章外7 小間使いの旅(6)
神暦720年 王の月19日 地曜日
少しばかり時間がかかってしまったので、この時間であれば皆既に寝付いているだろう。
そう思いながらジョゼがヴァネッサの部屋に戻ると、ベッドの上には部屋の主がまだ起きていた。
「奥様、まだ起きてらしたのですか?」
ジョゼの声を潜めた問いかけに、ヴァネッサは膝枕をしたアンジェルの髪を撫でながらやはり声を潜めて答える。
尚、マリオンもヴァネッサに身を寄せるように眠っていた。
「だって、みんな寝ていたら貴方は控え室のほうで寝てしまうでしょう?」
侍女の控え室には狭いながらもベッドが二つ備え付けられており、普段は夜番が1人で使用している。
手入れ自体は二つとも欠かさず毎日行われているはずだ。
主人達との共寝に抵抗を感じている為、皆が寝付いてるのであればそれを使えると期待していたジョゼは、ベッドの横に控えるとヴァネッサの質問に無言で首肯した。
「ほら、やっぱり。それで、御用事は何だったの?」
くすくすと笑いながらヴァネッサが問う。
「はい、旦那様がフェリクス様と話するようにと仰ったため、お部屋にお邪魔しておりました。お待たせして申し訳ありません。」
「そう。それで、何かあったのね?」
ヴァネッサはジョゼの所作の中に、どこか浮ついた雰囲気を感じていた。
「いえ、大したことは…ただ…」
「ただ?」
「フェリクス様に求婚されました。」
ジョゼの言葉に、大きく目を見開き、「まぁ!」とヴァネッサは感嘆する。
身を乗り出して「それでそれで?」と続きを促す彼女に、ジョゼは静かに答える。
「はい。それについてはお断りさせて頂きました。お嬢様が成人なさるまではお応えできないと。」
ジョゼの言葉に、あからさまに落胆するヴァネッサ。
「そう…でもいいのよ?あなたの忠誠心は有難いけど、あなたをこの家に縛り付けるつもりは無いし、もっと自分の幸せを追い求めても…。」
「いえ。お嬢様の成長をお見守りする事は私の至上の幸せです。せめて成人まではこの館に居させていただきたく思います。それに…フェリクス様には、お嬢様の成人後でしたらお受けするともお伝えしました。」
「えっ?じゃ、じゃぁ…。」
「そのときに気が変わらないのであれば、再度求婚いただける様お願いいたしました。ですがフェリクス様は才気にあふれる上にまだ若く家柄も立派な方…私などよりも素敵な女性が…。」
「駄目よ、そんなのじゃ!」
「えっ?」
「そんな受身では、恋は実らないわ!たとえ他にどんな女性が居たとしても、自分のほうに振り向かせてみせる。負けてもいいなんて考えでは、勝機は訪れないものよ?」
思わず力の入るヴァネッサの言葉に、アンジェルが煩わしげに寝返りを打つ。
二人はそれを眺めた後に顔を見合わせて微笑を交すと、再び声を落として話し出す。
「ですが奥様、私は恋など…。」
「けどジョゼ、嬉しかったんでしょう?求婚されて。」
「いえ、ですが、それは…。」
「嬉しかったんでしょう?」
「……はい。」
ヴァネッサの念を押す言葉に、声を絞り出すように答えるジョゼ。
その顔は赤く染まっている。
「そう。だったら、悔いの無いようにね。マリオンも聞けば喜ぶだろうし、私も応援するわ。
なんだかんだ言ってサミュエルもそうね。リース家全員で応援するから、負けは許さないわよ?」
「奥様…。」
ヴァネッサの言葉に、ジョゼは深くお辞儀をして表様を隠す。
ヴァネッサはそれを微笑みながら眺める。
「さぁ、忙しくなるわよ?どこに出しても恥ずかしくないように、貴方を立派な淑女に仕上げないと。まぁ、侍女として基本はできているから、マリオンよりも手間はかからないと思うけど。そうね、明日からはマリオンと一緒に礼儀作法のレッスンを受けなさい。彼女も、身近な手本があれば上達が早いでしょうし。まぁ、何にせよ明日からね。」
そう捲くし立てるヴァネッサに、相変わらず頭を下げたままのジョゼは少し鼻声で「はい」とだけ答える。
「さて、もういい時間だから、いい加減に寝てしまいましょう。貴方も寝巻きに着替えて、早くこっちにいらっしゃい。」
そう言ってヴァネッサはジョゼを自室へと送り出した。
彼女はジョゼが寝巻きに着替えて戻るとベッドに招きいれ、娘同様ジョゼが眠るまでその髪を撫でるのだった。
神暦720年 王の月20日 闇曜日
「成程、これがミーアちゃんの毎朝の行動なのね。」
ヴァネッサの寝室の中、既に起床したヴァネッサ、マリオン、ジョゼの視線の先には、アンジェルの身体の上で丸くなるミーアが居た。
アンジェルの顔は苦悶に歪み、時折うめき声も聞こえるが、アンジェルの腹の上でミーアは微動だにしない。
「お姉さまにお聞きした所、毎朝目が覚めたときにはこうなっているらしいですわ。」
「流石にこれが毎日続くようでは…アンジェル様の健康にも影響が出るのではないでしょうか?」
ジョゼの言葉に、ヴァネッサは「そうねぇ。」と同意する。
ミーアの体長は約3キュビット(1.34m)と剣牙猫としても大柄で、体重は2クォーター(22.6kg)に近い。
アンジェルのような子供にとっては酷な重量だ。
ちなみに、ジョゼはヴァネッサが起きたときには既にお仕着せに一分の隙も無く着替えていた。
「だったら、もう起こしてあげたほうがよいでしょうか?」
「そうね。状況的に見ても、『寝かして置いてあげましょう』といった雰囲気じゃぁないわね。」
ヴァネッサの言葉に、ジョゼが「失礼します」の断りとともにミーアを抱えあげる。
そしてびろーんと伸びたそれを床に下ろす間に、マリオンがアンジェルを揺り起こす。
「アンジェル、朝ですわ。アンジェル~。」
「んっ、…うえ、姉ちゃん?」
起き上がったアンジェルが寝ぼけ眼のまま周りを見回し、ヴァネッサを見つけるとにまーっと微笑む。
そして横座りする彼女の元に這い寄ってからその膝に顔を伏せ、再び寝息を立て始めた。
「あらあら、これじゃ朝食は少し遅くなりそうね。」
そう言いつつも、愛しげにその髪を撫でるヴァネッサ。
だがそれを見てマリオンは頬を膨らませる。
「うう、お母様のほうが懐かれてますわ。あの一晩、閨を共にしたというのに。」
そしてよよと泣き崩れる真似をしつつも、すぐに立ち直り「この分はお姉さまに甘えることで晴らさせていただきますわ。」と本人不在の間に決意を新たにするのだった。
その日、フェリクスは浮かれていた。
昨晩、ジョゼにお付き合いを申し込み、一度はお嬢様のお世話を理由に断られてしまったが、1年後にはとの確約をもらうことができた。
出会ってから3日、自分でも性急だとは思うが、好きになってしまった物は仕方が無い。
思えばこれまで、これはと思う女性に出会って来なかった事もある。
彼の母は遠い親類である武門の家から父の元に嫁いだ。
出自が出自だけあって、男勝り…とは言わないまでも、今では立派な騎士家の奥方だ。
そして自分の親類…叔母は元正騎士の男勝り、ついこのあいだも剣術の相手を願い出のだが、今の自分でもまったく歯が立たない相手であった。
そしてその娘たち、ユーリアは叔母とは血の繋がりは無いが、彼女の後を追うかのように剣術の腕を上げ、この前も傭兵崩れの盗賊たちを相手に大立ち回りを繰り広げていた。
そしてその妹も、姉に憧れて剣術の道に足を踏み入れたと聞く。
そんな女達に囲まれて育ったため、お淑やかな女性に対する憧れは人一倍だった。
そんな自分がジョゼに惹かれるのは致し方ない事だ…と自分を正当化する。
切れ長な瞳に繊細な表情、お嬢様を見つめるときの優しげな眼差し。
自分と同じ銀髪のはずなのに、滑らかさと輝きはどうしたことか。
侍女として職務を完璧に全うする清楚さと有能さ。
そしてたおやかな体つきに、それでいて豊満な胸。
一目で惹かれて、そしてユーリアとアンジェルのおかげで、何度も関る機会ができた。
そして昨日、突然の事ではあったものの伯爵に半ば無理矢理招待され、彼女に心のうちを打ち明ける事ができた。
昨晩彼女と別れた後に、思わず喝采をあげ慌てて口を押さえたりなどもしたが、イマイチ自分でもその僥倖を信じる事ができず、何度も自分の頬を抓って夢でない事を確かめてから、半ば夢心地のまま眠りについた。
そして一晩が開けた。
目覚めて昨日の事を思い出し、そして両頬が腫れぼったい事を確認してから、1人ニマニマと二人の将来設計などを考えていた。
「まずは1年後…それまでは文通で互いの仲を深めるしかないか。任務の間じゃ、こっちまでこれないからなぁ。そう考えるとヴァレリーにいるユーリアが羨ましいな。あ、でも従騎士のままじゃ結婚を申し込むには少々見劣りするか。となるとできれば正騎士に昇進したいが、特に何も無ければ20歳でなれるとはいえ、それまで待ちきれないからな…となると昇進を早めるために努力するとして…、今以上に任務に打ち込むしかないかな。あー、ヴァレリーの騎士団で修行すれば、その間はこっちにも寄れるし、正騎士昇進の後押しにもなるぞ…っても、あんまり修行に出るって話も聞かないしな。」
彼が記憶を漁った限りでは、前回修行に出たのは若き頃の叔母だった。
「とりあえずは1年後にお付き合い申し込み、そしてさらに1年程度で正騎士昇進、その後結婚申し込み…いま立てれる予定もこの程度か。」
そんな事を考えていると、部屋の扉が叩かれた。
返事をすると失礼しますとの声と共に、1人の近侍が現れた。
「お客様、朝食の用意が整いましてございます。」
そう言って慇懃に銀髪の頭を下げるが、どこか敵意が透けて見える…昨日は伯爵の傍にずっと控えていた男だ。
「わかった、すぐに支度をする。」
そう告げると部屋のクローゼットへ歩き出す。
突然の招待だったため、着替えなども用意できるはずも無く、着るのは昨日と同じ服だ。
幸い寝巻きは用意してもらえたので皺にならずに済んだと言えるが、できれば自分で準備してから招待されたかった。
フェリクスが食堂に到着すると伯爵は既に席についていたが、奥方達はまだのようだった。
「おはよう、フェリクス君。よく眠れたかね?」
低い声で伯爵が尋ねる。
「はい。お蔭様で。いい夢を見る事ができました。」
上辺だけの礼を伝え、心の中で「ジョゼさんのおかげで」と続ける。
と、そんなことを話しているうちに扉が開かれ、奥方達が現れる。
先頭を歩くのは侍女であるジョゼ、その後ろには乗馬服を着て髪を結い上げ、まるでエスコートをするかのように奥方と手を繋いだアンジェル、そのさらに後ろにはミーアとマリオンが続いていた。
「おやおや、これは随分と立派な出で立ちだねぇ。」
そう言う伯爵に、アンジェルは自慢げに胸を張る。
「はくしゃくさま、おはようございます。」
「おはよう、アンジェル。うむ、なんとも可愛らしい。」
「ふふふっ、マリオンの昔の乗馬服を着せてみたの。」
「細身だから、まるでお姉さまの小さい頃のようにとても凛々しいですわ。」
そう一同が誉めそやす中、フェリクスの視線の先では、ジョゼがこちらに向け軽く一礼していた。
「さてアンジェルもお腹が減ったろう。朝食としようか。」
「うん、おなかペコペコだよ。」
一同が席に着き、朝食が始まった。
ちなみにメニューはパンケーキにベーコンとスクランブルエッグ、後は生野菜のサラダと翡翠豆のスープ。
多少品数が多いが、フェリクスには庶民の食事と大して変わらないように思えた。
「うわー、このタマゴ、おいしい~。パンケーキもふかふか~。」
相変わらずアンジェルの食器の扱いは覚束なく適時ジョゼのフォローが入っているが、本人はそれを気にせずに食べ進めてその味を堪能する。
「美味しいかね、アンジェル。そのパンケーキとスクランブルエッグには棘鶉の卵を使用していてね。鶏に比べて濃厚だろう?」
伯爵の話を聞き、思わずむせるフェリクス。
その肉でさえ一般的な鶏冠鶏の数倍の値が付く棘鶉だ。
ましてや野生種で人に飼われたなどと聞いた事の無い棘鶉では、卵にどれだけの値がつくか想像も付かない。
やはり貴族は貴族…よく考えたらヴィエルニ家のように質素を旨とする家のほうが少数派か。
「うん、すっごく美味しい。」
パンケーキの蜜で口の周りをべとべとにしながら満面の笑みでアンジェルが答える。
「うむ、そうかねそうかね。」
伯爵はそのアンジェルの口周りをジョゼが拭うのを好々爺めいた笑みで眺める。
伯爵は子を儲けたのが遅かったためまだ孫はいないが、本来であれば孫に囲まれていてもいい年である。
食事が一通り終わった後、一同は侍女や近侍の給仕を受けそのまま席でお茶を飲む。
これもやっぱりいいものを使っているのだろうなと思いながらフェリクスも茶をすする。
横目でアンジェルを見れば、焼き菓子をほおばりながらミルクを飲んでいた。
さっきあれだけ食べたのにまだ入るのか。
そんな事を考えていると、アンジェルを微笑ましげに眺めていた伯爵が口を開いた。
「そういえばフェリクス君、昨晩ジョゼに求婚したそうだね?」
その言葉にやはりフェリクスは盛大にむせる。
(危なかった!お茶を飲み込んだ直後で助かった…じゃない!求婚!?俺はただお付き合いを…。)
お茶を飲み込んだ直後の為むせた圧力の逃げ場が無く、その痛みに耐えながら弁明の言葉を捜す。
その視界に真っ赤に染まった顔で取り澄まそうとしているジョゼを捉らえ、ジョゼさんかわいいなとか考えながら。
「まぁ、ジョゼ、本当なの!?」
「その…それは…はい、お嬢様。ですがとりあえずはお断りいたしました。ただ、お嬢様が成人した1年後であればお受けいたしますと…。」
「まぁ、素敵!おめでとう、ジョゼ!!」
「あらあら、話が早いわね。目覚めた後に侍女に漏らしただけなのに、もうあなたに伝わっているだなんて。」
「はっはっは、侍女達の口に戸は立てられんさ。どうせすぐに広まると思っておったのだろう?」
伯爵の言葉に、ヴァネッサはにっこりと笑みを浮かべて返事とする。
「ジョゼ姉ちゃんって、フェル兄ちゃんとけっこんするの?」
「わ、私は…1年後のフェリクス様次第です。」
顔を赤く染めて俯くジョゼに、もうこのまま娶ってしまおうか…と流されかけるフェリクス。
しかし心構えも準備も何もできておらず、このまま流されては誠意も何もあったものでは無い。
「ごほっ、ごほっ…いえ、伯爵、私は…。」
「ほう、何かね?よもや違う等と言うのではあるまいな?」
伯爵が声のトーンを落とし凄む。
「まさかあれは冗談でしたとでも言うつもりかね?それとも遊びで済ますつもりだったのかね?もしジョゼを悲しませるようであれば、それ相応の報いは受けてもらうぞ?」
「いえっ、決して冗談だと言うつもりはありません。ですがまだ私は若輩であり、一介の従騎士でしかありません。ですのでまずはお付き合いを申し込むつもりだったのですが、ジョゼさんが途中で遮られてしまったため、双方の認識に齟齬が生じたものと思います。」
フェリクスの言葉に、伯爵はさらに目を細める。
「ほう。では求婚した覚えは無いと?」
フェリクスは席から立ち上がりテーブルすれすれまで頭を下げる。
「はい、その通りです。恥ずかしながら、齟齬に甘んじて求婚を認める誘惑にも駆られましたが、ジョセさんの思いに正面から答える為にも、それだけは許せませんでした。それにジョゼさんは伯爵家の親類と聞き及んでおります。ならばジョゼさんを娶るにしても主家に許しを求める必要があり、また許しがあっても、ジョゼさんを支え足る人物になるまでは、結婚などできよう筈ががありません。ですのでマリオンお嬢様が成人なさるまで1年…そしてジョゼさんに相応しい人物足りえるまでさらに1年の時間を頂きたく思います。」
そしてフェリクスはそのまま返答を待つ。
5秒刻…10秒刻…食堂を満たす沈黙を破ったのは、伯爵のため息だった。
「だということだ、ジョゼ。さぁ、どうする?」
頭を下げたままのフェリクスの視界の外、ジョゼの声だけが聞こえる。
「私も、舞い上がっていたのかもしれません。出会ってまだ数日だというのに、フェリクス様の言葉を自分に都合良く曲解し、求婚などと…。」
そして柔らかな絨毯の上、彼女の小さな足音と衣擦れの音が近づいてくる。
「フェリクス様、このような愚かな女で、本当によろしいのですか?フェリクス様でしたら、それこそ貴族のもっと若いお嬢様とのご縁もありえましょう?」
彼女の言葉に、頭を下げたままでフェリクスは答える。
「ジョゼさんを心の底からお慕いしております。これだけは嘘偽りの無い本心です。」
「そうなのですか。」
ジョゼは大きくため息をつき、彼の前に立ち止まる。
「では、私の答えは変わりません。フェリクス様、また1年後にお気持ちをお聞かせ下さい。そのときまではフェリクス様だけをお待ちいたします。」
彼女の返事に、フェリクスは頭を上げる。
そして目の前にいるジョゼは、幸せそうに笑みを浮かべていた。
「ジョゼさん…ジョゼさん!」
思わずジョゼを抱きしめようとしたフェリクスの首に、背後から伸びた手が絡みつき、彼女から引き剥がす。
「姉さん、本当にコイツでいいの?なんか思ってた以上に頼りないんだけど。」
「なっ、お前は?」
「あら、貴方は結構乗り気じゃなかったかしら?」
「まぁ旦那様に異を唱える事はしないけどさ、それでもやっぱり、頼りないと思うわけよ。」
絡みついた腕から抜け出し、フェリクスがジャックと向き合う。
「お前は…姉さん?」
疑問を浮かべるフェリクスにジャックが慇懃に腰を折る。
「リース家付きの近侍のジャックにございます。姉がお世話になっているようで。」
そして礼から直ると、その顔にニヤリと笑みを浮かべる。
「私の双子の弟です。フェリクス様、ご迷惑をお掛けいたしませんでしたか?」
ジョゼの言葉に「それはもう伯爵と一緒に。」と答えかけて言葉を飲み込む。
そして睨みあうフェリクスとジャックの間に走る緊張は、伯爵の言葉で遮られた。
「ジャック、もうよい。後は二人の好きにさせよう。」
「旦那様?」
「まったく、頼りない若造だとばかり思っていたが、意外にしっかりしおって…。フェリクス君、主家に反対された場合でも、可能な限り説得するのだろうな?」
「はい。場合によっては家を出る覚悟も…。」
「男が、それも跡継ぎが軽々しく出奔をほのめかすでない!だがまぁ、最後の手段としてならブリーヴの騎士隊に席を用意してやろう。だが、あくまでも最後の手段だ。中途半端は許さんからそう思え!」
伯爵の言葉に、フェリクスが頭を下げる。
「そして、ジョゼとジャックは庶子とはいえ私の子だ。もし泣かせるような事があれば、大陸中どこに行こうと逃げ場があると思うなよ?」
伯爵の言葉に、思わす言葉を失うフェリクス。
ジョセさんが伯爵の庶子…お嬢様?
ジョゼさんと一緒になったら…ジャックが義弟で、伯爵が義父?
「わかったら返事をせんか、この若造が!!」
「はい~っ!?」
屋敷の食堂に、フェリクスの悲鳴とも取れる声が響いた。
明かされたジョゼの出自に、思わずへたり込むフェリクスであったが、何時までもそうしているわけには行かなかった。
伯爵に招待されたとはいえ、班の仲間にとっては無断の外泊、それに愛馬の世話もすっぽかしている。
「それについては心配は要らん。招待の後に、宿まで使いを出しておる。アンジェル嬢と共に招待したとな。」
女性人がアンジェルの荷造りのために食堂を出た後に伯爵はそう言って笑うが、それならば教えて欲しかったとフェリクスは思う。
「まぁ、旅の途中だ。何時までも引き止める訳には行かんから、今回は早めに戻るがよかろう。あと、領地へ戻ったら早めに主家の許しを受けるのだぞ。さすれば、デファンス伯に付いてこちらに来る機会も増えよう。」
伯爵の忠告に、はいと頷く。
「あとは、あまりあいつを待たせてくれるなよ?2年後といえばあいつもいい年だし、父親の贔屓目に見てもいい女に育った。うかうかしていると他の男に掻っ攫われるぞ?」
そう言ってニヤリと笑う伯爵に、善処しますとだけ答える。
「まぁ、まだまだ若いのだ。がむしゃらにやるのがよかろう。結果は後から付いてくる。焦らぬ事だ。」
1人の侍女がノックの音と共に現れ、アンジェルの準備が整った旨を伝える。
連れ立って玄関に向かいながらも、伯爵は忠告を続ける。
「手紙は欠かさず寄越せよ?女にとってはそれが何よりも嬉しい物だ。だが、時には突き放す事で…っと、これはお前には必要ないことだな。手紙は欠かさず、だ。もちろんアンジェルの手紙も一緒に寄越すのだぞ?」
そっちが本命じゃないのかと思いながらも、それに頷く。
そんなこんなしているうちに、玄関にたどり着いた
「アンジェル、またお会いしましょう。」
「アンジェルちゃん、お手紙頂戴ね。」
そこにはアンジェルを見送るヴァネッサとマリオン、侍女や女中たちがいた。
またそのうちの何人かは名残惜しげに寝そべるミーアを撫でている。
「ミーア様、お名残惜しゅうございます。」
「それにこの手触り…もう普通の猫じゃ満足できないわ。」
「ああ、この肉球を失って、何を楽しみに生きていけば…。」
ミーアは何時の間にやらそのシンパを増やしていたようだった。
「さてフェリクス君、また会おう。と、別れの前にひとつお願いがあるのだが。」
「はい、私にできることでしたら。」
畏まった伯爵のお願いに、身構えるフェリクス。
「アンジェル嬢の荷物を頼めるかね?家内が事のほか多く持たせたがってね。」
伯爵の言葉にアンジェルの足下を見れば、もって来た鞄のほかにひとつ鞄が増えており、その量はフェリクスにとっても軽くないものだった。
領主の館を出て、宿に向けて歩く。
荷物も持ったフェリクスの前にはアンジェルとミーア、そしてその右側にはジョゼが並んで歩いていた。
「ジョゼさん、荷物重くないですか?」
「いえ、大丈夫です。」
そう言葉を交しただけで、二人の間に沈黙が満ちる…それを破ったのは、ジョゼの忍び笑いだった。
「ふふふ、通常であれば、代わりに殿方が荷物を持つものですけどね。」
「いやぁ、流石に二つは厳しいですね。」
冗談っぽく指摘するジョゼに、愛想笑いでフェリクスが返す。
そしてそのまま、二人は笑顔を浮かべながら歩いていく。
「じつはですね、ジョゼさん。私だって、やろうと思えば2つの鞄を両手で運ぶ事ができるんですよ。」
そう言って、フェリクスは鞄を左手一本で持つ。
「私だって、肩に背負えば2つだって運べますわ。」
そう言って、ジョゼは鞄を右肩に背負う。
そして、二人は見つめあい、やがてフェリクスが差し出した右手を、俯いたジョゼが左手で小さく握る。
だが二人の視線はあらぬ方向へ反らされ、そのまま無言で時が過ぎていった。
二人の前方、きょろきょろと町の中の風景を見ていたアンジェルが、二人が手を繋いでいるのを目ざとく見つけて、駆け寄ってくる。
「兄ちゃん、姉ちゃん、おれも混ぜて!」
そう言って、アンジェルはお構い無しに繋がれた二人の手にぶら下がろうとする。
流石にそのままではアンジェルを支えきれないので、慌てて二人の手はしっかりと結ばれ、そして柔らかな視線も結ばれれた。
「へへっ、みんな一緒だと楽しいよね。」
そう言って、全体重をかけてぶら下がるアンジェル。
二人はそのまま、宿の前までアンジェルをぶら下げて歩いていった。
宿の前にたどり着くと、ジョゼはフェリクスに向き合った。
「それでは、お名残惜しいですが此処でお別れです。またお会いできる日を楽しみにしております。」
そう言って、一礼するジョゼ。
「ジョゼさん、近いうちにまた。もしそれができなくても、1年後には必ず会いに来ます。」
「はい、お待ちしています。」
「ジョゼ姉ちゃん、またね!」
「ええ、アンジェルも。しっかり務めを果たすのですよ?」
「うん、まかせて!」
手を振るアンジェルにそう言葉を交すとジョゼはくるりと身を翻す…鞄を持ったまま。
「ちょっとジョゼさん、荷物、荷物!」
慌てて追いかけるフェリクスに、あらと呟いて再び振り返って荷物を差し出す。
その鞄は、取っ手が胸の高さぐらいまで持ち上げられており、フェリクスが取っ手を掴んだ瞬間に、ジョゼがその手を離した。
「おっ!?」
荷物の重さに思わずつんのめり、前かがみになったフェリクスの横顔にジョゼが素早く顔を寄せる。
『!?』
そしてほんの一瞬の感触と、少し濡れた頬の冷たさに驚いているうちに、耳元でまたお会いしましょうと呟いたジョセは、そのまま小走りで屋敷のほうに駆け出していった。
思わず呆然とそれを見つめるフェリクス。
そんなフェリクスの様子に、どうしたの?とアンジェルが尋ねると、なんでもないとフェリクスは首を振って鞄を両手に提げた。
そしてジョゼに相応しい男になるという決意を新たにし、仲間の待つ宿に入っていった。
オルノ川沿いの街道を、西を目指して馬車の一行が進む。
4人の騎士に先導されたヴィエルニ家の馬車の中にはひとつの人影、ユーリアの小間使いであるアンジェルが2体の人形を抱いて毛布に包まり、傍らには一匹の剣牙猫が床で眠っている。
彼女を乗せて、馬車は進む。
彼女の故郷と、その先の見知らぬ土地を目指して。
次回からは、ユーリア主人公の本編に戻ります。
アンジェル編の続きは、そのしばらくあとになります。
====================================================================================================
読んでいただき、ありがとうございました。
次の話を楽しみにしていただけたら、幸いです。
ご意見、ご感想などありましたらお気軽にお寄せください。
評価を付けていただければ今後の励みになります。
誤字脱字など指摘いただければ助かります。