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男装お嬢様の冒険適齢期  作者: ONION
第3章 近侍のお仕事
118/124

3-32 近侍と母子と水の冷たさ

 神暦721年 供物の月13日 森曜日


「左舷、商船接近中!中型のコグ…おいおい珍しいな、アンヴィー湾商船同盟の旗なんか掲げてやがる。」


 いよいよ難所中の難所である最大の湾曲部に差しかかろうという時、マストの見張り台から水夫の声が降って来た。

 それを聞いてバルボロさんや副長たちも舷側まで移動し、すれ違う船に目を凝らす。

 勿論、それに釣られて私とエヴァンジェも視線をそちらに向けていた。


「商船同盟か…あそこの船は、ほとんどが遠出をしてもコムナ川に入る前に荷物を売り払って引き返す物なのだが…。」


 バルボロさんの呟きに、私も心の中で頷いた。

 アンヴィー湾はこの大陸の北部にある湾で、名前の通りアンヴィーもその湾岸にある。

 その船がここまで来るには、この大陸を半周して更にコムナ川を大陸の半分以上も遡る必要がある

 カノヴァス国の中心部にあるこのあたりまで来ると、船でコムナ川からアンヴィー湾に行き来するよりも、陸路で風別れの山脈を迂回した方が早い程…そんな距離なのだ。


「ん?所属旗の下…金の巡礼旗か?」


「ということは聖都に巡礼した帰りか…。だったらおそらくは商船同盟は借主だな。リシーかブリーヴのどちらかまで川で遡って、あとは陸路で山脈を迂回するんだろう。」


 見張りの新たな報告を受けて、再びバルボロさんが呟く。

 ちなみに、巡礼旗とは巡礼中の船舶、馬車、旅人が掲げる物であり、それを掲げる事により関所の通行がしやすくなり、信心深い相手からは宿屋の料金食事の代金などで便宜を図られる…事もある。

 つまり巡礼旗を掲げているという事は巡礼の行き帰りのどちらかという事である

 そして金は光と秩序の神であるラジーウスを象徴する色であり、聖都とはこの国の南部にあるラジーウス信仰の総本山であるサントルダムという街の事である。

 これらの情報により、この船はサントルダムからの巡礼の帰路と判断できる。


「ま、何にせよ遠路遥々ご苦労なことだ。よし、このまますれ違うぞ。進路、速度宜候!すれ違った後で、川筋に沿って回頭する!」


 この先、川筋は大きく左に湾曲している。

 こちらの船は湾曲部の外側を流下、あちらは内側を遡上する形だ。

 安全にすれ違う為に進路を維持して、その後に回頭。

 回頭が必要な地点までの距離、すれ違うまでの時間、その後の猶予と回頭にかかる時間…自分の船の性能を理解し、船員達の錬度を信頼していないと採れない判断だ。


「そういえば、エヴァンジェは聖都って行った事あるの?」


 私の質問に、彼女は大きく頷いた。


「はい、巡教の途中で何度か立ち寄った事があります。小高い岩山の上に大聖堂があって、その下の岩が刳り貫かれて町となっています。町全体がとても荘厳な佇まいで、始めて見た時はその存在感に圧倒されたのを覚えています。」


 自らの感想を神妙な態度で語る彼女に、私も一度は行ってみたいわ…と続けようとした。

 だが、その言葉は見張りの叫びで遮られた。


「相手船、進路変更!…回避行動か?」


「そのようだが、少し大きく切り過ぎじゃないか?」


 見張りの報告に、それぞれの作業中だった船員も興味を引かれたのかわらわらと舷側に集まってくる。

 そして、隣り合った船員同士、口々にしゃべり始めた。


「ちょっと岸により過ぎて…水流に舵を取られているのか!?」


「おいおい、あの辺には確か水中に大岩が…ってやりやがった!」


 水夫の叫びとほぼ同時に、それまで僅かに傾きながら水上を滑っていた相手船が、激しく揺れながら急にその舳先を持ち上げ、動きを止めた。

 まるで何かに乗り上げるように…って乗り上げたのか!


「やっちまったな。信号手、相手船に手助けが必要か尋ねろ。必要であれば救助行動に入る!回頭準備、櫂伸ばせ!ユーリア嬢、風は回頭後まで現状を維持、回頭後は通常に戻して欲しい。」


「分かりました。正確なタイミングは指示をお願いします。」


 矢継ぎ早に指示を飛ばすバルボロさんに応え、私は『科戸風の命(ブレスウインド)』に語りかける。

 もうじき出番よ…と。

 だが、それに対する反応はあくまでも明るい。

 まったく、こちらの状況なんてお構い無しなんだから。

 そうしている間にも接近し続けていた『斧犀号(アクスライノー)』と相手の船とがすれ違い、次第に距離が離れ始めた。


「相手船から連絡!『こちらはアンヴィー湾商船同盟所属の『酔っ払いの木樽(ドランカーズバレル)号』。船底破損、浸水対応中、乗客退避と曳航求む。』とのこと!!」


「船長、回頭範囲に他船なし!いつでもいけますぜ!!」


 手旗で相手とやりとりをしていた水夫が叫ぶと、それに続いて予め周囲を警戒していた見張りも声を上げた。

 うん、さすがバルボロさんの船ね。

 錬度が高いから、船員達の連携もスムーズだ。


「よし、回頭後『木樽号』の横に付けるぞ!回頭開始、取舵を切れ!!信号手は相手船に接舷に備えるよう連絡。」


「了解!回頭開始、取舵一杯!!」


 バルボロさんの指示にあわせて舵がいっぱいに切られると共に、持ち上げられていた左舷側の櫂が一斉に水面に振り下ろされる。

 それにより左舷側の抵抗が増え、船がさらに大きく傾く事でそれが旋回力となる。

 それに遅れること数刻秒、甲板上の船員達によって向きを変えられた縦帆により、船は更に旋回力を強める。


「細かい調整は舵と櫂に任せるぞ!操帆は旋回のみに注力しろ!!」


「船長、間もなく裏帆になります!」


 船員の報告に、バルボロさんは深く頷く。


「よし、ユーリア嬢、風向きを元に!!」


 合図に合わせ私が『科戸風の命』に語りかけると、船首から風を受けていたマストの帆が再び後ろから風を受けてはらむ。

 その衝撃は船を大きく揺らすかと思ったが、丁度そのタイミングで櫂が水面に沈められ、揺れが吸収された。

 これはイングリットの指示かしら?

 彼女も流石ね。


「回頭終了、進路このまま、接舷用意!」


「接舷用意!舫綱(もやいづな)準備!!舫綱で固定後は縄梯子で乗客を引き上げるぞ!!」


 バルボロさんの号令に、矢継ぎ早に指示を飛ばす副長。

 それが一通り済むと、バルボロさんは様子を見ていた私を含む乗客のほうに、くるりと振り向いた。


「アベル殿達は怪我人がいた場合には治療をお願いします。その他の乗客方には、船員の手伝いを…。」


 彼の指示に、乗客たちは是非も無しと頷く。

 そんな中、私は船長の前に進み出た。


「船長、もしよければ私にも相手船へ乗り移っての手伝いを行わせてください。」


 私の提案に、彼はそれを一瞬思案したあとにゆっくりと頷いた。


「…そうですね。櫂手が全員持ち場を離れる訳には行かないので、手が足りません。乗客の誘導に手を貸してください。貴女は中々に身軽だから大丈夫だとは思いますが、くれぐれも気をつけて。」


「はい、任せてください。」


 私は彼の返事を聞いて、自信ありげに微笑んだ。




 外套を脱ぎ、それをマリオンに預ける。

 服装は身軽に、『凍える大河(フローズンリバー)』はどうするかと一瞬迷ったが、索具を切る必要があるかもしれないので身に着けたままとする。


「大丈夫よ。別に危ない事をするつもりは無いから。」


 そう言って心配そうな表情を向けるマリオンに微笑みかけてから、私は屈伸などの準備運動を始めた。

 別にロープ伝いに乗り移るつもりはないが、届く状況なら飛び移るのが手っ取り早い。

 それに乗客を引っ張り上げたりする状況も予想できるので、そんな時に碌に準備もしなかった所為で肩が外れたりするのは考えたくも無い。


「ユーリアさん、もし動かせない重症者がいた場合にはすぐに知らせて下さい。私も移乗しますので。」


「ええ、その時には。」


 エヴァンジェの要請に応えた私は、そのまま舷側まで歩みを進める。

 そういえば、普段のこの船には司祭なんて乗っていないのよね。

 そんな稀有なタイミングで遭難するなんて、あの船もついているんだかいないんだか。



 やがて船員達の手により船同士が舫われ、船員達が網梯子を引っ張り出す。

 舷側の高いこちらから垂らして、乗客の移動に用いるのだ。

 だが私はそれの準備を待つ事無く、『酔っ払いの木樽号』の甲板上の誰もいないスペースに狙いを付けると、舷側の手すりから身を躍らせる。

 そして狙いと寸分違わぬ位置に着地した私は、膝を曲げてその衝撃を殺す。

 片足に着けたアンクレット、『水面の爪先(トゥーオンウォーター)』は、その名に反して水面だけではなく甲板上でも十分に効果を発揮している。

 勿論、もう片方にはいつもの腕輪も身につけている。


「こちらはヴァレリー水軍所属の『斧犀号』、助けに来たぞ!船長、船長はいるか!」


 声に振り向けば、『斧犀号』から乗り込んできた水夫達が、『木樽号』の船長を呼ぶ為に探して声を張り上げている。

 おそらくは状況を聞き出すためなのだろうが…だが普段の彼らを知っている所為か、抜き身の得物を下げていないにもかかわらず、私には海賊船に乗り込んでその頭の手柄首を我先に争っている風景にしか見えなくて思わず苦笑した。


「みんな落ち着いて!怪我人、病人、女子供から順番に向こうに乗り移って!怪我で動けない人はいる?」


 船上を見渡せば、血のにじんだハンカチを頭に当てている人や、肩を借りて片足を庇いながら歩いている人がちらほらと見える。


「その人は?」


 荷物にもたれかかり、ぐったりとしている男がいたので周囲に尋ねる。

 すると彼らは何故か顔を見合せて、苦笑を浮かべた。


「そいつは船酔いだ。今すぐに動かす必要は無いだろうが、そん時には注意したほうがいいぞ。」


「ああ、さっきまでゲーゲーやってたからな。」


 私は彼らの返答にため息をつくと、網梯子への乗員の誘導を開始した。




「慌てないで、ゆっくりとね。足腰の弱い人には手を貸してあげて!荷物は最低限、自分で背負える分だけよ!!」


 細かい注意を与えながら、乗客の移動を見守る。

 自力で動ける怪我人は既に移動し終え、病人も水夫に背負われて目の前を移動中だ。


「では、そろそろ子供と女性の番ね。子供達は親が手を引いて、多い場合は水夫に預けて。」


 そう声をかけると、網梯子の近くで一まとまりとなっていた親子連れが動き始める。

 聞けばこの船は、商船同盟に所属する商人達と家族を乗せて巡礼を行っていたそうで、たおやかな女性や子供の姿が多い。

 と、丁度その時、一陣の風と共に砂塵が吹き付けてきたので、私はそれを腕で顔を覆ってやり過ごすと、空を見上げた。

 広がる曇天の下、この船唯一のマストに大きな横帆が翻っている。

 ん?

 浸水を止めるのに精一杯で、帆をたたむ余裕がなかったのか?

 だが、それが強風を受ける事があれば…。

 私がその危険性に思い当たった丁度その時、一際大きな風が吹いて船がぐらりと揺れた。



「きゃあっ!」


 船底から伝わる衝撃と共に、船が大きくうごめく。

 帆が強く風を受けた所為で、乗り上げていた岩から離れたのか。

 こんな事があるから、普通は『斧犀号』の横付け前に帆をたたむものだと聞いていたのだが…。


 って、それよりもさっきのは…悲鳴?

 私が慌てて周囲を見渡すと、船の反対側、右舷のほうに女性がいるのが見えた。

 外套のフードを降ろし、胸元に何かを抱えたその彼女は大きくバランスを崩しており、それにあわせて1歩、2歩と後ろに下がる。

 だがそこは舷側のすぐそば。

 そのまま持ち直せなければ、身を切るほどに冷たい濁流がうごめく水面にまっさかさまだ。


「ちょっと、大丈夫?」


 私は彼女に声をかけるのももどかしく、甲板を蹴って駆け寄り、手を伸ばす。

 だが、こちらとあちらは船の両舷側と行ってもいいほどに距離が離れている。

 いくら『水面の爪先』と『睦言の腕輪(ラバーズトーク)』の力を借りても、この短時間ではいかんともしがたい。


「お願い、堪えて!」


 私の叫びに、身体をのけぞらせてバランスを取ろうとしていた彼女の視線がこちらを向き、降りていたフードが風でめくり上げられた。

 まだ若いその相貌。

 意志の強さを感じさせる顔つきではあったが、その瞳は恐怖に歪んでいた。

 だが彼女は、私を見てから口元を引き締めると、その瞳からふっと怯えの色を消し去って不敵に微笑んだ。


「お願い!」


 そして胸元の包みを、私に向かって差し出し…そのまま押し放した。

 その包みは緩やかな放物線を描いて、彼女に駆け寄ろうとする私の胸元に飛び込む。

 それを左手で抱きとめて、私は背後へと倒れつつある彼女に手を伸ばす…が、彼女の方からも手が伸ばされてもまだ数歩の隔たりがあり、それを失くすには絶望的に時間が足りなかった。


 だが彼女は、包みを抱きしめた私を見て満足そうに笑みを浮かべると…そのまま舷側の向こうへと姿を消した。



 激しく上がる水音と水飛沫。

 舷側から水面までは、およそ3キュビット(1.3m)といった所だろうか。

 彼女へ駆け寄ろうとした勢いのまま舷側まで進んだ私は、呆然と泡立つ水面を眺めていた。

 …何やってるのよ…ほら早く上がってきなさいよ、顔を出しなさいよ!


 だが水面には泡が浮かぶばかりで、それもやがて収まっていく。


「うわ、落ちたか!」


「おい、早く泳ぎの得意なヤツ呼んで来い。」


「待て!飛び込ませる前にしっかり身体を暖めさせろ。水が冷たすぎる、すぐに身体が動かなくなるぞ?」


 水音を聞いて駆け寄って来る水夫達。

 彼らはすぐに、手分けをしてロープの用意や救難要員の確保のために走り回る。

 残ったのは、水面を見張る一人だけだ。


「だー?」


 呆然と周囲を見渡していた私は、突然聞こえた音に我を取り戻す。

 そして渡された包みの中で何かがうごめいている事に気づき、その包みをめくり上げる。

 すると、中には笑顔をうかべた赤ん坊の顔があった。

 こんな状況を知ってか知らずか、むずがる事もなく上機嫌で声を上げる子供。

 そしてそれを目にしたとき、いくつもの光景が脳裏に浮かぶ。



 揺り篭で眠るエミールとそれを見つめる伯爵夫人とマリオン。

 イザベル奥様に甘えるソーフィーお嬢様とアルフレット坊ちゃま。

 肖像画の中で笑顔を浮かべるお母様の眼差しと、その肖像画に野花を捧げる幼い頃の自分の手。

 そして、水面に消えた女性が、最後に見せた満足気な笑み―――。



 いつの間にか浮かんでいた涙が、赤子の頬に落ちる。

 だが、私の心の中にふつふつと湧き上がったのは、悲しみの雨ではなく怒りの炎であった。


「まったく、ふざけるんじゃないわよ…残される方の気も知らないで…。」


 そして、未だ流れ続ける涙を、乱暴に袖で拭った。


「ちょっと!」


 すぐそばで、水面を見張っていた水夫を呼び止める。

 彼は突然の大声に驚いたのか、慌てて振り返るがその腰は目に見えて引けていた。


「おぉう!なんだよ、突然怒鳴るなよ…びびるだろうが!」


「五月蝿いわね、黙ってこの子を預かりなさい!!」


 恐る恐るおくるみを受け取った彼は、その中の赤ん坊を見て僅かに口元を緩めるが、すぐに眉を寄せてこっちに振り返った。


「おい、このガキは…。」


「だから、五月蝿いって言ってるのよ!しっかりと面倒を見てなさい!何かあったら、只じゃおかないわよ?」


「面倒をって…おい!」


 だが私は彼の問いに答えもせず、舷側の手すりに足をかけ宙に躍り出た。




 上がる水音と身をまとう泡沫の群れ。

 飛び込む瞬間に悲鳴が聞こえたような気もしたが、だがそれよりも一番に感じたのは身を刺す水の冷たさだった。

 これは想像以上だった…まともに動ける時間も長くなさそうね。

 その上、水は濁って視界も効かない。

 手を伸ばした先が何とか見えるか…といった程度だ。

 状況は厳しく、一秒刻も無駄にはできない。

 私は早速水を掻き、目を凝らして彼女の姿を捜し求めるが、周囲にその姿は無かった。


 水面に落ちてから浮かび上がってこなかったと言う事は、勢いのまま更に沈みこんだか…それとも、流れによって下流側に流されたか。


 そんな事を考えながら、少し潜って川下に移動する。

 だが、いかんせん川の水が冷たい。

 そして身体が重い。

 ひらひらのドレスよりはマシとはいえ、冬の旅装、しかもブーツを履いた状態で泳ぐ物じゃないわね。

 そんな事を考えながら捜索していたのだが、そろそろ息が続かなくなってきた。

 一度水面に浮かんで息継ぎを…と考えて水面に身体を向けると、水面との間に影がある事に気付いた。

 これは…!?


 近寄って目を凝らすと、見覚えがあるような気がする外套姿の女性。

 …よし!

 私は彼女の身体を掴むと、そのまま水面目指して泳ぎ始める。

 だが…重い!

 水によってはらんだ外套に…その下はローブか?

 それがさらに水を吸って、とんでもない重さとしてのしかかってくる。

 だが、放すわけにはいかない。

 幸運にも一度は見つける事ができたが、これを放してから見失おうものなら、悔やんでも悔やみきれない。

 私は歯を食いしばると、全ての力を振り絞って水面へ向けて彼女の体を押し上げ続けた。



 急に軽くなる水の抵抗。

 彼女の体は進まなくなったが、感じた水面の手応えに私は水面から顔を出す。


「おおっ、嬢ちゃんが上がってきたぞ!」


「落ちた奴も一緒だ!」


「お姉様!!」


 湧き上がる歓声を無視して、私は彼女の身体を船側に押しやる。

 上がった位置は船の艦尾側、その舷側から1パーチ(2.96m)強といったところか。

 早く司祭様たちに診せて、蘇生をしなければ頑張った意味がない。


 そうしていると、舷側からロープが垂らされ、水面に落ちる。

 私は急いでそれに取り付くと、かじかみ始めた手に苦労しながらも彼女の脇わきの下にロープを回してしっかりと結びつけた。

 イングリットに教わった、船を舫う時にも使う結び方だ。

 並大抵の事では解けることは無いとの彼女のお墨付きだ。


「早く、引き上げて!!」


「よし、野郎共、根性見せろ!!」


 私の声に、船員達が掛け声で応える。

 だが予想以上に彼女が重いのか、中々その体は上がっていかない。

 私は少しでも早く引き上げさせる為に、水面に浮いた身体を必死に伸ばして彼女を押し上げる。

 その甲斐あってか、彼女の体は徐々に引き上げられ、やがて舷側の手すりの向こうへと消えた。


「早くこっちへ!上着を脱がせて!」


 聞こえてくるエヴァンジェの声に、私は肩の力を抜いて大きくため息をつく。

 ああ、やったわ…次は私の番ね。

 やるだけの事はやった。

 あとは彼女たちの手際次第だ。

 そんな安心感に包まれた私だったが、ふといつの間にか自分の頭が水面下にある事に気付く。

 あれ…おかしいわね。

 波でも来たのかしら?

 私は水面に上がる為に足を動かそうとするが、その足はまったく動かなかった。

 それどころか、指の一本さえも動かす事が出来なかったのだ。


 …ああ、そう、いつの間にか、限界を超えていたのね。

 冬の水は容赦なく私の体温を奪い、それが私の体の自由すらも奪っていったのだ。

 それだけの事だ。

 それだけの事だった。

 私は遠くなる意識の中、遠ざかる水面を見つめていた。

 でも、きっと、今の私の、表情は…。


 そうして私は意識を失った。

読んでいただき、ありがとうございました。

次の話を楽しみにしていただけたら、幸いです。


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