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地下街7番出口封鎖  作者: 菅 承太郎
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正太郎の段取り -伊達真二、正太郎と本郷法司-

 八月に入った福博市は、例年湿度が高く蒸し暑い。昼間一見するとオフィス街の街並みは、よく注意してみるとビジネスビルの一階や地下に居酒屋や和食の店が入っているのがわかる。夜の営業以外に昼間はランチをやっており、2時ぐらいにいったん閉め、5時になると本業を開店する。仕事終わりのサラリーマンやOLは、特に移動せずに飲みに行ける、変わった特徴の街であった。

 その中心街の天満町は、中でもオフィス街と飲み屋街がより混沌と溶け込み、公共機関やデパートも混在したまさにオールインワンである。行き交う人々は夏の暑さを一時でも逃れるため、街の移動には地下街を利用する。

正太郎は、伊達から連絡を受け、事務所から葵百貨店に向かう途中、無意識に足が地下街へ向いたが、当然7番出口は封鎖されているため、シャツを汗で肌に貼りつかせて歩く。上着はあえて着たままというのが彼のポリシーであった。さすがに今日は気温39度とあってネクタイは緩めた。

 葵の1階に入ると空調が効いていて、しばらく備え付けのシートに掛けて涼もうかとも思ったが、化粧品コーナーの強烈な臭いが鼻をつき、女性客に混じっては浮いてしまうこともあって急いでエレベーターへ向かい、ボタンを押す。

「早かったな」待っている間に、声をかけてきたのは伊達である。

「暑いな。こうも暑いと仕事なんかうっちゃって、美女と泳ぎにでも行きたくなる」

「気持ちはわかる、だが今は支店長がお相手だ」

「・・・。それは無いな」正太郎はごちた。

 二人はエレベーターに乗り込み、目的の階のボタンを押した。


「それは無いな」先ほどと同じフレーズで、正太郎が伊達に向かって異を唱えた。

 翌日、伊達は中曽根が内通者であったことを恵子に告げ、支店長室で正太郎と三人、事件の経緯を整理していた。

「なぜだ、正太郎」

「安永副市長については、すでにこっちで調査を進めていてな。安永氏は副市長になる前、正確には市議会議員になる前だが、吉丸の常務だったことには間違いない。ところが吉丸を辞めた理由が理由だ。何だと思う」

「回りくどい言い方はよせ。その理由とは何だ」暑さのせいもあったのか、伊達は正太郎の子供っぽいところにイラっときた。

「安永氏は当事、自分の息子である安永信一をはじめとする、他の役員らのクーデターによって解任に追い込まれている」

「なんだと?だが、クビになった後では、選挙に出るのに格好がつかんだろう」と伊達。

「だから安永氏は実際に解任になるその前に、選挙に打って出た」

「そして運良く、選挙には当選したが、解任に追い込まれた恨みは残った。何せ自分の息子によるクーデターだからな」

「そういうことだ」正太郎は、伊達の頭の回転の早さに感心しながら、相槌を打った。

「では、なぜ吉丸の人事に固有の立場から働きかけをして、中曽根の再就職まで面倒を見るんだ」

「そのとおりだわ」恵子が言った。

 安永副市長が、現吉丸百貨店の経営陣に恨みを抱いているなら、経営陣も十分にそれを分っているはずである。反目している二者が呉越同舟となる理由が解らなかった。

「改めて、中曽根部長に聞くしかありませんね」

 正太郎は、支店長命令で謹慎中の中曽根を出社させるように恵子に促した。

「それから一つ、市警の知人から連絡があった。鵜飼課長の身辺を洗ったところ、同じ課の部下が以前鵜飼と同伴して、岩島系列のホテルに行ったことがあったと証言している。そこで真田らしき人物と会っていたらしい」

 伊達は、昔のよしみで市警から捜査状況の連絡をもらっている。

「以前、『HIBIKI』で鵜飼が真田に、例のものを例の場所にと言っていたのを思い出した。もしかしたら金の受け渡し場所、若しくは隠し場所にホテルを利用している可能性がある」

「あり得るな。フロントに手荷物を預け、受け渡せば誰も怪しまない。誰かの名前で宿泊していれば長期に亘って預けることもできるだろう」

「警察は令状がないと動けない。よし、それはこっちで探ろう。正太郎、一緒に来てくれ」

「また外出るのかよ。あとちょっと涼ませろ」

「四の五の言うな。行くぞ」

 伊達は、暑さに根を上げる弁護士に向かってにべも無く言った。

「やっぱ、捜査は足だねぇ、ヤマさん・・・」

 正太郎のぼやきに恵子が爆笑した。

 ホテル岩島のフロントに到着した正太郎と伊達は、来る途中市警の刑事を同伴させ、捜査協力の名目で、フロントに預けてある荷物を中身を見ないという条件で確認したが、荷物の中にそれらしきものは発見できなかった。

 次は宿泊客の確認だ。過去半年に遡り、宿泊名簿のデータをチェックしたがそれらしい該当者はいなかった。伊達が空振りかと思ったが、正太郎は引き続き名簿データを見ている。そしてしばらく過ぎた頃、「ちょっとこのパソコン、計算ソフトを使わせてもらってもいいですか」と支配人の許可を得て、カタカタとキーボードを叩き始めた。

「この、最上階の1415室は過去半年で一度も宿泊客がいませんね。何故です」

 正太郎が支配人に尋ねる。

「ああ、実はその部屋は客室としては使っていないんです。岩島グループのミーティングルームとして使っているもので」

「そうですか」正太郎が応じたとき、伊達の目が光った。

「最近ミーティングで利用されたのはいつです?」

「先月の初めだったと思います。利用記録などはありません。私が記憶しているだけですから。しかし決まって利用するのは、当ホテルの社長だけです」

「なるほど。いや、お邪魔して申し訳ありませんでした」伊達は言い、正太郎を促してホテルを出た。

「伊達、あの部屋臭うな」

「ああ。真田はこのホテルの社長を兼任している」

「どうする?」

「先に帰ってくれ」

「何をするつもりだ」

「企業秘密」

 伊達はそう言うと、正太郎と別れて単独行動を取った。

 その30分後、派手なアロハシャツ、口ひげにサングラスのいでたちで、一人の男がホテル岩島に堂々入って行きチェックインインした。

 どういう訳か、その3時間後には数人の刑事がホテルを訪れ、支配人へ捜査令状を提示し、1415室へ踏み込んだ。

 クローゼットの奥から、現金2500万の入ったジェラルミンケースと、それとは別に800万の入ったボストンバッグが見つかり、あっけなく押収された。多少使い込んではいるが、間違いなく鵜飼と中曽根の受け取った賄賂の金だ。

 ホテルの前で、複数のパトカーが煌々と赤色灯を回転させ、警察官や鑑識が横行する様子を伊達と正太郎が見ていた。

「仕事が早いな」

「いや、仕事が早かったのは裁判所に令状を取りに行った俺の友人だ」

「なるほど」正太郎は、伊達がホテル岩島へ客に変装してチェックインし、1415室の鍵を開けて潜り込み、現金を見つけ、その場で鵜飼の収賄の捜査を続ける知人の捜査員に携帯で内部告発情報に見せかけてリークした・・・。などと想像できた訳ではないが、伊達の表情を見て『かま』を掛けたのだった。

「これで、物的証拠がまた一つ」

 正太郎は、そう呟いたが、伊達は彼を見たときに疑問に思った。

「正太郎。これからどうするつもりだ?以前のお前ならすでに裁判所に提訴の手続きぐらいしている頃だ。まだ勝てる要素が足りないのか」

「いや、役員会でも言ったが、まずは岩島に直接当って相手の出方を見る。裁判に最も完璧な形で勝利するための手順を考えるのはそれからだ」

 そう言うと、先ほどの伊達と同様に、今度は正太郎が単独行動を取るべく踵を返した。



「真田常務、お客様がお見えです。アポは取っていないと仰ってます。ただ葵の件で至急取り次いで欲しいとの事ですが、いかがいたしましょう」

 秘書から告げられた真田は、執務室で書類に目を通している最中であったが、突然の来訪者の用件を聞いて、「お通ししなさい」と一言言った。

 秘書に誘導されて、執務室に入った正太郎は軽く会釈をし、真田に挨拶した。

「はじめまして、私弁護士のすげと申します。今葵デパートから依頼を受けておりまして葵デパートで最近起こった事件の調査をしております」

「ほう。あの葵デパートさんの・・・。で、何ゆえこちらへ?」

 会話を交わしながら、二人は自然に応接用のソファーに対峙して座った。

真田は神経質そうな顔で、ふち無しの眼鏡の真ん中を、中指でくいっと上げ正太郎をいぶかしげに見た。

「ふ。とぼけないで頂きたい。あの地下食料品売り場の煙事件、それに針金混入事件、あなた方岩島デパートがやったんでしょう?」正太郎はズバッと切り込んだ。

 真田の表情は無反応だ。

「何を言うかと思えば、ちょっとお待ちを」と真田は内線電話をかけ「顧問弁護士を」と告げた。

 程無く、部屋を訪れたのは正太郎も面識がある男で、名前を薮田と言った。正太郎と薮田は、福博市弁護士会の会合やパーティーで何度か顔を合わせて、挨拶をしたことがあった。

「やあ、これは菅先生。ご無沙汰しております。今日は一体どんなご用件で?」

「岩島デパートの顧問弁護士があなただったとは」正太郎は、知り合いが敵の顧問弁護士であったことに少し驚いたが、そういうこともあるだろうなと思って、すぐに話を本題に戻した。

 正太郎は、二人を前に、これまで葵に起こった事件が岩島の犯行であることや、一連のことの最終目的が葵潰しであることなどを再び告げ、提訴することも辞さないと葵側の覚悟を伝えた。ただし7番出口の封鎖の件や、これにまつわる鵜飼との癒着の部分はあえて伏せた。

「菅さん。何を証拠にそのような言いがかりを仰るのか。私どもはその件については何も知りません。事実無根です」

「今は証拠はありません。ですが我々は確信しています。早急に調査を進め、きっと尻尾を掴んで見せます」

「どうぞご勝手に。ですが不用意な事をなさると名誉毀損で訴えますよ」真田は揺るがない。

「菅先生、らしくありませんな。勝てる要素となる証拠も無いのに、相手方にこのように接触するとは」薮田は、正太郎の浅はかな行動を嘲笑するかのように言い放ったが、笑っていない目で正太郎を見た。

「今日のところは宣戦布告です。また来ます」

 正太郎は簡単に言うと、挨拶をして部屋を出た。

「薮田さん、何です、あの鉄砲玉のような弁護士は」

「真田常務、彼を侮ってはいけません。彼は柊塾の出身です」

「柊塾とは?」

「昔、柊という裁判官が退官後に作った、司法の徒を育成する研究塾です。今、法曹界で腕利きと呼ばれる弁護士、検察官、裁判官らは数こそ少ないが、全員がこの塾の出身者です。この福博にも数人いると聞いていますが、私の知る限りではあの菅正太郎がその一人です」

「そんなに凄腕か」

「真田常務が想像している凄腕とは、おそらく意味が異なるかもしれませんが」

「法廷で弁が立つことに優れているということだろう?」

「いえ、どちらかと言うと法廷テクニックは私の方が上です」

「わからんな、とにかく用心しよう」真田がそう言ったとき、携帯電話が鳴った。

「私だ」真田は着信相手も確認せずに電話に出た。着メロで区別しているようだ。

「何!?それはどういうことだ。何故ホテルが警察に」

 真田は初めて狼狽の様子を見せた。電話の相手はホテル岩島の者に違いない。

「何故真っ先に連絡してこなかったんだ!?」

 真田は、ホテル岩島が警察の捜索を受けた際、証拠保全の目的と称し、従業員がホテル外の人間と連絡を一定の時間取らないように、伊達が警察に根回ししていた事を知る由も無かった。

 伊達が、自身が迅速に行動して、警察をこれも疾風の如く介入させたのは、正太郎とともに顧客名簿を見に行ったあと、時間が空けばホテルの人間から真田に連絡が行くことで、隠し金が別の場所に移されるおそれがあったからである。

「薮田さん。鵜飼と中曽根の隠し金のありかがバレた。すでに警察に押収された。鵜飼が脅迫されたこともあって、金を預かっていたのが裏目に出た」

「リークは鵜飼課長を脅迫してきた奴の仕業と考えるべきですな」

「となれば、やはりさっきの弁護士もグルか?」

「かもしれませんが、菅は岩島と鵜飼の癒着については、何も言ってませんでしたな」

「・・・凄腕とは、この事か」

 真田は瞑目し、対応について考えた。

 真田との面会を終えた正太郎は、執務室を出たがそのまま帰らず、デパートの受付嬢をナンパしていた。

「ねー?いいじゃないのー。今夜飲みに行こうよ」

「ん~。だめよ、だめだめ」

「そんな事言わないでさー。いい店あるんだよー」

「ん~。だめよ、だめだめ」

「あ、ぼく、こういう者です」正太郎は名刺を出し受付嬢に渡す。

「あら!弁護士さん?じゃあ、お付き合いしちゃう。でも今夜は予定があるから明日でもいい?」

 今も昔も、医者と弁護士の肩書きは健在だ。

 二人は電話番号を交換し、正太郎はご満悦で岩島を後にした。

「驚きだな・・・。昨日電話で話したこと、本当なのか」

「ああ、受付嬢は以前吉丸にいて今は岩島にいる娘でね。さっきの話は俺の推測が間違いなければな。頼んだ手筈は?」

「すでに」

「上等」

「で?お前は弁護士の肩書きで、その受付嬢をナンパして、そいつを聞きだした訳か」

「バカ、肩書き言うな。実力だ、実力」

 正太郎が岩島に宣戦布告をした二日後、正太郎は伊達を呼び出し、屋台で一杯やっていた。

 福博の夜の風物詩の一つに、大八車をベースに作られた移動式の屋台がある。夕方から街の歩道に相当数が店を出し、ラーメンをはじめ、おでんやビール、焼酎、酒で客を楽しませている。街の外観保全と、衛生面の観点から屋台の数は市が制限していて、新規で出店することはできず、世襲制で勝手にオーナーが変わることは出来ない決まりになっている。市民の間ではもちろん、観光客にも非常に人気で、全国でもよくバラエティ番組で取り上げられるほどだ。

 街の中を堂々と流れる中川の水面には、屋台郡の明かりがちらちらと映り、風情ある様子を醸し出していた。

「受付嬢相手に枕営業して、他に何かわかったか?」

「下世話な表現はやめてほしいな。お前と違ってスタイリッシュが売りだ」

「じらすな」

「・・・思いのほか、『良かった』」

正太郎は、コップのひやをくいっと飲ると、にやりと笑った。

「・・・・・・」

「これでパーツはすべて出揃った。細工は流々、あとは仕掛けをごろうじろだ」

「よし、お手並み拝見と行こうじゃないか」伊達もビールをぐびっと飲んだ。

「ところで伊達。俺たちは柊塾で司法の徒を目指して必死で勉強したな」正太郎が遠い目をして切り出し、静かに続けた。

「法律家の中には悪徳な奴もいる。悪徳じゃなくても法律を盾にとって強請りたかりをやる奴もいる。柊先生がよく言っていた。そもそも法とは、人が一人で生きてゆくなら必要の無いものだ、集団で生きてゆくから共通のルールが必要になる、それが法律だと」

「そうだな・・・」

「俺が今、こうして法律家をやっていて、そんな教えとあわせて俺なりに考えることがある。人は生きているだけで最大限尊重されなければならないことが前提なら、人は人と関わって生きるとき、自らの権利が尊重される名の下に、その権利を濫用してはならないとの答えに行き着く。言い換えれば、他人と共存するためにはまず相手の事を思いやり、自らの意思表示は本当に必要なときにのみ、なされるべきだ。でなければ世の中から争いはなくならない」

 伊達は、正太郎が雄弁に自分の意見を語るのは珍しいことだと思った。したたか酔って舌が滑らかになったのだろう。

「正太郎、お前は弱者のため、世の中のために法律家になったんじゃないのか」

「確かにそれは大きな理由だな。だが、公私の垣根を越えて語るなら、遠い昔両親が互いの自分勝手な理由で離婚をし、貧しい父子家庭で不自由な暮らしを強いられ、母の愛情を知らずに大人になる。そんな境遇の子供が一人でもいなくなるような世の中にするために・・・。いやこれも詭弁だな。俺自身が自分勝手な人間にならないため、何か鉄のルールが欲しかったのかもしれない」

「反面教師というやつか」伊達は安い哀れみの目は一切せず、世の中に対する憐憫の気持ちで正太郎に共感した。

「法を犯さないようにと生き方を合わせてゆく者は、さもそれが金科玉条のように、法を守りさえすれば誰かを陥れても構わないという考えに変わる。そのような考えは絶対に正さなくてはならない」

「法律は道徳の上に成り立つものなり」伊達が、恩師の言葉を反芻した。

「いよいよ仕掛ける」

「いよいよか」

「だがその前に万全を期すため、あいつの協力が必要だ」

「あいつ?中曽根部長か?」

「いや、中曽根部長には明日尋問するが参考情報止まりだろう、こっちは別の役者の話だ」

「誰だ」

「俺たち柊塾一期生、もう一人の弁護士。本郷法司ほんごうほうじだ」

「本郷だと!しかしあいつは・・・。正太郎、何を企んでる」

「企業秘密」

「そいつは俺の専売特許だ」

「明日、山奥に行って来るからよろしく」正太郎はまたしても子供のようだ。

 伊達は、正太郎がこんな顔をするときは、これ以上聞いても無駄であると悟って、黙ってグラスを開けた。

翌日、謹慎中の営業部長中曽根が呼び出され、支店長室で恵子、正太郎、伊達の三名の前で尋問を受けていた。

「中曽根部長。あなたがうちの内部情報を岩島に渡して、吉丸に再就職を約束された事と、安永副市長が具体的にどう関わるのですか」

「副市長は吉丸の元役員であり、ご子息は現役員です。岩島の真田常務が言うには、親子の絶大な便宜によって、わたしのポストを用意してくれたとのことでした」

「あの親子の間には、根深い確執があるのです。息子の方はまだしも、副市長が吉丸の利益に繋がることで動くことはないのですよ」恵子は執拗に中曽根を追い込んだ。

「何ですって!?」中曽根は驚きの表情を見せ、更に続けた。

「安永親子に確執があることは知りませんでした。本当です。数ヶ月前、岩島の真田常務から話を持ちかけられ、目の前に置かれた現金に目が眩んで情報を渡す約束をしてしまいました。万が一バレたときの保険として、真田常務が追加で吉丸への再就職を切り出してきたんです。岩島と吉丸の共謀については知っていましたが、安永親子から直接この件について連絡をもらったことはありません」

「支店長。これ以上は無駄のようです」

伊達が中曽根の表情と、話す口調から推察して言った。

「そのようですね。わかりました。引き続き謹慎して処分を待ちなさい」

 中曽根は恵子の言葉に押され、左肩が下がった状態で、ゾンビのように支店長室を出て行った。

「中村支店長。私はこれからある人物を尋ねてさる山奥に行きます。訴訟についての手筈はすでに整えていますが、この人物を動かすのが肝です。説明は帰ってからいたします。あとしばらくお待ちください」

 正太郎は、恵子に確固たる自信を以って告げると支店長室を後にした。

「伊達君。彼は一体どこに向かったのです」

「旧友の所です。とにかく今は彼に任せましょう」

「いよいよ、ですね」

 二人は窓の外に広がる夏の青空を見上げ、今日も猛暑日が到来するのを予感した。



 JRに乗って市外へ走ること四十分、福水駅で下車しそこからバスで三十分。見渡す限り田んぼでビニールハウスすらない、米農家ばかりの長閑な土地に正太郎はいた。

 バス停からしばらく歩くと、別のバス停があり、時刻表を覗き込む。時刻を表す数字は午前十時と午後二時の全部で二つしかない。正太郎は時計を見て、十時のバスが来るのを待った。水平線ならぬ田んぼ平線に、夏の陽射しによって陽炎がゆらゆらと立ち昇り、可能な限り目視できる道路の果てを、太陽を手で遮光した影から見た。待合のための小屋もない停留所で、正太郎は軽い眩暈に襲われる。

「田舎だな~」

 独り言を呟いたとき、陽炎の向こうから一台のワンマンバスが現れた。正太郎はバスに乗り込み、エアコンの良く効いた車内のシートに腰を下ろすと、ようやく一息つけた感でスマートフォンを取り出す。すでに電波は圏外だ。

 バスは行き先を『麓の村行き』とだけ表記しており、運転手の車内アナウンスでも走れど走れど途中の停留所の名前を告げる様子は無い。それもそのはず車窓から見える風景は、右にはびっしり杉の木が生い茂る山肌であり、左は切り立った渓谷がひたすら続いていて、民家など無いのである。

「ご乗車お疲れ様でした。まもなく麓の村です」車内アナウンスがそう告げたとき、バスは小さな砕石所と思しき広場に乗り入れる。どうやらちゃんとしたバス停留所を作らず、単にこの広場を流用しているだけのようだ。

 正太郎は、砕石所兼バス停留所で、帰りのバスの時刻を確認すると右手に古い農家を見つけ、「ごめんください」と訪ねてみた。すると絵に描いたような農家のお婆が、玄関を開けて応じてくれた。

「あの、紫水神宮しすいじんぐうへ行きたいのですが、道を教えていただけないでしょうか」

「あれ、あんたあすこへ行きなさるか。そんならこの左の突き当たりから入る山道をひたすら行けば着くけども、その身形なりじゃったら・・・」

 お婆は、正太郎の黒スーツ姿を見て、山歩きには向かないと判断したか、心配そうな顔をした。親切な人らしい。

「ああ。私なら平気です。この格好でどこにでも行きますから」正太郎は破顔した。

「歩きでどのくらい時間が掛かりますでしょうか」

「そうさ、小一時間ぐらいかね」

「わかりました」と正太郎はお婆に礼を言い、農家を後にした。

 群生した杉の密林に分け入るように辛うじてある獣道。正太郎はそこらで手ごろな枝を拾い、杖として用いた。最初道は急勾配の登りであったが、途中開けて緩やかになった。

 陽射しは杉の木の枝で程よく遮られたが、その代わりシャワーのように蝉時雨が降り、街にいては聴くことの出来ない、アブラゼミやミンミンゼミ、ツクツクボウシの声が聴けた。正太郎はカバンからタオルを取り出し、頭にふわりと被せ、首の汗を拭った。

「かれこれ四十分歩いたが、俺の脚でもまだか・・・」少し休憩を取ろうかと思ったとき、蝉時雨に混ざって、どこからか微かに流水の音が聞こえる。あれは・・・、滝の音か。

 音のする方に近寄っていくと、次第に滝の音は大きくなり、正太郎の目の前に落差30メートルはあろうかという、大瀑布がその姿を現した。

 「ごう」と膨大な水を吐き出すその様は、まるで巨大な龍を連想させる。

 辺りを見回し、沢へ降りる道を探したが見つからなかったため、正太郎は森を突っ切り川原に出た。更に間近で見る瀑布は、白く光り迫力があった。マイナスイオンをたっぷりと放出し熱を帯びた身体を冷ましてくれる。靴と靴下を脱ぎ、スラックスの裾を捲り上げた正太郎は近くの岩に腰掛け、足を急流に浸けた。

「ふう・・・」こんな山奥に、こんな天然の避暑場があるとはと、まんざらでもない様子だ。

 カバンから、お茶のペットボトルを取り出して一口飲み、再び「ふう」と息を吐いた正太郎が川下に目を向けたとき、陽光の反射できらきらと黄金に輝く(つつみ)と、畔には(やしろ)が見えた。

「あれか」

 身支度を整え、再び山道に戻って歩くこと二十分、瀑布から見えた堤に到着した。よく見ると社から堤の中心に向かって、木造の道が築かれ、堤の真ん中にこれも白木で拵えられた円状の広場がある。ドームのコンサートでよく設置される特設ステージのような印象があった。堤の幻想的な雄大さに正太郎が感嘆したとき、社からするすると人影が現れた。

 烏帽子を被り、平安の絵巻物からそのまま飛び出したようないでたちの人影は、円状の広場に到達すると、片膝をつき頭を垂れて静止した。

「ぽん」と、どこかで鼓が鳴った。

 もう一度「ぽん」、三度「ぽん」と鳴った後から、笛と笙の音が合奏する。

 烏帽子の人影は、鼓と音色に合わせて伝承の舞を舞う。その雅さに時間が止まったような錯覚を覚え、正太郎は神々の世界に引き込まれた。

 舞が研ぎ澄まされていくと、巫女が一人、太刀を持って現れ手渡す。烏帽子の舞手は太刀を鞘からすらりと抜くと、刃を天に向けて、柄と刃峰にそれぞれ左右の手を添えて水平に持ち、やや高く掲げた。低くよく通る声で、何やら祝詞らしきものを舞手が呟くと、一連の舞は終わりを告げ、返す勢いで振られた白刃は太陽光を反射し、正太郎の瞳を射た。

 光の刃によって現世うつしょに引き戻された正太郎は、「はっ」と我に返り、烏帽子の舞手を見た。菩薩像の顔をそのまま写し取ったようなそれは、紛れも無く本郷法司だった。

「本日八月八日は、年に一度の紫水祭。みなさま、ようこそお越しくださいました。宮司を筆頭に一同御礼申し上げます」

 社の裏手に設けられた、これも舞台のような広場で、宮司が手をついて頭を垂れ、来賓の人々に挨拶をする。この広場はもともと矢場の様だ。

 正太郎は、巫女の一人に挨拶をし、本郷への面会を求めた。程無く本郷が現れ、無言のまま、正太郎を奥の客間へ案内した。

 対峙して座った二人は、お互い無言のままである。客間の障子は開け放たれ、仄かな風が入ってくる。まもなく巫女が冷えた麦茶を運んできて、黒塗りのテーブルに置いて「どうぞ」と言った。「どうもありがとう」と正太郎が応じ、湯飲みを取って一口含むとようやく口を開いた。

「先ほどの舞、見事だった」

「お目汚しを」

 本郷法司は、烏帽子を取っていたが、着物はそのままだった。黒い髪は腰まであり、富士額からすっと下に伸びる鼻梁。化粧もしていないのに透けるような白い肌と、吸い込まれるような黒瞳、そこらの美女など問題にしない美青年だ。

「今日は紫水祭。この社は戦の必勝を祈願するために建立され、竜神が祭られている。伝承では、一軍の将が武運長久を祈るため、この堤でみそぎをしていると、俄かの落雷によって、堤の水が紫色に変化し、その中から龍が現れ勝利を授けたと伝えられています」

「なるほど」

「それで、あなたが私を訪ねてきた理由は、きっとまた厄介事でしょうね」

「・・・お見事」

「何度も言うように、私は弁護士など辞めたのです」

「でも、まだ弁護士会の名簿には、お前の名前がある」

「煩わしくて。私は人々のしがらみを学ぶため弁護士になりましたが、裁判などを通して検証できたことは、人間の身勝手さ、傲慢さ、欲深さはどこまでも果てしないということだけです。この上は人と関わることは遠慮したい」

「ま、聞くだけ聞いてくれないか」

 正太郎は、これまでの事件をすべて話すと、本郷に依頼したいことの詳細を説明した。

「私にそんな役回りを・・・。わざわざあなたに協力して、その上恥を掻けというのですか」

「是非頼みたい」

「お断りします」

「同期のよしみじゃないか」

「くどい」

「・・・・・」正太郎は、庭に目をやり、一つ咳払いをした。

「今度の件、伊達が絡んでいる」

「・・・・・・。何ですって?」

 本郷はピクリと眉を動かした。

「協力すれば、会うこともあるだろう」

「どうしてそれを早く言ってくれないのです。やりましょう、否是非やらせて下さい」

 本郷の変わり身の早さよ。

「しかし本郷。何度も言うが伊達は、お、男だぞ」

「愛の形は、人それぞれです」

「・・・・・・オエッ」

「何か?」

「いや、何でもない。では時間がない。早速山を降りてバスに乗ろう。十三時のバスだ」

「その必要はありません」

 正太郎が社の前でしばらく待っていると、どこからとも無くエンジンの爆音が鳴り響き、次の瞬間、目の前に真っ赤なフェラーリF50で本郷が乗りつけた。スリーピースのダークスーツにサングラスをかけている。

「お待たせしました」

「神社とは不釣合いすぎるだろ!」

 正太郎と本郷を乗せたフェラーリは、法定速度などお構い無しに山道をぶっ飛ばした。

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