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男装お嬢様の冒険適齢期  作者: ONION
第3章 近侍のお仕事
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章外19 荒牛達の蠢動

 神暦722年 玉座の月


 カノヴァス国北部の町、アンヴィー。

 大陸の人族の国々を巡る南回り航路の終点にして大陸北部を東西に貫く街道と交わる交易の町であり、北に魔族の領域であるラヴォリ国との国境に設けられた要衝オーナンを有する望む辺境の街である。


 その街の領主の館に程近い繁華街。

 大通りにある酒場の片隅に、酒に溺れる一人の男の姿があった。

 この店は酒場とはいえど街有数の高級店であり、地元の高級役人や上級騎士あるいは町に逗留する大商人や貴族達の御用達の店とあって、その男の身なりは立派なもの。

 だがその顔には無精ひげが浮かび、その豊かな赤毛は碌な手入れも伺えずに伸び放題。

 そしてその男は狭くない個室を貸しきってはいるものの女給を侍らせる訳でもなく、卓上に広げられた料理にはほとんど手をつけずに大量に用意された高価な酒をただただ喉に流し込んでいた。


 アンヴィー領主の息子、マティアス・ビゾン。

 大病を患い、床に伏していた父に代わって領地の切り盛りを行っていたその後継者候補。

 だがその後、数々の失策によりその地位を弟に奪われた彼の変わり果てた姿であった。


 彼は一杯、また一杯とゴブレットからワインをその喉へと流し込むと、無精ひげの浮いた口元に垂れた雫を袖で拭う。


(いったい、どうしてこうなってしまったのか。)


 幾度も繰り返された問いを心に浮かべ、また杯を呷る。

 だが酒精に溺れ続けている彼の頭脳が明確な答えを出すはずもなく、また彼自身も答えを出そうと努力する事もないうちに再度同じ問いが繰り返される。


(あれから、すべてが変わってしまった。)


 アンヴィー伯爵家の後継者としての地位が剥奪され、それが弟のクリストフに与えられてから彼の領地での立場は地に落ちた。

 彼に従っていた子飼いの騎士達は領地の片隅の閑職への配属や他領への修行の名目で彼の元を離れていった。

 僅かに残った有力家臣の子息はみな弟であるクリストフに忠誠を誓い、彼に対する態度も余所余所しくそっけない物になっていった。


 それだけではない。

 ビソン家の屋敷で働く、使用人や行儀見習いの娘達。

 彼女達から送られていた色のこもった熱い視線はその矛先をクリストフへと移し、後に残ったのは冷たい視線とやはり余所余所しい態度。

 そんな相手に酒精の勢いから激昂し手をあげた事もあったが、それで得られたのは使用人達からの明け透けな蔑みの視線と、父及び弟からの激しい叱責のみであった。


 それ以来、彼が屋敷で酒を飲む事はなくなり、もっぱらこの酒場で毎日のように酒を浴び続けていた。

 使用人たちとは違い、金が払われている間は女給たちは笑みを浮かべるのだから。


 だが、それもその女給たちを見ている内に館の使用人たちの姿が脳裏に浮かび、気付くとそのうちの1人の髪を掴み上げ吊るし上げてしまった時までであった。

 すぐに我に返り生まれつきの尊大な態度で詫びを告げたが、それ以来給仕以外の時に女給達が同席することもなくなった。


 だがそれは彼にとって願ったり叶ったりだった。

 誰の視線にも触れず、思う存分酒に溺れる事ができるのだ。

 そのような日々を過ごすようになり、彼の酒量は益々増えていった



 その日も普段と変わらずに酒に溺れ、一体どれだけそうしていただろうか。


 ふと彼が酒に濁った目を円卓の向こうに目を向けると、そこに一人の男が立っていた。

 いや、体つきから男と判断したが、それすらも怪しい。

 そこそこの長身の細い体つきは灰色のローブに覆われ、目深にかぶったフードの所為でその顔は伺えない。


「部屋を間違えてるぞ、この間抜けめ。」


 鼻で笑いながらそう吐き捨てたマティアスは、手元にあった調味料の小壷を手に取るとをれを男に対して投げつける。

 料理への風味付けのための赤茄子(レッドプラント)塩ソース(サルサ)が詰まったその小壷は、まっすぐに男の顔に向けて鋭く線を描いた。

 これを食らえば男も自分の間違いを悔やみながらほうほうの体で失せるだろう。

 そんなマティアスの思惑はあっさりと裏切られた。


「おっと。」


 男は自分の顔面目がけて飛んできた壷の勢いを手のひらで受け止めて殺すと、落下するそれを掬い上げてそのまま円卓の上に置いた。

 その壷は確かに投げつけられた筈であったが、壷自体どころか乗せられていただけの蓋もそのままで、布に付けばその色を落とすのに苦労するであろう中身も、少したりとも漏れていなかった。


「ほう?」


 それを認めたマティアスの肩眉が上がる。

 長年の反復で彼の身体に染み込んだ予備動作を最小にした投擲であったが…それを咄嗟の判断で冷静に受け止めるとは。

 中々いいセンスをしている。

 だがそんな彼の反応を他所に男はため息混じりに口を開いた


「ふむ。『アンヴィーの荒牛』と言えば、抜きん出た傑物と聞いていましたが…それが酒に溺れ誰彼構わず狼藉を働くとは…落ちれば落ちるものですな、嘆かわしい。」


 そんな男の呟き…その内容を酒精に溺れた脳裏で理解すると、マティアスは一瞬で気色ばむ。

 だが男はフードから覗く口元に薄く笑みを浮かべるだけだ。


「しかもその理由が、家督を失った程度というのがなんともはや。」


 その言葉に、マティアスは怒気も顕に椅子を引いてゆっくりと立ち上がった。

 その手には椅子の背に下げられていた愛用の剣が握られていた。


「黙って聞いていれば…好き勝手言ってくれるな、この下郎が…。」


「私は嘆いておるのですよ。全く、己の器を理解していない事がこれほどの悲劇とは。」


「ほう、悲劇と?笑い物にするには手頃な喜劇ではないのか?」


 こみ上げる怒りから、口元をわななかせながらマティアスは顎で相手の回答を促がす。

 まるで回答次第では、命で償ってもらうぞと告げるように。

 だが男は処置無しとばかりに大きく首を振る。


「私にとっては悲劇以外の何物でもありませぬ。家督など、爵位など、そんなもの自ら打ち捨ててしかるべきもの。至尊の座すら手に入れうる天稟を有するというのに、一体いつまでも未練がましく悔やみ続けるのか…。」


 男は再びため息をついて言葉を締めくくった。

 それに対してマティアスは、こめかみを引きつらせつつも口元に笑みを浮かべた。


「フン、王位とは大きく出たな…。つまり俺に世を乱して王位を簒奪しろと?」


「世の平穏…貴方様が手を下さずとも、直に大きく乱れる戦乱の世が訪れましょう。そしてそれがどれほどの薄氷の上に維持されているのか…心当たりはございませんか『アンヴィーの荒牛』殿?」


 男の問いかけに、マティアスはその記憶を探る。

 だがかなり酔っていた頭であっても、心当たりに直に思い当たった。


 「ラヴォリとの小競り合いか?」


 彼が指揮官として名を上げる事となった隣国との戦。

 ここ数年で頻度が上がりつつあるそれを呟くと、男は意を得たりと頷く。


 「正に。戦乱の世はすぐそこまで迫っております。太平の世では簒奪でもしない限り王権を得る事は困難ですが、世が乱れれば手勢を率い、戦場で功を上げ、英雄として凱旋し、そして多くの民に望まれて王位を得る可能性も生まれます…功績次第ではありますが。それに何もこの国の王位に固執する必要もありますまい。どこかの国の領土を切り取り、新たな国を立ち上げる。貴方様ならそれすらも叶いましょう。」


「だが、我は戦う事しか能のない無骨者だ。領主代行の頃も(まつりごと)の機知については弟に任せ切りだった。そんな俗物が果たして国など作れるものか。」


「そのための自分です。このシンドラ、マティアス様の大望のためなら身命すら投げ打つ所存であります。」


 その言葉と共に、シンドラと名乗った男はローブのフードをゆっくりとめくり上げる。

 露になったのは白に近い肩までの灰髪と、厳つい輪郭以外は特に捉え所のない相貌。

 無表情の彼はその場で膝を着き、マティアスに対して臣下の礼をとった。


「口だけなら何とでも言える物だ。そのようなおべっかを常々口にしていた取り巻き達も、あっさりと私の元を去っていった。それで、お前の狙いは何だ?何を望む?」


「貴方様が王座を手にするのを見届け、歴史に名を残す事…後はそうですな、功績相応の役職と役得がいただければ十分かと。」


 男の回答に、マティアスは鼻を鳴らす。

 相手の態度は、只の酔っ払いに対する冷やかしにしては随分と本気のように見えた。

 そして酔った頭で考える。

 どうせ家督は失ったのだ。

 家すらも捨て好きに生きるのもまた人生か…と。

 だが…。


「ふん、大層な事をぶち上げる割には意外と俗物だな。だがまぁいい、貴様の望み通りに踊ってやろう。なに、酒に溺れるのもいい加減飽きてきた所だ。」


「おお、では・・・。」


 マティアスの言葉に、初めて表情らしき表情…歓喜の表情を浮かべて自らの主君を見上げるシンドラ。

 だがその言葉の続きをマティアスは遮った。


「だが、ケジメはつけてもらうぞ。」


 次の瞬間、マティアスが予兆も見せずにテーブル上に飛び上がる。

 そして食器類を跳ね飛ばしながら一気にその上を駆け抜けると、腰を浮かせかけたシンドラをその剣で抜き打った。


「なっ!?」


 断頭台の如き刃の一閃。

 それは驚愕に凍りついたままのシンドラの頸部を過つ事無く振り抜かれたが、動きを止めたマティアスはあまりにも軽い手応えに疑念の表情を浮かべる。


「ぬっ?」


 そしてシンドラに向き直れば、首を落とされてしかるべき彼の姿がうっすらとぼやけている事に気がついた。


「これは?」


 予想外の事態にマティアスが再度剣を構えると、動きを止めていたシンドラはその口元に笑みを浮かべた。


「おお、怖い怖い。」


 そして彼は首に手を当てると、やれやれと肩をすくめた。


「長期の不摂生で少しは剣も衰えてるかと危ぶんでいたのですが、まったく遜色もないようですな。重畳重畳。」


 まるで堪えぬシンドラの言葉に、マティアスは不機嫌そうに表情を歪める。


「フン、幻術の類か…只の官吏志望では無いと思っていたが…。」


「そのような物です。いかがですかな?少なくとも弟君よりもお役に立てると自負しておりますが…。」


 そう告げたシンドラの姿が輪郭を怪しい物とする。


「まぁ詳しい話はまた後日お屋敷にお伺いします。叶うならばその時には素面の貴方様にお目通り願いたいものですな。」


 そうして彼は、自分の右目の下、頬の辺りを指差した。


「では、次にお会いする日を楽しみにしております。」


 そして彼の姿がどんどんと薄くなっていき、やがてそれが消え去ってからマティアスは初めて肩の力を抜いた。


「一体、いつから幻術に切り替わっていた?壷を受け止め、膝を着いたあたりまでは気配があったはず…。」


 そこまで呟いてから、マティアスはふと冷たさを感じて頬に手を当てる。

 そこにあったのは、幾分かの水気とぬるりとした感触。

 慌てて指先に目をやれば、それは赤い色に覆われていた。


「これは…いや、ソースか。」


 一見血を連想したマティスであったが、すぐにその独特の匂いに気づき正体を見極める。

 そして荒れ放題のテーブル上を眺めるが、その上には件のソースが味付けに使われている料理は見当たらない。

 あるのは彼が投げた壷だけだ。

 そしてその壷は、シンドラが立っていた位置のすぐそばのテーブルの縁に鎮座していた。


「俺が蹴り飛ばしたのでは無いというのなら…あの一瞬の交差か。」


 ふと思い起こせば、頬を指差したシンドラの指にも、僅かに赤いものがあったような気がする。

 だとすれば、頭脳だけではなく腕もそれなり以上に…。


「ふふ、ふはははっ!」


 心の底から沸きあがる感情のままに、彼は久方ぶりに自嘲ではない笑い声を上げる。

 そしてそのままテーブルの上に目をやって、その惨憺たる状況を眺めた。

 料理は飛び散り、皿は割れ、こぼれた酒が水溜りを作ってしまっている。


「ふははっ、酷いものだなこれは。これでは店への支払いがいくらになるか見当も付かん。全く、またクリストフの小言に付き合わんといかんのか。」


 そう言いつつも、彼の表情は妙に楽しげだった。

 次に彼はテーブル脇のワゴンに置かれたままの水差しを掴むと、それに口をつけて直接喉へ流し込む。

 そしてその中身を満足するまで飲み下すと、残った中身を頭上からぶちまけた。


「ふうっ。」


 少なくない水が彼の頭を濡らし、垂れ落ちる雫を首を振って弾き飛ばすと、彼は大きく息をついた。

 いままで心の中にわだかまっていた家督や爵位に対する未練…それがさっぱり消え去って、彼の表情は晴れ晴れとしたものだった。


読んでいただき、ありがとうございました。

次の話を楽しみにしていただけたら、幸いです。


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