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22 萌芽

 医務室の前に戻ったシャーロットは、われ知らず目をこすった。

 見間違いかと思ったのだ。


 だが、目をこすって見直してみても、確かにそこに――


「――グレイさん!」



 ウィリアム・グレイがそこにいた。



 思わず走り出そうとして、やはりシャーロットはその場に転びそうになった。


 グレイは、偶然にも(とはいっても、国でもよくある名前だが)同名を持つシャーロットの父と、医務室の外の壁にもたれて、一見おだやかに談笑しているところだった。

 愛煙家らしく、そこでも煙草を吹かしている。


 そこで名前を叫ばれ、振り返ってみるとシャーロットが転びそうになっているので、彼は目を瞠ってぽろっと煙草を取り落とした。

 床に落ちた煙草から煙がたなびく。


 両ウィリアムとも、走り寄ってもとてもシャーロットを助け起こすには間に合わなかったが、シャーロットは転んで顔面を強打するには至らなかった。


 そばを悠々と歩いていた大きな狼が、すっと彼女の前に回り込んで、ばったりと倒れ込むシャーロットを支えたのだ。


 シャーロットは狼の黒い背中にしがみつくような格好になってから、よろよろと立ち上がった。


「あ――ありがとう、エム」


 マルコシアスは無言で、大蛇のしっぽを振った。


 とはいえ、その大蛇の顔がシャーロットに向かって、ここぞとばかりに嘲るように、先端が二股に分かれた舌を突き出してみせるのを、シャーロットは目撃した。


「ああ――驚いた」


 グレイがつぶやいて、踵で煙草を踏み潰した。

 そして、大股にシャーロットの方へ歩み寄ってくると、親しげに彼女を抱擁する。


 ウィリアム・ベイリーは微笑んでそれを見守る姿勢をとった。


「久しぶりだね、シャーロット。お呼ばれしたとき以来かな?」


「そうです」


 シャーロットもグレイを抱き締め返した。



 グレイがシャーロットのそばのマルコシアスを一瞥して、そのときばかりは呆れたような表情を浮かべる。


 ――マルコシアスのこの姿は、〈マルコシアス〉の姿として有名なものだ。


 そしてグレイは、二年と少し前にシャーロットが魔神を召喚していたことを――そしてその魔神がマルコシアスであったことも認識している。


 他にそれを知っているのは、人間でいえばアーノルドだけ――だが、彼の場合は悪魔に関する知識がなく、おそらくマルコシアスの名前は忘れている。

 実際、グラシャ=ラボラスについて警告してくれたときも、「エム」という名前でかれを呼んだという。


 悪魔も数に入れるならば、あとは魔精リンキーズ――



 グレイがシャーロットを見て、小声でたしなめた。


「この悪魔のことはさっさと解放して、縁を切りなさいと言っただろうに」


 シャーロットも顔を顰めた。


 グレイにはさんざん、マルコシアスとの関わり合い方が危ういと指摘を受けている。

 数日前までであれば、シャーロットも全力でそれに同意し、恥じ入っていたところだ――だが今は。


 マルコシアスがシャーロットを、かれの領域を訪れる最初の客人とするほどに尽力してくれたあととあっては。


「大丈夫です――それに、緊急事態だったんですよ。あと、お話ししたいことが――」


 シャーロットもひそひそと返したが、その言葉半ばで、グレイは一気に憂い顔になった。


「本当に――きみ、またぞろ面倒なことに巻き込まれたと」


 シャーロットは不安げにグレイを見上げた。


「それはそうなんですけれど――でも、どうしてグレイさんがここに?」


 グレイは肩を竦め、ちらっとウィリアムを振り返ってから、シャーロットの前に屈み込んで悩ましげに囁いた。


「そう――それなんだよ。昨日の朝に、突然軍省の役人に呼ばれてね。私の職場は騒然、私もびっくりだ。ここまでの道中は生きた心地もしなかったよ。やっときみのお父さまと二人になれて、私は心底ほっとしたね」


「奥さまとサムもびっくりされているのでは」


 シャーロットが言葉を差し挟むと、グレイは首を振った。


 彼が懐を探って、また新しい紙巻煙草を取り出す。

 彼の上着のポケットから、ほんもののリスと見るにはあまりに小さいリスが這い出してきて、その煙草に火を点けた。


 すう、と深々と煙を吸い込み、それを吐き出してから、グレイはポケットに戻るリスをおざなりに撫でる。


「ごくろう、ヴェオ」


 それから、グレイはシャーロットに応じた。


「いや、妻とサムには伝言を残してこられたよ。

 ――役人たちいわくね、きみが面倒に巻き込まれて、ネイサン参考役が先にリクニスに向かった――そこで事態を収拾する――それから、私と、きみのお父さまと、」


 そこで、なぜかグレイは言葉を止め、咳払いした。

 シャーロットは怪訝に思って眉を寄せたが、グレイはなにごともなかったかのように言葉を続ける。


「後からリクニスに向かうように、とね。

 私がいた方がきみが安心するだろう、との参考役のお言葉らしいが――」


「確かに、ものすごく安心しますけれど」


 シャーロットは真顔で言った。



 ――何しろ、グレイはマルコシアスとはまた別の意味で、この境遇にあって同志といっていい相手だ。


 グレイは二年前の一件で、シャーロットの誘拐に手を染めている。

 そして、議事堂での一件の騒ぎに紛れて、それをなかったこととして誤魔化した。


 つまり、シャーロット同様に、二年前のことについて探られれば痛い腹を抱えているのだ。


 しかもグレイの今の職は、二年前での功労が認められた結果に降ってきたものといっても過言ではない。

 一連の真実が明るみに出たときの打撃たるや、シャーロットとは別の意味で甚大なものになるだろう。


 とはいえ、同じ立場の人間がいると、人は心を強く持てるものである。

 二年前の事実の隠蔽に際しても、グレイの力を借りることも出来よう。


 さらにいえば、シャーロットはグレイが好きだった。

 危機に直面したときにすぐ顔色を変えてしまうところとか、シャーロットがわが身を恥じてしまうくらいには、つねに善良であるところとか。


 もっといえば、シャーロットとグレイは、お互いが知る限りにおいて唯一の、アーノルドの友人という共通点を持っていた。



 グレイはせわしなく煙草を吹かした。


「それは嬉しいことだ――ただ、私としては、少々考えてしまうこともある――」


「グレイさん」


 シャーロットはぎゅっとグレイの手を握った。煙草を持っていない方の手だ。

 そして彼女は、ことさらゆっくりと言った。


「二年前は、魔神を召喚して私を助けてくださって、ありがとうございました。

 そんな方がいらっしゃるんですもの、安心しないはずがありますか」


「――――」


 グレイは微妙に顔を歪めて、どうやら微笑とおぼしきものを顔に貼りつけた。


「はは――そうだね。そう……だったね」


「それと」


 と、シャーロットはますます強くグレイの手を握る。


 彼の方に身を乗り出して、小声で告げる。


「――()()()()()()()()()


 グレイが目を見開いて絶句した。


 ぽろ、と、またしても煙草がその指から転がり落ちて、ころころと床の上を転がり、煙がたなびく。


「な――なんだって?」


「本当です――」


「怪我は」


 グレイが咳き込んで尋ねた。


「怪我は――病気をしている様子はなかったかね。ちゃんと食べていたかね。

 あのあと、どこに――とにかく無事なんだね?

 今はどこに? どうしてここに?」


 グレイがシャーロットの手を掴んだので、マルコシアスがシャーロットに鼻面を寄せた。


 シャーロットはうなだれる。


「……もう、ここにはいません――グレイさん、ネイサンさまのお話がなんであれ、私からもあの方に申し上げないといけないんです。

 アーニーは今、ひどいところにいて――」



「――チャーリー? ミスター・グレイ?」


 ウィリアムが後ろから控えめに声をかけたので、シャーロットはうめいて口をつぐんだ。


 グレイも顔が強張ったまま、あきらかに目が泳いでいる。


 ウィリアムは不思議そうにそんなグレイを見てからシャーロットに視線を移し、彼女に時刻を見るよう合図した。


 シャーロットははっと気づいて、懐中時計を父に返すために持ち上げる。


 ウィリアムは咳払いした。


「――時間ですよ」


 グレイもはっとしたようだった。


「そうだ、お待たせするわけにはいかない」





 シャーロットは言われるがまま、医務室の前から廊下を進み、階段をいくつか昇った。


 後ろから恩着せがましくマルコシアスがついて来て、大蛇のしっぽを振りながら、シャーロットの転落に備えている。


 とはいえ、今はウィリアムがシャーロットの手を引いていた。

 その顔にありありと、「娘に相当な無理をさせているのではないだろうか」という気持ちが透けていたが、シャーロットはあえてそれに気づかないふりをしていた。


 グレイもシャーロットを気遣ってはいたものの、頭の半分はアーノルドに、そして四分の一はこれから始まるだろう会談に持っていかれているとみえ、シャーロットを気遣っているのは残り四分の一を駆使してのことのようだった。


 階段を昇ってから、シャーロットはじゃっかん息を乱しながら、「あの」と。


「あの、どこに向かっているか教えていただいても?」


 両ウィリアムが顔を見合わせ、ウィリアム・ベイリーが応じた。


「なんだったかな――ヴェリ塔の上、だったかな」


 それを聞いて、ここからの距離を思ってシャーロットはうめいた。





▷○◁





 ――ヴェリ塔は、一階と二階に展示室が、三階に応接室があり、四階からが学院を訪れた客人のための客用寝室と、その客用寝室のための備品庫になっている。


 展示室に陳列されているのは、リクニス学院の学生たちがその長い歴史の中で獲得してきた、数々の賞を証明する盾やトロフィー、あとは特に優れた学生について取り上げられた新聞記事の記録、そして学生たちの汗と涙(と、ときに血)の結晶であるところの、無数の論文を綴じた分厚い革表紙たちだ。


 シャーロットも講義で出た課題をこなすうえで、何度かそういった、先人たちの知恵に縋ったこともあった。



 教員棟に応接室を造らなかったのはなぜか――これには複数の理由があった。

 一つに、本棟に比して教員棟は新しい。応接室が必要となったとき、まだ教員棟は存在していなかった。

 二つに、応接室を教員棟に移さなかった理由。これは単純だった――本棟に取り囲まれた教員棟よりも、ヴェリ塔の窓から望む方が、圧倒的に景色が優れていたからである。



 応接室に至るまでの廊下には、学生やら教授やらが、好奇心や不安をそれぞれ浮かべながら、さりげなくあちこちを行きつ戻りつしている。


 論文の同じページを凝視しながら、なぜかそれを廊下に座り込んで読みふけっている学生たちもいる。

 さすがに、あからさまな盗み聞きは無礼ということを理解するだけの冷静さは残っているのだ。


 とはいえ、前代未聞、リクニス学院の学生がカルドン監獄に送られるかもしれない事態にあって、そこにものものしく到着した客人がいる――()()であって、()()ではない――となれば、不安という燃料を投下された好奇心を抑えておけるものではなかったのだろう。


 学生のうち、シャーロットと顔見知りである数人は、ここぞとばかりにシャーロットに事態を訊こうと身を乗り出したが、そつなく両ウィリアムがそれを遮っていた。


 そしてシャーロットはといえば、ここに至るまでの距離で弱った脚の筋肉が限界を迎え、掛けられる声に応じているどころではなかった。



 そうして、シャーロットは息も絶え絶えになりながら応接室に辿り着いた。


 彼女の息が落ち着くのを待ってから、ウィリアム・ベイリーが応接室の扉をノックする。


 そのノックに返答があってから扉が開けられ、中を覗き込んだとき、中にいたのは二人だけだった。



 一人は応接室の大きな円卓の、入口から見て向こう側についており、円卓に肘を突いて背筋を伸ばしている。

 そしてもう一人はその後ろで、大きな嵌め殺しの窓から眼下を見下ろしていた。


 硝子を通して、エデュクスベリーの町並みが広がっているのを見渡すことができるのだ。



 シャーロットは絶句した。

 ここにいるとは露ほども思っていなかった人の後ろ姿を見たがゆえに。


 同時に、円卓に着いていた一人が、すばやく立ち上がって扉を閉めるように合図した。


 最後にマルコシアスがするりと室内に入って、音を立てて扉が閉じられる。



 シャーロットは茫然としている。


 円卓に着いていた一人――見間違いもしない、ジュダス・ネイサンが、さっと手を振ってだれかに合図した。

 とたんにマルコシアスが身ぶるいして、シャーロットにも分かった――ネイサンが、盗み聞きを防ぐべく、彼の悪魔に何かを命令したのだろう。


 窓の外を眺めていたもう一人が、振り返ってネイサンを見た。


 彼が問うように首を傾げたので、ネイサンが苦笑して、頭を下げて応じる。


「――私も在学していたころは、相当な悪ガキでしたものでね。

 しかし、盗み聞きも盗み見も、いっさいご心配不要です」


「そうか」


 彼が応じて、手ずから窓にカーテンを引く。

 とたんに室内が一段暗くなる。



 息を止めたシャーロットに向かって、彼が微笑んだ。



 丁寧に後ろに撫でつけられた茶色い髪――以前に会ったときよりも、少し白髪が増えただろうか。

 あざやかな青い目、目尻に寄ったしわ。


 仕立てのいい、茶色い繻子織の背広を纏っており、その背広に少しだけしわが走っているのが目に留まる。



 シャーロットは失神しそうになっていたが、なんとか踏み留まり、その場で頭を下げた。


「ご――ご無沙汰しております、()()


 チャールズ・グレース首席宰相は頷いた。


「久しいね、シャーロット。

 ――怪我をして寝込んでいたと聞いた。ここまで足を運ばせて悪かったね」


 シャーロットはなんとか首を振った。


 なんと言えばいいものか頭が真っ白になっており、かろうじて出てきたのは、「いえ……」というあいまいな小声だけだった。


 ネイサンが口許だけで励ますように微笑む一方で、グレイが同情じみた視線をシャーロットに向ける。


 首相は頓着せず、疲れた様子で肩を竦めた。


「すまないが、分かってくれ――私も、いわば忍んでここまで来たようなものでね。しかしながら顔を見られれば、私だと気づく者もいるだろう。ここから出るのは最低限にしたかった――申し訳なかったね」


 シャーロットはふるふると首を振った。

 思わず一歩下がったところで、足許にいたマルコシアスに軽くぶつかる。


 マルコシアスが鼻を鳴らした。


 ネイサンがマルコシアスを見て、眉を寄せる。


「閣下――」


 ウィリアムが口を開いた。

 シャーロットに比べて、首相と面と向かって話すことに慣れている風情だった。


「閣下、シャーロットはまだ十七になったばかりですよ」


 首相は軽く手を振って、ウィリアムに黙るように促した。

 そして、その手を円卓を囲む椅子に向ける。


「まずは掛けなさい」


 シャーロットはウィリアムと目を合わせようとして失敗し、グレイと目を合わせ、恐る恐る椅子を引いて腰掛けた。


 本来は来客用である椅子は、背もたれが高く、クッションも柔らかい。


 落ち着かない気持ちでそのクッションに体重を預けて、シャーロットはマルコシアスが器用に床の上に腹這いで寝そべって、シャーロットの足のすぐそばに頭を寄せるのを一瞥した。

 大蛇のしっぽが振られて、シャーロットの椅子のそばの床を叩く。


 首相が息を吐き、自らもネイサンから椅子ひとつ分を空けた隣に腰かけたうえで、円卓に肘をついて両手を尖塔の形にした。


 その指先の上から、首相がシャーロットをまじまじと見る。

 点検するように。


「――時間もない。すまないがさっそく本題に入る。

 最初に確認しておきたいが、シャーロット」


 名前を呼ばれて、シャーロットは肩を跳ねさせた。

 応じる声が、頭のてっぺんから出たような声になった。


「はいっ」


 首相が厳しい目でシャーロットを見据える。


「今回の件で、きみの――()()()()()()()()が、他の教授、学生、そういった人たちに漏れたということはあるかね?」


 シャーロットはあわてて、ぶんぶんと首を振った。


 隣ではグレイが、「ベイリー家の事情とはなんだ?」と訝しむ顔をしながらも、無関心の表情を保って天井を見つめている。


「ありません、断じて、それは――」


 言葉に詰まりながら否定するシャーロットに嘘がない様子であることを見て取って、首相の眼差しがじゃっかん緩んだ。


「ならば、いい」


 そう言って、首相が息を吸い込む。


「シャーロット、今回の件は――」


 言い差し、首相が息を吐く。

 彼が目を伏せたので、シャーロットはじゃっかん呼吸が楽になった。


「今回の件は、すまない、こちらの手落ちだ」


 シャーロットはどう答えればいいものか分からず、無言のままで唇を開け閉めした。

 代わりに、ウィリアムが棘のある声を出す。


「ええ、まったく――畏れながら閣下、いかがなものかと。

 二年前の一件の首謀者の、実の息子が学院にいることを、一言も警告すらしてくださらなかったとは」


 シャーロットは自分の顔が強張るのを感じた。


(お父さま!?)


 首相、すなわちこの国の最高権力者に向かって、「いかがなものかと」と言い放つとは。


 シャーロットが無言で震えているうちに、首相が静かに眉を寄せた。


「私も、官僚の家族の所在までは把握できない。

 シャーロットの入学にあたっての調査は軍省が――」


「お言葉ですが、閣下」


 ネイサンが言葉を挟んだ。


 その場の空気が一気に張り詰め、シャーロットとグレイが息を止める一方、マルコシアスが円卓の下で()()()と大きな欠伸を漏らす。


 ネイサンはほとんど苛立ちを籠めて首相を見ていた。


「そのときも申し上げました。ベイリー家にまつわる事情を了解しているのは軍省ですが、立ち入った調査には司法省の承認が必要です。

 司法省の権利は独立していて、閣下もおいそれと命令は下せない――」


「当然」


 首相が応じる。


「司法の独立はすなわち国家の透明性だ」


「ですが、」


 ネイサンが応戦する。


 ベイリー親子とグレイは、視線を発言者の方へと交互に移しながら、おのおの不安な表情でそれを聞いていた。


「それが今回の件を招いたと言って過言ではありますまい。軍省だけで必要な調査が出来なかった、それが原因の一部でございましょう。

 ――閣下、以前から申し上げておりますとおり、軍省には権力が必要です。さらに魔術師の権利はいちじるしく弱い――これでは守れるものも守れますまい」


「ネイサン」


 首相がはっきりと、たしなめる声音で呼んだ。

 眼差しが険しくなっている。


「お前は参考役だ。こちらにはお前の知らない事情も、都合も、山のようにある。おのれに見えていることのみで物事を語るな」


「――――」


 ネイサンはその瞬間、さらに言葉を重ねるように見えた。


 だがそれを堪え、奥歯をぐっと噛み締めたことが分かる表情も一瞬で消え、彼は軽く頭を下げた。


「――差し出たことを申しました。お許しを」


 首相は無言で頷き、正面の三人に視線を戻した。


 彼の表情が少しだけ和らいで、首相はシャーロットと目を合わせて、もう一度言った。


「――すまなかったね」


 シャーロットはこくんと頷き、ようやくまともに口が利けるようになり、囁いた。


「……とんでもないことでございます、閣下」


 首相は微笑み、そしてすぐにまた厳しい表情に戻った。


「きみも知りたいだろう。事の顛末は――ネイサン」


 ネイサンが頷き、言葉を引き取るようにして、口を開いた。


「結論からいうと、解決だ。

 昨日の早朝、私の魔神たちが狩りを行った――標的はフォルネウス」


 マルコシアスが円卓の下で頭をもたげ、円卓を透かしてネイサンを見るようにして、そちらにじっと淡い金色の視線を注いだ。


「よい魔神だが、造作なかった。

 さらに、問題のショーン・オーリンソンも確保――」


「彼はどこにいるんです?」


 シャーロットが思わず口を挟むと、ネイサンはにっこりと微笑んだ。


()()()()()()()()


「――――」


 ひっ、と強張ったシャーロットの表情を見て、ネイサンがいよいよ大きな笑みを浮かべる。


「まあ、無事だよ。噛んだり溶かしたり殺したりしないよう、重々申しつけているからね。ローディバーグまで戻って吐き出させる――それから裁判だ。

 まあ、有罪は動かない。彼はカルドン監獄行きだ」


「あのっ」


 と、さらにシャーロットが食い下がる。


「彼の罪状は――」


「むろん、魔術をもって他人を侵害した罪だ」


 ネイサンが答え、顔を顰める。


「ただ、調査は必要になるだろうね。彼はどうやらきみに、二年前の一件で逆恨みともいえる怨恨を募らせていたようだけれども、そもそも()()、彼にきみとオーリンソンのつながりを教えたのか」


「容疑者は少ない」


 首相が無表情に言った。


「二年前の一件で、きみの素性を知っている者は軍省の中でもわずかだ」


「とはいえ、閣下」


 ネイサンがすばやく言う。


「司法省も無視できますまい。――オーリンソンの裁判で、シャーロットの名前に触れた者がないかを確認せねば」


 首相が頷く。

 とうにそれも考えに入れていた顔だった。


 シャーロットは息を吸い込んだ。


 ここをのがせばもう好機はない。

 膝の上でぎゅっと両手を握り合わせると(ついでにマルコシアスは、緊張のあまり彼女の爪先がぴんと立つのも見ていた)、彼女は一世一代の覚悟を決めて、緊張のあまりひっくり返った声を出した。


「――お……畏れながら申し上げます! 私、あの――」


 首相とネイサンが、驚いた様子でシャーロットを見た。

 ウィリアムに至っては、一瞬、シャーロットの口を塞ぎそうな雰囲気すら見せた。


 シャーロットは心持ちウィリアムから反対側に身体を傾け、いよいよ緊張で喉がつかえるような気持ちになりつつ、もはやアーノルドのことだけを考えて、必死になって言い募った。


「――二年前の一件のときに見た魔神と同じ魔神を見ました。同じ主人に仕えている様子でした――二年前は、てっきり、捕まったあの魔術師の方に仕えている悪魔かと思っていたのですが、違いました」


 首相が眉を寄せる。

 続けて、と彼が手振りで示す。


 シャーロットは少しだけほっとした。


「参考役さま、ご記憶でしょうが――二年前の一件のときに、アーノルドという男の子がいましたよね。あれ以来姿が見えなくて――でも、その魔神と一緒にいたんです」


 ネイサンが眉を顰めた。


「――つまり、なにかね? きみが言いたいのは、文字も知らない浮浪児が、たった二年で魔神を召喚できるほどの魔術師になったと、そういうことかな?」


「違います!」


 シャーロットは信じられない思いで目を見開いた。


「アーニー――アーノルドは明らかにその魔神に脅されて動いていました――()()()()()()()()()()()


 隣で、グレイがはっと息を吸い込んだ。

 彼も茫然と目を見開いている。

 その顔が一気に蒼白になっていた。


「間違いなく、と言っていいでしょうが、あの魔神の主人に、アーノルドが……」


 シャーロットは言葉を探して言い淀んだ。

 そして、かろうじて言葉を絞り出したが、その言葉が、アーノルドの――あの、息も出来ない様子の苦しげな雰囲気を、欠片でも表すに足りるとは思えなかった。


「……虐待されて、酷使されている……そうに違いありません」


 首相とネイサンが、短く目を見合わせた。


 ネイサンが深々と溜息を吐いて額を押さえる一方、首相は口許に手を当てて憂慮の表情。


 シャーロットは必死になっていた。


「アーノルドを助けないといけません――彼なら、その魔術師の素性を、少なくとも顔ですとか、そういったものを知っているはずです。

 二年前の一件と今回の一件に、同じ魔術師が関わっているんです――ジュニア……オーリンソンさんのご子息に私のことを吹き込んだのも、その魔術師なのかもしれません。アーノルドを助けられれば、それが分かります」


 ネイサンが唇を噛んだ。

 彼の灰色の瞳が、ちらりと首相を窺う。


「閣下……望ましくない事態ですが――」


「望ましくない?」


 首相が声を荒らげた。

 シャーロットはびくっとした。


()()()()()()だと? 国民の一人が、あきらかに苦役に就かされていることが、()()()()()()()()? そんな言葉で足りるものか。おぞましい」


 ネイサンが渋面を作る。


「それは――それは無論ですが、首相。

 しかし、――ベイリー家の事情を考えると」


 首相が大きく息を吸い込み、その息を吐き出した。

 彼が眉間を指で揉み、そして顔を上げる。


「ウィリアム――それからシャーロット。実をいえば、今のような話を最も恐れていた――どんな形であれ、()()()()()()()()()()()()()()()()と知らされるのを」


 シャーロットは息を止めた。


「シャーロット――きみから、オーリンソンの息子が何か……きみのことを誰から聞いたか、そういったことを聞き出せればと思っていた。

 きみの名前が漏れたのが偶発的な事故で、この一件がオーリンソンの息子の逆恨みを()()()()()()ではなく、あくまでもオーリンソンの息子が()()()()()()画策したものであれば、と――」


 首相がグレイを見て、彼に向かって会釈するような風情を見せる。

 グレイは慌てたようだった。


「そうであれば、ミスター・グレイに、この場にお運びいただいたのは、あくまできみを元気づけるため、ということに留まったのだが」


 ネイサンが、ちらりとグレイを見遣る。


「――万が一、二年前の一件についても話を聞かねばならないと――そうわれわれが判断するだけの材料をきみが持っていたときのために、ミスター・グレイにもご同行いただいたのだがね。

 もし仮に、」


 彼が息を吐き、何か直視しづらい事実を見据えるようにして、慎重に言葉を絞り出した。



「今回の一件が、二年前の一件に引き続き画策されたものだとするならば――それはもう、偶発的な事件ではありえない。

 現行法上許されない、きわめて緻密に計画された内乱の萌芽が存在しているということに他ならない」



 言葉を切ったネイサンが、くるりとグレイに向き直った。


「ミスター・グレイ。ご同行いただいておいて恐縮なのですが、いったん席を外していただけますか?

 あとでお話を伺いたい――差支えなければ、この部屋の前で一服しておいていただけると、まことにありがたいのですが」


 グレイは立ち上がった。

 席を外すことに対して、歓迎以外の感想を抱いていないことはあきらかで、さらに一服する許可が出て嬉しそうだった。


 椅子を引きながら、彼がシャーロットの肩をぽんぽんと叩いて、励ますように頷いた。


 シャーロットは戦線離脱する同胞を見守る気分で、彼の背中が扉の向こうに消えていくのを見守った。



 グレイが退出し、扉が閉まると、首相が口を開いた。


「――さて、シャーロット。

 きみの身の安全が――正確にいえば、きみの血液を安全にきみの体内に閉じ込めておくことが、われわれの生活を守るうえできわめて重要であるということは、きみも承知のとおりだ」


 シャーロットは頷き、不安げに父を見上げた。


 ウィリアムは、あきらかに事の次第をよくは思っていない。

 彼は歯を喰いしばったあとで、先ほどの言葉を繰り返した。


「――閣下。この子はまだ十七です」


「ウィリアム、状況が変わった」


 首相がはっきりと言い、シャーロットに視線を戻した。


「シャーロット。二年前、私はきみに、きみの曾祖母さまの話をしたね。そして、一部は伏せていることもあったと、きみも承知しているはずだ」


「…………」


 シャーロットはためらいがちに瞬きし、頷いた。

 急に、たまらなく不安になった。


 思わず、繻子の靴に包まれた足の甲でマルコシアスの腹の辺りに触れる。

 温かい毛皮の向こうで、かりそめの身体が落ち着いた呼吸を繰り返しているのを感じ取る。


「――はい」


「残りはきみが十八になってから話すと、そう言ったね?」


 確認され、シャーロットはまた頷く。


「はい、そうおっしゃいました」


「すまないね、シャーロット。状況が変わった」


 首相が同じ言葉を繰り返し、息を吸い込む。


「もし仮に――ネイサンが言ったように、断じて許されない内乱が計画されているのであれば、シャーロット。きみに事情をくまなく呑み込んでおいてもらわなくてはならない。

 そのうえで、きみの今後について話さなければ」


 シャーロットはまた父の横顔を見上げた。


 父の表情は苦り切っている。

 彼が円卓の下で手を伸ばして、シャーロットの手を握ってくれたが、わずかも励まされなかった。


「シャーロット」


 首相が静かに呼んで、息を吐いた。


「〈ローディスバーグの死の風〉については話したね?」


 シャーロットは頷く。


「それが、とある一人の魔神が起こしたものだということも、話したね?」


 また、頷く。


「その魔神は、今はグレートヒルの地下に封印されている。そのことも話したね。

 そしてその封印には、きみの曾祖母――勇猛なるスーの血が使われていることも」


 頷く。


「その封印を解くにあたって必要なものの一つが、きみの血液だ。

 ――もちろん、覚えているね?」


 シャーロットは頷き、また父を見上げる。


 シャーロットの手を握る父の指には力が入っている。


「はい――あの……もちろん」


 チャールズ・グレース首相は大きく呼吸した。


 その顔が恐ろしいほど険しくなっている。



「――封印を解くにあたって必要なものは他にもある、そう話したね。それについて、詳しく話そう。魔神についても。

 ――シャーロット、実を言えば、われわれは危機的な状況にある。それを理解してくれ」



 シャーロットは瞬きした。


 まさか話の流れがこうなるとは、わずかにも想像してはいなかったのだ。

 彼女が考えていたのは、アーノルドのことを話さねばならないということだけで――呼び出された理由は、一方的に今後の処遇を話され、今回の件について聴取されるためだと思っていた。



 彼女はどもりながらも頷いた。


「は――はい」



「よろしい」



 首相は言って、微笑もうとして、しかし唇を歪めただけに終わった。



 彼は言った。



「――シャーロット。きみはもちろん、『()()()()()()()()()()?」



 シャーロットの息は止まった。





























乾涸びそうなので、どなたか何か反応をくださると嬉しいです。






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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お疲れ様です。 グレイ氏、久々の登場ですね。アーニーの無事を尋ねる際の言葉などをみると善良さが伝わってきて、二年前誘拐に手を出したのは本当に切羽詰まってたんだなとか、出来ればグレイ氏や…
[気になる点] ネイサンさん、只者ではなさそうな描写が続いていますね......。 確かに「神の瞳」の行方を知らない首相からすれば現状は相当危険なものですね。とは言え「神の瞳」は複数ある様ですから1つ…
[良い点] ここ数話、ネイサンさんが思った以上にかっこよくて素敵です。好き。 [一言] ついに神の瞳が関係していることをシャーロットが知るんですね。どんな話が出てくるのか、シャーロットがどんな反応をす…
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