更なる発覚
1.からすのパン屋さん
A子の手紙を発見してから三週間ほどが過ぎた。
夫のクレジットカードを解約する為、利用明細をインターネットで確認していた。
毎月引落しになっているものを調べ、必要なものは私のクレジットカードからの引落しに変更し、不要なものは解約をしなければいけなかったからだ。
すると、利用明細の中に『絵本ナビ』という名目で毎月300円が引き落とされていた。
—— 『絵本ナビ』って一体なんだろう?
不思議に思い、インターネットで検索してみた。
どうやら、インターネット上で絵本の最初の部分だけ試し読みをして、気に入ればそれを購入できるというウェブサイトらしかった。
確かに、夫は何にでも興味を持つタイプで絵本も好きだった。古本屋で素敵な絵本を見つけるとよく購入していた。
—— でも、こんなサイトに登録して、毎月会費まで払うとは……
違和感と同時に、胸騒ぎを感じた。
よく見ると、右上に購入履歴というタブがあったので、そこをクリックしてみた。
その購入履歴によると、夫はそのウェブサイトで絵本を数冊買っていた。そして、その絵本のほとんどは我が家のリビングルームの本棚に置いてあるものだった。
—— あの絵本たちはこのウェブサイトから購入していたのか……
そして、ずーっと下まで購入履歴を見ていくと、夫が数年前にそのウェブサイトで一番最初に購入した物が表示された。
私は心臓がどきりとした。
それはエプロンだった。幼稚園の先生が仕事の時に身に付けるような、キャラクターが全面に施された物で、かこさとしの人気絵本『からすのパン屋さん』のピンク色のエプロンだった。
—— どうしてこんな物を。我が家にあるのを見たこともないのに……
その時、ある事に気がついた。
—— このエプロン、見覚えがある…… あのエプロンだ!
そのエプロンは、息子が通った幼稚園の副園長がよく身に付けていたのと同じ物だった。
その副園長は息子の同級生の母親でもあり、息子同士はその時も小学校で同じクラスであり、夫が入る墓を建てることになっているお寺の長女であるS子だった。
—— まさか! 嘘だろう…… S子とも関係を持っていたと言うのか。まさか、そんなはずはない。何か事情があるのかもしれない。
とにかく、彼女に訊いてみるしかなかった。
震える手で、S子にエプロンの画像とラインメールを送った。
「こんばんは。夜分に変なこと聞いてすみません。この、『からすのパンやさん』のエプロンお持ちでしたっけ?」
二時間ほど経って、やっと返事が来た。
「メッセージに気付くのが遅くてスミマセン。このエプロン、持ってます。お気に入りだったんですが、先日、プールの塩素消毒がついて、ところどころ脱色してしまい、ガーンとなりました。何年か前に、園に出入りの業者から買いまして、また買いたいけどもう無いみたいで残念です。」
「『からすのパン屋さん』というか、かこさとしさんが大好きで、ここ二年くらい家のカレンダーも『からすのパンやさん』です」
わざわざカレンダーの画像まで撮って、一緒に送って来た。
—— 怪しい。怪しすぎる…… まずは、なぜこんな夜更けにそんな事を尋ねてきたのかを訊くはずじゃないのか。それに、カレンダーの画像まで撮って送ってきて、説明がやけに長すぎる。
私は気持ちを抑えきれず、続けてメールを送った。
「ひょっとして、そのエプロンは私の夫からのプレゼントでしたか? たまたまインターネットを見ていたら、夫が二年程前に通販で同じエプロンを購入していました。でも、家のどこにも見当たらないし、どこかで見たことがあるようだと思っていたら、あなたがいつも着ているのを思い出しまして……」
「私、業者さんから買ったのですが」
驚いた様子もなく、やけに短い答えだった。ますます怪しかった。
普通なら、「本当ですか? 不思議ですね」とか、言うはずじゃないのだろうか。
「そうですか。あなたはもう買えないと言いましたが、そのエプロンは楽天などで、今でも普通に販売されてますよ」
「そうなんですね! 業者さんのカタログで買ったので、そこで扱ってないから無いのかと」
私はもう我慢できずに切り込んだ。
「夫と特別な関係にありましたか?」
「私はとても尊敬していましたが、特別な関係ではないです」
それ以上、私は何と返信して良いのか分からなかった。S子からも返信は無かった。
信じられないような気持ちで、よく眠れぬまま翌朝になった。
その日は、夫の四十九日法要が行われる日だった。
この辺りの風習に従い、午前中に自宅の仏壇の前でS子の夫にお経を上げてもらい、その後、お寺に向かい、御本尊の前で読経と焼香があった。
それから、実家の日本料理店で僧侶を交えて親族で会食をした。
当然ながら、私は朝からずっとうわの空だった。
「元気がないね。大丈夫?」と皆に言われ、何も言わなかったが、感情を隠しきれなかった。
会食が始まって少し経ったころ、S子がお店にやって来た。親族以外の人が会食の席に着くことはあまりないはずなのだが、義父がS子を会食に招待したのだ。
S子は義父の大のお気に入りだった。
息子が幼稚園に通っていた頃から、幼稚園のイベント等で顔を合わせる度に、「おじいちゃま、おじいちゃま」とS子に積極的に話しかけられ、義父も「S子ちゃん、S子ちゃん」と呼んで、たいそう気に入っていた。
義父は、私や夫にも「S子ちゃんは良い子だ。お寺の若奥様だからってツンツンしていないし、俺と気が合う」などと言っていた。
夫が亡くなってからは、義父は仕事場にある夫が使っていた物を指して、「これ、幼稚園で使えるんじゃないか?」とか、「これ、幼稚園の子供達にあげたら喜ぶんじゃないか?」とか、「S子ちゃんに連絡してみるか」と、何かとS子の名前を口にしていた。
夫の死後、夫の代わりに義父が息子を登校時の待ち合わせ場所まで車で送っていくと、S子は毎日のように義父の前で泣いたという。
そこで、義父が私や義母に何の相談もなく、四十九日法要にS子を誘ったのだそうだ。
「いくらなんでも、普通は親族以外の人は誘わないし、彼女も迷惑だろうに……」と義母も呆れていた。
S子は会食の席に着くと、ほとんど喋らずに大人しくしていた。
しばらくすると、私は堪らなくなり、「ちょっといいですか?」とS子に声をかけ、店の応接室に案内した。
義父やS子の夫は上機嫌で飲んでいたし、何かの話で盛り上がっていて、皆、私達の様子にあまり注意を払っていなかったように見えた。
私は早速、S子に尋ねた。
「夫と何かありましたよね? プレゼントを受け取っていましたよね?」
S子は私と目を合わせず、うつむき加減で、やっと聞き取れるほどの小さな声で言った。
「私はご主人の事をとても尊敬していましたが、何もありません。どうしてご主人がそのエプロ
ンを買っていたのかも分かりません」
そんな風にしばらく押し問答が続いて、彼女はなかなか口を割らなかった。だが、私は二人の間に何かあったのだと確信していた。
もし、私が友人にその夫との仲を疑われて、何もなければ怒るはずだと思った。
『なぜ疑うのか』、『私の事をそんな人間だと思っているのか』と、烈火のごとく怒るはずだ。
そして、私なら、夫を亡くした上に不倫で悩んでいる彼女を気の毒に思い、必死で疑いを晴らそうと、詳しい事を色々と聞き出して、それに対して説明をするはずだった。
彼女がそうしないのは、絶対に二人の間に何かがあったのだと確信していた。
だが、私はそれ以上、何と言って責めたら良いのか分からなかった。
そこで、私は彼女の心を揺さぶるために言った。
「実は、夫はA子さんと関係を持っていたんです。夫はそういう男でした。だから、あなたとも何かあったんじゃありませんか?」
うつむいていたS子が急に顔を上げて目を見開き、驚いた様子で私に訊いてきた。
「えっ! 本当ですか⁉︎ ちょっと待ってください! 私、頭がパニックになりそうで…… そ
れは、いつからいつまでですか⁉︎」
「子供達が年中の秋頃から、一年くらい関係を持っていたそうですよ。でも、彼女が地元に帰ってからも、たまに彼女の家に行ったりしていたそうです。本人に問いただして聞きました」
「そんな……」 S子は自分とダブっていたことにショックを受けているようだったが、それ以上は何も言わなかった。
いつまでも彼女を引き留めておくことは出来ず、二人で席に戻るしかなかった。
会食の席に戻ると、S子の夫を中心にして話が盛り上がっていた。
彼はいかに幼稚園のパパ友ママ友たちが仲が良かったかを力説していた。また皆でバーベキューをやりたいとも話していた。
私はなんと哀れなのだろうと思いながら、その話をただ聞いていた。
S子は夫とA子の話をきいてショックを受けているのか、その後もほとんど喋らなかった。
皆が帰ると、母と姉は私に「本当に様子がおかしいけど大丈夫?」と訊いた。
そして、私はついにエプロンの話をし、夫とS子が深い関係だったようだと言った。 だが、母も姉も「まさか!」と言って信じなかった。
無理もないだろう。彼女のような立場の人間がする事だとは、信じられないはずなのだ。
そこで、私はその前日のS子とのラインメールのやりとりを母と姉に見せた。
それを見た姉はすぐに表情を曇らせた。
「確かにこれはおかしい! 『特別な関係でしたか?』と訊かれたら、『特別な関係とはどういう
意味ですか?』と逆に聞き返すのが普通じゃない⁉︎ これは何かあったね!」
母はそれでも信じなかった。
「まさか! お寺の人間であるS子さんがそんなことする訳ないでしょう⁉︎ K男さんがS子さんに一方的に恋心を持っていたとか。そういうこともあるんじゃないの? それくらい許してあげたら?」
そのままなす術もなく夕方になり、息子を迎えに行く時間になった。
息子はその日、体育教室に行っていた。体育教室は息子が幼稚園に通っている時から続けているもので、S子の幼稚園の体育館で毎週水曜日に行われていた。
私は早めに幼稚園に行くとS子を探した。ますますS子を問いたださずにはいられなかった。
S子が二階にいるのが階段の下から見えた。階段を駆け上がり、辺りを見回すと、運良く誰もいなかった。
S子に駆け寄って声をかけた。彼女はギョッとした顔で振り向いた。
「K男さんと何かありましたよね⁉︎ 昨日のメールと今日のS子先生の態度で、私はもう確信していますよ。いい加減に認めてください! 認めてさえくれれば誰にも言いませんから。でも、認めないなら檀家を辞めさせてもらうしかないです。そうなったら困りますよね⁉︎ どうして檀家を辞めたのかをご両親に話すしかなくなりますよ」と言った。
だが、S子は私と目を合わさず、俯いたまま言うだけだった。
「本当に何も無いものは、何も無かったとした言いようがありませんので…… 」
その様子を見て、私はさらに確信せざるを得なかった。
「私だったら、疑われたことを怒りますよ!」
「でも、N子さんはご主人を亡くされたばかりなので、責める事はできません」
こんなにとんでもない事を、彼女が簡単に認めるわけがないと思った。
そして、私はそれ以上、どうやって追い詰めたら良いか分からなかった。
夜になり、私はS子にまたメールを送った。
「S子先生、今回のことは旦那さんにすぐに話しますよね? あらぬ疑いをかけられて、檀家を辞めると言われたら大変な事なので、何も無いならすぐに旦那さんに相談して、どうしようかと言う事になりますよね? あるいは、ママ友の誰かに話して、見に覚えのない疑いをかけられて大変な事になっているから、どうしたら良いかと相談したり、説得してくれないかと頼んだり、普通はしますよね?」
彼女からしばらく返事は無かった。私はまたメールをした。
「私は夫とS子先生が特別な関係だったと確信しています。すぐに全てを正直に話してくれたら、私だけの胸にしまって、我慢して檀家を続けます。でも、話してくれないなら考えがあります。どうしますか? 私がS子先生にこんなメールを送らなくてはいけないのがどんなに苦しい事か分かりますか⁉︎」
夜遅くなってから、やっと返事が来た。
「お返事が遅くなってすみませんでした。N子さんの辛いお気持ちはよくわかります。でも、私とご主人とは本当に何もありません。仕事が出来る方なので、色々と相談したり、力になっていただいたり、頼りにしていたのは事実です」
「夫にも話しました。『誤解されるような事をしたおまえが悪い』と言われました。子供達が寝て
から話したので遅くなり、すみませんでした」
やはり、認めるつもりはないらしい。
それよりも、認めてほしくてカマをかけただけなのに、S子の夫に話してしまったとは、面倒なことになったと思った。
翌日、母や姉にS子とのメールのやり取りを話した。 姉は完全にS子を疑っていたが、母は「そんな事があるわけない」と相変わらず信じなかった。
その時、急にある事を思い出した。
数年前のある朝、息子と一緒に幼稚園に着いたら、玄関で園児達を迎えていたS子が話しかけてきた。
「そのスウェットパーカー、私とお揃いですよね。私もそのブランドの服、好きなんですよ」
よく見てみると、その時に息子が着ていた上着とS子が着ていた物が、サイズ違いで色違いの同じ商品だった。
「あ、本当ですね。全然気付かなかった」と私は言い、深くは考えなかった。
そのスウェットパーカーは、夫が、自分とお揃いで息子にも買ってあげた物だった。
という事は、夫とS子もお揃いの服ということになる。
私はハッとして、夫のパソコンでそのブランドのウェブサイトを見た。
購入履歴のタブを開くと、今まで夫が購入した物の一覧が出てきた。夫はそのブランドの服がお気に入りで、息子や私の服まで色々と購入していた。
一番下までスクロールしてみると、夫がそのサイトで一番最初に購入したものが表示された。
それは、夫とS子が着ていた二着の色違いのスウェットパーカーだった。これで、証拠がとうとう出てきたと思った。
彼女とお揃いではまずいと思ったのか、後になってから息子の分も追加で購入していた。 それから、見たことの無い女性用のTシャツとワンピースも購入していた。
これらもS子へのプレゼントに違いなかった。どちらも彼女が着ていたのを見たことがあるような気がした。
これで間違いない。これだけ色々なプレゼントを受け取っていて、S子が私に黙っていたのはおかしいからだ。
それから、楽天のウェブサイトの購入履歴も見てみた。その中にも、幼稚園の先生が着るようなキャラクターの他のエプロンと、見たことの無い水玉のマフラーがあった。
私は泣きながら姉に電話をした。姉は激怒した。
「あんたが問い詰められないなら、私がやってあげる! 今からS子を呼び出して白状させるからね!」
そしてその夜、本当に姉はS子を呼び出し白状させた。 私は息子と家に居て、同席しなかった。
姉の話によれば、S子はなかなか白状せず、二時間もかかったのだという。そして、S子は何度も頭を下げて、私に一生かけて償うと言ったそうだ。
だが、姉が見たところ、彼女は泣いているふりをしていて、全然涙が出ていなかったらしい。
「相当の女だ! 一生かけて償うって、どうやって償うつもりなのか! 口先だけに決まってる! 絶対に示談金を請求した方が良い!」と姉は憤慨していた。
2.ご主人のことが好きでした
私は夫とS子が関係を持っていた事を、世間にはもちろん、夫の両親にも、S子の夫や親にも話すつもりはなかった。
まず、S子の夫がこの事を知ったら何をするか分からなかった。
S子の夫は県外の出身で、実家がやはり寺の長男だった。本来は寺の跡継ぎのはずだったのだが、実家を捨て、地元も捨て、たった一人で田舎に来て、S子の寺に婿養子に入ったのだ。
もし、彼がこの事を知ったら、S子や子供達を殴り、そして、S子の両親にも手を出す可能性があった。
それから、S子達の家は義父と夫がリフォームをしたばかりだった。私が彼だったらその家に住みたくもない。
S子の夫が家の中をめちゃくちゃに壊して暴れたり、義父に数百万円のリフォーム代を返せと言ってくる可能性もあった。
そして、最終的には不倫の事を周りの人々にぶちまけて、自分の地元に帰ることになるだろう。
私ならそうする。そうなればS子の子供達はどうなるのか。
騒ぎが大きくなって世間の人々が知ったら、私達は好奇の目に晒され、噂話が息子の耳にも入るかも知れない。そうなれば息子も私の周りの人達もどんな目に遭い、どんなに傷つくことか。
S子の両親にも話せないと思った。
私の実家の店は創業二百年近い老舗の料亭だ。法事などでよく利用されることから、昔から地元の寺との関係がとても深く、切っても切れない関係だった。
しかもS子の家の寺は地元では一番古く、位の高いお寺だった。もしその寺との関係が悪くなってしまったら、この先どうなってしまうのか見当もつかなかった。
そして、夫の両親にも話せないと思った。
S子の実家の寺の檀家になってしまったので、話したらどうなってしまうか分からないと思った。
「悔しいけど、この事はS子を含めた四人で墓場まで持っていくしかない」と、母と姉と話していた。
それから数日後、S子から謝りに行きたいというメールが入った。姉が白状させた時、私に直接、謝るようにと言われたらしい。
「夫がプレゼントした服を全部と、あなたにあげた夫の絵本と漫画本を全部返してください」と私は返した。
S子は夫の死後、私の息子を彼女の家に遊びに来るように誘っては、遊んだ後に我が家に送って来て、家に上がり込んだ。
そして、夫の仏壇に線香をあげたり、「以前、ご主人から素敵な絵本を借りたことがあったけど、その本はどこにあるのかしら」と言ってきた。そこで、私はS子に夫が購入していた絵本を何冊か譲ったりしていた。
夫は絵本好きの彼女と話を合わせるために、例の『絵本ナビ』というサイトに毎月会員費を支払っていたのだろう。
彼女は漫画本も大好きだった。特に、あの有名な『ガラスの仮面』という漫画本で夫と話が盛り上がっていたらしく、夫が持っているその漫画本を欲しがったので、全巻を彼女に譲っていた。
「どうぞ、どうぞ」と彼女を家に上げ、絵本や漫画本を彼女に譲ったりして、私はなんとお人好しで、そして、とんでもなくマヌケだったのだろう。
S子はたくさんの絵本と漫画本を入れた紙袋を重たそうに抱えて、我が家にやって来た。
「あっ! すみません」玄関先で紙袋が切れた。
「別にいいです」そう言いながら、私はその袋を受け取った。
夫がプレゼントした服はすでに全部ゴミに出したそうだ。疑われた時点で証拠隠滅をしたのだろう。
部屋に案内すると、すぐにS子は言った。
「N子さん、申し訳ありません! N子さんのご主人のことが好きでした。 申し訳ありません!」
—— はぁ⁉︎ 好きでした⁉︎ 純粋ぶってるのか!
いきなり激しい憤りを感じた。
私は早速、S子に疑問を投げかけた。まずは、夫とS子がいつ、どこで、どうやって会っていたのかということだ。
彼女は平日の昼間は幼稚園の副園長として忙しく働き、夜と週末は三人の子供の母親として忙しく過ごしているはずだった。
以前、S子は私に『トイレに入っている時だけが、一人になれる時間なんです』と言っていたほどだ。
父親なら、母親に子供達を任せて夜に出かけることは簡単だろうが、母親はなかなかそういう訳にはいかないはずだ。
いったい、そんな時間がいつあるのか不思議だった。それに、どこで会うというのか。A子の時とはわけが違うのだ。
S子によると、S子の夫が夜に出掛けて、子供達が寝たら、夫に近くの公園の駐車場に車で来てもらい、車の中で三十分位会っていたそうだ。
S子の家からその公園の駐車場は目と鼻の先で、歩いて一、二分の距離だった。
そして、S子の夫は飲みに出かける事も多いが、水槽で魚を育てるのが趣味で、近くにその水槽を置く場所を借りており、そこで魚の餌をやったり様子を見たりするために、毎晩のように外出していたそうだ。
—— 子供達を家に置き去りにして、夜中に会っていたとは……
S子の一番下の娘は、その頃まだ幼稚園にも通っていないほど小さかったはずだ。
それをさせていた夫も最低だ。
それにしても、よくS子の夫にバレなかったものだと思った。
彼が借りていた水槽のある場所は、歩いてすぐに家に戻れるようなとても近い所だった。
S子も、そして夫も、なんと怖いもの知らずなのだろう。
会っていた三十分で何をしていたのかは、訊く気にならなかった。
S子は「会って話をしていただけです」と言う事も出来たかもしれないが、そうは言わなかった。それに、大人の男と女なのだから、する事は決まっていた。
どういうきっかけで深い関係になったのかを訊いた。
彼女によれば、夫からメールで『あなたの事が気になって仕方がないから、二人だけで会って欲しい』という内容の連絡が来るようになったという。
S子は全くその気が無かったので、しばらくの間は『気のせいじゃないですか?』などと言ってごまかしていたが、次第に『自分も好きかも』という気持ちになって来たという。
そして、夫から「もやもやした気持ちをどうにも抑えられないから、一回だけでも良いから二人きりで会って欲しい」と言われ、断りきれずに近くの公園の駐車場で会ったそうだ。
そこで無理やりキスをされて舞い上がってしまい、次に会う約束をしてしまったという。
それは、二年以上前の、子供達が幼稚園の年長組の冬だったという。
それ以来、月に一回くらいの頻度で会っていたそうだ。
彼女の話を全て鵜呑みにしたわけではないが、夫のほうから誘ったと聞いてショックだった。
しかも、二年以上も前からだったという事にも衝撃を受けた。
「まさか、二人で一緒になろうとか考えていたわけじゃないよね?」
「ご主人は『バレたら一緒に逃げよう』と言っていましたが、本心では無かったと思います」
—— はぁ⁉︎ そういうこと言うなよ! 口から出まかせを言ってたとしても傷つくだろうが!
『本心では無かったと思います』と言うものの、S子は平気でそういう事を口にした。
A子の時のほうが生々しい話をしなかっただけマシな気がした。
S子の顔をよく見てみると、なるほど、姉の言う通り、泣きながら話をしているように振る舞ってはいるが、涙が流れていないし、ボソボソと喋っているだけで、声が乱れていなかった。
—— たいした女だ。私を何年も騙し続けて、にこにこ笑って平気な顔をしていられただけのことはある。
「私や周りの人達のことを考えて、別れようとは思わなかったの?」
「私は何度も『別れたい』とご主人に言いましたが、止められて、別れることが出来ませんでした」
—— ふざけるな! 本気で別れたいと思えば、本気で拒否すれば、いつでも別れられるだろうが!
死人に口無しで、全て夫が悪かった事にするつもりなのだろうと思った。
「ご主人のことはどう思っているの? 裏切って平気なの⁉︎」
「夫は暴力的で、自分の思い通りにならないと気が済まないタイプなんです。婚約中にそれに気が付いて、両親に結婚をやめたいと言いましたが、『お寺の世界ではそういう事は出来ない』と言われて、婚約破棄できませんでした」
—— 本当なのだろうか。子供を三人も作っておいて…… 自分がした事を正当化したいだけなんじゃないのか。
そこまでの話を聞いて、胸をえぐられるような気持ちだったが、私にも妻としてのプライドがあった。
S子にうろたえているところを見られたくなかったし、夫が彼女に本気だったわけでないと言いたくなった。
そこで私はA子の話をもう一度して、「K男は性欲がとても強いタイプだったから、自分がもっと相手をしていれば違っていたかも知れない」と言った。
「とにかく、この事がご主人や世間に知られたら大変な事になるし、子供達がどんなに傷つくか分からない。だから、自分はこの事をご主人にも、誰にも話すつもりはないから、あなたも誰にも話さないように」
「ありがとうございます。よろしくお願い致します。私に出来ることは何でもします」と彼女は言って帰っていった。
結局、私が逆上してS子に怒鳴ることは無かったし、この事を誰にも話さないと言った。
S子にとっては、この上なく好都合だったことだろう。その時点では、彼女は助かったと思ったかもしれない。
だが、A子の時もそうだったが、本当の怒りというものは、後からジワジワと沸いて出てくるものだ。
それから、私は毎日のようにS子にラインメールで気持ちをぶつけるようになった。私は狂い始めていたのかも知れない。
「S子先生、やっぱりあなたと夫のことが頭から離れません。あなたが何年も、何も知らない私に笑顔で話しかけてきたことや、夫とあなたが二人きりでイチャイチャしてるところを想像して、頭がおかしくなりそうです」
「あなたは夫に何度も誘われたと言いました。確かに夫の方から声をかけたのかも知れません。でも、お互いの立場を考えたら、夫が何の脈も無い相手をそんなにしつこく誘うわけはありません。あなたのほうだって好きだと言うサインを出していたに違いないはずです。私だって、あなたがかなり夫のことを慕っているとは思っていましたよ」
「世間の人々にバレたら、うちの店とお寺様達との付き合いはどうなるのでしょう。私や母や姉は噂のネタになって笑われるでしょうね。そして何よりも、あなたのご主人がどう出るか。『妻を寝取った男の為に、一生懸命お通夜でお経を読んでいた』と世間の笑い者になり、プライドをズタズタに傷つけられるでしょうね」
「ご主人は、あなたにはもちろん、子供達にも暴力を振るい、『あいつらがリフォームした家になんか住めるか!』と言って家をめちゃくちゃに壊し、義父に『払った金を全部返せ!』と言うかも知れないですよね。だから、なんとかなんとか耐えているのです。でも、どこまで持ち堪えられるのか保証は出来ません。それをご承知おき下さい」
「何度も私のことを考えて別れようとしたけど、夫に止められたって言いましたよね⁉︎ でも、本気でやめようと思ったらやめられたはずです。 死人に口無しとばかり、都合の良いことを言わないでください!」
「バレたら自分の子供達がどんな目に合うか、どんな思いをするか考えなかったのですか⁉︎ それでも母親ですか⁉︎ こんなメールを送り続けなければいけないとは、自分が本当に嫌な女みたいで辛いです。なぜこんな思いをしなければいけないんでしょうか?」
私は返事が来るまで、何度もメールを送り続けた。数時間後に返事が来た。
「N子さん、苦しくさせて本当にごめんなさい。N子さんは何一つ悪くないですし、嫌な女性なんかじゃありません。N子さんをそんな気持ちにさせている私が何より悪いのです。自分のした事を悔やんでも悔やんでも悔やみきれません」
「私がご主人に尊敬以上の気持ちを持っていたことを、ご主人も感じ取っていたのだと思います。感じ取られるように私もしていたのかもしれません。結果的にご主人の誘いに私の理性が勝てず、自分の立場を省みることより、好きという感情に負けてしまったのですから、私も悪いのです」
「やめようと思ったし、ご主人に止められてやめられなかったのも本当ですが、私の心の弱さが原因です。色々なことで助けていただくうちに、いつの間にかご主人の存在に依存してしまっていました。N子さんのご主人なのに、そんな風に思ってしまっていたことが大間違いでした。N子さんのこと、子供達のことを考えたら、キッパリと絶ちきる気持ちを強く持たなければいけなかったのに、それが出来なかった私は最低な人間です」
「ご主人のこれまでのご活躍は、N子さんとの結婚生活という基盤があったからこそです。それは絶対的なことですし、ご主人は『あなたは自分の生活に不満だらけだけど、俺は今の生活に不満はない』と言っていました。だから、私との関係はただの遊びで、本気ではなかったのだと思います。何より大切なのはN子さんとの生活なのだろうと感じていました」
「今は、N子さんを深く傷つけて苦しめてしまっていることへの強い後悔と懺悔の気持ちと、事態が明るみになって、N子さんが仰ったような事態になる日が来るのではないかと、正直生きた心地がせず、重苦しい気持ちの毎日です。Nさんこそ、私のせいでこんなに辛いのに、こんなこと言ってごめんなさい」
彼女がそう言っても、本心かどうかは分からないと思った。
何を言われても下手に出るしかない。私にこの事をバラされたらS子は終わりだ。私を怒らせないようにするしかないはずだ。
それにしても、彼女は『ご主人に尊敬以上の気持ちがあった』と言っておきながら、『誘いに負けてしまった自分も悪い』と言った。
要は、『誘ったご主人の方が悪いけど、自分も少しは悪かったです』とでも言いたいのだろうかと思って腹が立った。
S子からのメールは続いた。
「今回のこと、全力で隠しとおす覚悟をしています。絶対に墓場まで持っていく覚悟です。夫には、お店に呼ばれた時のことを『私がK男さんから洋服を受け取ったり、お通夜の時に泣いたりして、誤解を招く行動をとったことを謝って来た。尊敬はしていたけど、それ以上の感情はなかった』と伝えています。でも、妻が疑われて呼び出されたことを未だによく思っておらず、怒りの矛先がお姉さんやN子さんに向けられないように何とか食い止めるようにします。本当にごめんなさい」
私は驚いた。どこまでS子は自分の夫に話をしたのだろうか。すぐに訊き返した。
「服を受け取ったことを話したんですか?ご主人に何か言われたら、服をプレゼントしたと思ったのは私の勘違いで、服は夫の仕事場の倉庫にあったと言おうとしていました。ご主人に言ったのはスウェットパーカーのことだけですか? からすのパンやさんのエプロンはどうですか?アフタヌーンティーのマフラーやミッフィーのエプロンはどうですか? ご主人に何をどう話したか詳しく教えてください。ご主人に何か言われたら口裏を合わせなくてはいけないので。今は子供達の事を考えるしかないです」
「あなたは墓場まで持って行く覚悟だと言いましたが、服を受け取ったことを話したとなるとそう簡単ではないです。なぜ服を受け取ったことを今まで隠していたのか、そして、なぜ夫があなたに服をプレゼントしたのか、ご主人は考えますよね。私もそうでしたが、疑い始めたら色々な事を思い出し、疑惑が次から次へと膨らんでいきますよ!」「怒りの矛先を我々に向けているそうですが、そう言ってあなたにカマをかけているのではないですか? ご主人にしてみれば『妻を疑っておいてよく平気だな。誤りにも来ないで』と思うのが普通でしょう。だからもし、私がご主人に何か訊かれたら、『S子先生は否定しましたが、私は今も半信半疑です。今となっては、何があったか知りようもありません』と言うしかありません」
S子から返事が来た。
「夫にはスウェットパーカーや他のエプロンのことは話していません。『K男さんのパソコンに、からすのパンやさんのエプロンの購入履歴があってそれで呼ばれた』と話しました」
「私が『それは、私も同じ物を持っているけど、自分で買った。でも、Tシャツをもらってしまったことはある』と言ったら、夫は『そういえばそんなこと言ってたね。子供達にも何かのTシャツくれたもんね』と全く追及しませんでした。ご主人が私や子供達に灯りのイベントのTシャツをくれたことがあり、夫もその事だと思っているようです。だから、他のエプロンや服のことは話していません」
「『Tシャツを受け取ったり、お通夜の時に泣いたり、誤解を招く行動をしたことを謝ってきた。色々できた人だから尊敬していたし、仕事もしてもらって感謝している。でも本当にそれ以上の気持ちは無かった』と話しました」
「もし何か言われたら、N子さんは『夫がエプロンをプレゼントしたと思ったが、それは仕事場の倉庫にあった』と伝えてください。本当に申し訳ありません」
「今のところ夫は、私とご主人のことは疑っていないと感じています。あるのは、N子さんの仰るように、妻が疑われたことへの憤りです。全力で隠しとおします。隠しとおさなければならないと覚悟しています」
私はなんだかものすごく腹が立ってきた。
—— 何が『全力で隠しとおします。隠しとおさなければならないと覚悟しています』だ! お前にとっては好都合この上ないだろ。バレたらお前は終わりなんだから!
「分かりました。それにしても、ご主人は本当に哀れですね。それから、私も……」
「子供達の為に隠し通さなければならないとはいえ、長い間、あなたと夫に騙されたうえに、さらに今、死に物狂いで耐えなければならないとは、本当に自分が哀れです」
「母も姉も『どうして騙された続けた私達がこんなに苦しい思いをしなきゃいけないのか。K男さんもS子さんも、よくもまあ、長い間とんでもないことをし続けてくれたもんだ。バレたらどれだけ多くの人達が傷つくのか考えた事はなかったのかね。子供達のことが頭をよぎる事はなかったのかね。それに、本当に誰にも気づかれないとでも思っていたのかね』と、頭を抱えています」
それにしても、夫の無謀さが恐ろしくなり、ふと、グーグルマップで調べてみた。
我が家からS子の家までは、直線距離で約600メートル、そして、我が家からA子の家までは約550メートルだった。どちらも、歩いても十分もかからない距離だ。 そして、A子の家とS子の家も直線距離で約550メートルだった。
地図上で見ると、狭い範囲で我が家とA子の家とS子の家は見事な三角形を成している。
—— まるで、魔の三角形だ! 夫はその三角形の中で巧みに夜這いをしていたのだ!
これが世間にバレたら、『平成の夜這い事件』と騒がれてもおかしくないと思った。
絶望的な気分だった。息子の為になんとか正気を保っていたが、息子がいなければどうなっていたか分からない。
3.メール攻撃
その後も私の怒りは治らず、夜中の三時頃に再びS子にメールを送った。
「くやしくて、くやしくて、全く眠れない! あなたから夫との話を聞いた時は、あまりのことに事実を受け止める事が出来ず、『私が十五年間連れ添った夫はそんな人じゃない! 息子の父親はそんな人じゃない! 冷静になれ!』と自分に言い聞かせていました。でも、時が経つにつれて、色々な事を思い出したり想像したりして、憎悪が膨らんでいって、今では、はっきりと夫とあなたに憎悪を感じます。」
「夫の遺骨が家にあるのも嫌です。早くお墓を建てて納骨したいです。納骨されたら、あなたは毎日のように夫にお参りしたらいいんじゃないですか? そんなに慕っていたのなら、どうぞ遺骨は差し上げます。本当に夫を好きで尊敬していたんですか? 平気で家族を裏切っていたような人を」
「毎年の小学校の運動会の時は、私と夫が運んできたイスやベンチに座ってきて、一緒に運動会を見て、夫の両親とも平気で話をしていましたよね? 普通はとてもそんな事、出来ないんじゃないですか? 夫の両親がこの事を知ったらどう思いますかね? そのうち耐えきれなくなって夫の両親には話すかも知れません。事が事だけに他言はしないと思いますが」
「母親である私が憎悪の固まりになっているのがとても辛いです。息子に何か影響が出るのでは
ないかと思うと辛いです。S子先生、どうしたら良いですか?」
翌日の夕方になってから、ようやく返事が返ってきた。
「N子さん、本当にごめんなさい。謝って許されることではないと分かっています。N子さんとお母様やお姉様のことも苦しめてしまっていること、本当に申し訳なく苦しいです。自分のしてしまったことの罪の大きさ、事の重大さに苛まれています。人としてどうしようもなく愚かなことをしてしまっていました」
「家族に後ろめたさを感じ、ひどい母親だと自責しながらも、ご主人との関係をやめなかった自分が本当に馬鹿でした。N子さんから恨まれて当然です。恨んでも恨んでもはらしきれないほどのお気持ちであること、そんな気持ちにさせていることがまたどうしよもなく辛いです」
「自分がそれだけのことをしたのだから、この先も隠し続けて、嘘をつき続けていくことの苦しさ、明るみになることへの恐怖、N子さんはじめN子さんのご家族を苦しめていることへの罪の意識に苛まれて生きる辛さ、どんなに苦しくても耐えて生きていかなければなりません」
私はすぐに返事をした。
「どんなに苦しくても耐えて生きていかなければなりません? 当たり前でしょ⁉︎ 自分も苦しいのだからわかって欲しいとか、勘違いしてませんか⁉︎ あなたは周りがどんなに苦しむのかも考えずに、夫との関係を二年以上も続けて、平気で私に笑いかけていたんですよ」
「もし周りに知られて、『同じクラスの〇〇くんのお父さんと〇〇くんのお母さんが付き合っていたんだって』と噂されたら、子供達がどんなに傷つくか! あなたの息子が、母親が自分のことを考えずに性欲に溺れていたと知ったら、どんなに傷つくか! そう思ってあなた達二人が思い止まることが無かったことが、本当に信じられません」
その後、S子からの返事は無かった。というより、なかなか既読にならなかった。
このころになると、既読になるのに二日位かかるようになった。私からのメールを見るのが怖いのだろう。
その頃、私も母も姉も仕事が手に付かず、夫とS子の話ばかりしていた。そして、やはり夫の両親にこの事を知らせた方が良いのではないかと話していた。
義父によるS子の家のリフォームは終わっていたが、S子の夫は新たに増築した倉庫に趣味の水槽などを運ぶ為に、義父からトラックを借りたりして、義父に頻繁に会っていた。
もし、S子の夫が義父に「N子さん達、うちのS子を疑うなんて。そんな事あり得ないのにどうかしてますよね?」などど話したら、義父は「そんな事、俺は聞いていない! 一体どういう事なんだ!」と激怒して何を言い出すか分からないし、大ごとになるかも知れないのだ。
だから、先に事実を話して、「S子の夫が何か言ってくるかも知れないが、孫の為に、どうか適当に話を受け流して欲しい」と言ったほうが良いだろう、と言う話になっていた。
私はまたある事を思い出した。それは、夫とS子が深い関係になる数ヶ月前の秋のことだった。
S子の実家の幼稚園はこの辺りでは最も古く、様々な伝統行事がある。その中の一つに毎年の秋に行われる、『虫干し』という行事があった。
大昔からの慣例で、毎年、その幼稚園の園児は地元の春のお祭りの行列に、特別な衣装を身につけて参加することになったいた。
その行列に参加することや、その衣装を持っていることはその幼稚園の自慢の一つであった。
女の子は赤い着物の上に白い袈裟のような丈の長い着物を羽織り、金色の冠をつけ、榊の葉の束を手に持つ。
そして、男の子は着物を着て、下に黒いレギンスを履き、その上に光沢のある紫や緑の着物をさらに羽織り、腰には刀をさし、肩に編み傘をかける。
それぞれに専用の足袋や草履もある。
大昔にお母さん達が手作りをして、代々受け継がれている大切なものだそうだ。
毎年秋になると、それらの衣装を箱から出し、園の体育館に吊るされたロープにかけ、風を通して、湿り気やカビや虫の害を防ぐ。それが『虫干し』だ。
衣装は大小様々あり、おそらく一00枚以上はあるだろう。PTAの母親達が総出でその衣装を干し、それが体育館で棚引く様子は壮観だった。
母親達の中の一番の年長者で、その年のPTA会長していた私は、前もって日にちを園と相談し、母親達に声をかけ、当日は先頭きってそれを行っていた。
すると、干してある着物たちの間からS子がひょっこりと顔を出し、私に話しかけてきた。
「N子さん、ちょっと良いですか? あの、実は私、今年の園の作品展のワークショップで何をしたら良いか行き詰まっているんですけど、N子さんのご主人に相談させてもらっていいですか? ご主人は青年会議所のイベントとかでワークショップを度々やられているので、色々とアイデアをお持ちじゃないかと思って……」
S子はその一年ほど前から、夫が器用で色々な事ができると知ると、幼稚園の傷んだ遊具や階段の手すりなどの修理を頼んだり、ヒーローショーの音声などをやっていると知ると、幼稚園の豆まきの音楽の編集を頼んだりして、とにかく何でもかんでも夫を頼るようになっていた。
息子がお世話になっている幼稚園のお役に立っているのであればと、私はそれをむしろ誇りに思っていた。
そしてS子は、次の日曜日に子供達を連れて我が家に来て、子供達を遊ばせている間に夫にワークショップのを相談しても構わないかと言った。
飲食店で働いている私が日曜日に仕事を休むことはできなかったので、私はその場に居られないが、今までの付き合いや、彼女が三人の子供達を連れてくるので、特に気にしなかった。
私の息子は彼女の息子が大好きだったので、さぞかし喜ぶだろうと思ったし、彼女も本当に困って夫に相談したいのだと思った。
「私は仕事で居ないけど、よかったら遠慮なくどうぞ」と言った。それがそもそも大きな間違いだったのかも知れない。
その日、S子と子供達は午前十時頃にワークショップの相談に来ることになっていた。
私は彼女達の顔を見てから仕事に行こうと思っていたが、十時半頃まで待っても現れなかったので、会わずに仕事に出かけた。
そして、夕方、家に帰ると夫に話しかけた。
「今日、S子先生達は来た?」
「来たよ。それでね、たったさっき帰ったばかりなんだよ」
夫は苦笑いをして言った。
「えっ! そうなの⁉︎」
私は驚いた。というのは、S子は私に午前中のうちに帰ると言っていたからだ。
夫によると、あれから待っていたが、S子達はなかなか現れず、結局十一時半頃になってやっと現れたのだという。
「どうしたんですか?」と夫は尋ねたそうだ。
「実は、出掛けようとしていたら、夫に飼っている魚の餌にするダンゴムシを採るのを手伝うように言われて、子供達と手伝ってから来たので、なかなか来られませんでした」
そして、S子が自分の夫に対する愚痴を話し始めたので、しばらく聞いていたそうだ。
そして、しばらくすると、S子が言ったという。
「子供達がお腹が空いたみたいなのですが、どうしましょう?」
夫が冷蔵庫を開けると焼きそばの材料があったので、焼きそばを作ってあげて、皆で食べたそうだ。
その後、やっとワークショップの話になり、話が一通り終わったが、S子は帰る様子がなかったという。
そして、またS子の夫に対する愚痴や相談事を聞かされていたが、S子の一番下の娘がパンツにウンチをもらした。そこで、夫は今度こそ帰るだろうと思ったそうだ。
ところが、S子がこう言ったという。
「娘がウンチをもらしたんですが、どうしましょう? 〇〇くん(息子)のパンツを借りても良いですか?」
そして、彼女は息子のパンツを自分の娘に履かせ、そのままずっといて、私が帰ってくる直前まで家にいたと言う。
それを聞いた時、さすがにS子はちょっと図々しいなと思った。S子は私が不在の家に、実に五時間以上も家に夫と居たのだ。
だが、S子は元々天然タイプで、そういう事を悪気無くするところが彼女らしいとも思った。私は本当におめでたい人間だった。
それをきっかけに、夫とS子の間に特別な空気が流れ始めたのではないだろうかと思った。
また無性に腹が立ち、S子にメールをした。
「毎朝、暗いうちに目が覚めて、夫がいないことと、あなたと夫が私を裏切って、私の前で笑い合ってたことを思って苦しいです。何度目が覚めても、この悪夢は絶対に消えて無くなることはないのだと実感して涙が出ます。毎日苦しくて、苦しくて、どうしたらいいですか?」
「夫が息子を可愛いと思わなかったはずはない! 私のことをどうなってもいいと思っていたはずはない!」
「最初から夫に気があったと認めて下さい。最初から下心があって、幼稚園の作品展のワークショップのことを相談したのだと認めて下さい。その気があって、私の居ない時に我が家を訪れ、五時間以上も居て、思わせぶりな態度を取っていたと認めてください!」
「あの時も、午前中に帰ると言ってましたよね? それがご主人にダンゴムシを取るのを手伝えと言われて、来るのが十一時半頃になったと夫に言ったんですよね? 最初からご主人に、私の家に行く約束があると言っていれば、そんな事を無理強いされることはなかったはずじゃないですか? それを言っていなかったという事は、最初から下心があったという事じゃないですか⁉︎」
「あなたは、私のことを考えて何度も別れようとしたけど、夫が別れてくれなかったと言いましたよね? でも、どんなに夫が会いたいと言って連絡して来ても、あなたに会えるはずはないんです。ご主人が夜に出かけて、子供達が三人とも寝たタイミングで、あなたから誘わなければ、物理的に会えないのではないですか? あなたが夫に「旦那がなかなか出かけない」とか、「子供達がなかなか寝ない」と言えば、それで終わる関係だったのではないですか? 夫はあなたからそう言われれば諦めるしかありませんよね?」
「母と姉と話をしましたが、やはり夫の両親には知らせたほうが良いと言う事になりました。あなたは『本当に素敵なおじいちゃまですね』と、夫に好かれるためか、私や夫の前でいつも義父を持ち上げていましたよね。でも、義父は怒ると何を言い出すか分からない人です。あなたのご主人がいつ義父に、あなたが疑われた事を話すか分かりません。もしそうなったら、義父は激怒してどうなるか分かりませんよ」
S子から返事が来た。
「子供達の顔を見ていると、何でこんなことをしたのだろうと悔やんでも悔やみきれません。何より典子さんを傷つけ苦しめていることが一番の罪です。本当に本当に申し訳ありません」
「作品展のワークショップの相談にいった時は、ご主人にたいしてそんな気持ちはありませんでした。純粋に技法を教えてもらおうと伺いました。何時頃、伺ったかも覚えていません。私がご主人の作品をいつも賞賛していたので、私がご主人に気があるのではないかと思わせてしまったのだと思います。」
「ご主人のお父さんことですが、激しい性格については分かっています。良い方だとは思いますが、家のリフォームで数ヶ月間、間近で色々な方に毎日のように怒鳴ったり理不尽なことを言っている場面を見てきました。夫はご主人のお父さんには何も言わない気がします。ご主人のお父さんが今回のことを聞いて、どういう反応をされるのか想像がつきません」
私はまた返事をした。
「あなたは、自分が気のあるそぶりをしたとは絶対に認めないつもりなんですね。夫があなたに『好きだから会って欲しい』と言うだけでも大変な事ですよね? よほど確信がないと言えませんよね? もし夫の勘違いだったら、その後気まずくなるし、『N子さんのご主人にしつこく言い寄られて困ってる』とか周りに言いふらされたら大変ですよね?」
「それに、夫がいつどうやって会えるか分からない人を、不倫相手として選ぶと思いますか?私だって、あなたどうやって家を出ていたのかが一番の疑問でしたよ。あなたがご主人の目を盗んで、子供達を置き去りにして、夜中に抜け出して不倫に走るタイプだとは、夫も知らなかったはずですよ。あなたの事を、お寺の娘で幼稚園の副園長を務めるまともな人間だと思っていたはずですからね」
「夫にどんなに誘われても、『二人だけで会うのは物理的に不可能ですよ』と言えば、夫は諦めたんじゃありませんか? あなたが『私が夫の居ない深夜に家を抜け出します』と言わなければ、どうやって二人きりになれるのか、夫は想像すら出来なかったはずです」
「この前は尊敬以上の感情があったと言いながら、今度は作品を賞賛していたのを勘違いされたと言うんですか? 状況を考えても、あなたから『夜中なら、二人きりになれる』と誘ったと考えるほうが辻褄が合いますよ。『私はそんな気持ちは全くなかったけど、しつこく誘われてるうちに、私も好きかもと思い始めてしまった』などと、嘘をつくのはやめて下さい! 自分は純粋で、夫だけを悪者にしようとしているとしか思えなくて腹が立ちます!」
「もしこの事がバレたら、あなたのご主人が義父を脅迫してくるかも知れないという恐れがありました。もしそうなったら、ご主人にこのような事をよくお話しして、夫が一方的な思い込みであなたをたぶらかしたのではないはずだと、納得してもらうつもりです!」
S子から返事が来た。
「私の言葉が足りませんでした。最初は作品を賞賛していましたが、徐々に尊敬以上の感情が出てきたことを、ご主人が感じていたのだと思います。たぶん、私の気持ちに気づいて、確信したのだと思います」
「会いたいと言われたら、夫がいない日で子どもを寝かせ終わる時間を伝えて、その時間に来てもらっていました。最初に誘ったのはご主人ですが、私にもそういう気持ちがあったことは確かなので、誘いに乗って流された私も悪いのです。ご主人だけが悪い訳ではありません」
「N子さんのことを思うと申し訳なくて、やめなければ、やめなければと思いながら、ご主人を慕って頼りにしてしまっていました。ご主人は何でも出来る方だったので、仕事も色々お願いしていました。私の愚痴も聞いてくれました。終わりにする勇気が持てなかった自分が弱かったのです」
「A子さんのことは本当に知らなかったので、知ったときは驚いて、私との関係もやはり遊びだ
ったのだと確信しました。気づかず慕っていた自分は本当に愚かでした」
—— 『誘いに乗って流された私も悪いのです。ご主人だけが悪い訳ではありません』だって⁉︎ ふざけるな!
それにしてもS子という女は、人の夫によくも遠慮なく、なんでもかんでも頼りきっていたものだ。
夫にしてみれば、何かにつけ自分に相談して頼ってくるS子が気になってくるのは当然だ。
もし、夫の方から誘っていたとしても、深い関係になってはマズいとS子が距離を置くこともできたはずだ。S子は息子が通っていた幼稚園の副園長であり、教育者ではないのか。
S子が誘われても無視し続ければ、夫だって諦めたはずだ。
幼稚園の送り迎えはほとんど私がしていたのだから、顔を合わせる事もそれほど無かったはずなのに、それでも夫が誘い続けていたとしたら、可能性があるかのようにS子が何かと夫に相談の連絡を入れ、思わせぶりな態度をとり続けていたからに違いない。
『会いたいと言われたら、夫がいない日で子どもを寝かせ終わる時間を伝えて、その時間に来てもらっていました』とS子はメールで言ったが、S子は何時頃に三人の子供達が完全に眠ってしまうか、予め分かっていたとでも言うのだろうか。
そのうち一人でもなかなか寝付かない場合はどうしたのだろう。それに、夫が会いたいと告げてから、会えるのに何日かかるか分からないのに、夫の性欲はそんなに我慢強いのだろうか。
『何度も誘われて流されてしまった』とか、『何度も別れたいとご主人に言いましたが、止められました』と無理やり関係を迫られていたような事を言ったくせに、今度は、「ご主人を慕って、頼りにしてしまっていました」とか、「A子の事を知らずに、慕っていた自分が本当に愚かだった」と言ってきたりして、都合に良いように話を変えている事に強い憤りを感じた。
私はまたメールを返した。
「夫の両親にはやはり話します。夫が前に言ってましたが、あなたのご主人は驚くほど口が軽く、パパ飲み会の席では、まずあなたの父親である住職の悪口に始まり、『ジジイが早く死んでくれないかな』と言い、それから、『しょうもない幼稚園なんて早く辞めてほしいんだけどね。S子は家事をろくにやらない』と言っていたそうです。その幼稚園を選んで子供を通わせている親達に対して」
「ご主人は今回のことも、他のお寺の若い人達に『うちのS子がK男さんと深い関係にあったと疑われているんだよ。いくらなんでもあり得ないのに、N子さん達は頭がおかしいんじゃないのかな』と言って、皆で笑い者にしている可能性は充分にあります。小さな町ですからね。そんな事から回り回って義父の耳に入り、大騒ぎになる可能性があります。だから、義父には事前によく話しておく必要があります」
S子から返事が来た。
「夫が口が軽いのは事実です。だから、『今回、私が疑われたことは、絶対誰にも言わないように』と言ってあります。『私も噂をたてられると困るから、やめてくれ』と言ってあるので、誰にも言っていないはずです」
「こうなったら、今からご主人のお父様にお電話をして、お家にお伺いして、正直に全てお話します。お父さんが激怒して、新盆直前に檀家をやめると言い出したり、家に怒鳴り込みに来るかもしれないので。そうなったら子供達を守りきることができなくなります。そういう状況になるのは、自分の犯した罪の大きさを考えたら当然のことですが。でも、子供達に罪はないので、何としても子供達のことを守らねばなりません」
私はまたすぐにメールをした。
「待ってください! 勝手なことをされるのは困ります! あなたは自分の都合のいいように話をして、夫の両親が丸め込まれるかも知れません。今までも義父を持ち上げて、手玉に取ってきたように。こちらはこちらで、これからお墓のことや檀家の事をどうしたら良いか親族で話し合わなければならないので、義父に勝手に連絡しないで下さい」
またすぐにS子から返事が来た。
「お願いできる立場でないことは充分、分かっていますが、お願いがあります。ご主人のお父様との話し合いがどういうことになるか分かりませんが、どうか子供達への被害がないようにしたいです。自分勝手なことを言って本当に申し訳ありませんが、お父様には、夫には絶対に知られないようにしたいということを分かっていただきたいです。夫はキレると何をするかわからないので、私は殺されるかもしれません。でも、子供達を傷つけられることは何としても阻止したいのです。どうかお願いします」
—— 『私は殺されるかもしれません。でも、子供達を傷つけられることは何としても阻止したいのです』だって⁉︎ 何を言ってるんだ! 充分、その可能性が出てくると分かっててやってたんだろ! ふざけるな! 子供達がどうなっても良いと思ってやってたのか!
私はS子への怒りで頭がどうにかなりそうだった。