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地下街7番出口封鎖  作者: 菅 承太郎
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ライバルデパートの攻撃 -菅正太郎登場-

この物語はフィクションです。登場する人物など実在のものとは一切関係ありません。また裁判の進捗方法など実際にはありえない内容があります。

 ある日、男は地下街から地上へ出るため、よく利用する出口を目指して歩いていた。地下街はいつも人がごった返し溢れていてその日も人通りが多く、この時間夕方4時を回ったころも買い物客や観光客で賑わいを見せていた。

 その男、菅正太郎すげしょうたろうも次の依頼人の下へ向かう準備のため、事務所へと足早に歩いていたが、地下街出口の7番出口でふと足を止めることを余儀なくされた。地下街の出口が封鎖されていたからである。断わり看板が目に付いた。

『申し訳ありませんが、この出入り口は地下街補修工事のため封鎖いたします。ご足労ですが他の出入り口をご利用ください』

 菅正太郎は、小さく舌打ちをして別の最寄の出入り口まで歩いて行くことになり、依頼人の下に5分遅れて到着することになった。

「遅れて申し訳ありません。」

 正太郎は普段は時間に余裕を持って行動する人柄であったが、予期せぬ道の遠回りでの遅刻を詫びた。

 事務所へ帰った正太郎は、事務の本辺優子に「お疲れ様です、所長」と迎えられ、スーツの上着を脱いでハンガーへ掛けデスクに着いた。

「優子くん、地下街の西館ビルへ出る出口が封鎖されていたけど、いつからかな?昨日の日曜日?」

「さあ、でも最近じゃないですか。私が覚えている限りじゃまだ通ってましたから」

「ふうん…」

 正太郎はあんなに人通りが多く、たくさんの人が利用するであろう出口が封鎖されることも疑問に思ったが、それも一瞬で不便だとの思いだけが所感としてあっただけで、すぐに忘れ去った。




 福博市の人口は183万人。政令指定都市の庁所在地で、内陸部に面した豊かな緑と、辺の半分の長さを日本海に面した海の恵みがもたらす恩恵で発展を遂げてきた歴史がある。

漁業と貿易もさることながら、山林業も地方の自治体の産業としては全国で12番目に名を連ねる。現在は大陸の外国企業や、国内のベンチャー企業の参入など日本の海の窓口として様々な特色を醸し出し、居住する外国人も多い。今や都市の開発も目覚しく有名な企業はすべて入っている。

 さすがに郊外に車両で少し走れば住宅街が数多く点在する町並みが広がっているが、中心地は軒並み有名デパートや高層ビルが立ち並ぶ。ただし高層ビルといっても、郊外に空港があるため、ビルの高さは空港法によって制限されている。

 そして、その中心街の地下には日本でもTOP5に入る敷地面積の地下街があり、350を超えるテナントが石畳の両脇を埋め尽くして、買い物客の目を楽しませている。

 同時に地下街には市営地下鉄との連絡がされており、市民の交通の利便性も備えていた。

つまり地下鉄を利用する市民は他の駅を利用する者以外は、この地下街を必ず通ることになるのである。

 7月、正太郎はいつもどおり市営地下鉄の自動改札機のセンサーに定期券を通しゲートを抜け地下街の石畳を踏むと、ほのかにエアコンの効いた巨大な地下の町並みに季節の移り変わりを感じた。事務所のあるビルまでの道のりがかなり遠回りになったことにはすでに慣れてはいたが、5番出口を上がったところから事務所までの間、地上のムシムシする初夏の空気に纏わりつかれて歩かなければならないことで、不便さがフラッシュバックした。

 ビルに到着し、6台あるエレベータの一台に乗り込み14階のボタンを押す。ドアが開いて左に出た突き当たりに「菅法律事務所」の事務所がある。正太郎は電動式のクリーナーでワックスをかけた床を磨き上げているいつもの掃除のおばちゃんに一言挨拶をし事務所のドアを開けた。

 おはよう。

 おはようございます。

 事務所のスタッフはすでに3人全員か出勤しており、おのおのが持つ業務に取り掛かっていた。菅法律事務所に勤める弁護士は正太郎を含む3人、事務が1人で依頼内容は主に中小企業の顧問、労働組合、一般民間問題では遺産相続、少年犯罪を取り扱っており、最近では年寄りを狙った様々な詐欺事件、裁判離婚などもトレンドである。中小様々な依頼があり業績はまずまずと言えた。

 第二相談室のドアが開き、初老の夫婦と思しき二人と一番の若手弁護士若林隆弘が出てくるのが見えた。

「では、どうぞ一つよろしくお願いします」老夫婦の男性がぺこりと腰を折ると、婦人もそれに倣い頭を下げる。

「はい、難しい訴訟になりますが全力を尽くします」と若林。

 老夫婦はそのまま事務所を後にしたが、若林は眉毛をはの字にして正太郎へツカツカと近寄ってきた。

「所長、僕自信ないです。だって田んぼの土地問題で地元のヤクザともめてる案件ですよぉ。ヤクザですよ、やつらは法令を屁とも思わない連中なんですから」

 若林が情けない声で訴えた。

「これこれ、あの案件は少額訴訟で、ましてや市のADR機関でも解決できる問題だろう?それをわざわざうちの事務所に相談だけでなく、正式に依頼してきたんだ。相手が地元ヤクザだからといって尻込みしてちゃ商売上がったりだ」

 正太郎は若林に教育の意味も含めて発破をかけた。

 少額訴訟とは60万円以下の賠償請求金額の小さな訴訟のことであり、ADRとは裁判外紛争可決制度のことで、わざわざ裁判を起こす費用と時間を節約する比較的軽微な調停制度のことである。

「何事も経験だ、しっかりやれ!」若林はこの世の終わりのような顔をして自分のデスクに戻る。

「優子くん、アイスコーヒーを頼む」

「はーい」

 正太郎は若林の情けなさにため息を一つつき、朝刊を広げ一面から十五面まで斜め読みで目を通す。全国範囲の記事はそれでも良いが、依頼人に紐づくのは地元の記事だ。細かく読むように心がけている。普段は依頼の多い分野の事件や事故の記事を特に注目しているが、この日に限っては地元枠の三面に大きく書かれた見出しが目に飛び込んできた。


『葵デパート福博撤退か!?』


 葵デパートは福博の街に15年ほど前に出店し存在的にも象徴的にも市民に愛されてきた歴史あるデパートである。そのデパートが撤退となると利用する客にとっても由々しきことになるとも推察されたが、大手企業が明日倒産する世の中であることも事実であるため、センセーショナルな出来事であっても無理もないことと正太郎は思った。

 そのとき、事務所の電話が鳴り優子が応対し正太郎に告げた。

「所長。葵デパートの財務担当伊達真二という方からお電話です」

 この大手デパート撤退のニュースがのちの事件に発展することを、事務所の誰もが想像することができなかったのである。


 


 福博市の中心部に巨大な敷地面積を持つ葵デパートは、創業1942年、年商320億円。創業者中村雅彦を代表取締役とし、この街に支店を出店したのは今から15年ほど前。当事その場所にもともとあった福博鉄道天満駅コンコースとの乗り入れの形でいわば改築した百貨店である。

 高級ブランドから若者向けのアパレル、レストラン、アミューズメント、地下の食料品売り場に至る幅広い客層を集客する売り場の充実は、この街にある約10箇所にある百貨店の中でも特に高い人気だ。

 近年は不況と消費税増税の煽りを食らって、たぶんに漏れず売上げの何割かを落としていたが、それでも外国人相手の免税店を多数入れることで、外国人客の売上げによって下振れ幅は幾分緩やかであった。

 葵デパートに肩を並べるとすれば、こちらも老舗の岩島屋デパートか吉丸百貨店で、三店舗の客層ターゲットは殆ど相違が無く、品揃えや価格も同様である。

 買い物客は、いずれかのデパートで欲しいものが品切れであったときは他の二店のどちらかに探しに行き、回遊魚のごとき循環来店の図式でその売上げは拮抗していると言える。ただし、雨などの天候が悪いときは足が運びやすいせいか葵に地の利が有った。


 今年42歳になる葵の支店長中村恵子は、福博支店のここ3ヵ月の売上げ急降下に頭を抱えていたが、来月4月の支店長が集まる葵グループコンベンションへの参加によって、売上げ改善計画のプレゼンテーションを義務付けられたことで、頭痛を通り越して吐き気を覚えていた。

 恵子の父陽介は葵グループの常務取締役で、恵子は創業者中村雅彦の姪にあたる。典型的な親族経営といえなくも無いが、現会長の中村一郎は実力主義を唱えている経営者として有名で、自ら代表取締役の座を退くと同時に中村一族の親族を経営陣から排除し、多数の外様経営陣で役員会を形成したことから一義的な人事の印象は薄かった。

「撤退かですって!?まだ売上げが落ちただけなのにマスコミの完全な見切り発車じゃない!」

 中村恵子は持っていた新聞を手でぱしぱしと叩きながら怒りをあらわにした。

「それで?現状の分析と対策は進んでいますか?」

「は。客足が遠のいているのが原因で、我が店舗に来る主流通路の地下街の出口が封鎖された影響とまでは分かっているのですが、効果的な対策となりますと・・・」

 木目調作りの支店長室は贅沢な調度をもっており、ソファー・事務用品も一流品の部屋には4人の人間が集まって会議をしていた。

 恵子を前に、営業部長の中曽根、企画部長の金丸、監査室長の福田の三名は汗もかいていない額をハンカチで何度も拭いながら言い訳がましく言い、恐縮した姿勢を見せている。

「そんなことでは困ります。売上げは今年度に入って20%ダウンし、こうしている間にも客足は吉丸や岩島に流れていっています。このままでは株主の不信感を買って不信任決議、いいえ現実に支店撤退なんて事態もありえますよ」

「現在営業部でも客の声を集め、商品の差別化や売り場の改装案を検討しております。来月中には草案をご提示できると思います」と中曽根。

「企画部では客寄せのためイベントホールで人気アイドルグループのショーや、地方ゆるキャラの招聘などを考えております」金丸も必死だ。

「こちらで調査した結果店舗スタッフのモチベーションの低下は見られず、接客サービスの品質も保たれています。他社百貨店には負けておりません」福田も資料をめくりながら現場状況を報告する。

「しかしそれらは全部客の来店あってのことでしょう。来店しなかったら効果のないことばかりじゃないの!」恵子がぴしゃりと言い放ち三人に詰め寄る。

「根本的な問題は地下街に通じる連絡通路が閉鎖されたことによる集客回復の方法が何かよ。今週中に何か案を出して頂戴」

「か、かしこまりました」

「われわれ三部門と現場で連携して対策を講じます」

 中曽根はホテルのマネージャから葵に転職し入社20年目で、入社当事から若さに任せた持ち前の積極的行動力で渉外の実績を挙げてきたが、現場を離れて管理職になって以降、年月は『アカ』を着けたらしく今は見る影も無い。

 金丸は新卒で本社に入社し25年目、総務畑の道を歩いてきたが店舗拡大の影響を受け、現在の支店へ異動を命じられた。つまり現場経験が殆ど無く実質『お飾り』部長だ。

 福田は監査法人より外部監査役として以前吉丸百貨店に出向していたが、その手腕を見込まれて葵にスカウトされた男だ。入社5年で社内での安定した暮らしに日和ったらしい。

 的を射ない初老の部長たちの意見を聞いた恵子は、彼らの既得権益体質をうすうす感じており、日ごろから保身のためにはがんばるが、社の危機的状況を目の当たりにすると腰が引けたその態度に支店経営陣の脆弱さを思い知った。

 恵子がため息を一つついたとき、支店長室のドアにノックがあった。

「失礼します」入って来たのは財務の伊達である。

「支店長、至急ご報告したいことがあります」

「君!今は定例カンファレンスの最中と知っているだろう」金丸が場違いな訪問者へ一喝した。

「金丸部長、いいのです。私の特命で伊達君にお願いしたことがあったのです」恵子は金丸を制し、「こちらへ」と伊達をと別室へ誘導した。

「では皆さん、対策の方よろしく頼みます」

 恵子は伊達の後を追い別室へ姿を消して会議を終えた。


「それで?」

「はい、支店長のおっしゃったとおり、例の7番出口の閉鎖に関しては理由が不自然な点がありました」

「どんなこと?」恵子は伊達の神妙な表情からただならぬ何かを感じた。

 財務部一般社員の伊達真二は32歳、元警視庁の警察官であったという一風変わった経歴の持ち主で現在入社2年目、葵デパートには中途採用の一般公募によって入社。社の飲み会の席で話をする内、恵子は彼がもと刑事であること知った。

 葵デパートの危機的状況に藁をもつかみたい恵子は自らの人脈を使って、福博市の各界の人物から都市開発にまつわる話を聞いた中で、地下街の補修工事が果たして本当に必要かどうか疑問の声が多くあったため、異例のことではあるが伊達に直接調査を命じたのである。

「実は7番出口の封鎖理由は、表向きは先の地震によって耐震構造の基準値に不安が生じ建築基準法、それに消防法の観点からも補修を行うといったものでした。ところが工事の請負い業者に探りを入れたところ、地震によって地下の補修工事が緊急に必要な場所は実際にはより北側にある24番出口と南側にある1番出口らしいのです。請負い業者が事前に地下全体の状況を点検した上でこのことを市へ報告しましたが、行政からの指示は7番出口の補修工事であったと言っています」

「変ね・・・」

「もちろん7番出口も地震によるダメージがあったらしいのですが、壁のひび割れは認められたものの、回りの柱には芯部の致命的破損は無かったといいます。壁が剥がれて落下してくる不安はあったのですが、閉鎖して補修するまでの規模ではなかったため、市の担当職員に業者が異を唱えましたが強引に押し切られたとぼやいてました」

「たしかに緊急で補修の必要な箇所を後回しにして、何か起こったときは大変なことになるわ」

「はい。万が一のときは調査の結果を改ざんして責任を押し付けられるんじゃないかと請負い業者が心配しています」

「なるほど。やっぱり7番出口の封鎖には何か隠された理由があるわね。ほかには?」

「いえ今のところは。ただ市の担当者と今夜会う段取りをつけています。そこで何か分かるかも知れません」

「今夜?仕事が早いわね。刑事の捜査の腕前なんて基準が分からないけど、ここはさすがと言うべきかしら」

「恐れ入ります」

「でも、市の担当者と会えるなんてよくアポが取れたわね」

「そこは・・・。企業秘密ってやつで」

「まあいいわ。でも危険なまねは駄目。あくまでクリーンな方法で調査を進めて下さい。今後も伊達君からの報告は至急で聞きますから」

「わかっています」目線を左斜め上へ向けながら伊達は言うと二人は話を終えた。



 支店長への報告の3日前、伊達は特命により調査するため補修工事の請負い業者との会合のあと、本件の担当職員の名前を聞きだし市役所へ訪れていた。

 一階の広いロビーに備えてある一人掛けの椅子に腰を下ろし、新聞を読んで時間を潰す。あと5分ほどで5時となり公務員の終業時間だ。伊達はいったん3階のグリーン推進課へ行き、担当者の鵜飼克哉の顔と在席を確認していた。鵜飼の帰宅を張り込むためロビーで5時まで待ち、その後は市役所の正面玄関前にあるレストランに移動することにしていた。定刻を過ぎると、ある程度の残業を想定し待つことを覚悟していたが、伊達の杞憂に終わり10分ほどで鵜飼が現れた。

 帰宅か業務による外出かは判断できなかったが、伊達は尾行を開始し20メートほど離れて歩く。最寄の地下鉄駅に降りたため、伊達も列車に乗り込み4つ目の駅で下車。地上に上がると住宅街へ向かっている。どうやらどこにも寄り道をせずに帰宅するらしい。

 鵜飼の見た目から判断すると年齢40歳を少し過ぎたところか。やや薄くなった髪を七三にぴっちり分け、銀縁の眼鏡をかけている典型的な中年体型で酒飲み特有の酒焼けした顔色をしている。

 鵜飼の自宅は住宅街の一戸建てで、新築であった。それほど大きくない家だが中流家庭と分かる。伊達は鵜飼が自宅に帰ったのを見届けるとしばらく観察し様々な情報を探った。家族は妻、高校生の娘、大学生らしい娘の3人らしい。乗っている自家用車の車種とナンバー、隣近所に住んでいる住人の様子など、外から覗えるものはすべてメモに書き取った。

 夜7時を回ったところで鵜飼は車に乗ってどこかへ出かける。スーツではなくポロシャツ姿だ。伊達はタクシーを拾って後を尾けると、向かったのは飲み屋街でコインパーキングに車を駐車しスナックに入った。店の名前は『HIBIKI』、どうやら行きつけらしい。

 伊達はすでに一軒まわって飲んできた体の演技で店に入り、鵜飼の居るテーブルを確かめできるだけ近い距離のカウンター席に座る。スコッチの水割りを頼むと一口含み、酔ったふりをして店の女の子と会話を避け、鵜飼を視界の端に捉えて話を盗み聞く。

一人かと思ったが、テーブルには鵜飼のほかにもう一人男が居た。スーツ姿で年齢は鵜飼と同じくらいか。

「真田さん、次の日曜日は7時に迎えに行きます。今度は手加減してくださいよ」

「何の。鵜飼さんはシングルの腕でしょ、私の方こそお手柔らかに」

 どうやらゴルフ仲間のようだ。真田と呼ばれたその男は細面の神経質そうな顔をしてビールを飲んでいる。鵜飼は焼酎をガブリと飲み破願して隣に着いた店の女の子の肩を抱いた。

「ところで例の件、効果はいつごろになりそうですか」鵜飼は真田に視線を向けずにつぶやいた。

「確かなところはまだですがあと2ヶ月程度と見てます。何しろ大手ですから。『Y』の方は積極的に協力してくれてますからここまで順調です」

「そうですか。うまくいくといいですねぇ。あ、いえ、コチラには関係のないことでしたね」

「うまくいったら、また例のところに例のものを・・・。あの方にもよろしくお伝えください」

「・・・・」

 伊達は二人の会話から、何か黒い関係を推察し真田を調べる必要があると思った。

 鵜飼らは1時間ほど飲んだあと店を出てそのまま別れた。真田を尾けようとも思ったが胸に彼が着けていた、岩島デパートの社章を見た伊達は一瞬驚き逡巡した末、引き続き鵜飼を追った。

 千鳥足で飲み屋街を歩く鵜飼は2軒目、クラブに入り姿を消した。伊達は店に入らず、刑事時代に鍛えられた忍耐力を発揮して外で辛抱強く張り込み、その夜は更けていった。



 二日後、職場に鵜飼あての郵便が届けられ、中身を見た鵜飼はあたりを見回し挙動不審になった。

文書一枚と写真が数枚同封されており、そこには明らかに酩酊した鵜飼と更にそのまま車に乗り込んで運転する様子が写っていた。文書を開くとほんの一行『飲酒運転は厳しく罰せられます。公務員なら尚更です』と書かれていた。

 誰かの悪戯かとも思ったが、わざわざ郵便で送られてきたことから悪戯ではない意図を感じた。

「鵜飼課長、3番にお電話です」

女子職員の声ではっと我に返り、「え?ああ」と慌てて自分の机の受話器を上げ電話に出た。

「鵜飼さん?郵便は見たか?」

鵜飼はギクリとし、受話器を手で覆うように声を低くして「あ、あんたは誰だ」と訊いた。

「誰でもいい。郵便を見たならそれが公になったら・・・わかってるな?」

「変な悪戯はやめなさい、こ、こんなのは知らん!」

「勿論その写真だけでは弱いが、行きつけの店の名前と一緒にマスコミに流せば彼らは店に取材に行き、あんたがあの日店で飲んでいたことが分かる。となれば大変なスキャンダルだ」

「・・・何が望みだ」

「なあに、明日時間を作って話を聞かせてくれるだけでいい。ちょっと教えて欲しいことがある」

 鵜飼は飲酒運転がバレることも問題だったが、あの店で真田と会っていたことを知られたくなかったこともあり、とりあえず応じるしかなかった。

「わ、わかった。それで・・・」

「あした夜8時こっちからまた電話する。携帯電話の番号を教えてもらおう」

 鵜飼は仕方なく番号を教え、それで電話が切れた。



 翌日、支店長に至急の報告を終えた伊達は、時間まで通常業務をこなし葵デパートの事務所を出て例の住宅街に車で行き時計を見た。8時になったのを確認して非通知で電話をかける。相手は無論鵜飼克哉だ。すぐに出た。

「鵜飼課長。今自宅だな?では少し移動してもらおう。自宅近くの千鳥埠頭へ今から15分後に来い」

「わかった」

 鵜飼は車に乗り込み自宅を出た。その様子を伊達は近くの駐車場から見ていた。相手を脅迫するとき、時間を与えると仲間を連れてくるなどの用意が可能になるため、待ち合わせ場所は直前に告げ、仲間が後を追従していないかを確認する。とりあえず鵜飼の車を追っていく車両は無い。伊達は駐車場を出て後を尾け、鵜飼が運転しながら携帯電話で誰かに連絡する様子が無いことも確かめてから、目的の埠頭少し前で車を止め歩きながら再び鵜飼に電話をかけた。

「着いたぞ。どこに居る」

「こっちももうすぐ着く。エンジンを切ってそのまま待て」

伊達は携帯を切ってさらに歩き、その視界に鵜飼を認めた。

「鵜飼課長」

 鵜飼は伊達を振り返り、自分が知っている人間かどうか値踏みするように見た。

「あんたは誰だ。なぜこんなことを」

「誰何はするな。それに質問はこっちがする。まず車に乗れ。助手席だ」

 そういうと伊達は後部座席に乗り込みドアを閉めた。

「さて鵜飼課長、あんたは市の公共事業計画の担当者だ。今行われている公共事業の一つに地下街の補修工事がある。そこで耐震補強のポイントとして北側と南側の出口が緊急的に補修が必要だったのに他のところを優先させた。なぜだ?」

「なんのことだ。知らん。何でそんなことを訊く」

「とぼけても無駄だ。調べてある。あんたの権限で押し切ったろう」

「あれは調査の結果、建築基準法と消防法の観点から・・・」

「表向きはな。だが知りたいのは本当の理由だ。あんたは調査を課内の職員を使わず民間の業者に委託した。通常ならそんなことはしないだろう。身内を使うとまずいことがあったからだ、それが何か教えてもらおう」

「し、知らん。これは脅迫だぞ、犯罪だ。それに飲酒運転程度で・・・」

「そうか。ではこれではどうだ」

伊達はポケットから別の写真を出した。写真には高級クラブからホステスと腕を組んで出てくる鵜飼の姿、2枚目にはそのホステスとラブホテルに入るところが写っていた。

「こ、これは」

「高級クラブのホステスを愛人に持つとはなかなかいい身分だ。これを奥さんが知ったらどう思うかな。見ればあんたのことを献身的に支える慎ましい奥さんじゃないか」

「く、くそ!」鵜飼の顔は気色ばみ、目を血走らせ伊達を見た。

「言っとくが問題は浮気じゃない。聞いたところによるとあんたは例の高級クラブに3日と空けずに通ってこのホステスにマンションまで借りてやってるな。一課の課長とはいえ一介の公務員の給料じゃ飲み代だけでも払える額じゃない。その金はいったいどっから出てる?飲酒運転のスキャンダルと愛人問題からマスコミがたどればそこらへんのことも・・・」

「まて、待ってくれ。上からの命令だったんだ」

「どういうことだ」

「仕方なかった。逆らうとどんな目にあうか・・・。命令の理由は本当に知らない、ただ7番出口の封鎖をするよう便宜を図れと言われたんだ」

「俺はHIBIKIでの真田との会話も聞いている。事情を知らない者の会話じゃなかった」

「それは!」

「洗いざらい話すんだ」

 鵜飼は観念した様子でがっくりとうな垂れ、うめくように話し始めた。



「間違いないの?もう一度言って」

 恵子は、伊達の報告を支店長室の奥の部屋で聞き、驚きの表情を見せて言った。

「はい。グリーン推進課の鵜飼課長と岩島デパートの真田常務は、いえ岩島そのものが癒着しています。鵜飼課長は例の7番出口の封鎖に便宜を図ってなんらかの見返りを受け取っています。しかも岩島は『Y』つまり吉丸百貨店とも共謀し動いています。狙いは十中八九、この葵です」

「なんてことなの。岩島が吉丸と共謀してわが社の売上ダウンを画策するなんて」

「ただし今のところ証拠がありません」

「鵜飼課長の証言は?」

「詳細はお話しできませんが、正当な形で得られた自白ではありませんので証言としての能力はありません」

 伊達は鵜飼を強請(ゆす)ったことは今は伏せた。この後の展開次第では分からない。

 そこらへんは清濁併せ呑む恵子も察して、あえて詮索せずに話しの続きを聞いた。

「支店長、さらに鵜飼のうしろにはもっと大物の人物の存在があって、糸を引いていていたのはそいつです。翻って岩島の攻撃はこれだけにとどまらず、この後も更に何か仕掛けるつもりです」

「何かって?」

「それはまだ分かりません。今は岩島と吉丸が共謀してなしうる何かということだけです」

「鵜飼課長の後ろにいる人物は誰なのか判っていますか」

「はい、安永副市長です」

「なんですって!?」

 恵子は今までで一番驚いて伊達を見た。そしてしばらく考え、口を開いた。

「とにかく対策が必要です。このような話は本来は本部へ報告して指示を仰ぐべきですが、問題が問題よ。本部どころか支店の顧問弁護士にも現段階では相談すべきじゃないわ。情報が足りない。今は内々に、かつ迅速に調査を進めて、確たる証拠をつかむ必要があります」

「では、今後も私が調査を?」

「そうして頂戴」

「わかりました。ただしこのような事件(ヤマ)は私もあまり経験がありません。助っ人を頼んでもよろしいでしょうか」

「助っ人?」

「私の友人に菅正太郎という優秀な弁護士がいます」

「調査の方法はあなたに任せます」

「早速、連絡をとります」

 伊達は支店長室の電話を取り、菅法律事務所の電話番号を押した。




 菅正太郎と伊達真二は、菅法律事務所の第一相談室にいた。

「元気そうだな。何年ぶりだ」

「そうだな、3年ぶりってとこか」

「俺たち四人が柊先生の法律塾で勉強したのは遠い昔になったな」

 伊達がわずかに微笑んだ。彼が笑うのはこのようなときだけだろうか。

「だが伊達、お前だけだ。四人の中で司法の道からリタイヤしたのは。一体何があった」

「・・・まあ、いろいろだ。タバコ、いいか?」

「ああ」正太郎は伊達に灰皿を差し出す。

 正太郎と伊達は、同じ師に教えを受けた同窓の友であった。裁判官の柊幸介(ひいらぎこうすけ)が退官後、個人の法律塾を開いていたが、正太郎と伊達を含む四人がそこで一期生として法律を学び、一人は裁判官、二人は弁護士、一人は警察官としてそれぞれ道を選んで行った。

 柊幸介はすでに他界していたが、幸介の姪、柊美由紀が叔父の意志を継いで裁判官となった。美由紀も塾の一期生である。

 警察官になった伊達は、その後警視正に昇格したが、ある事件をきっかけに退職し、現在の職業に就いていた。

 伊達はタバコの煙を宙にくゆらし、その事件の記憶を頭から拭い去るように頭を振って、正太郎へ今回の相談を切り出し、一部始終を話した。

「おえっ・・・。な、なるほど・・・。で、どこから手をつける」

「おえって、何だ」伊達は正太郎の吐き気を催す様子を見て言った。

「いや、すまん。弁護士になって悪事には免疫が着いたつもりなんだが、久しぶりに性質の悪い話を聞いたもんで、つい・・・」

「吐くならトイレで話そうか」

「いやいや、ちゃんとバケツが用意してある」

「・・・・・」伊達は正太郎の性格が昔から変わっていないことに安堵した。

 伊達の知る正太郎は、正義感は強いものの、普段はどこか弱腰で楽観主義でもあったが、いざ法廷に立つと、正面切って闘う本番に強い性格だ。

「まずは、こちら側の狙いを決めなければと考えている。調査を進めて何か分かったとして、提訴の方法をどうするかだ」

「つまりは行政事件訴訟か、民事、場合によっては刑事告訴のいずれかということになるな」

「そのとおりだ」

「市の職員が収賄の目的で便宜を図ったとなると、言い方は変だが『まっとうな』公務員の権利の濫用という訳ではないから、本質は刑事告訴となりそうだ」

 本来、行政の行った行為や処分について、不服の申立てをする方法は二通りある。

 一つはその行為や処分を行った行政機関に直接不服を申立てる、行政不服審査法に基づく方法。もう一つは裁判所に行政機関の行為や処分が違法であることを訴える行政事件訴訟法に基づく方法である。どちらの法も、前提に行政の判断する理由があり、処分を受ける側の反論がある形が一般的であって、収賄などの犯罪がからむことは殆ど無い。

正太郎の言う『まっとうな』というのは、収賄など特定の公務員が逮捕されるような犯罪が無く、単に福博市がその利益を優先させるため、個人や法人をないがしろにしたなどの権利の濫用による行為や処分が行なわれたということを示している。

「だが今は証拠が無い」

「証拠も無いが、鵜飼の収賄の証拠をつかんだとしても、安永副市長の指示の理由が謎だ。ここまでの話では、岩島デパートが葵を撤退させる目的で鵜飼を買収して地下街の7番出口を封鎖させたということだが、副市長から指示があったのなら、岩島とは別の理由があるということになる」

「副市長も、岩島から収賄を受けているってことじゃないのか?」

「そうかもしれん。いずれにしても金の流れを含めてどんな見返りがあったかを知る必要があるな」

「では、その線から探ろう」

「警察と銀行の協力が必要だ」

「昔の仲間に当ってみる」

 伊達は、タバコの火を灰皿にギュッと押し込むと、おもむろに部屋の壁にある額縁を見た。そこには『法律は道徳の上に成り立つものなり』と書かれていた。恩師柊先生の言葉だ。

 正太郎も伊達の視線の先を見て、伊達の心が昔に戻るのを感じた。

「あの言葉、昔はよく意味が分からなかったな」正太郎が言った。

「ああ。だが今は身にしみて理解できる。法律は所詮無力だ」

「その言葉の意味、重そうだ。いつか同期の俺に話せ」

「・・・・・・いつかな」

 二人の顔を西日が照らし始めていた。


「その男、何者か心当たりは無いんですか」

 岩島デパートの真田は、鵜飼課長から電話で連絡を受け、伊達に脅迫され白状させられたことを聞いた。

「無い。だがマスコミに流すと言ってましたから、あの男本人がマスコミ関係者でないことは確かです。もしかすると警察かも・・・」

「ありえませんねぇ。警察がマスコミに流すなんて言うはずもなく、警察がなにか嗅ぎつけて捜査をしているとすると、すでに鵜飼さんは逮捕されているはずです」

「そ、そうですね」

鵜飼は自分の罪が、いつどんな形で明るみに出るか分からないことで、精神状態が不安定に陥っていた。

「あるいは、葵の関係者か」真田はつぶやいた。

「私は、どうすれば・・・」

「落ち着いて下さい。とにかく今回の事を知ったその男が葵の関係者ならば、岩島に何らかのコンタクトとってくるでしょう。副市長の件もあります。副市長には私の方から連絡を入れておきます。鵜飼さんは指示を待って下さい」

「わかりました」

 鵜飼は力なく返事をし、電話を切った。

「ちっ」真田は舌打ちして、あらためてどこかに電話をかけた。むろん安永副市長だ。

 真田は15分ほど相手と話し、更に2件目に電話をかけた。


 正太郎は、伊達と打ち合わせ、正太郎は表からの正攻法、伊達は裏からの遊撃的ポジションで調査を進めるよう段取りし、今は地下街の調査を行なった請負い業者を訪れていた。

 社長と面談中である。

「社長、今回の地下街の強度調査におけるデータを、こちらに頂くわけにはいきませんか」

「しかし菅さん、あれは公的文書の類です。理由もなしに市の書類をお渡しするわけにはいきません」

「理由は先ほど申し上げたとおり、とある依頼人から、地下街の耐震強度補修箇所の取り掛かり順序に疑問があるため、調査を依頼されました」

「それは誰です」

「守秘義務から依頼人の名前は明かせません。ですがもし、工事の取り掛かり順序に瑕疵があれば、被害が出たとき重大な責任問題になります。またそれ以前に、地下街を利用する市民を守るため、御社が行なった調査データが必要です」

「だったら、市の担当者を訪ねて、正規の手続によって、手に入れればよろしいのでは?」

「詳細は申し上げられませんが、工事は誰かの意図によって正しく行なわれていない可能性があります。御社の調査が正しいとすれば、意図的にそれを操作できるのは市の職員ということになります」

「ちょ、ちょっと待って下さい。何を根拠にそんなこと・・・」社長は突拍子も無い話に困惑した。

「実は、私のほうでも独自に地下街を調査し、本来補修工事に着手すべきは、1番と24番出口であることが判っています」

 正太郎は、伊達がこの請負い業者より得ていた情報を流用して方便を使った。

 社長は、自分たちが行なった調査でも同じであったことを思ったが、口には出さなかった。

「もし、私の独自調査の結果が、御社のそれと相違があれば、このお話はお断り頂いても結構です。ただし何か問題が起こったとき、市の担当者が御社に責任を擦り付けるようなことが無いかが心配です」

 正太郎は、同情作戦に出た。これも伊達から聞いて、請負い業者が懸念していることを知っていたからである。

「わ、分かりました」社長は言い、席を立って鍵の掛かった事務キャビネットから一冊のファイルを取り出し、正太郎に渡した。

「お預かりします。くれぐれもこの事は、お互い内密にいたしましょう」

 正太郎は、ファイルをばらし、すべてコピーを取り終えると、請負い業者の事務所を出て携帯をかけた。

「伊達、データは手に入れた。そっちはどうだ?」

「そうか、良かった。こっちは警察の知人に連絡を取ったところだ。偶然にも警視庁から飛ばされてこっちに来ていてな。これから会う」

「順調だな。俺は今から銀行に行って、岩島の金の動きを探る」

「ツテはあるのか」

「大学時代の友人が、福博銀行の営業部に勤めている。転勤になってなければまだいるだろう」

「わかった」

「ところで葵の方はどうなってる」

「売上げは更に下がっている。支店長が本社への事情説明に追われているところだ。そろそろ葵本部が、介入してくる頃だろう」

「だとしたら、そんなに時間は無いな。本部が介入したら、我々の調査が進まないうちに事が大きくなり面倒になる。急ごう」

「引き続き、よろしく頼む」

 正太郎は、伊達の他人行儀な挨拶に「よせ」と言い、通話を終えるとタクシーに乗り込んだ。


 二日後、正太郎は事務所でメールを受け取った。銀行からである。そこには依頼した内容すべてが記載してあった。

 午後からは、伊達を呼んで、お互いの調査結果を報告した。

「岩島から、鵜飼課長の口座に直接の金の流れは無かった。ただし真田の口座に岩島デパートから3千万円振り込まれて、即日現金で引き出されている。鵜飼本人の口座には直接振り込まれていないから、おそらく現金で渡したな。あとは箪笥預金として自宅かどこかに隠しているに違いない」

「安永副市長の方は?」

「それだけだ、3千万のみで、副市長本人や家族の口座にも金の動きは無かった」

「副市長と岩島は無関係か?」

「見返りは金じゃないのかも」正太郎は、官民癒着の事件判例を思い返し、見返りが現金以外の事例が無かったかを思い返した。

「あとは、不動産、動産などの財産譲渡とか、結果として社会的地位が向上することでもたらされる利益か・・・」正太郎は言った。

「副市長なら、いずれは市長になりたいだろう?」と伊達。

「かも知れないが、となるとゆくゆくの選挙資金だろう。であれば・・・やっぱり金だ」

「財産譲渡にしても、副市長という立場上、財産は公にしなければならないし。さっぱりわからん」伊達はタバコに火を着け一息に吸うと、がしがしと頭を掻いた。

「そっちはどうだ」正太郎は悩める友に話を振った。

「とりあえず、俺たちの情報を元に、鵜飼の収賄容疑の線で捜査を進めることになった。鵜飼が自白するかどうかが鍵だな。捜査の進捗を見て、鵜飼の自白が難しいなら、こっちでマスコミに流そう」

「その時は抗告訴訟と同時だな、難しいが・・・」

 正太郎は、本件を行政事件訴訟とする方向で覚悟を決めた。


 伊達と、正太郎は葵デパートの支店長室を訪れた。支店長の恵子と訴訟についての話をするためだ。

 伊達は、恵子に正太郎を紹介し、調査の結果をつぶさに報告した。

「勝てますか」恵子は正太郎に尋ねた。

「わかりません。物的証拠がまだ有りませんし、現段階では難しいでしょう。でも鵜飼課長の隠し金が発見され、自供が取れれば勝算が出てきます」

「最終的な目的は、7番出口封鎖を取消して、開放すること。それには鵜飼課長の自供が不可欠です」恵子は毅然と言った。

「中村支店長、本件は本来、御社の顧問弁護士が対応すべき案件ですが、この段階でどう判断されますか?」

「いい頃合です。顧問弁護士を呼びます。ただし私は本件に限って、菅さんに主任弁護士になって頂きたいと考えています。このような出来事は、この葵にとって前代未聞のことです。途中参戦となる顧問弁護士では後手に回る可能性があります」

 恵子は、女だてらにこの歳で支店長になった、さすがの決断を見せてきっぱりと言った。

 正太郎と伊達が、恵子の潔さに感心したところで内線が鳴った。

 電話の相手は売り場の主任からであった。

「支店長、大変です!地下の食品売り場で火災が発生しました」

「何ですって!?」

 一報を聞いて、恵子はすぐに消防への連絡がなされているか、客の避難誘導がなされているかの確認を終えたあと、支店長室を飛び出し売り場へと向かう。伊達も、正太郎も後に続く。

 現場へ着いた恵子たちは、売り場に立ち込める煙のすさまじさにうっとなり、ハンカチで鼻と口を押さえた。

恵子は、客と一般従業員の避難が終わっている事を売り場主任に確認して、火災の規模がどの程度かを見極めるべく、主任とともに火元の特定をしようと前へ出る。

「支店長、危険です!避難しましょう」伊達が恵子に叫ぶ。

「何を言うのです。消防が来る前に火を消し止められるかも知れないでしょう?」

 いやはや、女支店長の勇ましさよ。

そのとき。

「ちょっと待って下さい」正太郎が静かに言った。

「煙はすさまじいが、炎の熱を感じません。それにこの臭いは・・・。火薬の臭い。花火です」

正太郎は、顔が床につくほど身を低くして、何かを探した。

 あった。直径3㎝ほどの丸い玉をつまんで、恵子たちに見せた。

「よくそこらで売っている、通称『煙幕』という花火です。煙は猛烈に出ますが、火災になる危険はありません」

 恵子も伊達も、子供の頃に一度は目にしたことのある花火を見て納得した。

「でも、一個ではなさそうです。この広さの売り場にこれだけの煙を充満させるには、結構な数の『煙幕』をばら撒いているでしょう」

 正太郎は、冷静に分析し、単なる悪戯でないことを感じていた。

「花火の煙が出る時間は2分程度。換気口のファン機能をフル回転して、排煙して下さい」

 売り場の主任は、ビルの機関室へ連絡し直ちに排煙を指示した。

「火事でなかったのは良かったが、売り場の商品はもう売り物にならないな」主任は近場の野菜を手にとってごちた。

「仕掛けてきたな」

 伊達は、別の『煙幕』花火を見つけて、ガリッと足で踏み割り、静かにつぶやいた。


 一時間後、葵デパートの周りを消防車12台が取り囲み、相当数の消防隊員がなだれこんだが、火事にはならなかったことを確認すると、避難による客たちに多少の怪我人が出たため対応に当った。

 恵子は、事後処理のため、消防と警察から事情聴取を受けていた。

 完全に落ち着いた頃には、夜10時を回っており、スタッフらにも疲労の影が落ちていた。

「明日、警察が捜査に来るそうです。単なる悪戯にしては度が過ぎています。被害も相当出ましたし、犯人を必ず捕まえてもらいます」

 事情聴取から開放された恵子は、館内放送を使ってスタッフ全員に告げ、併せて翌日の食品売り場の休業を決めた。売り場の商品はすべて廃棄処分となるし、新しい商品との入れ替えにも時間が掛かる。

 伊達は、正太郎と一緒に警備室へ行き、事件のあった時間の防犯ビデオを見ていた。

 映像には、怪しげな男が3人映っており、3人とも共通の黒いジャンバー姿で、ニット帽を被り、サングラスをしていた。

「間違いなく、こいつらだな」伊達は言った。

「それぞれ買物をするでもなく、携帯電話で何か話している。互いに連絡を取り合っているな。それから時計を何度も見ている。計画的犯行に間違いない」

 そして16時丁度、防犯カメラですべて網羅できるわけではないので、3人すべての姿は映っていないが、うち1人の動きを捉えていた。手に例の煙幕と、ライターを持って着火。一つをボーリングの投球の要領で床に転がすと、すかさず次の煙幕をポケットから取り出し着火する。都合4回繰り返して逃げて行く様子が、ハッキリと映っていた。

「目撃者はいるだろうが、不特定多数の客の中から探すのは不可能だろう」

「伊達、お前の勘はどういっている?」

「やっぱり岩島の攻撃だろうな」

「この防犯ビデオの映像だけで、岩島との関係を証明するのは無理だろう」

「デパート全体の警備を強化するしかない。支店長に進言しよう」

 翌日、TVや新聞で煙幕事件が報道されたが、警察の発表は、捜査中であることに留まり、防犯カメラの映像などは公表されなかった。

 警察は、葵の従業員から犯人の目撃情報を聴取したが、映像以上の情報は得られなかった。

 地下の食料品売り場の状況はというと、酒類や缶詰、その他包装された商品は何とか被害を免れたが、それでも火薬の臭いが付着した商品は売り物にならず、被害総額は2800万円に上り、新しいものを仕入れるには同じだけの金額が掛かる。

 事件を受け、今日の午後には、葵の本部から取締役らがやってくる。

 恵子は、覚悟を決め、すべての事を取締役会に報告し、訴訟を起こす承認を取り付けることを、伊達と正太郎に話した。

「もう、待ったなしだわ。菅さん、その時はよろしくお願いします」

「わかりました。全力を尽くします」

 正太郎は、ここまで鵜飼課長の自供が取れていないこと、隠し金が発見されていないこと、安永副市長が指示した理由などが解明されていない状況で、裁判に勝てる見込みは薄かったが、岩島デパートの横暴な攻撃を一瞬でも止めるには、法的な手続をやるしかないと考えていた。

「おえっ」

「どうかなさいました?」

「いえ、ちょっときのうの煙が残っているようで・・・」

 正太郎はそう言うと、トイレへ消えていった。


 午後、葵本部より役員6名が福博市を訪れ、二時より緊急役員会は20名ほどを収容できる会議室で行なわれた。東京本社の会議室とTV中継で繋がれ26名すべての役員が出席している。

「岩島の露骨な営業妨害というのは、確かなことなのかね」

「間違いありません」恵子が答える。

「確たる証拠は?」

「ありません」

「証拠が無いのに裁判は出来んだろう。逆に名誉毀損で訴えられるぞ」

「しかし、鵜飼課長ら市の担当者との癒着によって、7番出口が封鎖されたのは事実です」

「中村支店長は、その事実をどのようにして調査したのか、説明してもらおう」

 恵子は、役員連中からの矢継ぎ早の質問にイライラした感を隠せず、これまでの経緯を早口で説明した。

 役員連中は、葵が実力的な営業妨害工作によって、危機に陥れられようとしている差迫った状況にあることを認識しているのか、甚だ疑問に思った。

「そもそも調査の方法が違法だ。そんなものは状況証拠にもならん」

「葵が負けたとなると、マスコミの格好の的になり、世間の笑いものになるぞ」

 役員連中は訴訟について、口々に反対の意見を述べた。

 恵子は、父中村陽介常務取締役に意見を求めた。

「役員のみなさん、我々は警察ではない。この際支店長が行なった調査の手段について、適法かどうかは問題ではないと思う。しかし今、確たる証拠も無しには裁判は闘えまい。恵子、何か手段はあるのか」

 恵子は、父の弁護の言葉に目頭が熱くなるのを感じ、その目で正太郎を見た。

「それについては、ここにいる菅弁護士よりご説明いたします」

「弁護士の菅です」正太郎は、ゆっくりと立ち、黒いシングルスーツの前ボタンを留めて挨拶した。

「仰る通り、現段階で証拠となりうるものは、ここにある地下街の耐震強度の調査データと、岩島デパート真田氏の口座記録のみです。裁判で勝つためには鵜飼課長の自白と、3千万円の隠し金の発見が必要になります。法廷で鵜飼課長を証人として出廷させたとして、はたして素直に自白するかどうか・・・」

「癒着についてこの情報を警察にリークしては?」と恵子。

「すでに市警にリーク済みで、現在収賄の容疑で鵜飼課長を任意引っ張り、取調べを行なっておりますが、本人は容疑を否定しております。愛人に貢いだ金も、愛人本人がこれを否定しており、捜査は難航しているとのことです」正太郎は、伊達よりの報告で警察の捜査の状況を説明した。

「では、このまま岩島の営業妨害を、指を加えて見ているしかないのですか」

 恵子は、絶望的な表情になり、後一押しでヒステリーを起こしそうだ。

「中村支店長、いま少し時間を頂きたい。何か手はあるはずです。あきらめずに闘いましょう」

 正太郎は、恵子をまっすぐに見据え、力強く励ました。

「菅さん、見通しは?」中村陽介は、指を組んで肘をテーブルにつき正太郎へ尋ねた。

「まずは、直接岩島へ接触します。相手の出方を見ましょう。勝負はそこからです」

「わかった。よろしく頼む」

 そのとき、営業部長の中曽根の携帯が鳴り、内容が告げられた。

「支店長!昨日うちの食料品売り場で買った食品の中に、針金が混入していたと客がクレームを入れてきています。それも現在まで20件以上です」

「何ですって!?」

 役員らも騒然となる。

「目下、クレームには電話で対応中ですが、品目は一つではなく複数の商品から針金が出ているとの報告です。支店長、これは・・・」

「すぐに対策チームを組みます。役員の皆様、役員会の途中ですが本件に至急対応するため中座します」

「よろしく頼む」陽介は再びそう言うと心配そうに、会議室を飛び出る恵子を見送った。


 恵子は、その後1週間針金騒動の対応に追われた。

 混入した針金は太さ0.1mmで、長さ3cm。報告どおり菓子、野菜、果物、肉、魚に混入しており、客は店頭にも押しかけ激しい苦情を言った。

 苦情の件数は50件余りに登り、さすがにマスコミにも取り上げられ、対策本部は人員が何人いても人手は足らなかった。恵子はすぐに記者会見を開き、事の経緯を調査中であることを説明し、客に対して深い謝罪を述べた。

 幸い、針金を食べて怪我をした客はいなかったのがせめてものことであったが、中には損害賠償を請求する客もおり、顧問弁護士が示談の解決に奔走した。

 TVのニュースでも連日、針金事件を取り上げ、恵子の記者会見の謝罪の模様が何度も放送される。それを見た客はすっかり葵デパートから遠のき、店は開店休業の様子を呈した。

 恵子は、伊達を伴って支店長室に入り、営業部長の中曽根をはじめ売り場主任らを集め今後の対策を話し合っていた。

 恵子はこれまでの煙幕騒動と針金騒動への対応で疲れきっていた。何日も眠っておらず食事も喉を通らない。すっかりとやつれ、頬がこけている。

「中曽根さん。今打っている対策を報告してください」言葉にも力が無い。

「はい。食料品売り場は閉店しておりますので、ブランド品とアパレル、インテリア、そのほかの雑貨のフロアは通常営業しております。客足は遠のいておりますが、それらはネット通販、渉外部の健闘によって売上げを担保でき、まだまだ致命的な状況ではありません。来店した客に対しては、接客の向上と売れ筋商品の価格のサービスで売上げの確保に当っている次第です」

「そうですか。この手の事件が起こったスーパーの事例を確認しましたが、客足が戻るのに1ヶ月掛かっています。何とか一連の騒動が治まるまで持ちこたえるしかありません」

 市場に出回る食品に対して、薬物を混入させ菓子メーカーを脅迫する事件は、昭和59年から2年間、阪神地区を舞台に起こった。その他針金やその他の異物がスーパーの食料品に混入した事件は枚挙に暇が無い。世論が落ち着きを見せ、客足や売上げが回復するには相当の期間が必要で、売り手側・生産者は休業状態に追い込まれる。中には事件が原因で倒産する企業もあったのである。

 葵の売上げも、この一ヶ月で本来の30%にまで落ち込んでいた。グループの売上げがあるため福博支店がこのような状況であっても、グループ全体には致命的な影響は無いが、ブランドイメージは確実に低下していると言えた。

 恵子の言葉に、葵の今後を憂いて全員が頭を抱える中、市場調査チームの芹沢が、データを見ながら何かに気がついたようにつぶやいた。

「おかしいな・・・」

「何がだ?」と中曽根。

「これ見てください。わが社が今回の販売戦略として価格を下げているアイテムの売れ行きが、過去の戦略時と比べて売れていません。人気ブランドの財布とバッグ、紳士服、コスメ、日用品、週代わりで展開しているものは、必ず一定の売上げアップがあったものが、軒並み頭打ちです」

「本当だ。客足が落ちたのが原因じゃないのか」

「でもほら、ネット販売や外商でも売れていません」

「ちょっと見せてください」伊達はデータ用紙を手にとって、細部をチェックした。

「うん?同じ時期、同じカテゴリの商品価格・・・。吉丸百貨店、岩島デパートともにうちよりも安い。どういうことだ」

「え。二店同時に?」恵子は疲れた顔を上げ、伊達を見た。

「はい、いずれの商品に対しても同じです。他店対抗価格の手法です」

「でもまさか、吉丸、岩島同時なんて。これはまさか・・・」

「そのまさかです。支店長、これが両店が共謀しての攻撃です」

 伊達は、鵜飼を尾行した際、スナックで聞いた真田と鵜飼の会話を思い出していた。

「でも社外秘である販売戦略の内容をどうやって・・・」恵子は狼狽した。

 そのとき、伊達が膝をぽんと叩き

「支店長、おそらくこれは両店の市場調査部門が、わが社の売り場を内偵し、つぶさに調べた結果の営業努力でしょう。勘に頼るところも大きいですが、葵のこれまでの戦略パターンを分析して、運良く的を射たんでしょう」

「でも、伊達君。さっきあなたも両店の攻撃だと・・・」

「そう直感しただけです。よく考えたら逆に葵の市場調査も、同様のやり方をやっていますから」

「そうかしら、私には共謀工作としか思えないわ」恵子は逡巡した。

「まあ、長くは続かないでしょう。ところで支店長、裁判の件でちょっとお話が」

「何かしら」

 伊達は、恵子を支店長室から連れ出して、廊下を歩き、資料室の前まで来るとあたりを見回し、人影が無い事を確認して部屋に入った。

「どうしたの伊達君、資料室に何が?」

「支店長、さっきはああ言いましたが、葵に内通者がいます」

「内通者?」

「ええ。販売戦略の対象になっている商品の販売チャンネルはネットと外商です。吉丸や岩島が前の日知り得たとしても、ウェブの書き換えなど準備に手間がかかります。とても一晩では対応できるとは思えません。ましてや二店同時にとなれば偶然は排除されます。明らかに誰かが内部情報を流しています」

「やっぱり・・・。でも一体誰が」

「それを炙り出すには、水面下での調査が必要です。私にやらせてもらえませんか」

「いいけど、どうやるの?」

「そこは・・・。企業秘密ってやつで」

「またそれぇ?まあいいわ。どの道この状況が2ヶ月も続けば、福博支店は終わりよ。こうなったら形振り構っていられないわ。頼むわね」

「全力を尽くします」

 密会を終えた二人は、ドアを開け、あたりを警戒しながら時間差で資料室を後にした。


 こと、内部情報漏洩、とりわけ販売戦略情報が漏れるとなると、企画部か、営業部のどちらかが最も可能性が高い。伊達は一般の社員の中でも直接情報に接触できる可能性のある者を外して、事務員などから接触を始め、ランチの時間を利用してそれとなく聞き込みをした。有力な手がかりを得られたのは、営業部の女性事務員からであった。

「最近さ、何か楽しいことはないかな?」

「ええ?伊達さん、モテるからそんな悩みないでしょ」

「なに言ってんの。こう見えてもぜんぜんモテない。長年女日照りさ」

「こう見えてもって何んですかぁ。伊達さんって葵の中じゃあカッコいいってみんな言ってますよ」

「ははは・・・」伊達は乾いた笑いを見せた。

「でも、給料も安いし、たまに自分にご褒美で、いい酒を飲むくらいしか甲斐性がなくって、誰か金回りのいい奴友達にいたら紹介してくれよ」

「あら、伊達さん。お金に困ってるの?ま、この会社のお給料じゃ、しようがないか。あ。そういえばうちの部長、別荘を買ったってこの間自慢してましたよ。部長職ってそんなにもらえるのかしら」

「中曽根部長が別荘?」

「ええ。それにスーツとか時計とか、突然オシャレなものに変えちゃって。でも部長じゃあ、伊達さんの友達ってわけにはいかないですよねぇ」

「ああ。そうだな。俺もがんばって部長になるかな」

「がんばってください。良かったら今度いっしょに飲みに行きません?伊達さんに憧れてる女子連れて行きますから」

「ああいいよ。そのときはLINEする」意外にも伊達はスマホでLINEをしている。

 その夜伊達は、人気の無くなった営業部を訪れていた。電気は点けずペンライトを照らした。中曽根のデスクは部長職らしく奥まった窓際にあり、机周りはきちんと整理されている。業務用のノートパソコンは置いていなかった。持ち出しは社のルールで禁止されているから、仕舞うとしたら机の引出しが一般的だ。袖机の引出しには鍵が掛かっている。

 伊達は推理した。中曽根の年齢から考えると、パソコンの使い方はそれほど詳しくないはず。だとすると使えるのはメールソフトと表計算ソフト、プレゼン資料作成ソフトぐらいなものだろう。メールはドメイン管理されているから、外部に送信したものは履歴が残る。社内イントラが整備されており、外部の一般レンタルサーバへのアップロードもブロックされているから、情報を漏洩する手段は、口頭または紙資料、あとはメディアで渡すしかない。年齢による記憶力の低下を考えると・・・。

 伊達は持参のノートPCを使って、コピー機のログにアクセスした。事前に中曽根のユーザーコードを調べていた伊達は、ログを見て「やっぱりな」と呟く。

 中曽根がプリンターを使った経歴が一切無い。日ごろは昼行灯然として陰口を叩かれている初老の男は、OA機器の使い方など勉強しない。プリントアウトは部下に任せているのだろう。

 伊達は、道具を取り出し、袖机の引出しの鍵穴に慎重に刺し込むと、空き巣顔負けのテクニックで、あっという間に開錠した。

「昔取った杵柄」独り言をいうと、静かに引出しを開け、目的の物を探す。

 ノートパソコンはすぐに見つかったが、伊達の目的はこれではない。

あった。

「誰だ!そこで何してる」

 室内の電気が点き、伊達に向かって大声を発した。中曽根だ。

「伊達か!私の机で何をしている」怒りと焦りが混ざったような怒号とともに、つかつかと迫ってくる。

「止まれ!」伊達は手を前に翳し、中曽根の接近を制す。

ぴたり。

「中曽根部長。あなたは岩島に、販売戦略の内部情報を漏らしてますね」

「何をいう。そんなことは知らん」

 中曽根の表情を見て、元警視正の目が光り、瞬時に嘘を見破った。

「ではこれは何です!」伊達は引出しの中から発見した、USBメモリーを手にとって中曽根に見せた。

「それがどうした。確かに記憶媒体の社内持込みは、わが社のセキュリティルールで禁じられている。だがそれは部長職以上は例外という条件がある」

「なるほど」伊達は目を細めて、中曽根の自信を感じた。

「それに、そのメモリーに販売戦略の情報が入っているとでも言うのかね。だがもし入っていたとしても、漏洩した証拠にはなるまい。入っていないがね」

 中曽根は、普段見せたことも無い薄ら笑いを浮かべ、勝ち誇る。

「勝ち誇っているようだな。中曽根、だが!」

 伊達はUSBメモリーを自分のパソコンに挿すと、タッチパッドを数回カタカタと叩いた。

「俺は警視庁ではクラッカー専門の捜査官だったんだ。ITに疎いあんたは知らんと思うが、特殊なソフトを使って、過去にこのUSBメモリーが接続されたすべてのコンピューターのMACアドレスを特定することができる。MACアドレスは世界に一つしかない。そのMACアドレスをもつパソコンが誰の物かは、警察の捜査ですぐに分かるぞ」

 中曽根は焦った。伊達が元警察官であったことは知っていたが、聞いたことも無いIT用語を並べられ、伊達の説明の真偽を考えるよりも飛び掛っていた。

 ノートパソコンを高く上げ、身体を捻って中曽根の突進を交わすと、足を引っ掛け、中曽根の中年太りの身体を床に転がした。拍子に壁にしたたか頭を打ち付けた中曽根は、ううっと呻いている。

 伊達は、中曽根の胸倉をぐいいっと掴み、顔を近づけて言った。

「さあ、これであんたはもうお終いだ。このメモリーを市警にすぐに持ち込む。言え、一体誰に情報を渡した」

普通の人間が聞けば、子供のころ小さな虫を殺したようなことまで白状してしまいそうな、地獄の底から響いてくるような声だった。

「く、苦しい」中曽根の顔は真っ赤になっている。

「言え!今言えば、警察へは行かずに済ませてやる。あんたも家族があるだろう。どうなってもいいのか」

「さ、さなだだ」

「どこのさなだだ!」

「岩島デパートの・・・。ゲホッ ゲホッ」

「岩島の真田だけか!」

「そ、そうだ」

「いくらもらった」伊達はそのまま中曽根を前後にゆすって、更に締め上げた。

「一千万だ。そ、それに葵を退職したあと、吉丸百貨店の役員への就任も・・・ゲホッ」

「岩島にデータを渡して、なぜ再就職先が吉丸なんだ?岩島と吉丸が共謀していたとしても直接的な葵への攻撃は岩島がやっている。今の吉丸のスタンスから行けば、あんたの人事の面倒を見るのは何となく不自然だ!」

「安永副市長は、元吉丸の常務取締役だ。今は息子が跡を継いでいるがな。うぐっ」

 伊達はそこまで聞くと、中曽根を解放し、

「そういうことか。これで7番出口の閉鎖を指示した理由も見えてきたな」そう言うとポケットの中のICレコーダーの停止ボタンを押した。

「今の会話はすべて録音した。役員会に提出するから覚悟しろ。それと一つ教えておいてやる。今のTIの技術ではUSBメモリーから、接続したパソコンを特定する技術なんて無い」

「だ、騙したな!」

「知らないってのは、怖いねぇ」伊達は中曽根の襟を整えると、勝ち誇って踵を返した。


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