2-26 侍女とお嬢様と休日(6)
前回投稿時に丁度1周年を迎えていました。
すっかり忘れていましたよ。
神暦720年 王の月24日 森曜日
組んでいた腕を解き、商品を見てまわるために離れていったユーリアを見送りながら、マリオンは内心途方に暮れていた。
自分と共にアクセサリーの店を見てまわるユーリアは楽しげで、彼女もこの買い物を楽しんでいる事に疑いはないが、彼女が商品を買う事は一度もなかった。
また彼女に似合いそうな物を贈ろうとするとやんわりとそれを断り、そしてまた楽しげに買い物を続けるのだ。
「何故、お姉様は見てまわるだけなのでしょうか。」
思わず呟くと、それを聞き届けたジョゼが答える。
「おそらくユーリア様は、商品の購入を自制していらっしゃるのだと思われます。手持ちに余裕があるとはいえ、今は一介の侍女。貴族の令嬢並に金銭を浪費しては、周囲から眉を顰められましょう。」
「では何故買い物などに?」
「庶民の間では、買い物というのは物を買うだけではなく、見てまわる事も目的のひとつとなっております。理由があって物を購入できない場合は、商品を見るためだけに店を訪れる事も多々あります。私の見たところ、ユーリア様は十分にマリオン様との買い物を楽しんで居られる様見受けられましたが。」
ジョゼの言葉に、マリオンはそういうものかと一先ずは納得する。
だが、このまま何も買う事が無く終わってしまえば、今日を思い起こす物が何も残らなくなってしまう。
そのために何か贈り物を…と考えていたのが、品を変え薦めてみるも、一向に実を結ばないのは前記のとおりである。
マリオンは大きくため息をつくと、どうしたものかと考えながら棚の間を歩く。
視線は商品の間を泳ぐが、何も情報として入って来る事はなかった。
ジョゼは彼女を見守りながらその後についてまわる。
そしてぐるりと棚を回り、カウンターの前に来たときに、彼女に声がかけられた。
「お嬢さん、何かお探し…というかお悩みかな?」
声に振り向けば、カウンターの椅子には先程の老婆ではなく、燃えるような赤い髪の女が座っていた。
ローブ姿のその女の年齢は…自分の母親くらいだろうか?
だがその生気に満ちた立ち振る舞いはもっと若く見えるし、その何もかもを見透かすようでいて揺るぎの無い瞳はもっと老齢のように見える。
軽くウエーブの掛かった彼女の髪から先の尖った耳が突き出ている所からすると、妖精族だろうか?
だが、彼女には具体的な種族はさっぱり思いつかなかった。
「あら、先程の店主ではないのですね?」
マリオンの問いに、彼女は苦笑する。
「これは…随分と重症のようだね。店主は私に店番を押し付けて、隣の店に向かったよ。君の横を抜けてね。」
彼女の言葉を、マリオンは驚きをもって受け止める。
まったく気付かなかった。
それ程にまで考えに没頭していたのか。
「さて、押し付けられはしたが、店員として義務を果たすとしよう。何かお探しかな、お嬢さん。その悩みを解決するに足る何かが、あると良いのだが。」
「なんともまぁ、随分と好いているのだね、ユ…お姉様の事を。」
マリオンの悩みを聞いて、その女は声を上げる。
彼女の言葉は何処と無く楽しげだ。
だが、女というものはいくつになっても艶聞には心惹かれるものであり、特におかしな所も無い。
「はい。ですがちっとも贈り物を受け取ってくださらなくって。」
「いやいや、慎み深くてしっかりとしたお嬢様じゃないか。あれやこれやをほいほいと受け取って、殿方に笑顔を振りまくような尻軽よりかはよっぽど好感が持てる。」
そう言いつつ声が歪むのをきいて、マリオンは彼女の表情を伺う。
どうやら、あふれ出る笑いを堪えているように見えた。
「ですので、何かお姉さまが気に入って、受け取って貰える物が無いかと探しているのですが。」
店の奥、その先からユーリアと護衛の…テオと言ったか?男の声が聞こえる。
お姉様の周りをうろつくあの男…お姉さまが靡くとは思えないが、注意が必要だとマリオンは心に留める。
「ふむ、そうだね…若い娘向けの商品は…生憎と贈って喜ばれそうな物は無いね。月の物を軽くする薬、媚薬、避妊薬…どれもこっそりと自分で買いに来るような物だしねぇ。」
「ええ、流石にそういった物は贈れませんわね。」
マリオンは頷く。
どれも贈る事で常識が疑われる上に、最後の物が必要な状況はそれ自体を阻止すべきだ。
「隣の部屋から見た感じだと、随分と活発な娘に見受けられたが、武具の類も彼女に似合ってお気に召しそうな物…は無かったな。」
そう言って、カウンターの奥の扉を指し示す。
店に入ってきたときには見当たらなかったが、そこに居たようだった。
「アクセサリー類も無いことも無いが…どれも魔導具でそれなりの値がする。普通のアクセサリーで受け取ってもらえないのなら、そちらも望み薄だろう。」
そう言って腕を組む女。
「後は小物や生活雑貨…薬草を使った石鹸などはどうだろうか?薬効あるもの、香りの良いもの、肌に優しいもの…などがあるが、幾つか買って、そのお裾分け…といった感じでなら受け取ってもらえるかもしれない。」
「消え物は…形として残らないので、あまり気が進みませんわ。」
「ふむ、そうかね。だが、そういったように一緒に購入して分かち合うのなら…いや、いっそのこと押し付けるとしたら…?そうか!」
女が何かを閃いた様でニヤリと笑った。
「若い娘向けではないが、若いカップル向けのもので面白い物がある。これなのだが…。」
そう言って、ローブの袂に手を突っ込みごそごそと漁りだす女。
そして引き出された手には、二つの輪が握られていた。
「『睦言の腕輪』。この腕輪をしている男女は、遠く離れていてもその心を通じ合わせる事ができる…といったものだが、機能は性別で制限が掛かるものでは無いので、問題ないだろう。」
そう言って腕輪をカウンターに置き、マリオンにそれを取るよう手の平で促す。
マリオンがおっかなびっくりと手にとって見ると、それは同じ様なデザインだが、それぞれが微妙にサイズと色合いが違っているのに気付く。
「材は共にミスリル。大き目の腕輪には日長石、小さめの腕輪のほうには月長石があしらってある。これを二人で購入するのであれば、片方は受け取ってもらえるのではないか?」
大きめの腕輪は男物らしく、大粒の赤い石に腕輪の幅はマリオンの小指二本分程度。
施された彫刻も深く、女性であれば足環にもなりそうなくらいの円を描いている。
もう一方はやや小ぶりの白い石に小指一本分程度の幅をしており、薄く施された彫刻はほっそりとして控えめな印象を受ける。
「まぁ、素晴らしい。これでしたらお姉さまにもよくお似合いですわ。…ですが、お値段で断られてしまうのでは?」
マリオンの言葉に、女は渋い顔で頷く。
「そこが唯一の問題点だな。それ二つで大負けに負けても大金貨5枚。生憎と商売でな。これ以上は負けられん。」
女の言葉に、マリオンが表情を曇らせる。
だが、そこに後ろで控えていたジョゼが口を挟んだ。
「お嬢様、差し出がましながら、ひとつご提案が。」
「何かしら、ジョゼ?」
「当家への請求書を手頃な額で切っていただき、別口で差額をお支払いするのは如何でしょうか?」
彼女の言葉に、マリオンはハッと表情を変える。
「まぁ!素晴らしい機転だわ、ジョゼ!!」
「ふむ、それなら…だが、だとすると、魔導具として売るには安過ぎるな。効果は伏せて、普通のアクセサリーとしての値段であれば、不自然では無いか。となると名目は口止め料か。」
そう言って女はニヤリと笑う。
「だが既に会計を済ませて、支払いを半分押し付けるのも些か強引だな。ならばまずは共同での購入を持ちかけ、それで渋るようであれば既に支払いを済ませたと伝えるのが上策だな。だとすれば、店主にもこれを伝える必要が有るか。」
女は手近な紙に店主への現状の説明をサラサラと書いていく。
「これを…そちらのお付きの人の方がよさそうだな。お嬢様が気を引いているうちに、隠れて店主に見せるといい。『お姉様』に気付かれんようにな。」
そう言ってその紙をジョゼに手渡した。
「お姉様、お姉様!」
小部屋で採寸をしていた私たちのところに、マリオンが飛び込んできた。
何か嬉しい事があったのか、彼女の頬は上気し、妙に興奮しているようだ。
「まったく、はしたないわねぇ…それに、採寸室に飛び込んで来るなんて、服を脱いでいたらどうするのよ?」
私は彼女を軽くたしなめる。
そう、私は部屋に入ってから外套を脱ぎ、鎧下を着込んでから採寸を受けていた。
よって、もし殿方が飛び込んできても、悲鳴を上げる事も無い。
「あら、それは申し訳ありませんでした、お姉様。それよりもそれよりも!」
ちっとも申し訳なさそうに、マリオンが言う。
まったく、何があったのよ。
「こんな腕輪を見つけましたの。お姉さまと私にぴったりだと思いますわ!」
そう言って腕輪を突き出してくる。
生憎と採寸中で身動きがとれなかったが、彼女が私の目の前に腕輪を突き出したので、よく観察する事ができた。
それは少し太めの男物と思われる腕輪…赤みを帯びた半透明の石の中で、内包物がキラキラと輝いている…日長石だっけ?
材は銀色…でも微妙に色合いが違うわね。
ひょっとしてかなりミスリル純度が高いのかしら?
「材はミスリル製、石は日長石と月長石をあしらった腕輪ですのよ。お姉さまにもぴったりですし、私もとても気に入りましたの。よければ一緒に買いませんか?」
やはりミスリルと日長石か。
だが…。
「半貴石とはいえミスリル製よね…結構高価いんじゃないの?」
「それが、二つで小金貨10枚だそうですわ。」
千ゴルダ…若い娘向けのアクセサリーにしては高価いわね。
けど、ミスリル材なら、こんなものだろうか?
半貴石は値段なんて多寡が知れてるし、ほとんどがミスリルの価値か。
それだと、私の腕輪のほうが、ミスリルを多く使っている分高くなる?
いや、石についてはマリオンの物のほうが高価か。
あっちは半貴石、こっちは飾り石レベルだ。
迷う所ね…ミスリル製の腕輪という点では、すごく欲しい。
これを着けたときの効果とかすごく知りたいし。
でも、こんなものをぽんぽん買っていては周りの視線が厳しい…。
と言っても、貴石って訳でもないし、仕事中に身に着けるのでなければ、大目に見てもらえるわよね。
それどころか、伯爵令嬢としては安物レベルもいいとこだし。
色々と悩みながらマリオンに視線を向けると、何かを期待するような、不安がるような視線でこちらを見つめていた。
その表情を見て、思わず噴き出す。
私は、何をしていたんだろう。
年下の彼女にこんなに気を使わせて。
ここで断るようなら、お姉様失格じゃない。
「私も気に入ったわ。でもまだしばらくは動けないから、先に会計を済ませてきて貰えるかしら?私の分は後で払うから。」
私の言葉に、マリオンは満面の笑顔で頷く。
そしてジョゼの名前を呼びながら、小部屋を出ていった。
扉を開けっ放しにして。
…ちょっと、マリオン?
採寸した後に防具の細かいデザインや支払いなどを詰めて、樫盾商会の扉から通りへ出た。
マリオンはやはり私の左腕にくっつき、私たちの後にジョゼとテオが続いている。
ちなみに採寸後に、右手に腕輪をした状態で数回軽く空を殴ってみたところ、やはりミスリルの効果なのかそちらだけ異様に速く拳を振り抜く事ができた。
それを見ていたテオは、「腰が入ってない上に重心の移動も滅茶苦茶なのに、何て速さの拳だよ!」と呆れていた。
さて、日も落ちて街に明りが灯り、家路へと急ぐ人と酒場へと足を向ける人とが混じる中、私達は後者の一部となって約束の酒場へと向かう。
工房街から少し離れた、水軍の城砦に程近い区画にある『川風亭』へ。
「あ、やっと来た。遅かったわねぇ。」
酒場に入った私たちを女給が出迎え、水軍連中の占有するテーブルへと案内する。
そこにはイングリットと先に酒場に到着していたナターシャとマリエル、そしてこの前のオーガさん。
そして周囲のテーブルには同じ様な格好の日焼けした肌の男達…彼らも水兵だろう。
「色々買い物をしていて遅くなったわ。あと紹介しておくわね。彼女がヴァレリー水軍のイングリット。んでこっちが私の妹分のマリオンと、お付きのジョゼよ。」
「マリオン・リースです。良しなにお願いいたします。イングリット様。」
「ジョゼです。お見知りおきを。」
「イングリット・シロッコよ。リースって…ブリーヴの?あらまぁ、本当にお嬢様なのね。」
それぞれが自己紹介する中、イングリットが驚いたようにおどけてこっちに茶々を入れる。
「あらやだ、信じてなかったの?こんな私でも伯爵令嬢よ。碌に社交界には出ていなかったけど。」
私は肩をすくめて言い返したが、そんなふざけたやり取りにマリオンが勢い込んで口を挟んだ。
「お姉様は素晴らしい方ですわ!凛々しくて優しいだけではなく、強くて勇敢ですもの!!」
それを聞いてイングリットが少し驚くも、すぐにナターシャと視線を交わして納得するように頷く。
「聞いてはいたけど、聞きしに勝るわね。」
「別に珍しくも無いわ。お屋敷の女中の中には、ユーリアが気になっている子も居るし。」
「まだお屋敷に来て一巡り程度でしょう?早くない?」
ナターシャとイングリットが声を潜めて何やら言っているが…私が来る前に私を肴に結構盛り上がっていたのだろうか?
というか、聞き逃せない内容が含まれていたような。
「まぁそれとして、とりあえずは座って頂戴。あ、アニー、注文よろしく!」
席を勧めると共に、イングリットが女給を呼んだ。
常連だけ会って、女給とも顔見知りなんだろう。
「へぇ、すごいわね、これ。」
目ざとく私の腰の凍える大河を見つけたイングリットに請われ、私はそれを渡す。
刀身を引き抜いてそれを眺めつつ、彼女は感嘆の声を上げた。
ちなみに私はイングリットの隣に座り、その反対側にはマリオンが着いた。
ジョゼさんはナターシャの隣、テオはオーガさんと何やら話しているが、生憎と店内が騒がしく話の内容は聞こえてこない。
ただ、時折二人の視線がこちらに向くのが気になる。
マリエルは…水兵達と一緒に盛り上がっているが…ピッチは大丈夫か?
「お姉様は、外出時には何時もそれを持ち歩いてますのよ。」
「護身用には丁度いいサイズだからね。これを持ってるだけで、変なのはちょっかいをかけてこない…訳でもないか。」
カルヴァドスのグラスに口をつけながら、この街に来た時の事を思い出す。
実際、密輸船の水夫に襲われている。
本当に、見る目のない奴だった。
尚、この酒を選んだのは昨日の夜会で飲めなかったからだ。
夜会では様々な高級酒が振舞われ、色々と飲みたいお酒もあったのだが、流石にそれに手を出す訳にも行かなかった。
精々が氷が解けて薄まったり気が抜けたりした廃棄予定の弱い酒を『処分』する程度だ。
「私も青鉄鋼のカトラスは持ってるけど、これは見惚れるわね。しかもこれ、妙に冷たいんだけど…魔剣?」
「ええ、そうよ。運よく手に入れたというか、変に吹っかけられたと言うか…。」
お母様が持っていた剣だというのならば、購入するまでも無く私に引き継がれたはずではあるが…まったく、お師匠は何を企んでいるのやら。
「けどやっぱり、船上の剣術って騎士団のものとは勝手が違うの?」
「違うわね。あっちは決め手は大振りで鎧を断ち切るような剣術だけど、こっちは不安定な船上で、防具も精々が革鎧だし…それで小刻みに相手に傷を負わせていく剣術ね。まぁ隙があれば致命傷を狙っていくけど。」
やはりそういうものか。
ちなみに水軍の運用として、水上を移動して敵の背後を突く戦術もあるが、所詮は軽歩兵程度なので騎士団相手には分が悪い。
「詳しく知るには実際に体験してみるのが一番なんだろうけど…一度船に乗ってみる?」
イングリットの誘いに、思わず身を乗り出す。
故郷では川舟に乗った事もあるが、10人も乗れば不安定になるような小型の船だった。
軍船クラスは初めてだ。
「ウチの水軍は、ブリーヴから王都ぐらいが守備範囲ね。それも主に本流だけ。流石に支流まで入っていけるほど小回りはよくないから、そっちは各領地の衛士が小船で担当してるわ。1日あれば、どっちかまでの往復ならできるけど…。」
「もし我が領へいらっしゃったとして、一緒にお茶をするぐらいの余裕は取れますの?」
マリオンが口を挟む。
その口調には、隠し切れない期待が透けて見える。
「それ位なら大丈夫ね。水兵達もいつも小休止や買い物程度はしているし。水兵は長持一個分の個人スペースが認められているから、それを利用して小遣い稼ぎしているのも居るわね。」
「それは素晴らしい考えですわ!是非我が領にいらして下さい!!」
マリオンが身を乗り出してくる。
「そうね、機会があればね。でも、前もって知らせておかないと迷惑よね。」
「とんでもありませんわ!お姉様でしたら、いつでも大歓迎ですわ!!」
マリオンが是非にと推して来る中、私たちは苦笑する。
まったく、わかりやすい子だ。
「とりあえず、任務にも予定があるから、それとユーリアの休暇との折り合わせ次第ね。折角ユーリアが船に乗っても、王都行きの任務だったら無駄足でしょう?」
「そう…ですわね。」
イングリットの言葉に、落ち着きを取り戻したのか、椅子に座りなおすマリオン。
「まぁ、そのうちね。いつになるかは分からないから、気長に待ちなさい。」
「はい、お姉様。楽しみにしていますわ。」
その後も門限付近まで色々と飲んで、食べて、会話を楽しんだ。
カルヴァドスのあとにはイングリットお勧めの帝国産のラムを酌み交わす。
コムナ川では、酒商人がカノヴァスのワインやブランデーを積んで川を下り、帝国やナ・ポーラ国のラムやテキーラなどを積んで遡上すると言う話だ。
生憎と帝国とこの国は仲がいいとは言えないので、軍船で直接買い付けにはいけないのが残念だとイングリットは笑っていた。
そんなこんなをしているうちに、マリエルの挙動がいよいよもって怪しくなり、マリオンも酒が回ったのかうつらうつらし出したので、お暇する事にした。
今日はマリエルをナターシャが背負い、マリオンを私が背負う。
執政館の道すがらマリオンが私に抱きついてきたのだが、その細腕が首に食い込み、ジョゼが大いに慌てて難儀したのは余談である。
と言うかテオ、笑って見てないで手伝いなさいよ?
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執政館、カロンの私室兼研究室。
夜の帳が降りる中、まばゆい魔法の明かりの下で、老魔導師は書物に没頭していた。
だがその机上には、魔法の明かりの下ではさして意味をなさないであろう炎を灯した燭台があり、その炎が彼の呼吸に合わせて僅かに揺らいでいた。
そしてそのままどれだけの時間が経ったであろうか。
蝋燭の炎が大きく揺らぐと、彼は鋭い視線を部屋の扉に向けた。
「邪魔するぞ。」
そこに立っていたのはローブ姿の1人の女性。
その燃えるような赤い髪、何時までも変わらぬその外見、そして多くの知識を得た現在でも見当すらつかないその種族。
そこに彼女が居ると言う事実に、驚きから一瞬動きを止めるが、すぐに彼はそのしわがれた顔により一層の皺を浮かべた。
彼にとっては、彼女は自らの師匠に並ぶ存在…師匠の友人と言うだけではなく、彼女からもまた多くの事を学んだ。
そして、現在の世間一般の評価では彼と並ぶ存在であり、彼のもっとも長い友人である。
「これはこれは…久しいですな。」
「ああ、直接会うのは2年ぶりか?」
「ええ、正に。しかし、いつもながらの突然の訪問、用件は…お弟子の様子見ですかの?」
老魔導師の言葉に、女は苦笑する。
「いや、そのつもりは無かったのだがな…結局はスルヤのところでそれを済ませてしまった。まぁ今回は他でもない、あの『腕輪』を手放してしまったのでそれを貴殿に伝えようと思ってな。」
彼女の言葉に、老魔導師は大きく頷く。
スルヤ…町の魔導具屋の主人であり、彼にとっては目の前の彼女に次ぎ付き合いの長い、そして共通の友人だ。
「あれはとうにお譲りしたもの。別段、断りなど必要ありませぬ。ですがひとつだけ…全部手放したのですかの?」
彼の問いに、彼女はニヤリと笑みを浮かべる。
「二つだけだ。『睦言の腕輪』、それだけだ。」
彼女の言葉に、魔導師は最初に目を見開き、やがて再び笑みを浮かべる。
「おやおや、それはまたお人が悪い事で。しかし、私にそれを伝えると言う事は…近しい人物なのでしょうな。」
「ああ、腕輪については別段隠し立てする必要は無い…が、三つ目については秘して貰った方がよさそうだ。まぁ、先に伝えた通り、あ奴の事は当分貴殿に任せるのだ、これもまた任せるさ。さて、そろそろお暇するとしよう。あ奴が居なくなって当分は楽ができると思ったら、また面倒事を運んできた。そう長々と外出もできんわ。」
そう言って、くるりと身を翻す。
「では、達者でな。」
「ええ、貴方様も。」
そう言葉を交わすと、彼女は振り向きもせずに部屋を出ていった。
後に残るのは、彼と、僅かに揺らぐ蝋燭のみ。
彼は大きく息をついて炎を揺らすと、そのまま何事も無かったかのように書物へと視線を落とした。
ラムは…地元がサトウキビの北限だとかで、地元の銘柄があったのですが今はもう作っていないようですね。
存在を知ったときにはとき既に遅し…げしょ。
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読んでいただき、ありがとうございました。
次の話を楽しみにしていただけたら、幸いです。
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