章外16 侍女の旅路
神暦721年 剣の月03日 岩曜日
その日、ジョゼの心は望外の喜びに浮かれていた。
行儀見習い出発を伝える受け入れ先への手紙。
それに遅れること数日、出発の準備を整えたジョゼは屋敷の人々に見送られてブリーヴを旅立った。
その際、訪ねる機会を逃してしまった為についぞ受け入れ先を知らぬままに出発する羽目になってしまった彼女ではあったが、お屋敷の馬車---屋敷の住人の乗る豪華な物ではなく、使用人が用いる目立たない物---がブリーヴから北西に向けて街道を進み出すと、彼女はせめて少しでもデファンスに近づければと、神に祈りもしたのだ。
それから数日…彼女の護衛も兼ねた中年の御者、パスカルとの旅を続けるうちに、彼女がうっすらと笑みを浮かべて物思いに耽る頻度は段々と増えていった。
馬車は既にリシーを北上しシリットを抜け、ブレイユから西進…そしてメニルを通り過ぎており、このまま進めば行き着く先はデファンスしかない。
(今にして思えば、私を送り出していただいた時の旦那様はいつもの悪戯を企んでいる時の様な表情で…奥様は贈り物を選ぶ時のようにとても幸せそうな表情をしていました。おそらくはこれも私の縁談への後押し…奥様旦那様…私は…ジョゼは幸せ者でございます。)
ジョゼはそう伯爵夫妻への感謝の思いを抱くと、幾度も繰り返してきたように馬車に揺られながらこれからの行儀見習いの日々に思いを馳せるのであった。
その日、パスカルの心は焦燥に駆られていた。
お屋敷の侍女であるジョゼを行儀見習い先に送り届ける役目を伯爵直々に命じられ、彼女と共にブリーヴを旅立ってからはや数日。
ジョゼは出発した当初は受け入れ先を知らぬ様子だったが、数日経って馬車の向かう方向から見当をつけたのか、硬かった表情も段々と明るくなり物思いに耽る機会も増えた。
思い起こせば十数年前、伯爵に引き取られたジョゼたち姉弟が屋敷にやってきた時、パスカルは古参の衛士として屋敷の門番の任についていた。
馬車から降り立ち、不安気に辺りを見回していた2人…それ以来、彼女らは屋敷の住人や町の人々に見守られ、ここまで立派に育ってきた。
牧場の生まれで、若い頃は衛士隊で馬の面倒を見て居た事もあって引退後は御者としてお屋敷に再雇用された彼もその中の一人だ。
そんな彼女の行儀見習いの付き添いに選ばれたのだ、これは責任重大と彼はいつもに増して気を引締め、馬の世話、馬車の手入れ、そして行き先の状況の確認…と職務に励み、ここまでやってきた。
その彼が、街道に出没するという盗賊の噂を聞いたのはブレイユで入った宿併設の酒場での事だった。
地元の常連と思われる男達や旅の行商人、そんな彼らと酒を酌み交わして聞き出したその話は、だが少々あやふやな物であった。
ここ最近、街道上に盗賊が姿を現すという話ではあったが…実際の被害については誰も知らない。
盗賊が獲物とするうちで一番実入りのいい相手と言えば、護衛もつけない小商い専門の行商人であるが、実際に襲われた商人の名前も伝わっていない。
同じ街道で商いをする同業者、その全員の名前と顔を覚えて一人前…と言われる商人達の間でもだ。
彼らの話を聞き終えても些か腑に落ちないパスカルであったが、そんな話でも一度聞いてしまえば用心する必要が出てくる。
その翌日、西へと向かう商隊と軽く挨拶を交わしてからその後ろについて進んだのだが、到着したメニルの町で聞いた酒場の話題も、同じようにあやふやな盗賊の噂であった。
そしてさらにその翌日、同行する手頃な商隊もいなかった為、馬車は単身デファンスを目指した。
やがてデファンス領との境界を過ぎた頃、パスカルは馬車の後方を進む騎馬の一団に気が付いた。
遠目に見たところ軽装の騎馬が5つ。
皆フード付きのマントを身につけているので詳細は分からないが、そのうちの3つの乗り手は明らかに小柄で、おそらくは子供か異種族と思われた。
そんな集団が、こちらとほぼ同じ速度で追走して来ていたのだ。
その状況に妙な居心地の悪さを感じた彼は、馬車の速度を落とし追い抜かせようとしたが、彼らも速度を落とした為にそれは叶わなかった。
ならばと彼は街道沿いの集落に立ち寄り、小さな食堂で小休止を取る事にした。
これで妙な心配をせずに済むと考えながらジョゼとともに軽く食事を取り、くちくなった腹で街道に戻る。
だが、しばらくして彼は馬車の後方に騎馬の一団がある事に気付く。
もちろんさっきと同じ一団だ。
(これは…些か面倒なことになった。)
そう考えて内心ため息をつくパスカル。
彼らの行動により、いくつかの事が明らかになったのだ。
彼らが目的を持ってこちらをつけている事。
それも何か後ろめたい事、やましい目的があって…という事だ。
もし正当な理由があるのであれば、自分が商隊にしたように、正面から同行を申し出ればいい。
もっとも、相手の風体によっては断る事もあるが、それは同行を求められた側の当然の権利だ。
奴らの目的は何だろうか…金?積荷?
もしそれが目的であったのなら、騎馬が5人もいるのであれば積荷を満載した商人の馬車を襲った方が早い。
だとしたら…伯爵の縁戚であるジョゼが目的か?
どちらにしても、少々手荒な事になるのは間違いなさそうだ。
彼は馬車を進めながら、乗室の屋根をノックする。
その音に気付いて窓から顔を出したジョゼに、彼は口を開いた。
「ジョゼ、後ろから妙な連中が付いてきている。少々荒れるかも知れんから気をつけろ。」
伯爵の縁戚とはいえ、彼女とは同じ使用人同士。
年齢の分だけ、彼の方が目上である。
「分かりましたパスカルさん。ちなみに、今日の宿へはあとどれぐらいですか?」
ジョゼの言葉に、パスカルは怪訝そうな表情を浮かべるが、すぐにそれを苦笑に変えた。
(そういえば、知らない事になっていたな。)
「今日は宿じゃなくて、直接ヴィエルニ家のお屋敷へ出向くことになっている。短い旅も今日で終わり、あと数刻で目的地だ。」
「そうですか…短い間でしたが、パスカルさんとの旅も終わるとなると少し寂しいですね。」
そう呟く彼女であったがその口調の嬉しげな声の上ずりに、彼は苦笑を深くする。
「あんまり寂しそうには聞こえないのだが…っと、仕掛けてきた!」
後方に目をやれば、騎馬の一団が揃って速度を上げていた。
武器を抜いている様には見えないが、何かをするつもりらしい。
「ジョゼ、顔を引っ込めて床に伏せていろ。揺れるぞ!!」
二頭の馬に鞭をくれつつ、彼女の返事を聞くパスカル。
そうした間にも、速度を上げた馬車にじわりじわりと騎馬の一団が迫ってきていた…。
(ああっ、神様…。どうか無事に逃げ切れますように…。)
客室に身を戻したジョゼは、室内に持ち込んでいた毛布抱えて床に伏せていた。
そして自分達の身の安全を神に祈る。
普段はそれほど信心深いとはいえない彼女であるので困った時のなんとやらではあるが、その後に考えるのはいつもと同じ事だった。
(ですが、もし捕まりでもしたら…。)
脳裏に浮かぶのはいくつもの悲劇。
身代金目的に人質として攫われる自分、あるいは辱めを受け奴隷として隣国に売られる自分、そして口封じに物言わぬ躯と成り果てる自分…。
(フェリクス様…事によっては、もう二度と会えないかもしれません…。)
そう心でフェリクスに呼びかけるジョゼ。
だが彼女が呼びかけたその当人は、彼女が思うよりもずっと近くに居たのだった。
真剣な表情で馬車をとばすパスカル。
だが、無理をさせすぎて車輪が外れでもすればその結果は明らかだ。
(昔取った杵柄…引退したとはいえ元衛士、みすみすやられはせんが、それも騎馬の5人となると少々相手が悪い。持っているのも腰に着けた小剣と、護身用として荷台に備えられた継ぎ柄式の槍があるが…それを用意する時間があるかが問題だ…。)
そんな事を考えてるうちに、彼は遠く街道上にあるいくつもの影に気付く。
(騎馬の一団・・・5人ほど…待ち伏せされたか!?)
後ろの連中とあわせて10人、それを相手にしては彼一人では勝ち目は無い。
最悪の状況を考えて渋面となるパスカル…だが彼のその表情は、前方の一団の装備にある紋章を認めると笑顔に変わる。
「デファンスの騎士か!助かった!!」
思わず叫ぶ彼の前、道を塞ぐ様に騎士達が広がるのを見て、慌てて馬車の速度を落とす。
だが、後方から追いかけてきた騎馬の一団が馬車の横を構わずに追い抜いていくのを見て、パスカルは呆然とそれを見送る。
そんな彼の視界の中、集団のうちの一人---フードをしているので目元を見る事は叶わなかったが---と視線が合うと、相手は紅をさした唇に笑みを浮かべ、そのまま馬に拍車を当ててさらに速度を上げた。
(女?)
あっけに取られる彼を他所に、広がった騎士達のうちの一人が声を上げる
「デファンス騎士隊だ!止まれっ!!」
その叫びに、一団は速度を緩める…事もなく、そのまま一纏りで騎士達の面前まで進むと、その直前で急にバラバラに分かれ、騎士達の間を駆け抜ける。
「なっ!?」
思わず馬首を巡らせつつも、そのまま見送る騎士達。
だがすぐに当惑から立ち直ると、騎士達の隊長格…ボーダンが指示を飛ばした。
「ヤンとフェリクスは事情を聞いておけ!他は連中の追跡だ。続け!!」
部下を率いて駆け出すボーダン。
パスカルの操る馬車はと言えば、スピードを落として騎士達の居た位置の手前で止まっていた。
「助かりました!ずっと付きまとわれて難儀しておりました。」
そう言いつつも現役時代そのままにビシッと背筋を伸ばした敬礼を送るパスカル。
フェリクス達2人が反射的に返礼した後にふと我に返って顔を見合すのを見て、笑みを浮かべる。
「若い頃はブリーヴで衛士をしていましてね。その縁もあって、今ではリース家のお屋敷で御者をしております。」
「ブリーヴでですか!」
常々思い悩む地名が出たため、思わず話に喰い付くフェリクス。
「自分はブリーヴへは昨年訪れた事があります。そういえばお屋敷勤めとの事ですが…その、あの、侍女のジョゼさんはお元気でしたか?」
はきはきと話して居たのがジョゼの名前を出す段になって、急にしどろもどろになるフェリクス。
ヤンの方はといえば、それを見て苦笑を浮かべるばかりだ。
「ええ、元気にはやっていますが…。」
「そうですか、それは何よりです。ではブリーヴに戻られましたら、デファンスのフェリクスがよろしく言っていたとお伝え頂けますか。」
「いや、それは…。仕事と…彼女の都合もあるんで、すぐにはちょっと難しいな…。」
そう言ってパスカルが額を覆うと、フェリクスは怪訝そうに首を傾げる。
「ああ、お仕事中でしたね。ところで話は変わりますが、デファンスへはどのような用件で?」
その質問に、パスカルはため息をつく。
そして内心、どこから話せばよいものか、どこまで話してよいものか…とぼやく。
「ご存じ…は無いようですね。我々がデファンスへと訪れたのは…。」
「フェリクス様!」
馬車の窓から身を乗り出して、パスカルの話を遮るジョゼ。
馬車が止まり、そして外から聞こえてくる穏やかな話し声に窓から様子を窺っていた彼女は、話し相手の中に予想だにしなかった顔を見つけてつい声をかけてしまったのだ。
そして彼女は我に帰ると、慌てて馬車に引っ込んで身だしなみを整え、平静を取り繕ってから扉を開けて馬車の外に降り立った。
馬車の前では、急に現れたジョゼに驚きを隠せないフェリクスが、呆然と馬上で身を固めていた。
「ジョ、ジョゼさん!しかし…何で?」
「はい、デファンス伯のお屋敷に行儀見習いとしてお勤めする事になりまして、只今到着いたしました。…アンジェルには事前に手紙で伝えてあったのですが、聞き及びではありませんか?」
すっかりと平素の表情を取り繕ったつもりでそう述べるジョゼ。
だが、パスカルだけはその声の僅かな上ずりを捉え、うっすらと笑みを浮かべていた。
フェリクスはといえば、ジョゼのその言葉に数日前のアンジェルの言葉を思い出していた。
(そういえば、出発前に大ニュースとか言って駆け込んで来ていたが…この事か!)
話を聞かずに出発した自分も悪いが、それを言わなかったアンジェルに対して恨み言半分、安堵の気持ち半分を込めてため息をつくフェリクス。
(まぁ、聞いてたらまともな巡回にならなかっただろうしな…任務に身が入らなくて。)
そんな事を考えながら、気を取り直して会話に戻る。
「成程、まぁ事情は分かりました。それでしたら、班長達が戻り次第町までお送りしましょう。盗賊出没の情報を受けて捜索を実施していたのですが、そろそろ街に戻る頃合でしたので。」
フェリクスの言葉に、渡りに船だと笑顔で礼を述べるパスカルとジョゼ。
一方のフェリクスは、馬を下りると馬車に再度乗り込もうとするジョゼに手を差し伸べて微笑む。
「デファンスへようこそ、ジョゼさん。」
「オデット、只今戻りました。」
デファンスの町、ダマーズ商会の支店長執務室。
ノックの後にその部屋に入ると、ブリジットはそう挨拶をした。
「お帰りなさい、ブリジット。それで、首尾は?」
オデットの言葉に、それまで平静を保っていたブリジットの紅を塗った口端が歪む。
「はい、計画通り、散々怖がらせてから騎士隊に押し付けてきました。再会のシチュエーションとしては中々のものだったと思います。」
「そう、上出来ね。それで、子供達の方は?」
「はい、日頃の教育の成果を十分に発揮し、無事騎士達を撒いて帰還しました。もし騎士隊が何らかの手がかりを掴んで後日言いがかりをつけてきても、どうとでも誤魔化せましょう。」
実際、彼らのやった事と言えば馬車に併走しそれを追い抜く事でしかない。
騎士隊の静止を振り切った事は問題ではあるが、「急いでいた」で済まないこともない。
(まぁ、ギルドが流した存在しない盗賊団の噂に踊った騎士隊と御者には同情するけどね。)
心の中でそう呟いてから、オデットは笑みを浮かべる。
「じゃぁ、あの子達もそろそろ見習いはお終いね。これからは徐々に現場に慣れさせてちょうだい。」
オデットの指示に、ブリジットは無言で頷く。
「ああ、そういえば貴方達が出かけている間、アンジェルが遊び相手がいないって暇そうにしてたわよ?」
「…そういえば、『農場』の子供達と教育担当が揃って抜ける事はいままでありませんでしたね。」
記憶を思い出しつつそう呟くブリジット。
「ええ、そうね。だから、明日からもしっかりと鍛え上げてちょうだいね。」
「はい、オデット。」
笑みを浮かべて指示をするオデット。
だが、それに答えるブリジットの表情は冴えない。
「ですが、我々にとっての血のにじむような訓練も、彼女にとっては遊びの一環でしかないのは憂慮するべきではないでしょうか…あの子の才能は、おそらく貴女に匹敵するものですよ、オデット?」
だが、そのブリジットの発言を受けても、オデットが笑顔を崩す事はなかった。
「だからこそよ。確かに彼女はギルドの正式なメンバーでは無いけど、我々の技術を身に着けた彼女がお嬢様の下にいることで、我々にとっての大きな利益をもたらす筈よ。」
そう言って彼女はさらに笑みを深くした。