柊塾一期生同窓会
「菅さん、旗色悪いですね。勝てるのでしょうか」
恵子は、第一回の裁判で、訴えの内容を証明する手ごたえを感じなかったことで不安になった。
支店長室で恵子と正太郎、伊達の三人は裁判の後、今後について話し合うべく集まっていた。
「葵の顧問弁護士にも、うるさく言われましたよ。勝てる見込みのない裁判を起こしたって。いやー参った」
「正太郎。ふざけてる場合じゃないだろう。俺も知ってる限りの裁判では、最低の滑り出しだ。訴状を読んだだけで、まるで何も証明できていないんだぞ」
伊達は、もと警視正であっても法曹学生時代、裁判の傍聴によく行っていたため、判例をよく知っていた。
「ところで、伊達。他県で発見された鵜飼課長と思しき遺体だが、本当に鵜飼か?」
「間違いない。露天風呂で発見されたが、石鹸か何かで足を滑らし、転んだ拍子に頭を強打したと見られていて、事故死と判断された」
「他殺の可能性は?」
「わからん。しかしタイミングがな・・・」伊達は腕組みをし、目を閉じた。
「では菅さん、鵜飼課長の証言が得られなくなった今、ますます私たちに不利になったのではないでしょうか」恵子が更に心配した。
「中村支店長。裁判はまだ始まったばかりです、これからですよ。がんばりましょう」
圧倒的に不利な状況でも、正太郎の言葉には、どこか人を安心させる独特の雰囲気があった。ゆっくりとした口調、微笑を湛えた慈愛に満ちた瞳に、法律事務所を訪れる者は、その悩みと苦しみをすべて打ち明けるのである。
伊達の知る正太郎の人柄とは裏腹に、正太郎の法定テクニックそのものは知らなかった。勝訴の確率は六割程度で、敗訴も多々ある。ただ敗訴したときも依頼人は、恨み言をいう者は少なく、逆に感謝をして事務所を後にする姿を何度も見たことがあった。果たして何故依頼人は彼の法律事務所のドアを叩くのか。伊達はこの裁判を通じて、もしかしたら正太郎の弁護士としての真の姿が分かるかもしれないと思うと、今は成り行きを黙って見守ろうと決めた。
「正太郎、厳しいが俺に出来ることがあったら遠慮なく言ってくれ」
「ありがとう。法理の原点による本当の審理がどんなものか見せてやる」
「ところで伊達、このあとちょっと付き合え」正太郎は、伊達を連れ立って葵を後にした。
正太郎と伊達は、西中洲町にある古いバー『ジガー』に来ていた。やや低めの天井からシャンデリアが吊るされ、西洋の酒樽がオブジェとして置いてある。BGMはレコードで鳴らし、ルイ・アームストロングのトランペットが懐かしい。客はまだ入っておらず、バーテンダーのほかに年季の入ったマスターが、新聞を広げて手前のテーブルに座っているが、顔は見えなかった。新聞の向こうからタバコの煙が浮かび上がり、正太郎たちが客として入店してからも不遜な態度丸出しで無視している。
カウンターに座ると「マッカラン12年」と注文し、伊達は「ワイルドターキー」とバーテンダーに言うと、カウンターの端をみて「げ」となった。正面を向いたまま、ウーロン茶を飲んでいるその男の美貌。黒髪は腰まであり、肌は透き通るように白い。真夏だと言うのにそこだけ秋風が吹くような雰囲気があった。本郷法司である。
「やあ。伊達君、久しぶりだ」ゆっくりとこちらを向いた本郷は、正太郎には目もくれず伊達のみを見た。宇宙を思わせる黒瞳には、シャンデリアの光が映っている。
「・・・・・・。その目をやめろ」伊達は苦いものでも食べたような顔になり、明後日のほうを向いて吐き捨てた。
「冷たいな。僕は君の事はひと時も・・・」本郷が思いを告げようとしたかどうかは解らないが、正太郎が割って入った。
「まあまあ、今日は本郷と、不服申立てに関する打ち合わせを兼ねての飲み会だ」
「何?不服申立てだと!?」伊達は、思いもよらない正太郎の言葉に驚きを隠せなかった。現在係争中の民事訴訟が、第一回の審理が終わったばかりなのに、裁判の外で行政への不服申立てを行なうとは、そんなことに何の意味があるのかまったく理解不能だ。
「不服申立ての代理人は、本郷にやってもらう」正太郎はにべもなく言った。
「こうやって伊達君とまた会えた。引受けよう」本郷が静かにうなずく。
「行政の決定のタイミングを測らないとならないが、こっちの一審の棄却判決の直前がいい」
「何!棄却判決だと!?正太郎、お前わざと負ける気か」伊達は驚いてばかりだ。
その時、新たに店のドアが開き、新たな人影が入ってきた。
「今日は、もう一人ゲストを呼んであってね。やあ裁判長」
「どうも。正太郎、あなたの弁護、危なっかしいわねー」
柊美由紀が屈託の無い挨拶をし、正太郎に文句を言った。
「今度の民訴、裁判長は柊だったのか」
「伊達は法廷に来てなかったからな、俺は審理の前に顔を合わせてから驚いた」
「なーんか、めぐり合わせね。私たち四人が絡む事件?何の冗談かしら」
美由紀は、懐かしい同期が揃うことは、プライベート以外では無いと思っていた節がある台詞を言った。「じゃあ、私はカシスソーダ」
「ところで、今度の証人尋問、こっちは鵜飼を申請しているが死んじまってる。どうするんだ」ワイルドターキーをぐいっと飲んで、伊達が正太郎に訊いた。
「ところがね・・・。鵜飼課長が生きていても、死んでいても、出廷していようがしまいが関係ないんだ。このやり方は」
「私は、その話、聞かないことにするわ。曲がりなりにも裁判長やってますからね」
「ああ。じゃあ向こうへ行っててくれ」伊達が、マスターの方へ美由紀を誘導した。
「はーい。おとーさーん」美由紀は、新聞に向かって声を掛けた。
バサリと新聞紙を無造作にたたみ、パイプタバコをブハーと吹かして、自分の娘をじろりと見た。
「なんじゃ!悪ガキどもが揃いおって。悪巧みかー!がはっはっは」美由紀の父は、四人を懐かしく見て嫌味を言って笑った。
「相変わらずだな、柊の親父さん。弟の柊幸介先生とはずいぶんタイプが違う」本郷が亡くなった恩師の名前を口にしたとき、三人の雰囲気がきゅっと引き締まった気配がした。
「では、説明する。筋書きはこうだ」
正太郎は、伊達と本郷に一通り説明すると、二杯目のマッカランを注文した。
「なんて手口だ。しかしそれは・・・」伊達は正太郎の考えを聞いて逡巡した。
「物的証拠がなければ、犯人は裁かれない。この間違った定義はまかり通ってはならない」正太郎は何かに取り憑かれたように呟いた。
「法に触れなければ、何をやっても許されると思っている者は、本能のままに人を傷つける者よりもより悪である」
更に続ける正太郎の口調に、美由紀、その父、伊達、本郷の四人がはっとなり、目を見張った。似ている。叔父に、弟に、恩師に。柊幸介が菅正太郎に乗り移ったような錯覚に陥った。
「善良な人を陥れ、尊い命を奪い去り、自己の利益を優先させる者の末路は、破滅であることを思い知らせてやる。伊達、本郷、力を貸してくれ。美由紀、是非公正な審判を」
「是非もない」三人は、正太郎にかつての恩師を重ねその言葉に、改めて今の自分の責務をまっとうする決心を固めた。
こうして真夏の夜、柊塾一期生の俄かの同窓会は、懐かしい昔話に花が咲き、夜が更けていった。
行政の不服申立てとは、行政庁の処分、その他公権力の行使に当る行為に対し、処分を受けた国民や、結果として不利益をこうむった国民が、行政庁に対して不服を申立てる制度で、裁判ではないが、多くの部分で裁判の手順が準用される。
わが国の裁判は三審制で、第一審、二審は事実を審理する事実審で、第二審は控訴審と言われる。第三審は上告と言い、法律審と呼ばれ、最高法規の憲法に違反するかどうかという点で対審され、事実の認定は行なわれないのが一般的である。
裁判においての第一審は、行政不服申立ては異議申してにあたり、上告審は審査請求にあたる。
異議申しては、処分を行なった行政庁へ直接不服の申立をすることで、審査請求は、異議申しての決定に対して、上級行政庁へ異議を申立てる制度である。
審査は、まず申立人より提出された書面によって、審査庁が審査し決定を出すことになっている。
9月初旬、不服申立ての代理人となった、本郷法司の元に審査庁からの通知が届き、書面の申立ての内容を精査した結果、書面上のみの聴取では判断を憚られる内容を含んでいるため、庁舎へ出頭するよう要請する旨の記載があった。
庁舎を訪れた本郷を、受付けで出迎えた女子職員は、本郷の顔を見て固まり、顔を赤らめた。言葉を失った職員に向けて「案内したまえ」と銀製の鈴の音のような声でというと、ぼうとした職員はふらふらと立ち上がり、本郷を案内した。
「失礼する」本郷はドアをくぐって、黒壇のデスクに座る人物に向かって挨拶した。
「・・・・・。さ、佐藤です」佐藤と名乗る職員は、これも女性だった。本郷の美貌の前を見て、これが本当に弁護士かと思ったが、あまり見つめると目の前に霞がかかり、視界が薄れていく錯覚に陥りそうだったため、気力を振り絞り我に返って、本題を切り出した。
「件の不服申立ての内容は、地下街の7番出口を封鎖するよう鵜飼課長が指示した理由に瑕疵があり、結果として葵デパートが甚大な営業上の損害をこうむったため、指示の撤回と、7番出口の開放を求めたものですが、鵜飼課長はすでに亡くなっています。本人の証言自体が得られない状況です」
「ですが、当該指示は岩島デパートとの利益供与と贈賄による癒着によって、工事の優先順位と、その施工方法をねじまげれられた事は明らかです」
「その証拠が、ホテル岩島で警察によって押収された現金ですね」
「その通りです。鵜飼課長が、収賄の理由として岩島デパートの狙いが葵デパートのへの営業妨害であることを承知していた上では、7番出口封鎖の指示は撤回するに十分な理由です。
「ここに、鵜飼課長の指示は、副市長からの指示でもあった可能性とありますが、これは?」
「鵜飼課長の生前の自供から、浮かび上がったものですが、あくまで可能性です。ただし警察の調書の中での自供ではありませんので、いまのところ事実無根と言わざる得ないが」
「そうですか」佐藤審査員は、本郷と目を合わせずに言った。
「わかりました。これらを踏まえ、決定を行ないます。決定は書面で9月20日までに送付いたします」
「そこなのですが」本郷はすいっと佐藤審査員に詰め寄り、顔を近づけ囁いた。
「実はこちらにも事情がありまして、決定はできれば10月末にして欲しいのです」
「な、なぜですか」本郷の息が掛かるくらいに顔を近づけられた佐藤審査員は、年甲斐もなく心拍が上がり、声を出すのもやっとの体で、振り絞った問いかけだった。
「ちょっとした理由です。お忙しいのでしょう?であればゆっくりと本件を処理なさればよろしい」まるで悪魔の囁きだ。
「ま、前向きに考慮します。いえ、きっとそうします」
「ありがとう」本郷は佐藤審査員の手をぎゅっと握り、満面の笑みで礼を言うと、部屋を後にした。