世界樹の化身な彼等
もう、何年生きただろうか。ぼうっと日々がすぎていくうちに、ある時わたしは急に意識を持つようになった。でもそれはほんとうに、『意識がある』だけだ。
それからしばらくは眠るように生きていた。毎日光を一杯浴びて、綺麗な空気を吐き出していくサイクル。わたしはただ、そこにあることを強要された存在だった。ここじゃないどこかへ、とか、自分の足で進みたいなんてことが選択肢にも挙がらない。それがわたしの当たり前だった。今思えば、思考能力が希薄だったのだろう。
しかし意識は日々強くなっていき、ついにわたしは思い出す。
わたしはかつて、こことは違う世界で生きていた。こまかいことはすでに長く生きすぎたせいで曖昧だが、わたしは地球という星、日本という島国で、中流家庭に生まれ、普通に人生をまっとうした人間だった。いや、ひょっとすると、平均寿命と比べるなら途中退場だったかもしれない。その辺は曖昧なので横に置いておく。
で、これがいわゆる転生というやつだろう。わたしは今、『木』だった。
『嘘でしょう!?』
わたしの前世の行いが、それほど悪かったとは思えない。わたしは至って普通だったはずだ。わたしより悪いことをしていたやつなど、腐るほどいたに違いない。だというのに、なぜ『木』なのか。もちろん、まったく悪いことせずに生きていたと言い張れはしないけれど、それなりだったはずである。
『生まれ変わるなら、また人類が良かったよ……』
むしろなぜ今さら意識が覚醒したのだろうか。このまま思い出さず、木としてまっとうさせてくれるほうが、よっぽどよかった。
ひたすら恨みつらみを考え抜いて、冷静になってみる。たしか創作上の話だが、意識を持った木のモンスターがいたはずである。トレントとかウイス○ーウッズとかオー○ットとか、そんな感じのやつだ。
ここがファンタジーなことに掛けて、わたしは全神経を集中して、腕を動かすことをイメージした。腕と言うよりも、枝と言うのが正しいけれど。
『ふぬううううっ!』
渾身で力んだら、葉っぱが一枚落ちただけだった。しょっぱい。しかもちょっと痛かった。
わたしはそれ以来、地道にトレーニングを重ねた。枝の一本一本に至るまでを感じるよう、感覚を研ぎ澄ませる。どうやら古くなった葉っぱから落とせば、痛くないようだ。枝もちょっとずつ揺らせるようになった。揺らすだけだ。物なんか掴めない。むなしい。
たったここまでをできるようになるのに、百年かかった。数え方は簡単。体内(木内?)の年輪を感じ取って数えればいい。数えている間は、暇じゃなくていい。
わたしが次に心血を注いだのは、地中に張り巡らしたわたしの根っこに神経を通わせることである。
『歩きたいの! ここじゃないところへ行ってみたいのよ!』
しかし人間がどれだけ体内の臓器を意識しても、梃子でもそこから動かないように、わたしの根っこもまた微動だにしてはくれなかった。それはそうだろう。木の根っこは、はじめから動くようにできてないのだから。
こんな誰もいないところで、ただ朽ちていくだけの苦行を強いられる。
前世のわたしがいったい、どれほどの業を背負っていたと言うのだろう。もうこのまま意識をフェードアウトさせようかと、眠るようなイメージトレーニングをしてみる。しかし木が寝られるわけもなかった。人間とちがうことが、こんなにもままならない。歯痒い。
しかし足掻いたところで何も変わらないのだから、わたしはやってくる鳥や虫と共生して、毎日をつつがなく過ごしはじめた。最初こそ微動だにできない自分に焦ったけれど、せせこましく動き回れなくても、鳥さん虫さんがたいてい全部やってくれるので楽である。VIP待遇だ。切り替えの早いわたしは、静かに今世をまっとうすることにした。
『言ってすでに未練がましくも、百年足掻いたあとだけどね!』
木というものは時間感覚が狂っていけない。
+ + +
またざっと百年くらいが経った、月の綺麗な夜のことだった。その子は突然現れた。
裸足でボロボロの服を来て、みすぼらしい格好なのに、とても綺麗な眼をしていた。歳は十歳くらいに見える。月の明かりだけでは正確な色が判別できないが、色素の薄い髪に、目映い色をした瞳のようだ。わたしはその綺麗な男の子がすっかり気に入ってしまった。
『ねえねえ。どうしてこんな夜遅くに、ひとりで森へやってきたの?』
もちろんわたしの思ったことは、彼には聞こえていない。でも男の子が口を開けっ放しにしてわたしを見つめてくるのが、どうもくすぐったく感じた。圧巻しているのだろう。無理もない。今世のわたしは、とんでもなく長生きをしている。ざっと記憶を遡ると、創世の頃からここに立っていた。
そこまでさかのぼってみて、改めて自分がすごい存在に思えてきた。わたしのことは、『創世の大樹』とか、『命の木霊』とでも呼んでくれてかまわないから。言っても何かを成したとか、そんな武勇伝はないのだけれど。
男の子は唇をギュッと引き結ぶと、敬虔にもひざまずいて祈りはじめた。
ちょっと待ってほしい。わたしはそこまでしろなんて言っていない。わたしを拝んだところで、何にも出せやしない。いや、木のみくらいなら出せるかもしれない、か。
何も反応を反せずに焦っていると、思いを口にしたわけでもないのに、男の子の意思が流れ込んできた。
『誰かどうか、僕を愛してくれますように』
わたしは一瞬固まった。いや、動けないという意味ではずっと固まっているが、そうじゃない。思考が停止したのだ。
男の子はまだ静かに祈り続けている。
家に帰りたくない、とか、殴られるのはもう嫌だとか。どんどん悲しい感情が滝のように流れ込んで来る。
他人の意志を汲み取れるこの現象は、いったい何だ。前世で得た情報から勝手に推察すると、植物がひとの声を聞くというのは、こういうふうにひとの思いごと取り込むということだったのかもしれない。
男の子の願いを知ったわたしは今、彼とまったく同じ気持ちだった。
有り体に言うと、誰かに愛されたくてたまらなくなった。
鳥さんも虫さんもいるけれど、こんな切なる願いを向けてくるような存在はいなかったから、久しぶりに触れた豊かな感情に引っ張られてしまったのだろう。
そうと決まれば、わたしは彼の真上にある古い木のみを、渾身の力で揺さぶり落っことす。
「痛っ、何だろ?」
サクランボみたいなちっちゃい実なので、怪我はしていない。
しかし彼が今発した言葉は、日本語じゃなかった。わたしには知らない言葉のはずなのに、意味が理解できたのだ。
さっきまでは男の子の意志が流れ込んでいただけだから理解できたのはわかるが、言葉まで把握できるとは。ひょっとすると『植物は話しかけられると喜ぶ』というやつかもしれない。話は聞いたことがあったが、ほんとうに植物がひとの言語を理解できるとは思っていなかった。植物は人類が思っている以上に万能なのかもしれない。
男の子は、落ちた木のみを拾い上げた。
『それ、食べられるよ! 鳥さんたちが、甘くておいしいって言ってたからさ!』
わたしの思いが通じたわけじゃないだろうが、男の子は一拍置いたのち、パクリと木のみを口の中へほうり込んだ。途端に、その表情を輝かせる。彼のお口に合ったようである。ほっとした。
よっぽどお腹が空いていたのか、ふたたび男の子は顔を上げて、わたしの腕(枝)を凝視しはじめた。仕方ない。わたしはなるべく熟した甘いであろう木のみをよりすぐり、ポトポトと下へ落っことす。ついでに帰りたくないと祈った彼のため、わたしの木のうろへ導いてやる。ここなら風を防げるはずだ。
男の子は木のみを喜んで拾いながら、導かれるままにわたしのうろの中へ入ってきた。そっと身体を倒し、背中をわたしにもたせ掛けて座ったようだ。驚くほど軽い。それはわたし(木)が大きすぎるだけだと言われれば否定できない。わたしと男の子を比べると、まるでクジラとリスのようである。もちろん、わたしがクジラで男の子がリスだ。
しかしそういう意味じゃない。彼は、見た目よりもずっと軽いのだ。
「大樹さんは、優しいね」
急に話し掛けられてビックリした。でも男の子は気にせず続ける。
「木のみを分けてくれて、寝床もくれて。……どうして同じことを、誰もしてくれないんだろう」
ついには、膝を抱えて泣き出してしまう。どうしたらいいかわからなくなって錯乱したわたしは、一斉に熟した木のみを地へ落とした。
どさあっと音を立てて地面が木のみで埋まり、男の子はさすがに面食らったようで、恐る恐るうろから顔を出す。
『ど、どうしよう。何か言わなくちゃ。でも、彼にはわたしの声なんて届かないし、どうしたらいいのかな!?』
混乱するわたしを余所に、男の子がぷるぷる震えはじめたかと思えば、声をあげて笑いはじめた。泣き止んでくれて、わたしはほっとした。
「っふふ、嬉しいな。僕、こんなに食べ切れないよ?」
男の子には、わたしの思いなんて届いていない。しかし彼は、どんどん自分の都合の良い方へと解釈しているようである。これは彼なりの処世術だろう。ひとりのときは、こうやって起こる出来事をどんどんポジティブに捉えていくことで、自分を守ってきたのかもしれない。わたしには嬉しい誤算である。わたしの声のない好意を、きちんと受け止めてくれているようで嬉しい。
「ああ、でもこれだと、明日、鳥さんたちががっかりするんじゃないかな?」
『大丈夫よ! 鳥さんたちなら、地面に落ちたやつを食べてくれるから!』
男の子はうろからこっそり抜け出して、いくつか木のみを拾い上げると、近場の湖で洗って口へ運んだ。
「うん! 甘くておいしいなあ」
『そうでしょ、そうでしょ! ここのところ、やることなくって。……えっと、最近じゃなくても、やることなんてないんだけど、それは置いといて。わたしってば張り切って光合成ばっかりしてるから、よく熟れてるのよ!』
「優しい味だね。こんなに美味しいものを、ここまでたくさん食べられるのなんて初めてだよ」
男の子は、眠るまでずっと自分の身の上話をしてくれた。
名前はユーグ。歳はなんと十三歳。発育が悪いのは十中八九、劣悪な家庭環境だ。
どうやらユーグは髪と瞳の色が異質で、村では迫害を受けていたらしい。狭い世界は残酷である。もっとユーグは、広い世界へ行くべきだ。暗がりですら美しい彼の瞳が、蔑まれているのが自分のことのように悔しい。
わたしは痛いのをすこしだけ我慢して、比較的柔らかくて綺麗な葉っぱをたくさんユーグへ落としてあげた。ユーグは賢い。きちんとわたしの思惑を汲み取って、葉っぱを被って寝てくれた。体調を崩しては大変だということをわかっているのだ。彼の対応が的確なのは、こういった事態に手慣れているというのもあるのだろう。
わたしはそんなこれまでのユーグを思って、切なる涙を零した。はずだ。実際は泣けないから、気持ちの問題である。
彼が寝ている夜の間に、わたしは虫さんたちに手伝ってもらい、自分の木の皮を剥いだ。かなり痛かった。でもわたしの皮は特殊なのかめちゃくちゃ柔らかいうえに、どうやら布や動物の皮ばりに頑丈なのである。なのでそのまま虫さんたちに糸で継ぎ足し縫い合わせてもらい、ユーグにブーツを作ってあげることにした。ずっと裸足でいては、怪我をして危ないと思ったのだ。
+ + +
翌朝、ユーグはブーツをめちゃくちゃ喜んでくれた。『妖精さんのおかげかな』と言ってはしゃぐ姿がかわいい。
『そんな立派なものでもないのよ? いや、虫さんたちの腕はたしかだけどね!』
彼の髪は真っ白で、瞳は金色だった。確かにこんな色彩はイラストじゃないと見たことなかったけれど、綺麗だと思う。わたしには、ユーグのどこを疎めばいいのか、さっぱりわからなかった。
「嬉しいな。湖の妖精さんが用意してくれたのかな?」
『いいえ。木の妖精さんと、虫さんたちの合作です!』
ユーグは足を湖で洗って、綺麗にしてからブーツを履いた。素材を手で触って確かめているようだ。
「すっごくしっとりしてる。こんな素材、初めて見た」
『そうでしょう、そうでしょう。わたしのお肌(木の皮)は、それはしっとりしてるのよ!』
ユーグはさっそく、飛び跳ねたり走ったりして履き心地を確かめている。笑顔が絶えないので、サイズも問題ないようである。そのままユーグはうろまで戻ってきて、わたしに触れた。
「ああ、やっぱり。これ、大樹さんからなんだね」
『おお! 察しが良いのね! うれしいなあ』
それからユーグは、わたしのうろを拠点にして住みはじめた。下働きをさせられ続けてきたユーグにとっては、サバイバルなんて朝飯前のようである。
魚の捕り方や、食べられる植物なんかを得意げに話してくれる。家をたたき出されたときには、いつもそうやって凌いでいたらしい。
もちろんわたしも、木のみを落としてユーグを援護した。暑いときは枝を揺らして風を起こしてあげたし、寒いときは出血大サービスに葉っぱを大盤振る舞いした。また虫さんに手伝ってもらい、木刀も作ってあげた。
ユーグはみるみる大きくなった。今までどれだけ家の連中に搾取されていたんだと、わたしは憤慨した。でもこの頃にはもう、ユーグの口から愚痴を聞かされることはなくなっていた。毎日のうまくいった狩猟報告や、近場の新しく見つけた採取ポイントなんかを話して聞かせてくれるようになった。わたしはここから動けないから、それを聞くのはほんとうに楽しかった。
+ + +
ユーグが来てから、わたしはきちんと一日を意識するようになった。
彼は朝早く起きて身支度をして、前日に仕掛けた罠を確認しに行く。捕れた獲物を調理して食べて、また新しい罠を作る。それを再び仕掛けに行って、ついでに食べられる野草なんかも採取して帰ってくる。時間が空くと、わたしのあげた木刀を振って護身の訓練をする。
そうしてお腹が空いてきたら、作っておいた仕掛けを持って取り替えに行き、かかった獲物を調理して食べる。
ランプなんて気のきいたものはないし、火がわたし(木)に移ると危ないということで、ユーグは日が落ちるとうろへ引っ込み、暗がりのまま過ごす。それから眠くなるまで一日の総括やら、取り留めのないお話を一方的に喋って聞かせてくれるのだ。
ユーグのおかげで、わたしの毎日が楽しくてたまらないものに変わった。そんなある日だった。
「ひとりだと、ほんとにやることないんだよね」
ふっと皮肉げに笑って漏らされた彼の本音に、わたしは絶望した。
そうだ、楽しいのはわたしだけだ。ユーグにはわたしの声なんて、思いなんて微塵も伝わっていないのだ。そのことがとてつもなく苦しかった。
わたしがこんなに傍にいるのに、ユーグにとってはひとりで生きてることになっているのだ。ショックを受けずにいられなかった。
同時に涌いたのは、烈しい憤りだ。
ユーグに対してではない。理不尽な転生を余儀なくされた自分自身への怒りである。わたしがもしひとだったなら、ユーグにこんな寂しい思いをさせてやらずに済むというのに、無力さが嘆かわしい。
わたしはその強い衝動をかき集めるイメージをした。怒りだけじゃなくて、純粋に彼を思う気持ちをひたすら集める。ユーグが眠りについてからも、ひたすら意識を集め祈り続けた。
+ + +
奇跡は突然起きた。
「ユーグ! おはよう」
「き、君誰!?」
わたしはなんと、ひとのような形を作ることに成功したのだ。人間、いや、間違えた。木だって死ぬ気で祈れば、なんとかなるようだ。わたしは今、女の子の姿でユーグの前に立つことができていた。湖に映った自分の姿を確認したから間違いない。
歳はユーグと同じ十三歳くらいだろう。おばあちゃんじゃなくてよかった。
緑のふわふわボリュームのすさまじい髪に、同じ色の瞳、褐色の肌。わかりやすいくらい、木の化身である。実際、わたしの本体はそのまま木として立っているので、わたしは自分の魔力を集めてこの人間の姿を作ったのだ。
どうやらわたしは特殊な木だったようで、『綺麗な空気を吐き出してるなー』と思っていたそれが、魔力だったと気がついたのだ。やっぱりファンタジーでした。こういうのを魔法と呼ぶのだろうか。
「わたし、この木だよ!」
「ええっ!?」
「ユーグが寂しくないように、頑張ったんだ。ねえ、どうかな? かわいい?」
「そりゃ、かわいい……けど、そうじゃなくて!」
真っ赤な顔をしたユーグが叫んだ。
「お願い、服を着て!」
「え、ああ! ずいぶん長いこと木なんてやってたから、忘れちゃってたみたい」
木は服など着ない。その弊害である。わたしは虫さんたちにお願いして、服を編んでもらうことにした。その間は、わたしの本体(木)のうろの中で、葉っぱのおふとんをかぶって過ごすことにする。
「ねえユーグ。わたしずっと、君のこと見てたのよ」
「そうなの?」
「うん!」
わたしはこれまでのことを話す。ユーグは顔を赤くして聞いていた。
「独り言、聞かれちゃってたんだね。恥ずかしいな」
「大丈夫よ! わたし、楽しかったし!」
「そっか。君が僕を、ずっと助けてくれていたんだね」
ずっと、というほど助けたつもりはないけれど、木のみや葉っぱ。靴、木刀のことを知って貰えて嬉しい。
ユーグが目を細めて言う。
「ほんとうにありがとう。この靴、いくら歩いたって擦り減らないんだよ?」
「ほんとうに?」
「うん! 木刀も欠けないし、重宝してるんだ」
「ユーグの役に立ててるようで、すっごく嬉しい!」
にこにこ微笑み合っていると、はっとした顔でユーグが尋ねてきた。
「君、名前は?」
「そういえば、なかったわ」
前世の名前なんて、もう覚えていない。現世はきっと学者が付けた名前くらいはあるだろうけれど、それはわたし自身の名前じゃない。
「ユーグが付けて」
「そんな大役!?」
「お願い! わたしが付けると『若葉子』とか『樹枝子』とか変なのしか思い付かないの!」
「何その『わかばこ』とか『じゅえこ』って。もっとかわいい方がいいんじゃない?」
「わたしもそう思うわ」
ユーグは『うーん』と頭を捻りながら、一生懸命考えてくれる。
「僕、あんまり女の子の名前を知らないんだ」
「あ、そっか。村から出たことないなら、そうなるわね」
村のひとと同じ名前を付けると、ややこしくなるだろう。そもそもユーグは村ではいい思い出などないのだから、やっぱりやめた方がよさそうだ。
だいたいユーグの暮らしぶりを見て、この世界の文明水準が低めだということはわかっている。この世の中はそんなに識字率も高くなくて、きっと本なんて読まないだろう。ユーグが女の子の名前を知らなくても仕方がない。
この際、緑子でいくかと思い直したときだった。
「『ノルン』」
「何それ、すっごくカッコイイね!」
「そう? よかった。じゃあ君は今からノルンだね」
「うん! 嬉しい、ありがとう」
なんでも、ユーグの村を尋ねてきた吟遊詩人の詩に出てきたらしい。古語だから意味はわからないけれど、どうやら木を育てている女の人の名前らしかった。響きが綺麗なので、わたしもすぐに覚えることができた。
と、そこでちょっと苦しいことに気がつく。何かが、というのも魔力なのだけれど、それがわたしの中をすごい勢いでうねりはじめた。どんどん増幅していく。
「っ! どうしよう、止まんない……っ!」
「ノルン? いったい何!? 大丈夫!?」
その苦しさは、ユーグが手を掴んでくれたことによって和らぐ。しかし反対に、今度はユーグが顔を青くした。魔力がどんどん、彼へ流れ込んでいるのだ。
「ユーグ、手を離して。しんどいでしょう?」
「平気、だよ。……ノルンも、こんなにしんどかったの?」
「今はしんどくないわ! ええと、どうしたらいいのかな」
これはわたしの魔力が、暴走しているのだろうか。どうして急にこんなことが起こったのか検討もつかない。オロオロしていると、情報通な渡り鳥さんたちが教えてくれた。
どうやらわたしは今や木の精霊で、名前を付けてもらったことによりユーグと契約を交わしたことになってしまったらしい。
「嘘でしょ。そんな大それたものに、なってたつもりなんてなかったわ!?」
とりあえずわたしの魔力がユーグに馴染むまでは、離れてはいけないらしい。精霊の魔力をひとの身で受け入れるのだから、生半可なことでは済まないのだそうだ。
「知らなかった。わたしのせいで、ユーグは今こんなに苦しんでるのね」
ユーグはわたしの手を掴んだまま崩れ落ち、意識を手放した。名前を付けて、などと簡単に頼むべきではなかった。
鳥さんたちいわく、どうやら触れ合っていると魔力がゆっくりと馴染んでくれるらしいから、わたしはユーグに全身で抱きついた。気を失った子に、裸でなんてことをしているのだとは思ったけれど、わたしの外聞よりもユーグの体調の方が大事だ。救命措置である。
ただ、虫さんたちには服作りを急いでもらった。
+ + +
わたしは出来上がったシルクのワンピースを素早くまとい、ふたたびユーグにくっついた。
ユーグはかれこれ二日間、寝たきりである。いい加減不安にも慣れた。嫌な慣れ方である。
「……ノ、ルン?」
「ユーグ! 気がついたんだね。よかった」
峠は越えたようだ。まだ顔色は良くないユーグが、のそりと起き上がる。釣られてわたしも身体を起こす。
するとユーグはふっと表情を緩めた。
「ノルン、その格好」
「あ、えっと……服を着ました」
虫さんたちに感謝である。全裸を見られるのは平気だったのに、かわいく着飾った姿がちょっと恥ずかしいなんて、自分でも感覚のズレを改めて認識してしまう。わたしは木になじみすぎた。遠い目をしていると、ユーグが目元をちょっと染めて、ぽつりとつぶやいた。
「花嫁さんみたい……」
「わたしが? ああ、白いものね」
どうやらこの世界でも、花嫁さんは白い衣装と決まっているらしい。
「だったらわたし、ユーグのお嫁さんになりたいな」
「いいの?」
そんな真剣な顔で迫られると、ちょっと畏縮してしまうじゃないか。
しかしわたしは、嘘は言わない。今世では駆け引きなどとは無縁だったというだけの話だが、自分をなるべく偽らず、肯定する努力をしてきた。
「それ、わたしの台詞だと思うの。だってわたし、『木』なのよ?」
「僕はたとえノルンが木でも、僕を守ってくれる君がすきだよ」
じりじり、そわそわ。
ちらちらと眼を合わせては反らして、そうしてお互い一瞬だけためらった後、どちらからともなくそっと唇を重ねた。ちょん、と触れて離れたそれが、恥ずかしくて嬉しかった。
「あれ?」
「どうかしたの? ユーグ」
「身体が一気に楽になった」
これはまさか、契約のキスとかそんな感じだろうか。うろの入口の向こうで、鳥さんが力強く頷く。知ってたなら、先に教えてほしかった。だったらもっと早く、ユーグを楽にしてあげられただろう。
+ + +
子供じみた、口約束にしかすぎない結婚を済ませたわたしたちは、それでも一際仲良く暮らした。
わたしは本体が光合成をしているから食べなくても平気だが、ユーグはそうはいかない。エコなわたしは彼の罠作りを手伝って、仕掛けに行くのも付いて行った。
そしてなんと、ユーグが魔法を使えるようになった。精霊と契約したおかげだろう。火を起すのが楽になったとふたりで喜ぶ。消火に関しては同じく魔法ですぐに水をかけられるし、土だってひっくり返せるので、一気に暮らしが楽になった。今までは湖の近く限定だったのだ。
そして、わたしは眠れるようになった。この身体を手に入れてから、ユーグと生活スタイルを合わせたくて試してみたら寝られたのだ。ひとりで長い夜を越えなくてすんでうれしい。
夜のうろの中は真っ暗闇だから、ユーグが魔法で指先に光を集めて明かりを点し、ちょっと夜更かしできるようにもなった。もっとも、毎日くたくたになるまで動いているから、たいして長い間起きていることもできなかったのだけれど。
そんな風に、子供だけでも生きていける環境を整えた矢先だった。
森に侵入者が現れた。そのひとは自分を賢者だと言った。
「ああ、勇者さま。ここにおられたのですね。やはり、伝説の通りです。アルブル=モンドの近くが、一番空気が澄んでいますからね」
なんと、ユーグは勇者だったらしい。
賢者さんは、ユーグに魔王を倒してほしいと頼んできた。これにはわたしがつっかかる。
「ユーグを今までさんざん蔑ろにしてきたくせに! 今度は危ない戦いにほうり込もうって言うの!?」
賢者さんはユーグの生い立ちなど知らないというのに、当たってしまった。けれどわたしはどうしても、ユーグと離れたくはなかったのだ。
だいたい、伴侶のいるやつが戦地へ赴くというのは、もっともポピュラーな死亡フラグだ。ここでわたしが見送ったら、ぜったいユーグは死ぬ。その場合、奥さんに子供がいるのがベターだが、わたしに新しい命が宿っているわけもない。なぜならわたしたちは、人間と木なのだ。
ユーグは何かをいいあぐねているようだったが、わたしが勢いで黙殺した。お人よしのユーグのことだ。自分が誰かの役に立つことができるなら、火の中へだって飛び込んでみせるだろう。
つまりユーグは、賢者さんについて行く。そんなの、わたしが堪えられない。
その日、賢者さんは早々に帰って行った。「また来ます」と言っていたが、二度と来ないでほしい。
以降はどちらも口を開かず、夜には、お互い背中を向けて眠った。
初めての喧嘩が、洒落にならない規模で胸が痛かった。
+ + +
次の日、わたしは即座に隣を確認した。ユーグがちゃんと眠っていたから、ほっとする。
「……ひとりでは、行かないよ」
「ユーグ? 起きてたのね」
「ノルンが起きるのを待ってたんだ」
ユーグは緩慢な動作で身体を起こし、わたしと向き合った。
光をぜんぶ弾いて輝く白い髪が、朝日のせいで余計に眩しい。金の瞳だって、ここにもう二つ太陽があるみたいにギラギラと揺れている。
「ノルン、僕といっしょに行こう」
「……だってわたし、どこにも行けないのよ」
わたしは、木なのだ。この森の散策くらいなら試したところ行けたけようだが、どこまでも彼へ付いていけるかどうかは検証してみなければわからない。
そしてかつてはあんなにどこかへ行きたかったというのに、すでにわたしはユーグさえいてくれるのなら、この世界のどこへも行きたくないと願うようになっていた。ここですっと、二人きりで過ごしたい。
「だからわたしは、ユーグにも、どこにも行ってほしくないのよ」
わたしは本体に魔力を送って、うろを閉じさせた。魔法を覚えたおかげで、こういったこともできるようになったのだ。うろの中は真っ暗になったけれど、冷静なユーグが指先に小さな光の玉を浮かべて明かりを確保する。
わたしは木として転生して、発狂しそうな心細い一人の時間を越えて、ようやく体現できたのだ。ユーグだってそのはずである。わたしと同じくらい、寂しい思いをしたはずなのだ。
「誰か、愛してくれないか。そう望んだ君は、そのたったひとりに立候補したわたしだけでは、満足できないの? 世界中のひとに、愛されたいから行くの? 世界を愛しているから、救いに行くって言うの?」
次々と言葉が込み上げてくる。
「わたしだけがユーグをすきで、それでいいでしょう? だからユーグも、わたしだけ愛してよ!」
わたしは他の何も、君に望んだことなどないでしょう? これってわがままなのかな。
たったひとりを手放したくない、そんなことが、どうして叶えてもらえないのだろう。
「……ノルン」
静かにわたしの言葉を聞いていたユーグが、わたしの手にその手を重ねた。思いの外、ごつごつしていて大きい。
「僕は知っていたんだ。君が『アルブル=モンド』だってこと」
「何それ」
それは世界に一本しかない木で、この星すべての魔力を精製する創世の大樹らしい。初耳である。
「君に選ばれることで、勇者になれる。だから僕は、自分を諦めたくなかったから、ここまできた」
「じゃあ、わたしのことなんか二の次で、ユーグは勇者になるためだけにここまできたの?」
「始めはね。でも聞いてほしい」
ユーグの手に、力がこもる。
「今の僕は、世界を君ごと守りたい」
どうやら魔王という存在は、この星の魔力を根こそぎ奪いにきた侵略者らしい。つまり、アルブル=モンドを奪いにきたということで、それはイコールわたしのことだ。
「ノルンは今、アルブル=モンドからある程度切り離された存在、つまり精霊だから、きっと遠くまで行けるよ」
「で、でも! わたしがわざわざ敵地へ飛び込んで大丈夫なの?」
「言ったでしょう? 切り離されてるって。だから、言い方は悪いけど、ノルンに何が起きても、アルブル=モンドに害はない」
身も蓋も無いけれど、嬉しい。
「僕が君に、世界を見せてあげる。いっしょに同じものを見て生きていこう。それと、僕に自慢させてよ。僕のお嫁さんは、こんなにかわいい子なんだって、みんなに知らしめながら旅をしたい」
寂しさも、楽しさも、恥ずかしさも、愛おしさだって共有してきた。なら今さら、命懸けの戦いに臆してどうする。わたしが一番こわいのは、ユーグがいなくなることだ。きっと死ぬときまで傍にいてくれるなら、これ以上のことはない。
「ノルンだけじゃない。僕だってずっと君といっしょにいたいんだ。死ぬのもいっしょがいい。だから僕に付いてきて」
「うん、うん!」
わたしは思いっきりユーグへ飛びついた。
それと同時にうろがひとりでに開いた。
「……これは、お取り込み中でしたか」
賢者さんだった。彼は魔法が得意だった。そして勘違いされてしまった。賢者さんは『朝からイチャイチャと……』とかぶつくさ言いながらうろを静かに閉じた。
「これってわたしたち、別に悪くないよね」
「えっと、期待されてるし、イチャイチャしとく?」
ユーグからそんなことを言ってくれる以上、わたしに拒否するという選択肢はない。わたしはうれしくなって、ぶんぶん首を縦に振った。
さあ、具体的に何をしてくれるのだ、と期待を込めた眼差しで見つめること数秒。ユーグの顔がぐっと近付いたところで明かりを消され、視覚を奪われる。次の瞬間には、唇に柔らかいものが触れた。結婚の約束をしたときよりも長いキスだった。
その後しあわせすぎて、しばらくはお互いに肩を寄せ合ってのんびりしてると、痺れを切らした賢者さんが乗り込んできた。
「いい加減にしてください! さっさと出発しますよ!」
どうしてわたしたちが行くことになったことを、彼がすでに知っているのだろう。さては、のぞき見していたのだろうか?
+ + +
こうして勇者一行は旅に出て、苦しい戦いを乗り越え、魔王を倒した。けれどそれはとてつもない痛みを伴った勝利だった。
勇者とその伴侶が、二人がかりでなんとか差し違えたのだ。
でも今際のそのときにも、二人はお互い傍にいられたことを喜んでいた。
同行し、生き残った賢者も言う。
『離れ離れにならないほうが、彼らにはよかったのでしょう』
そうして後もさまざまな形で語り継がれることになる英雄譚で、勇者たちはこう呼ばれた。
世界樹の化身たち、と。
さあさあ。盛大な夢を見て眼が覚めたわたしだが、なんとなく確信している。
ノルンは、前世のわたしだ。
そしてわたしの隣でしあわせそうに眠っているこの男は、ぜったいユーグである。顔も、髪と瞳と肌の色もぜんぜんちがうのに、どうしてわかってしまうのだろう。
わたし、今世でもこいつといっしょになったのか。
隣のひとがもぞりと寝返りを打ってこちらを向いた。
「う、ん。……ノ、ルン」
はは。まさかである。こいつも記憶を持っているなどと、そんなわけがないだろう。これはきっと単なる寝言だ。そうに決まっている。
やたら全力で口説かれたのも、ただ単にわたしをたまたますきになっただけで。やたらナチュラル趣味なのか、ほとんどの家具が木製だというのも偶然だろう。
しかしわたし、また日本人である。異世界とは流れる時間の速さがちがうのだろうか。
難しいことはわからないので、わたしはだいすきなひとの隣で、幸せな二度寝を決め込んだ。