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亜麻布をぴんと木枠にはめた白いキャンバスには、まだ色がはめられていない。
ユナの目の前に広がる景色は、春ならではの鮮やかな光景だというのに。筆を持ったまま、ただ茫然と花や植物、また公園の中心にある自分の背よりも高く吹き上げる噴水の飛沫を見つめていた。陽に照らされきらきらと輝く姿は、噴水の中心から宝石を投げ捨てているようにも見え、ユナはなんだかとても贅沢な気分になる。
五年間通う学舎では、一年に一度、春の時期にこうして公園へと赴き全生徒が写生を楽しむ。学舎は義務ではない。ゆえにさまざまな年齢の生徒がたくさんいる。十になれば貴族の子供はすぐに就学するが、そうではない者、ユナの家のように貧しい者などは、余裕ができてから入る者も少なくはない。それこそユナの何倍もの年齢であろう生徒もなかにはいる。教室は、近い年齢の生徒が集められ学ぶが、この写生のときばかりは違った。クラス関係なく、全生徒が同じ時間を好きな景色、好きな場所で写生を楽しむのだ。
ユナは今年で三度目になるが、毎年何を描いていいものか悩む。
公園は、学舎をいくつ詰め込めるのだろう、と想像もできないほど広大だ。その中からたったひとつの景色を選ぶことも、またキャンバスに色を塗ってしまうこともなんだか勿体無い気がするのだ。
決して安くはないキャンバス。キャンバスを目の前にすると、いつも脳裏にラムザ爺さんが笑ってうつるのだ。仕方のないこととはいえ、無理をさせてしまうのではないか、と子供ながらに不安になる。そう言ってしまえば、きっと笑って「気にするな」と言うのだろうけれど。
ふう、とため息をついて、辺りを改めて見渡す。
チューリップやアネモネ、ポピーなど、太陽の色を吸い込んだかのように明るい花々が風に揺れる。少し苦みのある花の香りが、ユナの気分を落ち着かせた。
勿体無い、と言って真っ白のまま終わらせてしまえば、きっと先生はユナを叱る。そうすれば、ラムザ爺さんは悲しむだろう。気を使わせるために学舎に通わせているのではない、と言ったのはいつのときだったろうか。白いふさふさした眉がぐんと下がったさらに下にある瞳は、ユナの胸の痛みを強く誘う、落胆の色をのせていた。
そうして、ようやく筆を動かす。
雨の少ないこの土地は、湿気も少なく絵を描くには申し分ない環境だ。
(ルーンやジェスのいる場所はこんなふうなのかな)
頬にさす陽は柔らかい。冬の冷たさをなくした風は、目の前の花たちと笑いあうように踊る。一年の中で、ユナが一番好きな季節は春だった。
夢の中でみる景色には、ユナがぼろぼろになるまで見た図鑑に載っている花はないけれど。でもきっと肌で感じる温度は同じくらいなのだろう。夢から覚めてしまえば、感じていたと信じて疑わなかった温度も音もにおいも全て、飛沫のように散ってしまう。けれども、ユナがジェスとして存在している瞬間は、確かに確信しているのだ。春の暖かな温度も、乾いた土や草木のにおい。そして万年樹の重なり合う葉が風と同調して歌う音も。
ジェスとルーンが出てくる夢を見るようになってから、もう随分と経った。
初めの頃は目覚めた直後、自分の体が自分のものではないような、薄気味の悪い感覚だった。水汲み場まで駆けていき、水面で揺れる自分の姿を確かめないと怖くて仕方がなかったが、最近はそういった焦燥や不安感はなくなった。そればかりか、夜眠るのが楽しみだと思う自分がいることに驚く。慣れ、とも進歩、とも違う。
もう一人の自分を楽しむ――そう表現するのが一番適当に思えた。
「おい、おまえ何描いてるんだよ」
突然、頭上からなじるような声が聞こえ、ユナは顔を上げた。
いつの間にこんなに近くまでやってきたのか、見覚えのある少年が三人、ユナの周りを取り囲むようにして立っていた。そのうちの一人、一番背の高いがっちりした少年が、ユナを睨みつけながら言った。
普段、他人の視線から逃げるように俯いて過ごしているユナは、同じ教室の子供の名前もあまり覚えていない。この少年らも、よく見知った顔であることはわかるが、名前がいっさい出てこなかった。
ぼんやりと、少年たちの顔を見ていると、声をかけた少年がイライラと眉を顰めた。周りの二人はその様子を見て、くすくすと笑い出す。
「聞いてんのかよ!」
突然の怒鳴り声に、ユナはびくりと肩を震わせた。
彼らの視線の先がユナではなく、その先にあるキャンバスだと知り、ユナも視線をキャンバスに戻し唖然とした。
無意識のうちに描いていたのは、夢の中に出てきていた万年樹の庭園の姿。葉は緑ではなく金色に塗られており、どこを見渡してもそのような木はこの辺りにない。その絵を見た少年らは「また変な妄想してる」と囁きあい嘲笑していた。
相変わらず怪訝そうに表情を曇らせながらも、目の前に立つ少年は苛立っている。その証拠に、片方の足がせわしなく何度も地を踏みつけていた。
――いつになってもこういう状況は慣れない。
ユナは心に重い石でものせられたかのように、気が沈んだ。
少年らの視線を避け俯くと、粗末な靴のつま先が見えて更に惨めな気分になった。
「そんなところで集まってなにをしているの!」
広い公園でもよく通る、若い女性の声が聞こえてきた。顔を上げてその存在を確認すると、ユナはほんの少しだけ安堵した。
「先生! こいつ変な絵描いてる!」
「……あなたたち、またユナくんをいじめてたの?」
女性教師は、ユナの周りに群がる少年らを見渡し低く洩らした。
「何描いてたか訊いただけだろ!」
「ニコル」
教師が落とした、ため息と共に出された名前を聞きユナは初めて目の前の少年がニコルという名だと知った。
「とにかくあなたたちは戻りなさい」
ニコルがわかりやすく舌打ちを残し、やがて鋭い一瞥をユナに投げやると背を向け去っていった。最後まで嗤っていた残りの少年二人も、ニコルの後を追うようにして駆けていくと、辺りは重苦しい沈黙が流れた。
「――この絵は以前言っていた月のお話からきているのかしら?」
咎めるわけでも、責めるわけでもない教師の口調に、ユナはただ頷くことしかできなかった。俯いたまま、本当は子供の妄想だ、とばかにしているのではないか、と悪く考えてしまう。
顔を上げることもせず、何かを耐えているような様子のユナをちらりと視線だけで伺うと、女教師は少し寂しそうに微笑んだ。
「ラムザさんは、私の先生だったのよ」
素早く顔を上げ、目を見開き女教師を凝視した。
「ラムザ爺さんのこと知ってる……んですか?」
「そうよ」
頷いて、再び視線をユナの絵に戻した。
「私は小さい頃は病弱でね、よく絵本を読んでいて、他の子供より夢みがちだったの。空を飛べる、お菓子の国は本当にあるって信じていたの。よく笑われたわ」
ユナは口を開きかけ、やめた。何かを伝えたい、そう思ったがあてはまる言葉が思い浮かばなかった。
「でもね、ラムザさんは笑わなかったの。――月のお話も、その頃に聞かせてもらったのよ」
ユナと目が合った女教師は微笑って、続ける。
「だからユナ君の絵はとても好きだわ。懐かしい感じがする。誰がなんと言おうと、この絵を完成させて欲しいの。教師としてではなく個人的にお願いするわ」
ユナは俯き、はいと小さく頷いた。顔を上げてしまえば、先生の穏やかな表情を見てしまえば、たぶん泣いてしまう。この先ずっと誰も自分の話など信じる者はいないとばかり思っていた。――いや、信じなくても別に構わないと思う。ユナ自信が信じていればそれでいいのだから。だけど、否定されるのは悲しい。笑われるのは、悔しい。
それだけならまだしも、加えて実の両親が、どこの誰なのかわからないことまでもを愚弄されるのは、本当に消えてしまいたくなる。何か言えば否定され、違うおかしいと笑われ、更にその上捨て子だと言われれば、ならば自分は何のために存在しているのだろう、と疑問に思い鬱屈とならないほうがおかしい。
けれど、目の前の先生は、理解ってくれている。なぜだかそう思った。たったひとつ共通のことが見つかった、それだけなのに。広い真っ暗闇の随道で、仄かな明かりを見つけたときの希望のようだった。
そんなユナの耳に、でもね、と言葉が続けられて、女教師を仰ぐ。
「その絵とは別に、今見えている景色を描いてくれないと、私が他の先生たちから叱られてしまうのよ。だから少しだけでも描いてくれないかしら?」
困ったふうに訊く教師に向かって、ユナは力強く頷いた。
「ありがとう。あ、でもこの絵はこの絵で完成させて欲しいわ。楽しみにしているから」
再びありがとう、と微笑いながらユナの前から去っていく教師の後ろ姿を見据え、言葉にできなかった言葉を胸中で呟いた。
(ありがとうって言わなくちゃいけないのは、きっと僕のほうだ)
今日、明日、というわけにはいかないだろうけれど。必ず完成させて、見せたいと思った。たぶん喜んでくれる。ラムザ爺さんの生徒であり、同じように月の物語を信じているのならば。それに、話をしているときの教師から、嘘っぽさは微塵も感じられなかった。ユナに向けての笑顔も言葉も、間違いなく本物だ。
ならば、とユナはキャンパスに向き直る。
視界の隅でちらちらと動く花や植物は、とても明るく鮮やかだ。金色に輝く花はないけれども、それに劣らない美しさがあるのもまた真実だ。それらを描くことによって、あの先生に感謝の意を伝えることができるのならば、描こうと思う。
ユナの表情には、いつの間にか懊悩とした翳りが消えていた。
いざ集中すると、ユナの絵の進み具合は早かった。
真っ白だったキャンバスには、公園中央にある噴水と、噴水周りを囲う赤い花。さらに遠くに見えるオレンジや白、ピンクの色鮮やかな景色を、見事なバランスで描きあげている。空からさす太陽の光も、それに照らされ輝く噴水の飛沫も、一枚の絵の中で生きているようだった。
はっきりとした輪郭は描かず、適量の水でぼかしながら、描くというよりは、色を落とす、そんな絵柄だった。もともと外で遊ぶより、室内で本を開いたり絵を描いたりすることのほうが好きなユナは、迷いがなくなれば、とことん絵を楽しむことができる性格なのだ。
「……お前さ」
突然かけられた声に、驚き肩が上がる。その反動でずれた筆先が、意図せぬ場所へ色が落ちた。思わずため息を漏らしそうになったのを飲み込み、振り返るとニコルがいた。
先ほどは、あまりじっくりとは見なかったが、こうして改めてみると、彼の周りに人が多く集まるのもなんだか頷ける気がした。
顔をしかめてはいるものの、ユナを見据える双眸は覇気に溢れ、力がみなぎっている。利発のなかにも英知を窺わせるその雰囲気は、ユナとは正反対で威厳すら感じる。それらをひけらかしたふうもなく、厭味もない。赤みの強い短めの髪は、天からぐいっとひっぱられているかのように、油で固めている。彼のことを詳しくは知らないが、おそらく貴族の子供なのだろう。だが、貴族だという背景を前面に出した様子もなく、一種の清々しささえ覚える。
よく思い出せば、先ほども終始ねめつけられてはいたものの、嗤ってはいなかった。
「すぐ俯いたりするのやめてくんない? さっきさ、何描いてるって訊いただけだろ」
確かに彼の言うとおりだ。そう思って頷く。
「……うん、ごめん」
「言われたら言い返すくらいの根性でいろよ」
それは難しいよ、と言いたかったが言えず噤んだ。ニコルにとって簡単なことかもしれないが、ユナにとっては至難のわざだ。ではニコルに「もう少し穏やかに微笑っていたほうがいいよ」と告げたらどうなるのだろう。おそらく、もともとの目つきがわるいであろうニコルには難しいのではないだろうか。それとも彼は努力する、と簡単に言ってしまえるほど人間ができているのだろうか。ユナは、努力したところで、本来の性格なんか変わらない、と思う。変われるものなら、変わりたい。
「なんかイライラすんだよ。そんなだから周りが面白がるんじゃねえの」
「……ごめっ――」
――ん、と言いかけてそれは続かなかった。唐突に、眉間とこめかみに、激しい痛みを覚えユナはその場に蹲った。
「おい! どうした!?」
蒼白い顔をなんとか上げてニコルを見れば、突然の出来事に狼狽し、それでも心配しているふうの表情が窺えて、不謹慎にも嬉しくなった。
だがその笑顔も続かなかった。
胸の奥から、じわりと広がる痛み。眉間やこめかみに覚えた鈍器で殴られたような鈍い痛みではなく、痺れにも似た痛みだった。ゆっくりと、それは徐々に全身をも覆って、手足はもちろん意識までも麻痺させてしまうのではないかという恐怖が唐突にユナを襲う。鈍い痛みを堪えて大きく息を吸い込もうとしてみても、うまく呼吸ができなかった。吸うことも、吐くことも。次第に目の前が霞み始める。
「どうしたの!」
女教師が、血相を変えて駆けてくるのが横目に見えた。それも次第におぼろげになり、瞼が落ちていく。
「ユナ!」
そう呼んだのはニコルなのだろうか。確かめたくても、目があかない。
――なんだか、前にもこんなことがあった気がする。だけどそれがいつの頃かはわからない。
目を開けて、大丈夫、と伝えなくちゃいけないという焦燥だけがある。あのときも、今も。
だから泣かなくても大丈夫。それにこんなたくさんの人の前で泣いたら、駄目、だ。
――君は王妃になるんだから。
そうして、ユナの意識は完全に途絶えた。
アズの誕生日パーティー当日、言っていたとおり、案内の男が一人屯所にやってきた。無口で邪険、とまではいかないが、丁寧な案内ではなかった。ジェスとリュウは、同じく無言で彼の後を追い、まるで囚人のような扱いだ、とジェスは内心ため息を洩らした。
城の中に入り、赤い絨毯の敷かれた長い廊下を進む。慌しく走り回る城仕えの者が、見知らぬ顔を見つけて一瞬訝しがるが、案内役の男の顔を見つけて納得した表情で軽く会釈をした。
やがていくらか歩いたのち、ジェスらの前を行く男が立ち止まり振り返った。短く入れと吐き捨てるような台詞を二人に告げると、顎で促す。鼠一匹たりとも入り込む隙間がないほど厳重に閉じられた扉が四つ、城の廊下の突き当たりに姿を現した。廊下の幅が、徐々に広くなっていたのは知っていたが、堂々たる扉を目の前にしてやっと、その理由がわかった。ひとつの扉で、十人は並んで通れるほどの壮大さ。扉の中央から左右に向かって開かれる向こう側は、城の外――庭園だ。
扉に近づき手を触れようとした瞬間、音楽が聞こえてきた。
弦楽器、管楽器、打楽器、さまざまな音が重なり、そのなかに人々の喧騒も雑じる。ジェスたちが佇む廊下側とはうってかわって明るい光景が想像できた。
意を決してジェスが扉を力いっぱい押すと、薄暗い廊下に眩しい陽の光が途端に差し込んできた。思わず目を細めたジェスとリュウの鼻腔をくすぐる、たくさんのにおい。花や植物はもちろん、甘辛い味付けで焼き上げた肉の香り、蜜に漬け込んだ果物の甘酸っぱい香り、香りだけで酔ってしまいそうなほど濃厚な酒のにおい。真っ白なテーブルクロスの上に並べられた食べ物はどれもジェスらが普段食べているものとは違い、中には見たこともない形や色の食材があり、それらをひとつひとつ聞いて周るだけで一日が暮れてしまいそうだ。
身内だけの軽いパーディーだと聞いていたが、想像していた以上に規模が大きい。集められた人も、よくこれだけの人数がこのラナトゥーンにいたものだと感嘆する。
「だから、嫌だって言ってるじゃない!」
楽師が奏でる音楽にも劣らぬ綺麗な声が、ジェスのもとに飛んできた。思わず隣のリュウを見やると、肩をすくめて苦笑していた。
「姫さんの声だが、姿が見えないな」
「ああ……」
頷いて、辺りを見渡す。
それほど離れてはいない場所からの声だった。ならば近くにいるのだろうか、と探してみても、視界を惑わすほど隙間なく集められた人の集まりに、ジェスもリュウもため息しか出てこなかった。
実際のところ、ため息が漏れてしまうのは、ルーンが見つからないからではなかった。周りの――庭園に集められた者たちと、自分らの姿があまりにも違いすぎて、わかってはいたものの、やはり自分らには過ぎたる場所なのだ、と妙に惨めな気分になる。寄せ集められた宝石の中にたったひとつだけ、道端に落ちている、なんてことはない石ころの気持ちを代弁するのなら、きっと今のジェスの心がそれを表しているのだろう。パーティーにあわせて扮装することもないジェスらの格好は、いつもと変わらず騎士団から支給されている服装なのだから。それに加えてジェスの容姿は特異だ。今もちらちらと投げやる視線を痛いほど感じている。視線に応えようと振り返れば、慌てて俯き視線をそらされるのだ。慣れている、とは言ってもやはり気分のいい態度ではない。
「ルーン様! どちらへ行かれるのですか!」
「しつこいわね! そんなヘンテコな髪飾りを着けなくちゃいけないくらいなら、こんなパーティー抜け出してやるわよ!」
ジェスの目の前を今にも横切ろうとした女性二人から聞こえてきた会話に、思わず足を止める。同じように隣を歩いていたリュウも目を丸くして目の前の女性を凝視した。
気配を感じたのか、甲高い怒鳴り声を上げていた女――ルーンがジェスの姿を見つけてぱっと顔を輝かせた。
「ジェス!」
重そうなドレスの裾を持ち上げ駆け寄ってきたルーンの足は、またもや素足だった。その場にいた者みながぎょっとし、ルーンを訝しげに見つめる。だが当の本人はそんなこと一切気にした様子はなく、楽しそうに笑っていた。
「ルーン王女……また素足で……」
言いながら、探しても見つからないはずだ、とジェスもリュウも飾り立てられたルーンの顔を物珍しげに見つめた。
もともとの素材がよいことは普段の姿から知ってはいたが、化粧ひとつでこうも別人のように変わるとは。薄く刷けられた紅や、肌の白さに馴染む自然な頬の赤らみ。整えられた眉。いつもは肩まで垂らしている金の髪はたくさんの髪留めでひとつにまとめられ、そのうちの中に赤い薔薇の髪飾りを見つけて、ジェスはぎくりとした。
「貴方様がジェス様でしたか! そうでしたらちょうどいいところに! ジェス様からもこの髪飾りを着けるようルーン様にきつく言ってやってくださいませ!」
侍女なのだろうか、周りの女たちとは違って軽い装いで、さあと差し出された手に乗せられた髪飾りは、自分が渡したものの何倍の値がはるのだろう、と眩暈すら覚える豪奢な髪飾りだった。たくさんの花が所狭しと集められ、見事なまでの珠がところどころに散りばめられている。小さなブーケにも似た髪飾りを受け取ろうと伸ばした手を、ルーンがぐいっと引っ張り遮った。
「そんなのいらないわ。代わりにジェスから貰ったのを外せって言うのよ」
侍女を睥睨し、やがて視線をジェスに戻す。
向けられた笑顔と一緒に、万年樹のもとから香る甘いにおいにも似た芳香が、ルーンの耳元から流れてきた。いつも彼女から感じる馴染んだにおいに、なぜか安堵した。慣れない場所で、知らず緊張していたのだろうか。
「そんなこと言わずに……せっかくアズ様がご用意してくださったお品ですよー……」
お願いですから、と懇願する侍女を尻目に、ルーンは一向に首を縦に振ろうとはしなかった。
「別に今のままでも構わないよ」
突然、背後から声がかかる。
驚き振り向いた先にアズがいた。いつ見ても変わらない、どことなく軽侮するようにも窺える涼しい笑顔。そう思うのは、ジェスが少しでも彼に後ろめたいものがあるからなのだろうか。たとえばルーンと会話することだったり、腕に絡みつく彼女の細い指にぎゅっと力が篭ったことだったり。優越を感じていないと言い切れるのだろうか。アズはジェスの薄汚い感情を誰よりもよくわかっているのではないだろうか。そんな思いに駆られる。
「けれど靴は用意してあったものを履きなさい。そんな姿で私の隣に立たれたら困るよ」
呆れたようにアズがため息をつく。
ルーンは思いっきりアズを見上げて、たまったものを全て吐き捨てようと大きく息を吸い込んで――やめた。唇を噛んで、視線だけで辺りを見渡せば、アズたちの様子を静観している者がたくさんいた。今回の主役ともいえるアズが近くにやってきただけでも視線を集めるのに、さらにその妹、王妃となるルーンとなにやら言い争っているとなれば、特に女性は興味を引かれるのだろう。口元を隠してひそひそと隣り合う者同士で囁きあっている姿をルーンは見た。
「……わかったわ」
たった一言それだけを告げると、最後に鋭い視線をアズに投げやり、そのままドレスの裾を引きずったまま庭園を後にした。慌ててその後を追う侍女の後ろ姿も見えなくなると、辺りは再び本来の騒がしさを取り戻していった。
「すまないね。まだパーティーは始まったばかりだ。存分に楽しんでいってくれたまえ」
言って、ジェスの隣を通り過ぎようとした刹那、確かにジェスは見た。聞いた。
アズの鋭く凍るような視線と、地獄の底から這い上がってきたかのような低い声を。
――あんな安物、いつだって取り上げられる。
パーティーの半分を過ぎた頃だった。
アズの父――すなわち国王からの挨拶と、アズの誕生日への祝詞を述べる儀式が残されているのみだった。公式な場ではなく、特に友誼ある者らを集めただけの小規模のパーティーといえども、招かれたほうは、やはり呑気ではいられない。時間が近づくにつれ、会場の中に緊張が走っているのがわかる。警備の騎士も、ひとり、ふたりと増えていた。談笑を交わしながらも、人々の表情には緊張と期待の色が刷けられているのが見て取れる。国王の挨拶が行われるのは、まだ数時間も後だというのに。こういった場に慣れていないジェスは、不思議な気持ちで辺りの様子を窺っていた。
遠目で、アズの隣に並んで頭を下げて回るルーンを見ていた。
庭園で会っているときの爛漫な彼女はどこにもいない。誰の目からも、国王となるべく存在の隣にあってもおかしくはない、品格ある笑顔を見せるルーンがそこにはいる。
裸足で駆け回り、ジェスをはらはらとさせる危うさは微塵も感じさせない、完璧なる「王女」だ。だが時おり、彼女の顔が翳っていることを知っていた。賓客が周りにいないとき、アズの視線から逃げて、ふと我に返ったように冷えた表情を浮かべる。
再び賓客と言葉を交わせば、今見せた冷え冷えとした表情など嘘のように華やいだ。
そういった姿をぼんやりと眺めていると、自分と言葉を交わしたことなどまるで信じられないことのように思えてくる。細くしなやかな身体のラインを隠さないようにと拵えられたのだろう、白を基調としたドレスは、色こそいつも着ているドレスと大差ないものの、足のつま先が見えないほどたくさんの布を重ねて作られたドレスは、蕾から花開く瞬間の様子にも見えた。いつも以上にきらびやかな装飾品を身につけ、たったひとつだけ、ルーン自身が放つ目もあやな美しさが隠してはいるものの、ジェスが渡した花飾りのみが貧弱そうに見せていた。
それを見るたび、ジェスの胸が熱くなる。
嬉しさ半分、申し訳なさ半分。
「ジェス、どうしたんだ。さっきからため息ばかりついて」
何度もため息を繰り返すジェスを見かねて、リュウが呆れたように言った。
「あれだろ? 姫さんと話せないから、いじけてるんだろ」
「違う。そんなんじゃない」
とは言ったものの、半分は間違いではないことをジェスは自覚していた。
自分らを招いたのはアズであって、ルーンではない。それに王族、しかも王妃となる存在の王女と公の場で話せるなどとは思ってはいなかったが、それでもほとんど一言も話していないという事実に、少しだけ満たされない思いでいたのは確かなのだ。どれほど今まで自分が信じられない状況の中にいたのか。どれほど自分が恵まれていたのか。今日ほど強く思い知った日はないだろう。
相変わらずの様子で茫然とするジェスを一瞥し、今度はリュウがため息をついた。
と、同時だった。
先ほどルーンの周りに就いていた侍女らしき女性が、笑顔で声をかけてきたのだ。
「お飲み物、いかがですか? さきほどから何も口にしていないみたいなので、もしよければ」
「よく知ってるね。じゃあ一杯頂こうかな」
侍女の持つトレイから、リュウは自分の分とジェスの分とで、グラスを二つ受け取って、ひとつをジェスに渡した。
ジェスは軽い礼をリュウに告げると、自分が本当に喉が渇いていたことに今更ながらに気付く。随分と長い間、何も飲まず食わずで、それに付き合ってくれたリュウに申し訳なさと感謝でいっぱいになった。
透明のグラスに注がれているのは赤い色をした飲み物。ワインだろうか、と特に気にした様子もなくジェスはそれを口にする。喉を通って、二口目を口にしようとしたとき、侍女の手が震えていることに気付いた。
「飲むな!」
リュウが今まさに口にしようとしていたグラスを咄嗟に手で振り払うと、グラスは勢いよくリュウの手から離れ床に落ちた。同時にジェスの大きな体が傾き、グラスが割れる音と、ジェスが床に倒れこむ音が重なった。火に油を注いだように騒がしかった会場内が、しんと静まり返り、やがて倒れているジェスを見つけると小さな悲鳴を洩らす女性や、真っ青になって同じように倒れる者まで出てきた。床に散らばった赤い飲み物が、まるで血のように広がっていた。
――痺れる。痛い、苦しい。
一瞬にしてしんと静まり返ったホールの中で、ジェスはぼんやりと自分の身に起きたことをひどく冷静に考えていた。
――毒だ。
まだ思考する力が残っていることに安堵し、今にも落ちてきそうなほど重い瞼を必死にこじあける。それでも視界には、薄い雲が張ったように霞んでしまっていた。倒れた体を起こそうとするが、指一本動かない。焦りと苛立ち、自由がきかない体に強い憎悪を抱いた。
「おい! ジェス!」
リュウがジェスの体に駆け寄り、今にも泣きそうな声でジェスを呼んだ。だが、目は開いているものの、どれだけ呼んでも、ジェスの視線がリュウに止まることはなかった。
額や頬、耳の中からうっすらと血が滲んでいる。倒れた衝動で、砕けたグラスの破片が刺さったのだろう。散ってしまった飲み物なのか、それともジェスの血なのか、リュウにはもうそれがどちらなのか判断できずにいた。
「そこの者を捕らえ、一旦お客人たちを下がらせろ」
ジェスの耳にも、リュウの耳にもよく知った声が届いた。
アズの凛とした声音が、騒然とした場に再び沈黙を与えた。
警備に回っていた騎士団の騒がしい足音だけが、近づいてくる。やがてジェスの近くでそれらが止まると、いまだ震えたままの侍女の腕を掴んだ。侍女は抵抗することも、声を上げることもなくただ震えて涙を流した。
「ジェス! ジェス!!」
騎士団のものとはちがう、軽い足音がジェスに寄ってくる。
なんだかとても懐かしいとさえ思える声。ルーンの声も震えていた。
薄い意識の中で、ジェスはしっかりと目を開いて見た。ジェスの傍らで座り込み、床を汚した飲み物ともジェスの血ともわからぬものでドレスを汚していることも気にせず、頬を伝う涙を拭うこともしない、いつものルーンを。
ぼたり、と、ジェスの頬に涙が落ちた。続けてふたつ、みっつと冷たい雫がジェスの青白い頬を濡らす。
自分のために泣いてくれているのだろうか。こんなにも身分の低い、何の取り柄もない男のことを――。
そう思ったら、ひどく寒かった胸が急に温かくなったような気がした。知らない間に、こんなにもジェスにとって、ルーンという存在が大きくなっていたのだ。手を伸ばして「大丈夫」と伝えることができたら、どれだけよかっただろう。だが、それすらもできない。ルーンの泣きじゃくる姿を見つめることが、精一杯なのだ。貴女のことを、大切に思う。そう伝えたなら、どんな表情で自分を見るのだろう。驚くだろうか。それとも怒るのだろうか。こんな状況になってまでも、ルーンのことばかり考えてしまう自分の思いに、ジェスは笑いがこみあげてきた。
「なんで……ジェスが……!」
人目も気にせず声を張り上げたルーンに、ジェスはもういい、と伝えたくて仕方がなかった。もう自分は満足だから、これ以上のものは何も望まないから、と。
だからもう大丈夫。もう泣かなくてもいい。
それに、こんなたくさんの人の前で泣いてはいけない。
――君は王妃になるのだから。
*****
ジェスの瞼が完全に落ちると、ルーンは涙を止めてぼんやりとジェスの顔を眺めていた。
悲しい、という感情さえ浮かんでこなかった。ただ、自分が何を見て、何を感じているのかさえもわからない、といった虚ろな瞳で、静かにジェスの手を握っていた。
周りが騒がしい。
必死に呼びかけられているような気がするが、それが誰なのか確かめたいとも思わなかった。景色はしっかりとルーンの瞳に映っているのに、それはまるで実感のない幻でも見ているかのようだった。
突然ルーンの目の前が闇に包まれた。誰かが目の前に立ちふさがった、と思い至った瞬間、何者かに力強く腕を引っ張られ、そのときようやく実感が戻ってきた。乾いていた頬に再び涙が流れる。
「ルーン、ここから離れろ」
あまりにも落ち着いたアズの声を聞き、ルーンは激しい怒りを覚えた。
アズに掴まれていた腕を振りほどき、胸の奥で蠢くどす黒いものをぶつけるように彼の目を睨みつけた。
アズの声を聞いて、咄嗟にルーンは悟った。
侍女の策でジェスが不帰の旅路に出たのではない。アズだ。アズに違いない。そう思ったら、すうっと血の引くような冷たさが全身を包んだ。ジェスの死を知っても声ひとつ乱さず、目元に浮かぶのは、死を悼むわけでもなくそれどころか、わずかに安堵しているかのようにも見える。
王族であるならば、常に冷静沈着であれ。そう誰もが口にする。けれど、人の死を目前にしてもそれを守る必要がどこにある。悲しみや苦しみを隠して、冷静を装うのと、感じないのとでは大きく違う。アズは後者だ。そんな冷徹な人間に、誰が尽くそうと、従おうと思おう。もし彼が、ジェスの死を見て涙を流したなら、ほんの少しでも哀悼の意を汲み取れたなら、きっとアズを疑うことはなかっただろう。これほどまでに、憎しみを抱くこともなかっただろう。
まだルーンが幼い頃に見たアズは優しかった。よく晴れた日には、警護の者の目を盗んで城から離れた野原で二人寝転んで青い空を見上げた。庭園に忍び込んでくる猫が突然姿を消した日には、寂しさのあまり泣きじゃくるルーンの隣で、いつまでも楽しい夢物語を聞かせてくれた。歌を歌ってくれた日だってあった。母が太陽なら、兄は月の光のように静かな暖かさだ。暗い夜道に、そっと道筋を照らしてくれる仄かな明かり。日が昇っているときには気付かないけれど、確かに必要な優しい光。
けれど、そんな優しかった頃のアズをもなかったものにしてしまうほど、今のルーンは怒りに身を任せてしまっていた。
「君まで魂を取られてしまうよ」
小声で囁くように言ったアズを、ルーンは跳ねるようにして顔を上げて見た。
「……あなた、まさか能力を使ったの!?」
頷くことも、首を横に振ることもなく、アズはただ静かにルーンを見た。その表情にはうっすらと笑みは浮かんでいるものの、人間らしい感情はどこかに置いてきたかのような、薄っぺらなものだった。
アズの笑みを見た瞬間、ルーンの背中にぞわりと何かが這った。
禁忌とされる王族の能力。国王となる者だけにその力の使い方は伝授される。もちろんアズも使い方を知っているのだろう。それを躊躇いもなく、ジェスに使ったのだ。ただ邪魔だというだけで。彼にだって家族や友人はいる。もしジェスが死んで、その家族がどう感じるか、自分だったら身内がこのように誰かの手によって亡き者にされたと知ったら、どのように感じるのか。少しでも考えての行動だろうか。それとも、もしルーンや、父や母が同じ状況だったとしても、それは仕方のなかったことだ、と諦めきれる程度のものなのだろうか。そう思ったら、恐ろしさと同時に、胸の奥で何かが燻った。
ふと、視線をジェスに戻したときだった。
異様な光景に、ルーンはぎょっと目を見開いた。
ジェスの心臓から細い糸が出ており、その先に、人の頭ほどの大きさもある楕円形の半透明の物体が糸に繋がれてふよふよ浮いていた。球体は必死にジェスの体から離れようともがいているが、繋がった糸がそれを阻止している形で、それでも空へと向かおうとする球体の力に耐え切れず、糸がぷつりぷつりと、何本もちぎれてすうっと溶けるように消えていった。
横たわるジェスの傍らで、一向に動く気配のないリュウも、ばたばたと慌しく走り回るひとたちも、誰一人としてジェスの体から浮かび上がる不思議な物体に気をとめる者はいなかった。
見えていないのだ。そう知ったとき、ルーンの鼓動が速くなった。
「君にもやはり見えるのだね。……王族ならば当たり前か」
「何をしたの」
ルーンの目に宿った雷鳴よりも激しい怒りを見て、アズは鼻で笑った。
「本来人の死後、魂というのは次に宿る肉体を見つけるまでは離れないものだ。だが見てごらん。糸が見えるかい? あれはね、肉体のない空間へと逃げようとしている魂を引きとめようとしている糸なんだよ」
視線をジェスに戻して、ルーンは青ざめた。
数え切れないほどたくさんの糸に繋がれていた物体は、ジェスの体から必死に離れようとしているのか、その勢いが先ほどよりも随分と増していた。それを繋ぎとめている糸も、つぎつぎとちぎられていく。すでに数えられるほどとなった少ない糸に向かって、ルーンは必死で手を伸ばした。だが、触れたと思った瞬間、霧でも掴んだかのように、するりとその手のひらから逃げてしまった。
「体から完全に魂が離れたとき、やつの魂は永遠と空間をさまよい続けるだろう」
「……どうしてそこまでするの。ジェスが邪魔なら、騎士団の称号を剥奪するなり、国外へ追放するなり、もっと他にもあったじゃない! なぜ殺して、しかもその上……!」
「君が、やつと共に王族という地位を捨てて逃げることも考えられるだろう? それでは困るんだよ。たった一人の妃候補だというのに」
怒りと悲しみで、ルーンの唇が震えた。
「何を言っているの……ジェスはわたしのことなんか、なんとも思っていなかったわ! 女としてわたしを見ていなかったのよ!」
叫びながらルーンは涙を流した。
今まで無言で話を聞いていたリュウが、初めてぴくりと視線を震わせ顔を上げた。その目には、困惑の色が浮かんでいた。
アズはリュウを一瞥すると、何か言いたげな視線を無視してルーンに戻した。
「見送らなくていいのかい、もうすぐ最後の一本が切れるよ、ルーン」
恍惚とした口調に怒りを覚えたが、それさえもどうでもいいと思わせるほど、ルーンは焦燥していた。
消えてしまう。
ジェスの魂が。
今生では無理でも、来世かその次の世か。一緒になれたらと心のどこかで常に願っていた。そんな些細な希望すらも糸と一緒に切れて溶けてしまおうとしている。
自分の淡い想いがジェスに届くなんて、一度だって考えたことはない。王族に生まれた以上、規律の中での自由しか与えられないのは、ルーンにだって理解していた。兄の妃となり、国を支える一員となったとき、今までのように頻繁にジェスに会えるとも思っていなかった。けれど、時おり自室から外を覗いて、ジェスの姿を見るだけでよかった。もし彼が、自分のことをひとりの女性として見てくれていたとしても、たとえアズの言うように、逃げようと告げられたとしても、ルーンは王妃としての自分を選んだ。
それなのに……。
最後の糸が、小さな音をたてて切れた。やっとの思いで自由になったジェスの魂は、みるみるうちに空中へと舞い上がる。やがて形もおぼろげに、大気へと戻っていった。
「ルーン王女!?」
泡のように消えていったのを見届けると、ルーンは勢いよく立ち上がり駆け出した。その後をリュウが慌てて追いかける。
二人が駆けていく様子を、アズは静かに見つめていた。
*****
アズはしばらく目を閉じていた。
高く聳える山々が、一瞬にして砂となり崩れ去っていくような心地の中で、ひたすらに無心になろうと暴れる心を静めた。
会場に集められた賓客たちは、いつの間にか姿を消し、かわりに寒々しいほどの冷えた余韻だけを残していった。まだ湯気のたっている食事も、開けたばかりのワインも、乱れたままの椅子も。生々しいほどの人の気配を感じさせながらもその余熱は、アズに喪失感だけを与えた。
何気なしに見上げた天井からは、半球の窓に嵌められた硝子を通り越し、眩しいほどの陽を庭園に注いでいる。ちらちらと舞っている埃が、まるで飛沫のように輝いたのを見て、今にも泣きそうな表情のままアズは目を細めた。
空は厭味なほど青く、雲ひとつ見当たらない。アズの心中とは正反対で、ひどく明るい。だが、庭園内に充満した、暗く湿った空気はそれでも消えることはなかった。
この庭園を、訪れた者はみな美しいと褒め称える。アズはその言葉を聞くたびに、心の中で苦笑を浮かべていた。一度だって美しい、綺麗、などと感じたことはない。一瞬にして枯れてしまう花へ対して、どうして美しいと思えよう。みなが感嘆のため息を洩らしているとき、同じようにため息が漏れるのは、決して美しいからではない。自分が他人に合わせて「美しい」と口にしなくてはいけない状況にため息が漏れてしまうだけなのだ。
自分に兄がいたならば。国王などにならなくてもよい存在ならば、少しは違ったのだろうか。何もかも抑え込まなくてはいけない日々に負けず、人々が美しいと思えるものを同じように美しいと思える心を持てたのだろうか。
幼い頃は、国王にさえなれば、手に入らないものは何一つとしてないものだと信じて疑わなかった。だが現実は――残酷だった。
国王という名の玉座が近づけば近づくほど、理想は遠ざかっていく。
「後を追わなくてよかったの?」
女性のなめらかな、それでいて棘を含んだ声がアズに訊ねた。
「ええ」
「万年樹のほうへ向かって行ったのでしょう?」
「……でしょうね」
アズが後ろを振り向くと、初老の女性が凛とした姿勢のままアズを見据えていた。
金の長い髪はひとつにまとめ上げられ、組まれた両手指も首筋にもびっしりと皺が刻み込まれているというのに、まっすぐアズを見つめる瞳は、鮮烈なほど強い意思が宿っており、年齢よりもずっと若く見せていた。
「なぜもっと自信を持たないのですか」
「自信? 私に自信がないと言いたいのか、母上は!」
母の咎めるような視線を見据えながらアズは声を荒げた。しんと静まり返った庭園に、アズの声だけが響いた。
その瞬間、母の眉がさっと歪んだ。普段滅多に感情を表に表すことのない母だが、こうして時おり驚くほどの感情を見せる。アズは、この瞬間の母がすごく苦手だった。自分を見下しているような、加えて哀れみの色を、隠すことなく瞳に浮かばせるさまも。
自分が愚かだと、言葉よりもむき出しの思いに、ひどく惨めになる。
「違うと言うのなら、なぜあの騎士を手にかけたのですか。能力を使って来世までもルーンと離したのは、あなたに自信がないからでしょう」
アズは母の瞳に、哀れみや怒りとは違う、何かを見た。
胸の奥がじんわりと熱を帯び、厚い氷が溶けていくのがわかった。諦めにも似た感情が、アズの表情を和らげた。
(ルーンは母親に似たのだな)
今はもう傍にいない妹を、母の瞳から思い出す。
庭の蕾が開いたと、雨上がりの空を見上げて虹がかかったと、――アズが笑ったと些細なことでも喜びを全身で表していた妹の瞳も、いつも素直に感情を表していた。
だからこそ怖かった。大人になっていくにつれて、自分を慕っていた妹の瞳に違う景色が映っていく様子が。だから排除した。この世で唯一美しいと思える妹の周りには、余計なものはいっさい必要ない。いずれは自分の妻となり、王妃となるとき邪魔になるものは全てアズが命を下した。ルーンのためを思って、ルーンが喜ぶと思って。離れなくてはいけない宿命ならば、それは早いほうがいい。後になればなるほど、手放しがたくなる。けれど、ルーンは喜ぶどころか、自分を敵視するようになった。
夜が怖いと、泣いてアズの部屋に忍び込んできた幼い少女はもういない。
「失望したでしょう。私は一国を消すことになる」
「……そう思うなら、せめて最後ルーンを見守ってあげなさい」
俯き、「そうですね」と頼りなく呟いたアズの表情は、母の位置からはよく見えなかったが、言葉なく母に背を向けたアズが、冷たい涙を流しているように見えた。
*****
城内を抜け、万年樹のある庭園に続く渡り廊下の途中で、ルーンは自分の着ているドレスの裾を踏んづけつまづいた。前のめりに倒れこんだルーンは、半身を起こし、すりむいたばかりの腕を見つめる。白くかすんだ埃と血の混じった自分の腕から目を逸らすと、ぐっと唇を噛んだ。
履いていた自分の靴を乱暴に脱ぎ、細く高いヒールの先を自分のドレスに刺した。目一杯の力で靴を動かすと、ドレスが破れる軽快な音が辺りに満ちた。
いつも着ているよりもずっと上等なドレス。
幼い頃は、母が着ているドレスが羨ましくて仕方がなかった。薄い羽根のような布地を何枚も重ね、花びらのようにふわふわと揺れるのを見て、いつか自分も着てみたいと願った。やがて自分も重いドレスを着たときの歩きかたを教わり、幼い頃は軽々と着ていたようにみえた母も、実は大変な思いをしながら着ていたのだと知る。けれど、母はそんなことを微塵も感じさせなかった。きっとルーンが知らないだけで、ドレス以外にもたくさん苦労をしてきたのだろうと思う。実際、歳を重ねるごとに、ドレスの布が増えるように課せられていくものも増えていった。
まだ就いたばかりの腰元に、「こんな素敵なお召し物を着ていられるなんて幸せですね」と言われたとき、笑顔で頷いたものだが、内心眉を顰めていた。
何が幸せなものか。外見の華やかさを手にしていられるのも、重いものを同時に背負っているから。自分が幼い頃も、同じように母を見た。けれど、こうして母と近い立場となると、ようやく理解できた。侍女らの羨望の視線を受けるたびに、腹立たしいよりも、幼い頃の自分を見ているようで恥ずかしかった。
破れたドレスの合間から覗く、ルーンの白い太ももに涙がひと粒落ちた。
まとめ上げていた髪も、走っている間に解けてしまい、留めてあった髪飾りもどこかに落としてしまった。
ジェスから貰った、あの髪飾りも。
まとめていたせいで乱れた髪を、くしゃりと握った。
(ジェス……)
初めは、興味本位で近づいた。
一番の景色が望める部屋に、と充てられたルーンの部屋からは万年樹のある庭園周辺はもちろん、街へと繋がる城門の辺りもよく見渡せた。晴れた日には、ずっとずっと向こうの山の稜線がはっきりと見え、陽の光が眩しく目を細め、それでも何時間だって飽きることなく眺めていられた。行ったことのない場所、景色。部屋から見えるもの全てが宝物だった。そのときにジェスを見つけた。城内でも噂になっていたほど、彼の容姿は特異で、自室の窓から景色を眺めるたびに彼の姿を探した。
黒は穢れの色だと、城の者は言う。
だが、ルーンから見える彼の姿は違った。どちらかといえば、穢れを知らない白兎のようで、特に微笑ったときの寂しそうな表情がルーンの興味をさらに強めた。
ジェスの遠く離れた場所で、彼を横目で見ながら声を潜めている光景を見たこともある。声が届かなくても、彼らがジェスを嘲笑っているのはすぐにわかった。
――何か言われているのかしら。
そう思って彼を見たときの衝撃は今でも強く覚えている。
普段どこか憂いを帯びたような雰囲気からは想像がつかないほど、彼の瞳には激しい炎が燃えていた。晴天の眩しい陽光すら跳ねかえさんとする勢いで、だがしかし、その視線を嘲笑する彼らに向けることなく、ぐっと堪えている様子が窺えた。
どきりとした。
鼓動が荒波のように激しく動いた。
――弱くて強い。
ジェスも自分と同じ、感情のある人間なのだ。と思った瞬間、彼のことがむしょうに気になりだした。それからだろうか。もともと万年樹の庭園はとても好きで、侍女の目を盗んでこっそり抜け出すこともあったが、ほぼ毎日のように足を運んで、ジェスを近くで見ようとしたのは。
ジェスから声をかけられたときは、心臓が火を噴いたかと思うほどだった。
触れた髪から、あの赤い薔薇にみたてた小さな髪飾りの存在は感じられない。手にたくさんのたこを作って、自分は弱いから、と照れ笑いする彼はもういない。どこを見渡しても、ジェスを見つけることはできないのだ。
そう思った途端、再びルーンの頬にいくつもの涙が流れた。
「ルーン王女!」
自分を呼ぶ声に、ルーンは身を固くし、立ち上がった。
駆けても邪魔にならないよう、無残に切り裂かれたドレスの裾をしばりつける。まだ履いたままの片方の靴も乱暴に脱ぐと、叩きつけるようにして投げ捨てた。
――万年樹まであと少し。
濡れた頬を拭ったとき、自分を呼ぶ声が、近くから聞こえた。
「姫さん! ちょっと待って!」
腕を掴まれ、慌てて振り返ると、息を切らせたリュウがいた。
驚いて目を丸くしたルーンを見て、リュウが声をあげて笑い出した。
「すごい格好ですね。王女の姿とは思えないですよ」
「な、なんでリュウがこんなところにいるの……?」
大きな息を吐き、呼吸を整えるとリュウが急に真顔になった。
「……ジェスに叱られますよ」
リュウが伏し目がちに微笑った。ルーンは再びじんわりと血の広がるような痛みを胸に覚え、リュウから目を反らした。
「……もう、いないもの」
「姫さん、どうしてあんなこと言ったんですか」
リュウの厳しさを含んだ声に、再び視線をリュウに戻した。
「ジェスが姫さんのことをなんとも思ってないって――本気で言ったんですか」
口調こそ普段のリュウとなんの変わりもないが、震える声を聞いて、必死になにかを抑えている様子がわかった。まっすぐとルーンを見据える瞳は、今にも鞘から抜こうとする剣のようだった。
思わず一歩足を引いて、逃げるようにルーンは瞳を伏せた。風に流されてしまいそうなほど、小さな声でぽつりと呟く。
「……だって、ジェスはいつもわたしのことを王女として見てた」
言って、唇を噛んだ。
――そう、いつだって一線引いていたのはジェスなのだ。
どれだけ王族というドレスを脱ぎ捨てジェスに接したところで、ジェスの態度は変わらない。堅苦しい物言いを聞くたびに、胸の奥でいやなものが燻った。頼み込んでやっと多少砕けたと思って喜んだが、自分が頼んだから――王族の申し出を否むことができず、恐縮してのことだったのではないかと、そんな疑念がずっと拭えずにいた。
「オレはジェスの親友です。だからわかります。ジェスが姫さんのことを大切にしていたのも、女性として見ていたのもわかります。――姫さん、あなたは王族です。単純にジェスの気持ちが渡るようではいけない立場なんです。わかってあげてやってくれないですか」
小さい子供を諭すように、ゆっくりと丁寧に繋げられた言葉を聞いていくうちに、ルーンの瞳に涙が滲みでてきた。
もしそうだったのだとしても。今更なのだ。もうジェスはいない。言葉を交わすこともできない。けれど、そう思う反面、冷えた胸のうちがひどく熱かった。
「リュウ。お願いがあるの」
零れそうになる涙を必死に堪えながら、ルーンはまっすぐリュウを見つめた。
「お願い、ですか?」
「もし――もしも、生まれ変わって、ジェスと出会えることがあったら、また助けてくれるかしら」
ルーンの言葉に驚き目を見開いた。だがやがて、リュウは頷きながら笑った。
「今までで一度もやつを助けたつもりはないんですけどね。けど、また友達になれたらいいと思ってますよ」
「ありがとう……」
言い切らぬうちに、ルーンは勢いよく駆け出した。
「ちょ、ちょっと姫さん!?」
唐突の行動に驚いたリュウの叫び声が、駆け出したルーンの背後にぶつかった。だが、後ろを振り返りもせずルーンは、ひたすらに走った。
(リュウ……ごめんなさい)
すっと沁みるように万年樹のもとから甘い香りが漂ってきた。熟した果実にも似た、うっとりしてしまうほどの甘さ。いつもなら、この香りを嗅ぐと、胸が躍った。だが今は違う。罪悪感が逆波のように迫ってきている。けれども、罪悪感と同時に、さきほどのリュウの言葉を思い出し、昂揚している自分もいた。
ルーンの中で、矛盾する思いが廻りまわっていた。
(ごめんなさい……お父様、お母様)
最後に一瞬、アズの顔が浮かんだ。
顔に触れた虫を振り払うように頭を振ると、甘い香りが一層強く漂ってきた。まるでルーンを誘うような、強い強い香りだった。
――万年樹の前で、絶対にお願いごとを口にしては駄目よ?
母の声が脳裏によみがえる。いつだったか、あれもこれもとわがままな願いごとを口にした幼いルーンに、諭すように、けれど厳しい口調で母は言った。
――王族が願ってしまったら、本当にそうなってしまうの。
ルーンが願ったものは、最近街で人気があるらしい、氷を砕いた上に果実をすりつぶして、とろりとした液と果肉を混ぜたものを上からかけ流し食べるという、甘くて冷たいデザート。ルーンが毎日食べる夕食時のデザートには一度も出たことがない。最近ルーンの周りを世話する侍女の話によれば、街に溢れる若い年頃の女性に今一番の人気の食べ物なのだという。話してくれた侍女も、王城に就く前は何度か食べたことがあるというではないか。知らなければなんてこともないが、聞いてしまえば途端に興味が湧くのが幼い少女ならではのわがままだ。
なんとかして食べてみたい。
けれども、その前にお母様にも教えてさしあげなくては。自分と一緒で、知らないかもしれない。もし同じように食べたいと思ってくれたなら手配してくれるかもしれない。そうなったら自分も近い将来食べられることができるのかもしれない。そう思って、何も考えずに母に話した。
……それが、こんなに叱られなくてはいけないことだったのだろうか。
しかし母の目は真剣で、以前廊下に飾ってある壺を落として割ってしまったときよりも恐ろしかった。あのときもこっぴどく叱られたが、怒鳴り威嚇するような恐怖ではないが、うなじにそっと刃を添えられたような、そんな底冷えする恐怖だった。
――お願いが叶っちゃいけないの……?
恐る恐る尋ねるルーンに、母は首を横に振った。
――お父様もお母様もお兄様も、ルーン、あなたも死んでもいいと思えるほど願いを叶えたい、と思うものができたら万年樹にお願いなさい。
――だめ! お父様もお母様も死んじゃだめ! アズも今度街に連れていってくれる約束をしたもの、絶対だめ! ……あ。
母に縋りながら思い出した。アズとの約束は、二人だけの秘密だった。侍女にも、もちろんお父様にもお母様にも内緒だよ? と言っていたアズの顔を思い出す。
ルーンが望むものをいつも叶えてくれる兄。街で食べられるというデザートも、兄に頼めばもしかしたら叶うかもしれない。そう思ったが、なぜか兄に伝えようとは思えなかった。もし兄が万年樹にお願いをしてしまったら、母が言うように、大切な人たちみんなが死んでしまう。我慢できる程度のわがままのために、みんなを失いたくはない。
けれど、母は思い違いをするかもしれない。
自分が兄に頼み込むかもしれない、と。
叱咤が飛んでくるかもしれないという恐怖から、ゆっくりゆっくり視線を上げると、さきほどまでの恐ろしい雰囲気はどこへいったのか、母は困ったように微笑っていた。
温かい手が、ルーンの頭を撫でた。
――城を抜け出すのもほどほどになさい。あなたたちが抜け出したあとの侍女が可哀想で仕方がないのよ。
そう言う母の表情は、いつものものに戻っていた。温かい布団にくるまっているような、そんな心地の良い空気に満たされ、ルーンは母の顔を見ながら微笑んだ。
眩暈を覚えるほどの、万年樹の甘い香りを感じるたびに、ルーンは幼い頃の記憶に思いを馳せていた。
まだ何も知らなかった幼い自分。
万年樹に願いごとをすることが、どういうことかも、はっきりとわかってはいなかった。ただ母が恐ろしくて、大切なものを失いたくないというだけの理由で、万年樹の前では口をつぐんだ。確信はない。けれど今のルーンはもう知っている。
「お願い。ジェスの魂を返して……」
万年樹を目の前にして、ルーンは意外にも落ち着いた口調で口にした。
伸ばした指が幹に触れる。温かかった。ほんの少し前までは、ジェスも温かかったのに。けれど、もう冷たい。触れていた手が次第に冷たく硬くなっていく様子を、ルーンは嫌というほど覚えている。
不意に、風が吹いた。
白い陽の光に混じって、草の匂いがする風が辺りに満ち溢れた。最初穏やかだった風が次第に強くなり、やがて目も開けられないほど強く吹き荒び始めた頃には、立っているのがやっとだった。びゅうびゅうと獣の唸り声のような風が耳元で鳴るたび、垂れ下がる枝葉が頭や頬にあたった。軽い痛みを覚えるなか、ルーンは必死で万年樹の太い幹にしがみついた。両腕から伝わる温度と湿った土の匂いが、早くなっていくルーンの鼓動を落ち着かせる。けれど、ふと気付いた。万年樹にしがみついている両腕に、かすかな痛みがあることに。
目を開けようとすると、細かい砂が目に入り涙が滲む。それでもルーンは構わず目を開けた。
うっすらと開けた視界に映った自分の姿に、驚きのあまり両手を離してしまった。けれどルーンの体は、風に流されることはなかった。
白い肌はほんのりと金色に輝いていた。葉を光に透かしてみたときのような、葉脈のように細かい筋が何本も肌の上を走る。首にも腕にも、破れたドレスから覗く太ももにも、同じような筋が流れていた。また、万年樹から垂れる枝や葉が、ルーンを縛り付けるように絡みつく。かろうじて目も開けられるし、きっと声も出る。けれど、悲鳴も叫び声も、今のルーンには声にならなかった。冷水をかけられたような冷たさが、ルーンの全身に広がった。
『ごきげんいかが、ルーン王女』
不意に声が聞こえた。明るく、子供のように幼い声。だが、ひどく恬淡としているようにも感じた。
動かせる範囲で視線を巡らせ声の主を探す。けれど、万年樹の辺りには誰一人として人の姿はない。
すると、さきほどの声が笑った。
『わたしは万年樹と呼ばれる生命』
「万年樹……?」
掠れた声で訊ねると、声が頷いたような気配を感じた。
『ルーン王女の願いを叶えようと思う。けれどその前にいくつか確認したい』
言って、突然声に鋭さが滲んだ。硬直して何も言えないでいるルーンを無視して、声は続けた。
『あなたたち王族の願いは、本来叶えられるものではない。ルーン王女に非はないけれど、祖先がしでかした罪は重い。――だからこそ、王族たちの願いには、代償が必要。それはご存知か』
「ええ」
しっかりと目を開け気丈に頷くルーンを見て、声は静かに「そうか」と呟いた。
『ではもうひとつだけ訊かせて。全ての命を犠牲にしてでも叶えたいものか?』
今度は瞳を伏せて静かに頷いた。
今のこの姿、思いを知ったら母や父はどれほど嘆くだろう。
潜っても潜っても、底が見えない海のような深い罪悪感がある。けれど後悔はなかった。あれだけアズのことを非難していたのにも関わらず、自分もアズと同じことをしようとしている。関係ない、死ななくてもいい命を刈ろうとしている。けれど、リュウから聞いてしまった言葉に賭けてみたい、そう願っている。魂が戻れば、来世で共に笑いあうことができるかもしれない。そう考えたら、どれだけ罵声を浴びせられようと、侮蔑されようと、いっこうに構わなかった。自分のわがままだということも、十分に理解している。けれど、もう止まらなかった。
『わかった。ルーン王女の願いを叶える。けれどひとつだけ注意して。求める魂を探すのはルーン王女、あなただ。わたしはその手伝いをするにすぎない。もしかしたら永遠と見つからないかもしれない』
「でも、わたしの命だって……!」
なくなってしまうのに。そう言おうとした刹那、声が遮った。
『ルーン王女。望む限り、あなたの命は万年樹と共に』
ルーンは頷いて、静かに目を開けた。
万年樹に拘束されていて気付かなかったが、激しい風が次々に木々を薙ぎ倒していく。自分の体の何倍、何十倍とある大木が、遊戯盤の上の駒のように軽々と倒れていく様子を見ていたルーンは、激しい吐き気を覚えた。今はまだ庭園に人の姿はないが、次第に王城をも襲うだろう。そうなったとき、今のルーンにはこれ以上とない懲罰だ。
こんなもの、殺戮と変わらない。
風の唸り声に雑じって、人々の悲鳴や叫び声、自分に向けられた列火のような怒りが聞こえてくるような気がした。血なまぐさい臭いが、実際そんなものは感じていないのに、鼻の奥にこびりついているような気分になる。
母も父もジェスからも、見捨てられるようなことをしている。けれど今更もう止まることはできない。
人々の死を、このとき初めて感じ取り、ようやく僅かな後悔が生まれた。
涙が零れた。
すでに人の姿とはかけはなれた、何者ともいえない姿となってしまった自分の太ももに、大粒の涙がいくつか落ちた。
「ルーン……!」
自分を呼ぶ声に、ルーンは顔を上げた。
万年樹に絡みとられ、本来の視線よりもずっと高い位置にあるそれで見渡した。ちょうど自分の真下――万年樹の根元にアズがいた。
息を切らせて、おそらく走ってきたのだろう、傍らにはリュウの姿もあった。
アズもリュウも、ルーンの姿を見て一瞬言葉を失う。けれど、アズは更に近づき仰いだ。
ルーンと、アズの視線がぶつかった。どちらも無言のままお互いを見つめていた。これで満足か、そう叫んでアズに悪罵を投げつけてやりたかった。けれど、アズの瞳を見た瞬間、驚くほど怒りがしぼんでいった。
久しぶりに真正面から見つめたアズの瞳は、涙で濡れていた。暗い哀しみと、アズなりの悔いる思いをその瞳に見て、ルーンは静かに瞳を伏せた。
もう、何がよくて何が悪かったのか、それすらわからなくなっていた。
ただ、見知った人間が死んでいく姿を、もうこれ以上見たくない。そう思ってひたすら心と耳を閉ざした。