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夢の中で、ユナは一頭の獣と対峙していた。
やつは獅子でもあり鳥でもあった。そして言えるのは見たこともない姿だということだ。長い体毛は風もないのにゆらゆらと揺れ、丸みを帯びた背には鬣などの体毛と同じ金色をした羽が生えていた。ユナを威嚇するように羽ばたきを繰り返し、大きな牙を覗かせ、てらてらと光る涎を滴らせた。
辺りは暗く、獣の大きな金色に光る双眸だけが煌々と輝いている。音もなければ一切のにおいもない。自分が立っているのか、それとも座っているのか、それすらもわからない場所で、ただ不気味なほど強く輝く獣の視線を凝視しているのだけはわかった。
(まただ。またこの夢……)
目を逸らしたくとも、目を閉じたくとも、全ての行動に糸を縫ったかのように、ユナは些細な動きすら封じられていた。目を逸らすな、とでも言いたげに獣の眸の輝きが一層強くなる。やがて、目の前の獣の腕が伸び、長く薄汚れた爪がユナの顔めがけて迫ってくる。喉を掻き毟ろうと爪が、瞳が、獲物を捉えて輝いた。だが、どうしたことか、獣の爪はまるでユナに届かないでいた。
その瞬間、いつも体が燃えたように熱くなる。瞬間的に目を瞑りたい衝動に襲われるが、それは一度として成功しなかった。かわりに広い額から、じわりと汗が滲むだけ。鼓動が、走り出すように速くなっていく。
そうして、しばらく獣の爪が触れるか触れないかの恐怖の中に立たされながら、ユナは目覚める――はずだった。いつもならば。
だが、今日は違った。
風がある。微かにだが、どこからか風が細い隙間を通ってやってくる音が聞こえる。壁も天井も見当たらない、暗い暗い場所。岩もなければ木々もない。もちろん人の姿を見たことなど一度もなかった。自分の体だというのにひどく不安定で、今にも底なし沼に落ちていくのではないかといった恐怖に襲われる。そんな無に近い空間の中で、風が岩にあたる音がきこえるのだ。ヒュウヒュウと、風の泣く音が。
そして目の前の獣が吐く息が、ひどく生温かい。
緊張と恐怖。いつもと違う夢の展開に、ユナの額には珠のような汗がいくつも浮かんだ。それらを獣の臭い吐息が冷やして、汗で張り付いていない部分の黒い髪をふわりと舞い上がらせた。
崖の上を綱渡りしているのかと思わせる表情だった。
子供らしい丸みを帯びた顔の輪郭と、反面、すっと通った鼻筋も、どこか暗い色をたたえた黒目の大きな瞳も、どこか子供離れしていて、ふと目が合った瞬間、どきりとさせられる印象を与える少年だった。
今にも泣き出しそうなくらい、表情を歪めているのに、その恐怖を必死に我慢しようと唇を噛む。
心のどこかで少し油断していたのだ。所詮は夢なのだ。どれだけ鋭利な爪も、きっと自分の喉に届いてしまう前に、目が覚めるだろうと。届いたところで、痛みも痒みもないんだ。音が聴こえないように、においを感じないように。ただ目が覚めてしまえば、後味の悪い心地だけが残るのだろうと、ずっと確信していて疑ったことなど一度もなかった。
だが、音とにおいを感じた途端、ユナはたとえようのない焦燥感に襲われた。それは死に対する恐怖に似ている。
体中に流れる血が沸騰したかのように熱く、そして一気にそれらが引いていくのがわかった。ひやりとした汗が、眉間や背中を伝っているような気がした。怖い。怖い、と叫びたくても声は出ることなく、かすれた呻きのような吐息を洩らすだけだった。
(僕が何をしたっていうの。どうしてこんな夢を見なくちゃいけないの……!)
夢を見るようになったのが、いつの頃からかはっきりとは覚えていない。最初はただの夢だと思い、気にも留めていなかった。目が覚めたあと、怖かった、と、その思いだけがぽつりと胸に落ちただけ。だが、悪夢を忘れた頃に、再び全く同じ夢を見た。音もにおいもない無の中で、たったひとりで獣と対峙させられている夢を。獣の眸はひどく不気味で、目を刺すような強い光を発し、時おり何かを叫んでいるようにも見えた。しかし音が聴こえない。においもない。なによりユナに獣の言葉を理解する能力は備わっていなかった。平凡で、少し貧しいどこにでもいる取り柄という取り柄もない少年だったから。しかし、獣の態度が自分に友好的ではないことは、幼いユナでもよくわかった。
そういった夢がもう五年以上は続いている。
悪夢を見て、記憶が薄れた頃にまた同じ夢を見る。まるで忘れることを許さない、とでも言うように、体に心に恐怖を植えつけていく。まだ十五にも満たないユナのやわい心は見えない敵に蝕まれ、眠ることすら躊躇う毎日だった。眠ればきっとまたあの夢を見る。それは怖い。けれど、無情にも眠気はやってくる。同年代の子供が教師に反抗するように、親に反抗するように。ユナはやつに対して頑なに拒み続けていた。だが、そうした努力もむなしく、眠りは突然にやってくる。やがて、ゆらゆら揺れるような心地に包まれたと思ったら、この悪夢だ。
(何を言いたいの? 何がしたいの)
誰に向かって問いかけているのか、ユナ本人もわからずただ胸中で叫び続けた。
そうしてどれ程か時が経った頃、すでに視界は涙でかすんでいた。泣くことは恥ずかしいことだと、ユナはいつも思っていたにも関わらず、我慢できなくなったのだ。喉の奥から嗚咽が漏れそうだったが、かろうじてそれだけは耐えた。息を吸って、唾を何度も飲み込んで、歯を食いしばったら少しだけ涙が止まる。そうして、涙に濡れたうすぼんやりとした景色に獣の眸の光だけが浮かんでいるように見え始めたときだった。
瞼に痛みを覚えるほどの、強い光が闇の空間を包んだ。反射的にユナは目をつむる。このとき初めて自分の体が動いている、と自覚した。だが喜びとどうしてだろうという疑問が浮かんでくる前に、暖かい光が瞼を撫でるようにして触れ、ユナは目を開けた。気がつけば元いた場所とは程遠い、金色に輝く森の中にユナは佇んでいた。
思わず声が漏れてしまうほど暖かく、そして明るい場所。見たこともない樹木の枝は地に向かって伸びるように垂れ、生い茂る葉はどれも金色の光を放っていた。繁々と生い茂る金緑の草地をユナは一歩、また一歩と進み歩んだ。柔らかい土の上を覆うように生える草のほとんどが細長く、歩くたびにユナの足首をくすぐる。草の隙間から覗く花は、ユナが見たことのある花とはどれとも重ならず、風もないのにゆらゆらと気持ちよさそうに揺れていた。ユナの気配を感じ取るようにして、足元の花から金色の粒子がふわっと舞い上がる。どこからか、うっとりするほど甘い香りも漂ってきていた。
暗い陰湿な空気を纏うあの場所とは違い、まるでユナは実際にそこにいるかのようだった。手も足も動けば、花の香りも土の匂いも感じ取ることができた。ユナは物珍しげに辺りを見渡しながらゆっくりと歩いた。落ち着いてよく見てみれば、珍しいのは花だけではない。太い幹にぎっしり生えた金色の苔も、青いはずの空が金色なことも、そのどれもがユナの知識の外にある。普段の警戒心はどこにいってしまったのか、思わずすっと手が伸びてしまう。指先に触れた樹の幹はほんのり温かく、重なり合う葉はユナが触れる前から踊るように揺れていた。見える全てのものが金色に発光していて、ユナの興味を一心に引き、泣き出してしまうほどの恐怖などすっかり忘れていた。ちょうど春の半ばごろの季節と同じくらいの暖かさで、歩き続けたユナの額にうっすらと汗が滲んだ。
やがていくらか歩いた頃、ユナが歩く先から更に強い光を感じた。光と一緒に甘い香りも強くなっていく。目を細めて、なんとなく歩く速度を速めた。心の底から出たい出たいともがき暴れるような焦燥感が、ある。知らず駆け出していたユナの動きに合わせて、光を弾く艶やかな黒髪がなめらかに揺れた。なぜだか泣き出したかった。でも嬉しくてたまらなく、声を上げて笑い出したいとも思った。胸に迫りあがるものの正体がわからず、ユナはただ心急いだ。あの光の中心には、何があるのだろう。行けば、この正体不明の感情に、答えが出るかもしれない。
(あれは、なに?)
近づくにつれ、光の中心にある正体が見えてきた。この一帯に見える樹木を何十と集めても敵わないであろう存在感のある樹木が姿を現した。ぐるりと腕を回して抱き込むには、いったいどれだけの人数を集めたら叶えられるのか、ユナはぼんやり考え、その樹木の異様な姿に、息を呑んだ。
見たこともないほど立派な大樹。だけど、ユナが言葉を失ったのはそれだけではなかった。
樹幹の中心より下の部分――ちょうどユナの目線から上あたりだ。樹木から分かれる枝と一体化していたのは、まだ若い女性の姿だった。枝のように伸びる腕、何も纏わぬあらわになった乳房も、何もかもが樹木と同じ、金色に輝いている。蔦や葉が、女性の体を縛り付けるように絡みつき、思わず見とれてしまうほど柔らかそうな肌に傷がついてはしまわないか、ユナは痛そうに眉を歪めた。
ユナの気配を感じ取ったのか、樹と一体化していた女性の伏せていた長い睫毛がゆっくりとあがり、緑にも金にも似た、たくさんの水を含んだような、潤んだ大きな瞳がじっとユナを見つめた。ユナが今まで出会った女性の中で、誰よりも見目美しい。けれど、ぎくりとさせられるほど感情が感じられなかった。だからだろうか。こんなに綺麗な女性に見つめられているというのに、ユナは畏怖すら感じた。うなじあたりがひんやりと冷たくなっていくのがわかる。
本当に無意識だった。そろりと伸ばしたユナの細く短い指が、女性の頬に触れるか触れないかのところで、ハッと我に返り動きが止まった。だがその瞬間、今まで感情を一切見せなかった女性の瞳が揺らぎ、柳眉が何かを訴えるように動いた。
触れた、と思った指先は、空を切る。まるで、ユナと女性との間に一枚、水の壁でも置かれているかのようだった。ゆらりと波紋を広げ、ユナの小さな指が女性の体を貫いた。しきりに何かを告げようと、女性の口が動く。だが、暗い空間にいたときと同じく、一切の音はユナに届いてはこなかった。
今にも泣き出しそうな女性の表情を見つめながら、ユナは唇を噛んだ。
助けを求めているのかもしれない。身を刻むような痛みをたたえた瞳だった。見ているだけで、自分も涙が出てしまいそうなほど、痛い面持ち。けれど、彼女が何を求めているのかもわからない。声が聞こえなければ、手を差し出すことすら正しい行動なのかもわからない。わかったところで、小さな子供である自分に何かができるとも思えなかったが、それでも、もしかしたらたったひとつでも何かあるかもしれないのに。
自分は一体どうしてここにいるのだろう。何かを訴えかける女性の瞳が激しさを増していくのをただ見つめながら、ユナは泣きたくなった。暗闇の中で絶望と恐怖のみに支配されていたときとはまた違う、もどかしさだった。
――ジェス!
突如聞こえてきた声に、俯きかけていた顔を上げ、目を見開いた。
想像していたよりもずっとはきはきとした声だった。もっと、ゆかしい声音だと思っていたユナは、思わず言葉を失った。
女性はそんなユナの驚きを無視して悲痛な叫びをあげる。声をからしながら何度も何度も同じ名を呼んだ。ユナに向かって、違う名を。
ジェス、とユナに訴えながら、細い腕を伸ばす。瞳にたくさんの感情をのせて。ユナは、その中に強い期待の色を感じて、彼女が伸ばしてくる手を受け取っていいものかどうか、判断できずに困惑していた。伸ばしかけたユナの腕が、あと少しのところで硬直する。
――違う。僕はジェスじゃない。僕は――……
「――ユナ!」
机に伏せていた顔を素早く上げると、ユナの真正面に困り顔の女教師が立っていた。
自分が今どこにいるのか、咄嗟に思い浮かべることができなかった。だが、目の前の教師や横長の木の机に、何人か自分と同じ歳の頃の少年少女を見つけて、初めてここが夢ではなく、現実なのだと思い出した。
教室の一番左隅、ユナの左の頬に陽がさす。硝子の嵌められていない窓から、ゆるやかな風が流れ込んできている。
そうだ。午後の授業の最中だった。すっかり微睡みに身を任せて深い眠りに陥っていた自分に驚愕すると同時に、恥ずかしさから教師の目を見ることができない。黙りこくったまま俯いたユナの耳に、聞き慣れた小さな笑い声が聞こえてきた。
「また遅くまで屋根に上って星を眺めていたんじゃないの」
含みある声が、くすり、と軽い笑い声と一緒になって聞こえてきた。それに続くように、別の少年も笑いながら声を上げる。
「いつか月に行くんだーって、ユナはいつもそんなことばっかり言っているんだ」
「あれ? 月の裏側に街があるんじゃなかった?」
「どっちも変わらないじゃない」
揶揄が飛び交い、嘲笑が教室の中に満ち溢れていく。ユナはたまらなく更に俯いて、開かれた本の中に視線を落とした。
女性教師は溜息を漏らすと、静かに、と溢れた声を窘めると再びユナのほうへと向き直った。
「素敵なお話ね。でも今は私の授業の時間よ。もう少しだけ頑張って起きていてちょうだい。――いつかその月のお話、私にも聞かせてちょうだいね」
柔らかに微笑って告げた教師の顔を、ユナは見ることができなかった。俯いたまま、いまだ止まない微かな嘲笑が、耳元でこだまして、授業が終わってもずっとこびりついたままだった。
とぼとぼと、路に沿い歩くユナの影がゆらゆらと目の前を歩く。肩を落とし、影を踏み越そうと一歩踏み出せば、影はユナの更に先を行き、決して追い越すことはできない。気分の良い日ならば、自然と歩幅も大きく影を飛び越そうと躍起になるのだが、生憎この日はそんな気分にならなかった。
すでに陽は西に傾き、都を煌びやかな橙色に染め上げている。背の高い教会の尖頭や、掲げられた十字架に陽光が反射して、時おりユナは目を細めた。広いレンガ造りの通りを馬車がいくつも通り過ぎ、車輪の音だけがユナの耳に残った。大通りに並ぶ美術館や画廊、少し歩けば学舎の何十倍の広さもある公園がある。有閑階級の者らが多いこの都は、いつも明るく賑やかだ。どれだけユナが落ち込んでいようと、その様子はいつも変わらない。通り過ぎていく人々が、ユナに投げやる視線すらも。
麻の薄布でしつらえられた衣に、頭まですっぽり隠れるほど深いフードのついた羽織もの。衣と同じ素材で作られた、ぎゅうぎゅうに中身が詰まった巾着袋を肩から提げ、ユナは都を行き交う人たちの風采に思わずため息が漏れた。
指を這わせたらするりと滑ってしまいそうなほど光沢のある衣も、光を弾く高価な石のついた装飾品も、ユナは一度も手にしたことがない。羨ましいとは思わない。だが、やはり一度くらい触れてみたい、着てみたい、と思ったことはある。貴族らが身に着けているようなものを同じように着れば、学舎で嗤われることもないのだろうか。都の人たちから浮浪者を見るような視線を投げられることもなくなるのだろうか。裕福ではない生活に、これっぽっちだって不満はないのに、家から出れば、裕福じゃないことで白い目で見られる。そんな現実に、ひどく悲しくなった。
そうして歩けば歩くほど、都の喧騒と眩い明かりはユナの背後で小さくなっていく。代わって見えてくるのは、緩やかで穏やかな残照と暗い空に明滅する星屑。聞こえてくる小さな虫の鳴き声。肌を震わせる冷たい空気。それらが全て揃う頃、鬱々とした気分は薄くなりユナの家が近くなる。
だが、この日は一向に気分が晴れることはなかった。
ふとした瞬間に、学舎であった出来事を思い出す。
――夢を見るほど、深い眠りについたのは初めてだ。
眠ればまた獣と対峙させられる夢を見るかもしれないという恐怖から、夜眠りにつくこと自体が怖かった。あの獣は一体なんだろう。自分と関係がある夢なのだろうか。布団に潜り込んで目を閉じても、夜一睡もできないことは珍しくなく、授業のない昼間に少しだけ目を閉じることもある。
その結果が今日の居眠りだ。
時間と共に薄くなりかけていた、胸を抉るような感情が再び鮮烈にユナの心を蝕む。
自分の何が悪くて、皆から陰口を叩かれるのかわからない。
――月の裏側にもうひとつ世界があると信じていてはいけないのだろうか。月を見上げて、淡い想いを望むことが、そんなに可笑しいのだろうか。歳のわりに、子供じみていると嘲笑を受けなければいけないことが、悲しく苦しかった。それは、月の裏側にはもうひとつ世界があるのだよ、と教えてくれたラムザ爺さんが嗤われているようで、怪我をすることよりも空腹を覚えることよりも、一番に痛かった。裕福ではないという理由なら、もっともっと痛い。
胸も目尻も熱を帯び、慌てて空を仰げば透き通るような青闇に、ぶちまけたような星がユナを励まそうと煌いた。
もう、家はそこまできている。
見慣れた風景、明かり。扉をあければ暖かな室に夕飯の香り。そして優しい笑顔。それらが雲ってしまわないよう、自分の胸の中にある渋い思いは決して外に出してはいけないのだ。
ユナは大きく息を吸い込んで、家の明かりをしっかりと見据えながら歩き出した。