ここはどこなのか
自分の咳で目が覚めた。また意識が飛んでいたらしい。
体を起こすと、ベッドの横に水の入ったコップが置いてあるのが目に入った。
「たす、かった……」
一息に飲み干すことが出来ず、ちびちびと舐めるように飲む。全快とまでは行かないが、喉はだいぶん楽になった。
(とりあえず、どこなんだここは……)
自分のおかれている状況が知りたかった。
ベッドからおそるおそる脚を下ろすと、先程までの熱いほどの痛みは襲っては来なかった。
よく見れば包帯が取り替えられている。痛み止めのクスリでも塗ってくれたのかもしれない。
一歩一歩慎重に歩き、さっき自分が倒れていた扉の近くまで進む。すこし余裕があるのか、周りの様子をじっくり観察することが出来た。
どうやらここはどこかの山小屋のようだ。あまり新しくはないのか、歩く度にギイギイと不安になるくらい床がきしんでいた。
「ん……」
扉に手をかけようとしたとき、足元に何か落ちているのに気づいた。
「なんだ、これ」
拾い上げると、ほのかにあったかい。
小さな宝石が、金属の装飾を施されている。装飾は見た目を良くするためのものためではなく、地面に安定して置くための土台に見えた。大きさは握りこぶしほどで、宝石は青く光っている。
見ていると吸い込まれそうになる色で、ふしぎと落ち着いた気分にさせられた。
持って行きたかったが、変に部屋の物を動かすのも悪く思われたので、床に置いて、部屋の扉を開けた。
扉の先には廊下があった。左右どちらにも長く伸びていて、いくつか扉が並んでいる。どこに行けばいいのか迷っていると、廊下の先、曲がり角から光が指していることに気づいた。
「誰かいるな……」
廊下を歩いて行く。傷を気にしてゆっくりと歩いたため、忍び足のようになっていた。
廊下の角を曲がると光が増した。
半開きの部屋の中から、光が漏れていた。
中をのぞき込むと、小さな背中が見える。老人がいるようだ。
毛皮の帽子と上着を身につけた老人は、こちらに背中を向けてなにかをすりつぶしているようだった。いまさらながら草の葉っぱが潰れたような、土のような匂いが鼻に届く。
「あの」
声をかけてみるも、反応がない。聞こえなかったのかな。
もう一度はなしかけようとした時、しわがれた老婆の声が聞こえた。
「体の調子はどうだ」
老婆がこちらに振り向くことなく話しかけてきたのだ。
「あ、脚がまだちょっと……でも、他は治りかけてます」
「そうか」
老婆はうんうんと頷いているようだった。
「あ、あの、ありがとうございます。助けてもらって……」
礼を言うと、老婆は手を止め、体ごと振り向いた。深い金色の瞳と目が合う。
老婆はふんと鼻で息を吐くと、つまらなそうに言った。
「礼なら私の娘に言いな。くたばってたあんたを拾ってきたのはあの子だ」
「そうなんですか……」
娘と聞いて、あの銀色の髪が脳裏に浮かんだ。
あの子が、俺を助けてくれたのだろうか……。
「ふん、そんなことより」
老婆は俺の体を上から下までジロジロと見た。やがて、その視線が俺の頭で止まる。
「目が覚めたら聞きたかったんだ。……アンタ、どこの者だい。その黒髪、このへんの人間じゃないね」
黒い髪が珍しい?
ここはもしかしかしたら、日本じゃないのか?
頭に浮かぶ疑問をとりあえず保留して、質問に答えた。
「わかりません」
「へえ? そうかい、話したくないなら――」
老婆は俺が事情を説明したくなくてごまかしていると思ったようだ。慌てて否定する。
「いえ、そうじゃなく……思い出せないんです。なにも」
老婆は片眉を上げ、訝しげな視線を投げかけてくる。
俺は続けた。
「自分が誰なのか、どうしてこんなことになっているのか……なにも、覚えてないんです。分かるのは、自分の名前だけで……あ、黒木龍斗といいます」
「変な名だね。あたしはケト。この小さな港町で医者をやっている」
遅い自己紹介を終えると、老婆は黙って、考え込んでいた。
こっちもこっちで、考えていた。おかしなことが多すぎる。
ケトという名前は、どう考えても日本人の名前ではない。それにさっきの黒髪が珍しいという発言。ケトさんは金髪に金色の目だし、やっぱりここは日本じゃあなく、どこか外国なのか? そのわりには日本語がペラペラだけど……。
「思い出せない、ね……。昔になにかの本でそういった人間がいたらしいとは見たことがあるが、現実に見るのは初めてだ。治るかわからないよ」
「あ、いえ…命だけでも、ありがたいです」
記憶を失ってはいるが、記憶喪失についての知識はある。それがどこで得た知識なのは分からないが。
ともかく、簡単に治るものじゃないというのは知っていた。
「そうかい……しかし、娘がアンタを拾ってきた時は目を疑ったよ。なにせあの大雪だ。リムが……娘がアンタを見つけてきたことにも驚いたが、アンタの格好にも驚いた」
「どんな格好だったんですか」
ん、とケトは顎をしゃくった。その先の部屋の壁に、ボロボロの布切れが吊るしてあった。所々が血かなにかわからないような赤黒い染みで汚れていたが、アレは……
(白衣……いや病衣か、入院患者が着るような……)
「あれだけ着て雪山ん中に倒れてたんだと。それも大怪我をしてね」
たしかに、正気の沙汰とは思えない。
「怪我の様子も妙だった。獣に襲われたにしては傷口が綺麗すぎる。爪や牙で切り裂かれたわけじゃあない。人に襲われたにしては傷の位置がおかしい。傷が多いのは、圧倒的に手足なんだ。仮に刃物で切りつけたとして、そんな場所を狙うか?普通は、もっと腹とか背中に傷がつくもんだ」
やれやれ、とケトは首を振り、ため息を付いた。
「だから、何があったのか聞きたかったんだがね。思い出せないなら仕方ない」
「……」
正直、ため息をつきたいのは自分のほうだった。
雪山に病衣だけを着て傷だらけで倒れていた、という。
状況は、想像していたよりも不可解だった。
「まあ、いい。今はなにより治療が最優先だ。アンタ飯は食えそうかい」
「あ、はい。少しだけなら」
「そうか……ならベッドで待ってな」
それだけ言うと、もう話は終わりだ、と言わんばかりにケトさんは草をすりつぶす作業に戻った。
まだ聞きたいこと、疑問に思っていることはたくさんあったが、その背中に声をかけることはできず、というよりこえをかけても何を話せばいいのか整理がつかないので、おとなしく部屋に戻った。
部屋でベッドに腰掛け、考えをまとめているときだった。
「あのー」
若い女の声とともに扉がノックされた。
「食事、持ってきました」
「あ、はいっ」
考え事をしていた頭には不意打ちの出来事で、思わず大きな声で返事をすると、戸が開いた。
「失礼します」
入ってきた人物の姿を見て、頭のなかに渦巻いていた疑問は、すべてふっとんだ。
天使かと思った。
陶器のようにツルツルの肌。みなものように揺らぐ髪の色は、銀。そして、真珠のように輝く瞳。まさに人形か、壁画に描かれた女神のようであった。彼女が動くたび、髪が揺れ、部屋中の光を吸い込み、また何倍にも増幅させて反射した。
「熱いので気をつけて」
彼女が手に持っていた器を差し出す。なにか、スープのようなものが入っているようだった。
震えそうになりながら、手を伸ばす。
受け取る時、ふんわりと杏の花のような、優しい香りが鼻をくすぐった
「あ、ああ、ああありがとう」
なんとか礼だけを言って、口をつけたが、緊張して味はわからなかった。
「どうですか?」
「お、おいしいっす」
「よかった」
彼女が嬉しそうに手を合わせると、銀髪がゆったりと広がり、また光を反射して、七色にも金にも見えた。
その美しさに息を呑む。
「この辺りの人じゃないって聞いてたから……お口にあうかわからなくて。おいしかったなら、よかったです」
「……」
ぼーっと彼女を見つめながら、味の分からないスープをすすっていると、ふと、彼女の頭の上で何かが動いていることに気づいた。
「……」
その正体がなにかに気づいた時、ぎりぎりで動いていた思考が、ついに停止した。
「どうしました?」
「……」
突然動きを止めた俺を不審に思ったのか、彼女が問いかけてくるが……おれは動けずにいた。
ソレは、彼女の髪と同じ色をしていた。
形は三角形で、ちょうど頭のてっぺん近くに、左右に二つ。髪とはまた違う、ふさふさとした短い毛で覆われている。
彼女の感情で動かせるようで、先程まではピコピコ動いていたが、今は首をかしげる彼女に合わせるように、片方がぺたりと伏せている。
どうみてもそれは、犬や猫と同じ、獣の耳、であった。