理由の前
それは突然来る。
風は首元を通り抜ける。
水も飲んだ。
眩暈もしない。
なのに、手のひらだけが濡れている。
ズボンで拭いても、すぐにまた湿る。
おかしいな、と思う。
声に出さず、胸の中でだけ。
心臓の音がやけに近い。
耳の奥で鳴っている気がして、
指で首に触れて数える。
速すぎるほどではない。
遅くもない。
普通だ。
普通、普通、と三回繰り返すと、
かえって嘘くさくなる。
理由を探そうとする。
仕事の締切、
忘れている連絡、
昨夜の夢。
どれも違う。
どれも今じゃない。
思考は滑って掴めないのに、
足だけが落ち着かない。
床に根を張るどころか、
今にも前に踏み出そうとしている。
信号が赤に変わる。
止まれ、と世界に言われた瞬間、
息が詰まる。
胸の奥が狭くなって、
酸素の通り道が一本減ったみたいだ。
周りの人は静かに待っている。
スマホを見たり、
空を見たり、
あくびをしたりしている。
その普通さが、逆に怖い。
何も起きていない。
事故も、
叫び声も、
異変もない。
それなのに、
身体は知っているみたいに告げてくる。
ここにいるな。
考えるな。
今だ。
背中を誰かに押された感覚がして、
振り向く。
でも誰もいない。
代わりに、
首の後ろを汗がつたう。
拭うと、そこだけ冷たい。
まるで境界線みたいだと思う。
ここから先は、
戻れないと示されているような。
走り出したくなる。
目的地なんてない。
ただ、止まってはいけないという確信だけがある。
立ち止まったら、
何かが決定的に終わってしまう。
何が終わるのかは分からない。
それでも、終わるという感覚だけは、
はっきりしている。
青に変わる。
人の流れが一斉に動き出す。
その瞬間、
足が勝手に前へ出た。
歩幅が大きくなり、
呼吸が乱れる。
誰かとぶつかりそうになって、
かろうじて避ける。
謝罪の声が聞こえた気がしたけれど、
振り返らない。
走っているのか、
速足なのか、
自分でも分からない。
ただ、身体が命令に従っている。
脳は遅れてついてきて、
何度も問いかける。
どこへ?
なぜ?
答えは返ってこない。
しばらくして、息が切れる。
肺が熱くなり、足が重くなる。
それでも、恐怖は少しだけ薄れている。
代わりに残ったのは、
理由のない確信の残骸だ。
立ち止まる。
振り返っても、
何も追ってきてはいない。
街は相変わらず平和で、
空は高い。
さっきまでの衝動が嘘みたいに、
世界は整っている。
手のひらを見下ろす。
もう濡れていない。
何から逃げたのかは分からない。
でも、あのまま立ち尽くしていたら駄目だったことだけは、なぜか今も、分かるままだった。
第六感と言えばおさまりはいいのかもしれない。
そんなに繊細でもない。
どちらかと言えばズボラだ。
なのにたまにこの衝動がやってくる。
動物的本能なのかもしれない。
完璧な敵の臭いを嗅ぎ分けたんだ。
と自分を1つの小さいフォルダーに収める




