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21 魔術師傾心

 ――翌日、シャーロットは早朝に目を覚ました。


 何度かうたた寝と覚醒のあいだを行ったり来たりし、やがてうめいて寝返りを打つ。


 そうして、ようやくぱちりと目を開けたシャーロットは、目に入った人の姿に、思わず悲鳴じみた声を上げた。


「――わあっ!」


 ベッドの、シャーロットからすれば右側にあたるそばで、マルコシアスがかすかに身を乗り出したのが分かったが、シャーロットの悲鳴がどちらかといえば歓声に近い性質であることを聞き取ったのか、かれはそれ以上は動かなかった。



 代わりに、医務官が靴音を立てて現れた。


 シャーロットがもう少し気を配っていれば、医務官は出勤早々にシャーロットの悲鳴を聞いたのだと分かったはずだし、彼がシャーロットの来客を見て驚いた様子であったことも見て取れたはずだ。



 だが、シャーロットは注意の百分の一もそちらに払ってはいなかった。


 シャーロットは跳ね起きようとして、やや動きは鈍かったもののなんとか身を起こした。


 彼女から見てベッドの左側に寄せた椅子に座るのは、夢ではなく、実際に――


「――お父さまっ!!」


 叫んで、シャーロットが父に抱き着こうとするのと、大きく両腕を広げた彼女の父がシャーロットを抱き取るのは同時だった。



 シャーロットは満面に笑みを浮かべた。


 硬い外套の感触、かすかに香るコロン。

 顎にちくちくと無精ひげが伸びている。



 娘と同じ橄欖石の色合いの瞳を細めておおらかに笑って、彼の愛娘を抱き締めたウィリアム・ベイリーは、確かめるようにシャーロットの背中を撫でて、そして言った。


「――やあ、チャーリー。ひどい目に遭ったそうだね」


「二年前ほどではありませんでした!」


 元気よくそう答えて、シャーロットははっとわれに返り、身体を引いてまじまじと父を見た。

 首を傾げる。


「――お父さま? どうしてここにいらっしゃるんですか? お仕事は?」


 ウィリアムは微笑んだ。

 金色の無精ひげの伸びた顎を撫でる。


 ――シャーロットは、おおむねの容姿の特徴を父から受け継いでいた。

 金色の髪も橄欖石の瞳も、父譲りのものだ。


 ただし、顔立ちは母に似たと自負している。

 ウィリアムはおだやかに目尻の下がった顔立ちで、今はその顔に苦笑を拡げていた。


「チャーリー……」


 それで、シャーロットもはっとした。


 ――シャーロットが抱える事情は、すなわち父の抱える事情だ。

 シャーロットが女性であるがゆえに、シャーロットの方に危険が片寄せされているにせよ。


「ああ……ええっと、いつ、こちらにお着きに?」


 ウィリアムは上着から懐中時計を引っ張り出し、時刻を確認する風情を見せた。


「昨日の夕方には。ただ、そこから――事の経緯を色々と聞いて、お前がどこにいるのかを突き止めるのに時間が掛かってね」


 シャーロットは目を丸くする。


「そんなに?」


「ああ――いや、私も失敗だった。最初に、私がお前の父であることを話して、そのうえで、一緒にいる方が身分を名乗ったものだから、学院の方々がすっかり混乱してしまって――いやね、まあ、親に向かって、その娘が医務室にいると告げるのは、なかなか勇気がいることだと分かるよ」


 医務官が、少しばかり不思議そうな顔を見せた――無理もなかった。


 彼からすれば、シャーロットが大怪我をしたという知らせを受けて、その父が駆けつけてきたように見えているはずだ。

 シャーロットが医務室にいるとすぐに分からなかったというのは、いささか奇妙に聞こえるだろう。


 だが、シャーロットには分かる。ウィリアムは学院側からの知らせではなく、政府からの知らせを受けてこの場にいるのだ。


 そしてその知らせは、ワルターがもたらしたものだった――つまり、シャーロットが怪我をしたことなど、知りようがなかったはずなのだ。


「――そんなわけで、私がお前の顔を見たのは、昨日の夜中だね」


「そんなに……」


 シャーロットは、医務官とは全く違う理由で怪訝に思って眉を寄せた。

 少し身を乗り出して、声をひそめる。


「……あの、魔術師のかたはご一緒ではありませんでした? 悪魔なら精霊を遣わせて私を捜させることも出来たはずですが」


 ウィリアムは不思議そうに瞬きした。


 彼はいったん医務官に視線を移していたものの、訊かれてシャーロットに目を戻して、首を傾げる。


「ああ――いや、特にお前の居場所が分かっているという風には見えなかったけれど」


「そう……ですか」


 シャーロットがあいまいにつぶやき、ウィリアムが立ち上がって医務官に頭を下げ、「そんなわけで、ごあいさつもしないままこちらに陣取ってしまって」と断りを入れる。


 医務官はあいまいに頷き、ちらちらとシャーロットの方を気にする様子ながらも、静かに離れていった。


 それを見送ったところで、話を切り替えるようにウィリアムが咳払いした。


 そして、彼が厳しい瞳でマルコシアスを振り返る。


 マルコシアスはじゃっかんの警戒心を籠めてウィリアムを眺めていた。

 父が夜を通して魔神に睨みを利かせられていたのかと思うと、シャーロットの罪悪感もうずく。


「――こちらはどなたかな、チャーリー?」


 シャーロットはあわてて、ベッドの上に座り直した。

 身体が思うように動いてほっとするが、同時に猛烈な空腹も自覚した。


「あっ、お父さま。人間の男の子に見えますが、違うんです。

 かれは悪魔で、私が召喚した魔神なんです――」


「本当に?」


 と、ウィリアムが驚愕の表情。


 魔神の擬態は、経験を積んだ魔術師でも見破れないことが多い緻密なものだ。

 初めて目の当たりにした人は、大抵これと同じ反応をする。


 シャーロットはマルコシアスの能力の高さに誇らしさを感じて胸をふくらませた。


 それから、シャーロットは遠慮がちにマルコシアスを咎める。


「エム、守ってくれてありがとう。でも、お父さまのことは睨まなくていいのよ」


「だって知らないやつだったから」


 マルコシアスは悪びれなかった。


「知らないやつがあんたのそばをうろうろしてるんだから、護衛としては目を光らせておかなきゃ、ね?」


 そう言って、実際にマルコシアスは淡い黄金の瞳を光らせてみせた。

 ぱっと目を閉じたシャーロットが、「眩しいから、やめて」と言ったので、その悪ふざけを中断する。


 そして、悪魔としてはなかなか殊勝な口調で言った。


「次から気をつけるよ」


「そうしてちょうだい」


 シャーロットは溜息を吐いた。


 そして、そんな場合でもなかったことを思い出して、あわてて父を振り返った。


「そう――そうです、お父さま、他のかたと一緒にいらっしゃったのでは?」


「――そうだよ」


 ウィリアムがつぶやいて、父親の目でシャーロットを矯めつ眇めつして評価した。


「ただ、お会いする前に身形を整えた方がいいだろうね……」


 シャーロットはとっさに髪を押さえたが、問題はそこだけではなかった。


 ウィリアムが愛情深い瞳でシャーロットを見つめて、彼女の頭を撫でる。


「チャーリー、無理はしなくていいんだ。まだ身体がつらいならそう言いなさい。私から皆さまにお伝えしよう」


 シャーロットは無我夢中で首を振った。


 とにかく一刻も早くアーノルドのことをネイサンに伝えなければならない。



 ――同時に、シャーロット自身の、決してネイサンには言えない事情を隠し通したうえで。



 シャーロットは息を吸い込んだ。


「もう大丈夫です!」


 ウィリアムが微笑み、ふたたび懐中時計で時刻を確認する。


 そして、その時計の鎖を注意深くボタン穴から外すと、シャーロットに握らせた。


「チャーリー、皆さまもう起きていらっしゃることだろうから。お前の目が覚めたことを、これから私が伝えに行く。

 八時までに身支度を整えて、この医務室の前まで戻ってきなさい」


 シャーロットは懐中時計をぎゅっと握り締めて、頷いた。



 ――十中八九はネイサンだが、政府高官がこの学院を訪っていることに疑いはない。


 用件も、およそ見当がつく――シャーロットの今後の身の振り方についてだろう。



 シャーロットがこの二年のあいだ、意識はすれども直面はせずに済んでいた彼女の血筋の問題が、ふたたび議論されることになるのだ。





▷○◁





 シャーロットは出来る限り急いで自室に戻ろうとしたが、これはそう上手くいかなかった。


 自覚はしていなかったが、短いあいだとはいえ寝たきりだったために、身体が弱っていたのだった。


 階段を下りる途中でぜぇぜぇと息を弾ませ始めた彼女に、かなり先まで行ってしまってから気づいて引き返してきたマルコシアスは、呆れ返った様子で溜息を吐いた。


「なにしてるの、レディ。情けない」


「うるさい……」


 シャーロットは手摺壁にしがみつきつつ、これではまずいと考える。


 時計を確認すると、今の時刻は六時半。

 お父さまは女性の身嗜みにかかる時間を甘くみてらっしゃる、と歯噛みしつつも、シャーロットは作戦変更に踏み切った。


「エム、お願いがあるんだけど」


「聞けることなら」


 シャーロットは咳払いした。


「エム、命令よ」


 マルコシアスは肩を竦める。


「なんなりと、レディ」


 シャーロットは息を吐き、手摺壁にもたれ掛かって息を整えた。


「いい、お前が一人で私の部屋に行って、ノーマを見つけて。たぶん部屋にいると思うけど、いないかもしれない。とにかく見つけて、ノーマに伝えてほしいの」


 マルコシアスが無邪気に首を傾げた。


「ノーマ?」


「もうっ、私のお見舞いに来てくれたでしょ!」


 シャーロットが獰猛にうなると、マルコシアスは得心した様子で頷いた。


「あー、はいはい。えーっと、どいつ?」


「私のルーム・メイトよ」


 シャーロットも苛立ってきた。


「お前を召喚した日にも、お前は一度顔を見ているでしょう」


 マルコシアスは記憶を探るような顔をして、「ああ」と頷いた。


「分かったと思う」


「良かった」


 嘆息して、シャーロットは指示を続けた。


「ノーマに伝えて。“私は大浴場にいるから、そこに私の着替えを持って来て”って。”これから偉い人に会わなきゃいけないから、きっちりして見えるものをお願い”って、そう必ず伝えて」


 マルコシアスは真面目に頷いた。


「仰せのとおりに、レディ」


 そうしてマルコシアスがその場から軽快に駆け去るのを見送ってから、シャーロットはよろよろと階段を下り切って、足を引きずるようにしてふらふらと女子寮の方へと向かった。



 ようやく大浴場に辿り着いたときには、それだけで達成感でいっぱいになるほどだった。


 脱衣所の床に座り込んで、全身の筋肉から力が抜けるような疲労感と戦う。


 そうしているうちに、ひょっこりとノーマが顔を出した。


「まあ、ロッテ!」


 ノーマが言って、シャーロットを助け起こした。

 片腕に、頼んだとおりにシャーロットの着替えを抱えている。


「あなたの魔神だという悪魔が、私にこれを持っていけって――ただ、かれ、センスはあんまりね。かれが最初に指差したのは、あなたが持ってる中でも最悪のセンスの服だったわ」


「ありがとう」


 シャーロットはうめいた。


 そのとき、ノーマの後ろから、狼が鼻面で扉を押し開け、のそのそと入ってきた。


 とはいえただの狼ではない。

 犬ほどの大きさではあるが、黒々とした毛並みに淡い黄金の瞳、そして尻尾がうねる大蛇ときている。


 どうみても悪魔だ。

 召喚主であるシャーロットには、それがマルコシアスだと一目で分かる。


「エム、伝言をありがとう」


 シャーロットが手を伸ばすと、狼は盛大な貸しを作るような尊大な顔で、彼女のてのひらの下に自分の頭を差し出した。

 頭を撫でてみると、案外に手触りは良かった。


 ノーマは考えものだという顔をしている。


「ロッテ、この悪魔、外に出さなくていいの? あなた今からお湯を使うんでしょう?

 さっきまでこの悪魔、男の子の格好をしてたわよ」


 シャーロットは笑い出した。


「男性も女性も、人間側の棲み分けよ。エムは悪魔だから、どうでもいいわ」


 ノーマは溜息を吐いた。


「あなたがそう言うならね。でも、私もしばらくここにいるわ、ロッテ。

 お湯を使っている最中、中で転んだら知らせてね。助けに行ってあげるから」


 シャーロットは友情に感謝しながら破れたワンピースを脱ぎ、父から預かった懐中時計をノーマに託した。


 うめきながら広い洗い場に向かい、頭からお湯をかぶって髪のほつれを解き、ごしごしと髪と身体を洗う。

 汗と血と粉塵でひどいありさまになっていたが、花の香りのする石鹸を泡立ててあちこちをごしごしとこするうちに、及第点だろうという程度には清潔になった。


 最後にお湯をかぶってから、なんとか転ばすに脱衣所に戻る。


 退屈そうにしていたノーマが差し出してくれたタオルで顔と身体をぬぐいながら、シャーロットは脱衣所の真ん中に座る狼に向かって合図した。


「エム、のんびり見てないで、私の髪を乾かすように精霊に言ってちょうだい」


 狼が肩を竦めるような仕草をした。


 とたん、無数の小さな手がシャーロットの髪をくしけずり、温め、風を送ってふわふわに乾かしはじめた。


「ありがとう」


 マルコシアスにそう言ってから、シャーロットは自分の頭の上あたりに向かっても、「ありがとう」と言い添えておく。


 それからシャーロットは大急ぎで着替え始めた。


 ノーマが選んで持って来てくれたのは、黒いワンピースだった。

 丈がくるぶしまであって、公式の用にも耐える。

 腰のリボンは灰色で、後ろで結ぶようになっていた。


 シャーロットが手こずっているあいだに、ノーマがてきぱきとそのリボンを結んでやる。


 絹のストッキング――黒い繻子の靴。


 最後にノーマが手品のように黒いリボンを取り出して、有無を言わさずシャーロットを籐の椅子に座らせ、彼女の金髪を後ろで一つに結わえてやった。


 そうしながらも、ノーマが興味を抑えかねた様子で尋ねる。


「――ねえ、どなたとお会いするの? もしかして、昨日にいらっしゃって、教授たちをあわてさせていた方々?」


 シャーロットは罪悪感を軽減するべく目を閉じた。


「ああ、ノーマ。お許しがあったら話せるんだけど」


 ノーマは肩を竦めた。

 もとより彼女はキャロラインと違って、噂話に固執する性格ではない。


「無理ならいいわ。私から言うのも変な話だけれど、粗相のないようにね」


 シャーロットは頷いた。


 そうするうちに、マルコシアスが狼の格好から、いつもの少年の格好に戻っていることに気づく。


 ノーマもそれに気づいて、目をしばたたかせた。


「……ずいぶんあなたに尽くす悪魔ね、ロッテ」


 シャーロットは両手で顔を覆った。


「エム。私に気を遣って、そんなにころころ形を変えなくていいのよ」


 マルコシアスは肩を竦めた。


「いつぞや、あんたに銀のそばに押し遣られそうになったのを思い出しただけだよ。――それに、誰かがあんたの手をひっぱってやらなきゃ、あんたが歩けそうにもないからね」


 シャーロットは反発心を覚えたものの、おおむねのところでマルコシアスが正しいことも認めた。


 ノーマがシャーロットに懐中時計を返し、両手でそれを受け取ったシャーロットが時刻を確認する。七時を少し過ぎたところ。


 シャーロットは立ち上がり、その拍子によろけて、ぎょっとした様子のノーマに支えられた。


「大丈夫?」


「ごめん――大丈夫。朝早くから本当にありがとう」


 あわてて体勢を立て直し、結局はふたたび腰を下ろしたシャーロットに、ノーマも心配げながらもほっとした顔を見せる。


「それはいいのよ。どのみちよく眠れてなかったもの。

 ――ええと、じゃあ、もう私はおいとましていいのね?」


 念を押すように尋ねられたので、シャーロットはこくこくと頷く。


「大丈夫。本当にありがとう。今度なにかお礼をするわ」


「別にいいわ。――ああ、ただ、今度『魔精便覧』を貸してちょうだい」


 シャーロットはゆっくりと微笑んだ。


「――喜んで」


「じゃ」


 ノーマが手を振って、最後にもう一度、奇妙なものを見るような目でマルコシアスを見てから去っていく。



 マルコシアスはそれを見送ってから、籐の椅子に腰かけたシャーロットを窺った。


 彼女は軽くうつむいて、何かを小声でつぶやいている。


「――ロッテ?」


 声をかけると、彼女がはっと顔を上げた。


 そうして、今度こそ落ち着いて立ち上がる。


 マルコシアスはそれを見ながら瞬きした。

 シャーロットの頬が緊張に強張っている。


「どうしたの?」


 シャーロットは大きく息を吸い込む。


「ああ――うん。これから、お父さまと――たぶんネイサンさまもいらっしゃるわ」


 マルコシアスは首を傾げて、それから頷いた。


 シャーロットはふらつきながらも出口に向かったので、それについて歩き出す。


「うん、そうだね?」


 浴場の外に出て、狭い廊下を抜ける。


「――何か食べなきゃ。頭が雲の上まで突き抜けていきそうな気分」


 シャーロットがつぶやき、ふらふらと食堂に向かう。



 途中で、せかせかと歩く寮母と行きあった。

 彼女はマルコシアスを見て唖然とした顔をした(ここは()()寮である)が、マルコシアスがそちらに向かって指を振ると、またなんでもないような顔でシャーロットに向き直る。


「ミズ・ベイリー、ひどい顔色だわ、どうしたの」


 シャーロットは、マルコシアスがこの婦人に何をしたものか気を揉んでいたが、かれが微笑んで頷いたので、ここはかれを信じることにした。


 寮母に向かって、遠慮がちにつぶやく。


「あの、朝ごはんって……」


 寮母はせっかちに頷いて、食堂を指差す。


「もちろん、用意してるわ。でも、もう、こんな事態だからかしら、みんな昨日の夜遅くまで起きていたみたいで、お寝坊しているわ。

 お給仕してあげたいけれど、ごめんなさいね、お洗濯をしなきゃ……」


 シャーロットは感謝を籠めて頷いて、よろよろと食堂に向かった。



 食堂は、寮母が「みんなお寝坊している」と言ったことにたがわず、無人だった。


 食事の用意がされており、皿は卓上にひっくり返して伏せられ、料理の上には錫の蓋がかぶせられ、パンの籠には清潔な布巾が掛けられている。


 シャーロットはベンチの隅に腰かけて、その向かい側にマルコシアスが腰掛けるに任せた。


 料理の蓋を取ると、まだ温かい料理からふわりと湯気が立ち昇る。

 ごく、と唾を飲んで、シャーロットは目の前の皿を表向けた。


 マルコシアスは対照的に、料理には目もくれずにシャーロットを眺めている。


 そして、大浴場を出たあとの会話を再開するように、うながすように言った。


「――で?」


 シャーロットはちょうど、布巾を取り去った籠からパンを取り、手近の皿から掬い取ったベイクドビーンズをパンに乗せて、行儀悪く大口を開けてそれにかぶりついたところだった。


 むせないよう気をつけつつ、もぐもぐと口の中のものを咀嚼して飲み込んでから、シャーロットは声を低めて応じた。


「そう、きっとネイサンさまもいらっしゃるわ。

 アーニーのことを伝えないといけないわ――二年前と今回、どっちにも同じ魔術師が絡んでたらしいことも伝えなきゃ」


 マルコシアスは無関心そうに頷いた。


「そうだね」


「それで――」


 シャーロットが息を吐く。

 もうひとくちパンにかぶりついて、それをしっかり噛んで飲み下してから、水を飲んだ。


 そして、いっそう静かにつぶやく。


「――いくつか黙っていないといけないこともあるわ」


 マルコシアスが首を傾げた。


「そうなの?」


「そうなの」


 シャーロットは溜息を吐く。

 手早く一枚目のパンを食べ終えて、手指についたパンくずを払いながら、皿にスクランブルエッグとベーコンをよそう。


「私が免許もなしに、最初にお前を召喚したこと……ネイサンさまは少し勘づいてらっしゃるようだったけれど、これも、そもそも黙ってなきゃ駄目なのよ。とりわけ、お前にあげた報酬のことはね。

 ――ベイシャーで暴れたあの悪魔の正体も、もちろん黙ってないと駄目でしょう。

 それに、何より――()()()がベン……ボリスを……殺してしまって、その流れで家出をしてグレートヒルまで向かうことになったいきさつも。

 これが知られたら、私がジュニアと一緒にカルドン監獄行きになるわ」


 マルコシアスはきょとんとしていた。


「あんたが前に僕を召し出したときの件は、もう片づいたんじゃないの?」


「二年前の一件と今回、どっちにも絡んでた犯人がいるって話をするなら、どのみち二年前の話になるわよ。そもそもどうして私がグレートヒルまで行ったのか――絶対にもう一度訊かれるわ。

 あのときは、お父さまに言われて行ったとごまかしたけれど、今回はこの場にお父さまがいらっしゃるもの」


 二年前の一件がやっとのことで終息したのち、ネイサンに同行されてケルウィックに戻ったときに、父を通して嘘が露見することを恐れるがあまり、ひたすら自分が話し続けてごまかしたことを思い出し、シャーロットは唇を噛んだ。


「この場でのネイサンさまへの虚言はたぶん罪になるから、お父さまに嘘をつかせることは出来ないわ」


 マルコシアスはストールを直しながら、訝しそうにした。


()()が殺したあいつは、悪人だったけど。そこについてはあんたも納得したじゃないか」


「まあね」


 シャーロットはつぶやき、ベーコンを口まで運んでから、下ろした。

 眉間にしわを刻む。


「ただ、相手が悪人だろうと善人だろうと、法律は平等よ。

 私がお前を使って反撃した以上、相手も悪魔を召し出していたならともかく、正当防衛は認められないと思うわ」


「あんたたちの法律は、ときどき妙だね」


 マルコシアスが評して、シャーロットは疲れたように微笑む。

 そして、ベーコンを細かく切って、それを口に運んだ。


「そうかな――でも、悪魔は怖いものだから」


 息を吸い込んで、シャーロットはつぶやく。


「私はあのとき、()()()()()()より()()()()()を取ったから、隠し通すか責任を取るか、二つに一つなの。

 あのとき私は、彼が悪人だったら隠し通すって決めた。だから、これからも隠し通さなきゃいけないわ。

 何かがあってばれてしまったら――そのときは腹を決めるしかないけれど」


 マルコシアスは面白がるように淡い金色の瞳をきらっと輝かせた。


「なるほどね。あんたのやりたいこととあんたの倫理観と、そのつり合いの問題だ。

 僕、それは好きだよ。付き合おう」


 シャーロットは溜息を吐いて、カトラリーを握ったまま、手首の部分でごしごしと目をこすった。


「お前は本当に――まあ、いいわ。

 ――それに、今回のことだって。特にビフロンスの加護の水のことは……」


「あれはただの水だったね」


 マルコシアスが真顔で言って、シャーロットは眉を寄せたまま噴き出した。


「そうね、そうだったわね。

 ――とにかく、いざとなったら、何をどう話せばいいのかしらと思って……」


 さらに少し考え込んでから、シャーロットは小さな声で言った。


「……――二年前は、あの一件が片づいたと判断された()()、私には入学が許されたの。

 実は片づいていなかったってことになったら――私は退学することになるかしら」


「――――」



 マルコシアスは覚えず、満面に笑みを浮かべた。



 ――これだ。

 これが見たかったのだ。


 レディ・ロッテの、おのれが突き進むべき道と、倫理によって導かれる結論――その双方を天秤に載せ、決して釣り合うはずのないその両腕を、何がなんでも釣り合わせてみせるという、激烈なまでの自我。

 傲岸なまでのこの()()()()


 折れないスイセン、砕けない硝子細工。


 もしも、それが折れ、砕けるとしたら――



「――そうかもね」


 マルコシアスはゆっくりと言った。


 シャーロットは上の空で、テーブルの木目の一点にじっと目を注いでいる。


「そうなったら、あんたはどうするの?」


 ――シャーロットが息を吸い込む。


「さあ、どうなるかしら」


 囁いた彼女の橄欖石色の瞳に、マルコシアスには馴染みのない、分かりようのない、かつてウィリアム・グレイが「慈悲」と称した気質がきらめいた。


「――それでも、出来る限りで私の人生を守ってみせるわ。

 それ以上に、もういちど疫病が起こってしまったときに犠牲になる人の命は、犠牲になる前に守ってみせるわよ」


 シャーロットは顔を上げた。


「自分の能力の限りを尽くしてね。その能力が私にないなら、そんな人生、もう望まないわ」


 マルコシアスはいかにも悪魔らしく微笑んだ。


「いいね。それでこそだ。

 ――まあ、どっちにしろ、僕は特等席での見物を希望するよ」


 シャーロットは首を傾げて、探るようにマルコシアスを見つめた。


「――一緒にいてくれるのね。ありがとう」





 シャーロットが食事を終えたのは、満腹になったからではなく、時刻を見てのことだった。

 七時半。


 絶食していた身体に、それほど急に食べ物を詰め込めるはずもない。ともかくも人心地がついた気分でカトラリーを置き、シャーロットはよろよろと立ち上がろうとした。



 音もなく席を立ち、影が動くよりも静かに、マルコシアスがシャーロットの正面に回り込み、彼女に手を伸べて立ち上がるのを助けた。


 しゃんとして立ち上がった主人の目を覗き込んで、マルコシアスが微笑む。


「――じゃ、あんたの運命を決めるお偉いさんたちのところへ行くわけだ?」


 シャーロットは唇を噛んだ。


「私の()()はよそから決められるかもしれないけれど、()()を選ぶのは私よ」


 マルコシアスはとびきり大きな、いたずらっぽい微笑を浮かべた。


 シャーロットの手を取ったまま、かれが首を傾げる。



「いいね。

 ――さあ、準備はいいかい、相棒?」



 シャーロットは空いている手で黒いスカートを撫でてしわを伸ばし、顎を上げた。



「出来てるわ、エム」



 マルコシアスがシャーロットの手を引く。


 そうしながらも彼女を向いたまま、かれは、てのひらの中にあるシャーロットの手を軽く押し戴くようにしてみせた。



「ではご命令を、レディ・ロッテ」



 シャーロットは息を吸い込み、目を閉じて、覚悟を決めた。


 瞼を上げて、つぶやく。



「――私の……()()()()()()()()()



 マルコシアスが苦笑した。



 その苦笑に滲んだ悪魔の感情を、シャーロットは一掬いほどしか窺い知ることが出来なかった。

 ――興味、観察、懸念。


 そしてその背後にある所以は、欠片ほども分からないものだった。



 かれの淡い黄金の瞳が、正面からシャーロットを見た。

 そしてかすかに細められる。



 かれは静かに応じて、会釈程度に頭を下げた。



「仰せのとおりに、ご主人様」


























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