第十八話 雨の日の一時
「あーあ、また降り出したわね……」
『今日から数日の間、東海地方はにわか雨に見舞われるでしょう』
いつものお天気キャスターがテレビの向こうから私にそう告げたのは何日前だったか。彼の予報どおり、今日も唐突に降り出した雨に私は深いため息を付いた。
外では天の気まぐれに翻弄された哀れな生徒達が上着や鞄で頭を守りながら、校門を駆け抜けていく。秋の天気は変わりやすいというのはこの国の人がほとんどが知っている事なのに、対策をしている人は案外多くないらしい。
「雨がこうも続くと落ち着いて本も読めないわ」
心霊研究部のソファーに一人、私は愚痴をこぼしながら窓から空を睨みつける。鉛色一色の空を眺めていると私の心まで曇ってきそうだ。
「憂鬱だわ……」
私はもう一度ため息をつくと、手にした本を閉じた。
風が強いのか、雨が窓を叩く音が思いのほか激しく、とてもではないが読書に集中する環境ではなかった。
私のささやかな楽しみを奪った罪は重い。
もっとも、私は元から雨というものが好きではない。
洗濯物は乾かない、交通機関も乱れる、といった現実的な理由も勿論あるのだが、一番は雨の滴を見ていると、涙を連想してしまって明るい気持ちも消し飛んでしまうからだろう。
もちろん、普段はなんて事はないのだが、何かの拍子に一度そんな事を考えてしまうと、私の心はずっと沈んだままになり、雨が上がって虹が見えるようになるまで決して晴れる事はない。
我ながら、なぜそんなセンチメンタルな気持ちになるかはわからない、いや、心のどこかではわかっているはず、それを認めずに、きっとテレビとかの影響だろうと思ってしまう。
ドラマにしろ、映画にしろ、雨がプラスの演出に使われることはあまり多くはないように思えるし。
そんなアンニュイなことを考えていると、部室の扉が勢いよく開く音がして、思考を中断させた。何故か扉に付けられているベルがやや遅れて控えめに音を鳴らす。
まったく……どこの誰だか知らないけど物静かな雰囲気が台無しである。
「ミスター葵、おはよう!」
ああ、大変残念なことに知人だった……。見なかった事に出来ないだろうか。
「ミスター葵? ジェントルマン葵?」
「レディーだって」
「あら、よかった。生きてたのね」
無視するつもりだったが、執拗に絡んでくるのでつい反応してしまった。不覚。
「無視するなんて酷いわ、葵」
私がようやく顔を上げたのを確認すると、友人はずぶ濡れになった紺色のカーディガンを脱いで楽しそうに笑う。よく見ると全身ずぶ濡れだった。彼女も雨対策を怠ったうちの一人なのだろう。
「人を不快な気持ちにさせてなければ普通に迎えてあげたわよ」
「それはそうとおはよう、葵」
「……おそよう、純」
もう午後三時である。
私が疲れ気味にそう返した所で、部屋やソファーを濡らされては困るので、誰かが持ってきたであろうチェストタンスからタオルを取り出し、濡れ鼠な友人に投げつける。
「いやー、急に降ってきたわね」
体を拭き終えた純が、私の向かい側のソファーに横になって言った。
「折り畳み傘はいつも持ち歩くものよ。それより、今日は何の用かしら? 私の記憶が確かなら、特に会う約束はしてなかったはずだけど」
いつもと違って、今日は特に待ち合わせをしていた訳ではない。部活動は一昨日の夜に大変なことになって自重してるし、次の活動に関する会議は明日行う約束になっている。
今日はまったくのプライベートな理由で心霊研究部部室に居たのに……。
「帰ろうとしたんだけど、葵がアンニュイな顔して外を眺めていたから引き返して同じ時間を共有しようかと思って」
「残念だけど、純のテンションのせいでその気分もどこかに飛んでしまったわ」
「あら、それはよかったわ。憂鬱そうな葵よりも、いつもの葵の方がいいからね」
「雨の日はたまにこうなるのよ」
「へぇ、雨は嫌い?」
「ええ、それはもう」
純は大して興味がないのか「ふーん」とだけ言って立ち上がる。
「もう行くよ」
「あら、そうなの」
そういえば、帰る途中って言ってたっけ。まだ雨は止みそうにないけど急ぎの用事でもあるのだろうか。
「いや、なに落ち着いてるのよ。行こうってば」
「えっ? 私も?」
「そうよ、一人じゃ部活動にならないじゃない」
「ちょ、ちょっと待って、朱祢ちゃんも居ないのに二人で活動するの?」
「ええ、その通りよ」
外は曇っていて暗いとはいえ、まだ昼の三時過ぎ。夜の時間を主体とする我が部としては異例の活動時間帯だ。しかも、二人だなんて。
「悪いけど、今日は用事があるの。また今度にしてくれる?」
「用事?」
「ええ、先生と家庭のことで話したいことがあって、職員室だと話しにくいからここで待ち合わせしてたのよ」
「そっかー、それじゃ仕方ないね」
まだ全然乾いていないカーディガンと鞄を持って立ち上がり、扉を開けて私に振り返る。
「なら、明後日遊ぼう、集合場所はここで。遅れないでね、葵」
「はいはい、遅れないでね、純」
「わかってる。じゃあね!」
勢いよく扉を閉めて出て行く純。やや遅れてベルが控えめに鳴る。
「まったく、騒々しい子ね……」
純が居なくなった事により、部屋の中には窓を叩く雨の音だけが響き渡る。
うるさいのを我慢して本を読もうと、再び開こうとしたとき。扉のベルが窓を叩く音に混じり微かに聞こえ、人が入ってきた気配もする。どうせ純が私をからかいに戻ってきたのだろう……。
そう思い、栞を挟んでいたページから本を読み始める。
「む、人を無視するなんて良くないんだぞ、葵君。それとも本当に気付いてなかったんですか?」
この喋り方、君呼び、そして後半の敬語、という事は――。
「いえ、気付いてたわ。純が戻ってきて私をからかうのかと思って、無視してしまったわ。ごめんなさい、朱祢ちゃん」
「いえ、気にしてませんよ。それに純ちゃんだと思ってたなら、無視するのも仕方ないですよ」
仕方ないんだ。
「ここに来て早々に悪いのだけれど、場所を変えましょう。もしかしたら、伊織ちゃんが盗み聞きしてるかもしれないし」
「それなら、僕の家に行きましょう。今日から両親が仕事で遠くに行って居ませんし、妹は友達の家にお泊りすると聞いてますから、二人っきりになれて丁度いいですよ」
「そうね、そうしましょうか……ん? 二人きり?」
「はい! 葵ちゃんが二人きりをご希望されていたので……」
「希望は……」
してたかな?
「ま、まぁいいわ。これ以上雨が強く振る前に、朱祢ちゃん家に行きましょう」
「あっ、僕、傘持ってないです」
ああ、この子も雨対策を怠った一人のようだ。
「相合傘なんて出来ないわよ? 私の折りたたみ傘小さいし」
「昨日のドラマでは、まるで恋人のように密着して歩いてましたよ」
それは多分、恋人同士なんじゃないかな……。
「職員室で傘借りてきましょう?」
「僕はただ、そうゆうのをやってましたって言っただけなのに……」
「ま、紛らわしいわね……」
下駄箱を通り、外に出ると雨はさらに激しくなっていた。
職員室から借りたビニール傘を広げる。
「さ、朱祢ちゃん。行きましょう?」
「えっ? 葵ちゃ……くんの傘は?」
「別々がいいならそうするけど……」
きょとんとしている朱祢ちゃんに私は小声で、朱祢ちゃんだけに聞こえるように、そう返した。私が勝手に誤解して朱祢ちゃんに恥をかかせてしまったんだから、ちゃんと私から相合傘を誘わないと。でも、凄い恥ずかしい……。
「葵ちゃん、可愛いです!」
どうゆら私の胸中は筒抜けだったらしく、朱祢ちゃんは嬉しそうに手を繋いできた。
「さすがに、手を繋ぐ必要は無いんじゃ……」
「昨日のドラマでは手を繋いでました!」
うっ、まるで太陽のように目を輝かせている……。そのドラマが普通の恋愛モノならいいのだけれど……。
そんな不安を抱きつつ、私は朱祢ちゃんと共に歩み出したのだった。