らない。
三人組の一人がノートを掲げていた。そのノートに向かって、奥にいた男が必死になって手を伸ばして掴もうとしているが、残念なことに身長が足りないようだ。
「……返してよ、ぼくのノート!」
小柄な男が顔を真っ赤にして叫んでいた。
「そんなこと言うなよ、お前の研究ノート、俺にも見せてくれよ」
と、ノートを掲げた男が言うと、三人組がゲラゲラと下品な笑い声を出した。
何が面白いのだ? 俺は首を傾げた。人間の笑いのツボはよく分からん。
一番奥の背の低い男は目に涙を浮かべ、顔はますます赤くなっていく。
ああ、とようやく悟った。
イジメ。
やはり人間の世界にでもあるのだな。世界が変われど、どこも一緒のようだ。
「止めてよ」
背の低い男の声がしたとき、ふと俺の世界の学園での出来事が頭によぎった。
……また嫌なことを思い出してしまった。本当に今日は不快なことばかりだ。
自然と体が動き出した。
三人組の前に現れた俺の姿を見て、彼らはぎょっとした表情を見せた。
「な、何だアイツ? 変な格好だな」
三人組の一人が言った。
「今日来たばかりの留学生さ。格好を見ても分かるように、ちょっと残念な奴だよ」
須賀のこの言葉に、俺は自分の血管が切れる音が聞こえた。
「おい貴様ら。覚悟はできているだろうな。俺を侮辱した罪、それ相応の対価を払ってもらうぞ」
三人組は一瞬怯んだようだが、すぐに須賀が一歩俺に近づいた。朝、俺のところから去っていったときに見せたような、残忍さを含んだ表情をしていた。
「何のつもりだ。この俺に楯突こうって言うのか。……そんなことしたら、楽しい留学生活は送れなくなるぜ」
「それはこっちの台詞だ、下等な人間め」俺は一方の手で巻貝のイヤリングを摘み、もう一方の手を須賀に向け、炎の呪文を唱えた。「太古より我らと歩みし炎の精霊よ、今ひとたび我に力を貸さん。こいつらを焼き尽くせ!」
俺の掌から、黒い煙と豆粒ほどの小さな火玉が現れた。そして火粒はふらつきながらも須賀の顔へ向かっていき、奴の茶色い前髪をほんの少しチリリと黒く焦がしただけで消滅した。
ここでようやく俺は我に返った。
しまった! こんなヘボい威力じゃ須賀へのダメージはゼロ! ……相手が所詮ひ弱な人間で、俺が優良な魔人族といえども、三対一では勝つのは厳しい。まさかの返り討ち!
「ひっ、ひえぇー」
逆襲を覚悟して思わず目をつぶった俺の耳に弱々しい悲鳴が聞こえた。恐る恐る目を開けると、須賀が尻餅をついて、両手両足をガクガクと震わせていたのだ。
——あれ?
「こ、こ、こいつ。今、な、何をした……、突然火が飛んできたぞ」
な、何をしたって……あっ!
まずい、カスみたいな威力とはいえ魔法を使ってしまった。俺が魔人族で、こっちの世界の存在ではないことに気付かれてしまう!
「大丈夫か、須賀?」須賀の共連れの一人が須賀の肩を支えた。「……しっかりしろ、何かの手品だろ、ただのこけ脅しだ」
「そうそう、……くすっ」
もう一人が須賀を見て、笑いを堪えるように口を押さえた。
「おい、笑うな!」須賀が睨みつけた。
「わ、悪い……」
「くそっ、俺に歯向かうなんてふざけた奴だ、覚えてろ。……おいお前たち、行くぞ」
須賀は俺を恨めしそうに睨みつけながら、前髪を押さえつつ、二人の男を引き連れて去っていった。
……なんだかよく分からないが、奴らは勝手に納得したようだった。それにしても豆粒みたいな火を見ただけであれほど驚くなんて、須賀という男、態度だけで案外大したことないんじゃないか?
この一日感じていた苛立ちが晴れたような晴れないような、なんだか微妙な気分だった。
「た、助けてくれて、ありがとう」
須賀たちにイジメられていた小柄な男が近づいてきた。いかにもひ弱そうな男は三人組が落としていったノートを両手で強く握りしめたまま、頭を下げてきた。
「別にお前を助けたわけではない。ただ、あいつらに腹を立てただけだ」
と言って、男の脇を通り過ぎようとしたら、腕を掴まれた。
「はっ、離せ。男とべたべたする趣味はない。どうせならアンのように可愛い女の子と……っ!」
腕を振り払おうとしながら男の顔を見て、言葉を失った。さっきまでの泣きそうだった表情から一変、男の目はまるで獲物を見つけたかのようにキラキラと輝いていたのだ。
嫌な予感がした。
「ねえねえ、さっきの凄かったよね。……やっぱり君もこっち側の人間?」
こっち側、だと? どういうことだ。この男、俺の何を知っている?
「な、何のことだ?」
「こっち側はこっち側だよ。魔法……」
ぞくりと寒気がして、鳥肌が立った。
——バ、バレた?
ちょっとした怒りで我を忘れた自分の軽率さを呪う。しかし面倒事を起こさないためには、なんとか誤摩化しておかないと。
「いや、お前の思っているようなことは何一つ正しくない。全て妄想だ」
男の顔が一瞬曇ったように見えたが、すぐに真剣な眼差しで俺を見返してきた。
「そんなことない。ぼくには分かるよ」
……この男、ただ者ではない。さっきの三人組は勝手に納得してくれたが、真の強敵はこのひ弱な男だったようだ。
誤摩化しきれるか? いや無理だろう。自分の身が危機に陥っているという極限状況下での冷静な分析。この男、こっちの世界でも有数の軍師か知略家に違いない。ここでじたばたするだけ俺が惨めになるだけだ。そもそも俺の事情を内緒にしてくれと言ってきたのは清治の都合によるものだ。主人が必ずしも従者の言葉に従う必要はない。
相手が下等な人間とはいえ、ここは素直に男の慧眼を認め、讃えてやるのが貴族としてのあるべき姿だろう。
俺は背筋を伸ばし、男を見下ろした。
「そこまで食いつかれたらしようがない、認めよう。……本当は、俺はこっちの世界の存在ではない、別の世界から来た魔人族だ。我がファテルベルク家のかつての栄光を取り戻すために、この世界を征服しに来たのだ」
「やっぱりそうだったんだ」少年の双眸が見開かれる。「こっち側の人間……ごめん、こっち側の存在だったんだね。異世界の魔人族、そういう設定なんだね」
「……せ、設定?」
何だ、設定って? と目を瞬かせた。
「うん。それにさっきのも凄かったよね、火が出てきた魔法に似せた手品……」
「いや、あれは本当に魔法……」
「も、そうだけど、その前の口上に感動したよ」
そっちかい! あれは魔力増幅器を起動するただの合い言葉なのだけど。
「やっぱりキャラがぶれてないと迫力が違うよね。ぼくなんて色々調べているんだけどキャラがブレブレで。今は、未来兵器を駆使して悪の地底帝国と戦う、古代陰陽師の生まれ変わり、なんだけど、どうも今一つなんだよね」
「はぁ……」
まったく意味が分からない。
どうやら、この男もさっきの三人組とは違う意味で都合良く勘違いをしているらしい。……面倒だから訂正する気も起こらないが。
「ねえねえ」と、少年が更にすり寄ってきた。「どうすればそんなに格好良いキャラになれるの? ぼく、君のように格好良くなりたいんだ!」
話が変な方へ向かっていないか?
しかし悪くない。高位な存在である魔人族である俺に対して、崇拝する人間の構図。これだ、これこそ俺がこっちの世界に来てずっと理想としていた関係だ。清治にしろ、聡美にしろ、俺の従者になると言っておきながら、どこかで俺を敬っていない雰囲気が感じられる。それに比べて、見よ、この男の純粋にまでに俺への心酔っぷり。彼こそ俺の真の腹心となるに相応しい。
俺はしばらく思案したような振りをして、威厳たっぷりに言ってやった。
「良いだろう、お前さえ良ければ俺の下僕にしてやる」
少年は純朴な子犬のように頭を上下させた。
「なるなる、下僕になる!」
素晴らしい従属心。気に入った! 俺の下僕に相応しい存在へと育ててやる。
「よし下僕。俺の名前はレノン=ファテルベルクだ」
「ぼくの名前は浜谷蒼馬。レノンくんのことは知ってる、今日来た留学生でしょ。……同じクラスだから」
今日一日の出来事を思い返してみる。……こいつの顔はまったく記憶になかった。まあいいか。
「俺のことはレノンくん、などと馴れ馴れしく呼ぶな。主従の関係で名前を呼び合うなど言語道断。俺の世界では、名前を呼んで良いのは家族か本当に親しい間柄だけだ。お前は俺の下僕らしく、ご主人様と呼べ」
「わかったよ、ご主人様! 本当は、今日の朝のホームルームの挨拶を聞いたときから、ずっと一度話してみたいと思っていたんだ」
やはり今日の俺の演説で心動かされた奴がいたのだ! 心底俺を崇拝していることを感じさせる、この威勢の良い返事。素晴らしい、実に素晴らしい! これぞ下僕の鑑だ。ますます気に入った。
「では下僕、俺は世界征服の下準備として、これから学校周辺を散策しようと思っている。案内しろ」
「学校を魔の結界で覆って、邪神を呼び出す下準備をするんだよね、もちろん協力するよ!」
邪神? 結界? そんな魔法は知らないが、適当に頷いておいた。「まっ……そんなところだ。出来れば旨い物が食える所へ連れて行ってくれるとなお良い」
「分かった。じゃあぼく鞄取ってくるから、昇降口で待ってて」
そう言い残して、蒼馬は足早に去っていった。
彼の後ろ姿を見ながら、遂に世界征服の大いなる第一歩を踏み出したのだ、と満足げに頷いた。




