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異世界を征服しなければならない、とおばあさまは言った。
俺たちが住む世界の支配階級である魔人族、その中で最も高貴な家柄であるファテルベルク家。そのご先祖様たちはかつて何百万もの軍勢を指揮し、幾多の戦場で数えきれないほどの武勲を積み重ね、名声をほしいままにしていた。その威光は他の貴族たちを圧倒し、魔人族の全てを統べる魔王ですら、ファテルベルク家の顔色を窺っていたほどだ。ファテルベルク家の歴代当主は、周囲から、影の支配者あるいは真の主君などと呼ばれていた。
それが今はどうだろう。かつての栄華は過去のものとなり、今日生きるのも必死な状態に成り果ててしまった。
星の数ほどあった広大な領土はすっかり失われ、建築当時、陽光を浴びて眩しく輝く様から白銀城とも呼ばれた居城の壁は黒く煤け、干からびたツタで覆われている。見渡す限り広がる庭も、名工たちに腕を競わせ作らせた数々の彫刻は苔生し朽ち果て、雑草も伸び放題となっていた。そして、最盛期は千人以上いた使用人も今では先々代から仕えている老使い魔夫婦一組だけ、という有り様だ。
ファテルベルク家が没落していった経緯について多くは語らない。ごく簡単に言ってしまえば、戦上手が幅を利かせる時代から、経済感覚がモノをいう時代に変わってしまったのだ。武門のファテルベルク家に代わり、資産運用に成功した新興貴族や、成り上がりの豪商どもが、我が物顔で現在の魔人族社交界を牛耳っている。
しかし、どれだけ時代が移り変わろうとも、魔人族最高位の家柄だという誇りを決して失うわけにはいかない。
取り戻せ、かつての栄光を!
我々を時代遅れの懐古趣味者だと蔑む青二才な新興貴族連中に、ファテルベルク家こそ名実ともに最高の貴族であることを示すのだ。
そんな思いで長年にわたりファテルベルク家の復興に尽力してきたおばあさまが辿りついた結論が異世界征服だ。
魔人族が住む世界は、必ずしも安定した状態とは言えないが、久しく戦はなく、手柄を立てて領土を拡大することは難しい。——もっとも、仮に戦があったとしても、最低限の軍役すら賄えるか怪しい今の状況では、とても武勲を上げられそうにないが。
しかし、ここで視点を大きく広げてみよう。俺たちが住む世界以外にも無数の異世界が存在している。その中の一つを丸々ファテルベルク家の領土にしてしまえば、どんな貴族よりも莫大な財産を手に入れ、名実ともに魔人族最高位に返り咲くことができる。要は、今の状況ではこれ以上分子を大きくできない、であるならば分母自体を大きくしてしまえ、ということだ。
問題はどの世界を征服対象とすべきか、だ。異世界と一言で言っても、数多の英雄たちが群雄割拠して日夜戦いに明け暮れる戦乱の世界や、漆黒の闇に閉ざされた無の世界といった、魔人族の力を以てしても征服が難しかったり、そもそも征服する価値がなかったりする世界もあれば、食料も資源も豊富に存在しているにもかかわらず、最低限の魔法すら使用できない劣等生物が支配している世界もある。
おばあさまの血の滲む努力により、遂に征服すべき世界が見つかった。その世界にはずっと昔、俺たちのご先祖様が何度か訪れていて比較的情報が残っていた。記録によると、その異世界の支配層は人間と呼ばれる存在だという。魔人族と姿形はそっくりだが、似ているのはそこだけで、魔法が使えなければ力も強くない。それに、住処も藁と木と泥でできたみすぼらしいもので、知性も高くないらしい。
そんな下等な生物どもを屈服させることなど、高位な存在たる魔人族ならば、赤ん坊を相手にするよりも簡単だ。
異世界征服は叶ったも同然、ファテルベルク家復活の日は近い!
以上の、おばあさまの熱のこもった異世界征服計画の説明に、俺はすっかり心を奪われてしまった。
だから、おばあさまが異世界征服の役目を俺に命じたとき、興奮で心の底から打ち震えた。
ファテルベルクの家名を上げることこそ、次期当主として何よりも尽力しなければならない。小さい頃からずっとおばあさまに教えられてきた使命を果たすときが遂に来たのだ。これまでに、どん底まで失墜したファテルベルク家の威信のせいでどれだけ辛い目にあわされてきたことか。だがそれも終わりだ。見ていろよ、さんざん俺を馬鹿にしてきた連中ども。すぐに俺の足下に跪かせてやる!
おばあさまの特命を受けてから数日後、異世界へ出発する日がやってきた。
ファテルベルク家居城の地下、長年使用されることなく埃に埋もれていた一室、ここに異世界へ渡るための装置が眠っていた。
俺の目の前に、月夜に照らされたレースのカーテンのように淡く輝く光のもやが漂っている。これこそ、異世界転移装置『トリイ』だった。
幻想的な光のもやを前にして、俺は身震いせずにはいられなかった。
この向こう側に、まだ見ぬ異世界が広がっているのだ。かつて俺のご先祖様たちもこの装置を使って様々な世界を見聞していたという長い歴史への感慨、俺の双肩にファテルベルク家の未来がかかっているという重責、それともう一つ、装置を動かすのが久し振りということで、まともに動くのか? という一抹の不安だった。
もやの前で逡巡していると、背後から厳しい声を浴びせかけられた。
「何をしている、レノン! さっさと行きな」
振り返ると、おばあさまが俺を睨みつけていた。イラついたような様子に体がすくみあがった。
「こ、この『トリイ』ってやつ、本当に使えるんですよね?」
恐る恐る尋ねると、杖を握りしめたおばあさまの細い腕が小刻みに震えた。
「い、いえ。何でもないです」
俺は大慌てで頭を振った。
おばあさまの前で怖じ気づいた素振りを見せるわけにはいかない。ずっとおばあさまに育てられてきた俺には、彼女の恐ろしさが嫌というほど身に染みている。なにせ、魔王ですら、機嫌が悪いおばあさまの姿を見た瞬間、恐怖で身動きが取れなくなると言われているくらいなのだ。弱気な一面を見せたら、すぐさま「ファテルベルク家の次期当主たるものが何たる態度か!」などと叫んで、先が黒ずんだあの杖で何度も叩かれてしまう! おばあさまに怒られるくらいなら、巨大生物が闊歩する異世界でサバイバル生活を送った方がマシだ。
大急ぎで『トリイ』に向かおうとしたところ、おばあさまの脇にいた、この世界で最も愛する存在、妹のアンベルカが俺を呼び止めた。
「お兄さま……」
その声に、すかさず俺はアンベルカの方へ振り返った。アンの声を聞いただけで、嬉しさで目尻も口角も垂れ下がりそうになるが、おばあさまの前でそんな表情を見せたら火炙りにされかねないので、ぐっと我慢した。
「お体は大丈夫なのですか? 昨日は体調を崩されていたのでしょう。出発を延期されては?」
アンは不安げな表情で俺を見上げていた。
俺はアンに近寄ると、その小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫だよアン。母上から薬を貰ったから。くしゃみも止まって、熱も下がって、もう元気一杯さ」
異世界征服にあまりに興奮したせいか、昨日流行病にかかってしまったのだ。幸い母上が薬を蓄えていて、大事に至らなかった。母上には遠足へ行く前の子供みたい、と笑われてしまった。……恥ずかしい。
「ファテルベルク家の男なら、病気なんて気合いで直せ。一分一秒でも惜しい。レノン、休んでいる暇はないぞ」
と言って、苛立たしげにアンと俺を見つめるおばあさまは、とにかく気性が荒く、自分自身にも厳しいが、子供にも孫にも容赦がない。ファテルベルク家を強くしようとする故なのだろうけど、俺はともかく、おっとりした性格のアンは、おばあさまに睨まれただけで、息をすることも忘れてしまうほど緊張するのだ。俺がいない間アンがしっかりやっていけるか、それだけが心配だ。さっさと異世界を征服して戻ってこないと。
「じゃ、行くよ」
俺はアンから体を離した。
「お兄さま。お気をつけて。……早く帰ってきてくださいね」
目に涙を溜めたアンの顔に胸がかきむしられる思いがした。至上の歓喜へ誘ってくれるアンの姿を見られなくなるなんて、世界が闇に閉ざされるに等しい。しかし、ファテルベルク家のため、ここは耐えなければならないのだ。
「さっさと異世界を征服して、すぐに帰ってくるさ。それまでおばあさまのこと、母上のこと。よろしく頼むぞ」
半泣きの表情のままこくりと頷く妹の姿に、今すぐ「やっぱりまだ体調悪いから」と、旅の延期を進言したくなったけど、視界の隅におばあさまの苦々しげな表情が見えて、すぐに諦めた。
俺は『トリイ』を背にして、改めておばあさまとアンを見た。
地下室に俺を見送りにきたのは二人だけだ。体調がすぐれない母上とは一足先に寝室で挨拶をした。あとは……。
——やっぱり姿を見せないか。
親父は結局最後まで姿を見せなかった。
ファテルベルク家の実権を握っているのはおばあさまだけど、本来であれば、形だけとはいえ現当主たる親父こそ異世界征服に率先して乗り出さなければならないものを、あろうことか、親父は異世界征服計画に反対していた。それ故、おばあさまは次期当主である俺に異世界に行くよう命令したのだ。
別にいいさ、名誉と剛気を忘れたファテルベルク家の面汚しなんかに見送られなくても。
弱腰の親父に代わって、俺がおばあさまの、いや、ファテルベルク家の悲願を必ずや達成してみせる!
どうかおばあさま、異世界での俺の働きを期待していてください。
そしてアンベルカ、兄の活躍を祈ってくれ。
「では、行って参ります」
と言って、『トリイ』へ向き直る。淡く光るもやが手招きするようにうごめいていた。
これから踏み出す一歩はファテルベルク家再興へ向けた、希望と栄光への第一歩なのだ。
この先の異世界にいる連中は所詮野蛮人、恐れることなどなにもない。
俺は覚悟を決めて、もやに向かって飛び込んだ。