20 狩りのあと
夜明けとともに、リクニス学院の状況は一変した。
人間にはそれと分かる者はいなかったが、悪魔からすれば一目瞭然――大いなる眼差しが学院中を見渡して、盛大な狩りの開始を告げる、人の耳には聞こえない角笛が吹き鳴らされたのだ。
召喚されていた悪魔はことごとく主人のそばで震えながら朝陽を迎え、狩りの獲物を探し回る貪欲な瞳から逃げようと小さくなっていた。
人間側の事情に言及しよう――
夜明け頃、リクニス学院の門をくぐり、正面玄関から勝手知ったる様子で中へと踏み込んだ者があった。
状況が状況であるだけに、部外者に敏感になっていた管理人がそれに気づき、不審者であれば叩き出してくれようという決意もあらわに、手近にあった箒を手にしてそちらに飛んでいった。
が、時ならぬ時の訪問者は鷹揚にそれを出迎え、管理人を一瞥し、天鵞絨の帽子を片手で脱いで、首を傾げた。
その物腰、そして身に着けているものが一級品であることを見て取って、管理人は箒を後ろへ放り出すこととなった。
気づけば彼は、自然と訪問者の帽子を受け取り、彼が悠々と繻子の外套を脱ぐのを見守り、その外套も押し戴くようにして受け取ることとなっていた。
「な――何か御用で」
ようやく、絞り出すようにそう尋ねた。
この訪問者がどこからやって来たものか、管理人にはまるで見当がつかなかった――なにしろ、まだ汽車が動いている時間でもない。
が、訪問者は管理人の問いかけを聞いていない様子で、絹のシャツの襟元を緩めながら、ぐるりと広間を見渡していた。
管理人はそのとき、ぱち、と、彼の周囲で白い火花が弾けるのを見た。
――精霊だ。
どこかの悪魔が、配下の精霊にこの訪問者を守らせているのだ。
そして同時に、ぼっ、と音を立てて、広間のガス灯が次々に点いていく。
唐突な明るさに目を細めつつ、管理人は茫然と口を開けて広間を見渡していた。
――小さなコマドリの姿をした魔精が、甲斐甲斐しくも次々にガス灯に明かりを灯していっているところだった。
間違いなく、この訪問者は魔術師だ。
管理人自身も魔術師であり、まさにそのとき、彼は自身が召喚している魔精デロックが、怯えた様子で自分の袖の下に飛び込んできたのを感じ取った。
疑問の余地なく、この男が引き連れている他の悪魔に怯えているのだ。
ただの魔術師ではない。
並外れた魔術師だ。
召喚している悪魔が桁外れに多いか、あるいは格が高いか――
息を呑む管理人に目を戻し、訪問者はもう一度首を傾げた。
ガス灯の明かりに、白に近いほどに色の薄い金髪がちらちらときらめく。
髪は後ろに撫でつけられ、秀でた額が露わになっていた。
管理人を無関心そうに眺める双眸は灰色。
すっ、と眉を寄せ、訪問者は低い声で尋ねた。
「――きみが、今の管理人か?」
管理人はあいまいに頷いた。
「はあ――はい。ここ五年ほどは拝命しておりますが――」
「なるほど、私が学生だったときには見た覚えのない顔だと思った」
訪問者は事も無げにそう言って、腰に手を当てて伸びをした。
そして、管理人に向けて微笑んだ。
「では、私の大事な秘蔵っ子を顎で使った埋め合わせをしてくれ。
――今の学院長はどなたかな。呼んで来てくれ。教授連の方々ともお会いしたい。
一時間後には応接室にいるよう伝えてくれ――応接室はヴェリ塔から移っていないだろうね? 良かった」
管理人の頭は、突如として茹る熱湯に放り込まれたあと、氷水に浸けられたような具合になった。
「は――?」
訪問者はもう管理人の方を見ていない。
周囲を見渡して、何かを小声でつぶやいている。
そのつぶやきを受けて、何かがひっきりなしに動いているのが感じられる。
しかしややあって、訪問者は管理人を振り返った。
不愉快そうに眉を寄せている。
「どうした。まだ動いていないわけを言え」
「いえっ――」
管理人は言葉に詰まった。
「いえ、学院長は……」
「ああ」
訪問者は面倒そうに言って、疲れた様子で肩を回した。
そして、あっさりと言った。
「私は、少しばかりお灸を据えなければならない者がいるようだからね――そちらの片をつけてから応接室に向かう。
学院長をはじめ、かたがたには、何もきみの名前で招集をかけてくれと言っているのではない」
小さく欠伸を漏らし、眉間を揉んでから、訪問者は言った。
「軍省付参考役のネイサンが、お会いしたいと言っていると伝えてくれ」
状況を説明されてある者は真っ赤になり、ある者は真っ青になり、ある者は居室にあるブランデーを隠すためにひた走った。
大急ぎで客用寝室が整えられ、その旨が一時間後、じゃっかんくたびれた様子で応接室に現れたネイサンに伝えられた。
ネイサンは「恩師かたがたに申し訳ない」と言いつつも、用意された客用寝室を見て眉を顰めた。
それを目撃した教授陣は何か失礼があったものかと震え上がり、互いに互いの粗を探し合っては責任の押しつけ合いを演じた。
そして、さらに追加で来客があることを知らされると、それぞれがわが身の不幸を嘆くような顔で、気付け薬代わりにブランデーやらウイスキーやらを体内に流し込み、睡眠不足の身体に鞭打って、彼らを迎え入れる準備に取り掛かった。
▷○◁
――だが、それらは、眠り込んでいたシャーロットの知るところではなかった。
彼女は夜が明けてしばらくしてから目を覚まし、アーノルドが去ってしまったことを思い出して悄然とし、そばにマルコシアスがいることに安堵した。
とはいえ、シャーロットも今回は希望をつなぐことが出来た――ネイサンが助けにやって来てくれれば、そのときにアーノルドのことを訴える機会がある。
アーノルドの雇い主が、今回の件のみならず二年前の一件にも噛んでいたとなれば、ネイサンもアーノルドの捜索に本腰を入れてくれるはずだ。
もちろん、二年前の一件をひっくり返して調査するとなれば、シャーロットにも探られれば痛い腹はあり、そこについては知恵を絞るよりほかないが、アーノルドの無事に代えられるものではない。
マルコシアスは、狩りの獲物が自分ではなかったことに胸を撫で下ろしながらも、なんでもない様子でシャーロットの目覚めを出迎えた。
そして、その後のリクニス学院を襲った驚愕の激震たるや、説明が追いつかないほどである。
おそらく、誇張を抜きにして、何度か学院が揺れたのではないかとシャーロットは思った。
もともと、魔神が大暴れしたせいで何箇所かが崩れて脆くなっていたこともある。
――第一の犠牲者は医務官だった。
彼は、シャーロットの両親にこの残念な事態を知らせる手紙をしたためるに当たって、自分が医学的知見から意見を述べることはやぶさかでないにせよ、最も気の滅入る本文を書いてもらうべきは学院長か副学院長か、そこに思い悩みながら医務室に入ってきた。
そして、ベッドの中で――永遠の眠りに入りたてほやほやであるはずの――シャーロット・ベイリーが目を開け、起き上がることは出来ない様子にせよ小さく手を振って、「おはようございます」と弱々しく言うのを目の当たりにした。
「――――」
硬直した医務官に向かって、シャーロットはさらに、「どうしても喉が渇いていたので、お水をもらってしまいました」と囁いた。
シャーロットのそばには悪魔が座っていて、医務官の方を無関心に、冴え冴えと輝く瞳で眺めている。
医務官は卒倒するか絶叫するか、真剣に思い悩んだ。
そして結果として、学院中を揺らすような声で絶叫しながらその場を退散した。
シャーロットはまくらの上で頭を動かし、眩しそうにマルコシアスを窺って、「大変なことになったかもしれない」とぼやいた。
かすれた声で尋ねる。
「私がビフロンスの悪魔の水をかぶったって、みんな知ってるの?」
マルコシアスは肩を竦める。
「たぶんね」
シャーロットがうめいたので、かれは面白そうな顔をした。
「だから、僕の領域にいれば良かったのに」
「それは私の人生計画にありません」
弱々しくも断言して、シャーロットは心に決めた様子で言った。
「実は、あれはただの水でしたって、そういうことにしましょう」
マルコシアスは呆れて息を吐いた。
普段よりも肺の大きさが五倍ほどになったような溜息だった。
「――上手くいくとは思えないけど、あんたがそう言うなら、付き合うよ」
医務室を脱兎の勢いで飛び出した医務官は、そこで教授の一人と鉢合わせた。
医務官がどもりながら、「昨夜、ビフロンスの加護の水に触れたはずの子の目が覚めて」と説明すると、教授は慈愛に満ちた目で医務官をなだめた。
「疲れているんだろう。少し休みなさい」
言外に、「私も疲れた」と訴えている声だったが、医務官はそれには気づかなかった。
彼は絞め殺されるような叫びを上げ、続いて、こちらも可愛い後輩が死んだも同然で、相当に落ち込んだオリヴァーが歩いてくるのを発見した。
オリヴァーは、夜明けとともに学院内の状況が一変したこともまだ知らず、寝不足の頭にはもやが掛かったような具合になっていた。
医務官は迷わずそちらに突進し、オリヴァーに縋りついた。
オリヴァーは当然ながら、ひどく狼狽した。
縋りついてくる医務官を支えながら、彼は目を白黒させる。
「ど――どうしました? ベイリーに何かあったんですか?」
「あったとも!」
医務官が絶叫し、詳しい説明を全て省略したために、オリヴァーはすっかり、ビフロンスの加護の効果もむなしく、シャーロットがその短命な生涯に幕を下ろしてしまったのだと勘違いした。
ここで第二の被害者が誕生したわけだが、それはストラスだった。
「ストラス!!」
激昂した主人に頭ごなしに呼びつけられ、しぶしぶながら姿を現したストラスは、相も変わらず偉丈夫の姿をとっている。
その格好で、ここぞとばかりに耳の穴に指を突っ込みながら、ストラスは片脚に体重をかけて、いかにもやる気が欠如しているさまを相手に伝えるようにしながら、辟易した声を出した。
かれも夜明け頃にはすっかり縮み上がり、ネズミの格好でオリヴァーのベッドの下にいたのだが、それを感じさせない見事なしらばっくれ具合である。
「なんだよ、うるせぇな」
「お前、――ベイリーを治せと言っただろう!」
「お前に言われたんじゃないけどな」
ストラスはそう反撃してから、一秒を置いて目をぱちくりさせる。
「え? あれ? あのお嬢さんに何かあったの?」
「このかたの動揺を見ろ!」
オリヴァーは怒髪天を衝く勢いで医務官を示し、医務官は医務官でそのときには、自分とオリヴァーのあいだで致命的な認識の齟齬が発生しているのに気づいていたが、悪魔が目の前にいるとあって気づかないふりをした。
「嘘だろ」
と、ストラスは自信がなさそうにつぶやいた。
「俺、ちゃんとしたと思うんだけどな……」
そういうわけで、これ以上の厄介事に巻き込まれるのはごめんという顔で足早に去っていった教授を除き(教授からすれば、来客の相手の方がはるかに重要だった)、オリヴァーとストラス、そして医務官が、勢いよく医務室に突撃することとなった。
オリヴァーからすれば気が気ではない。
そして、医務官が医務室の入口でつつましく足を止める一方、オリヴァーとストラスは、息せき切ってシャーロットのベッドのそばに突進した。
シャーロットは懸命に身を起こそうとしており、そばではマルコシアスが、声をかけたり手をひっぱったり背中を押したりして、それを手助けしていた。
シャーロットが自力で動いていることは明らかであり、オリヴァーどころかストラスも、目を疑う気持ちでその場に棒立ちになった。
医務官が入口の方でごほんと咳払いし、ごにょごにょとつぶやく。
「誤解があったようで……すまないね……」
ようやくのことでベッドの上で上半身を起こしたシャーロットは、そのまま後ろにばったり倒れそうになり、「ねえ、ちょっと」と、マルコシアスに向かってかすれた声で言っている。
「まくらをちょうだい。それを私の背中に当てておいて。お前、主人が頭を打って死んじゃったなんていう評判を背負いたいの? ――ありがとう」
そこで、シャーロットはオリヴァーとストラスに気づいた。
目を瞠ってかれらを見て、シャーロットが控えめに、おずおずと微笑む。
そこで咳き込んで、マルコシアスに合図した。
マルコシアスがきょとんとした顔をすると、「もう」とつぶやく。
「馬鹿な悪魔ね、お水がほしいと言ってるの」
「間抜けなレディだな、それならそうとちゃんと言いな」
そう言いながらも、マルコシアスは水差しを持ち上げて、それを慎重にシャーロットに渡し、とはいえ彼女が水差しを支えられるという確証が得られなかったのか、彼女が水を飲むところまで手を添えてやった。
シャーロットは水差しから唇を離し、息をついてから、愕然として凍りついたオリヴァーに、控えめに手を振ってみせた。
仕草は弱々しかったが、動いていることに疑いはない。
「――ええっと、……昨日から、いろいろとありがとうございます」
オリヴァーは目をこすり、口許を手で覆い、意味なくその場でぐるぐると回ったあと、普段より数段かん高い声を上げた。
「――マジで!?」
彼はベッドに歩み寄ったが、見舞客用の丸椅子には、マルコシアスがわがもの顔で座っていたために腰を下ろす場所がなかった。
シャーロットが咳払いすると、マルコシアスは無表情のまま立ち上がり、丸椅子を蹴ってオリヴァーの方へ押し遣ると、自分はベッドの端に腰かけて、シャーロットの背中を半ば支えるような格好を取った。
オリヴァーからすれば、わけが分からない状況に加え、魔術師と悪魔の距離としては、わけが分からないほどに近すぎた。
よろよろと丸椅子に座り込みつつ、彼は、ろくに眠れなかったがために血走った目で、シャーロットをまじまじと観察する。
「――ベイリー?」
シャーロットは頷いた。
まだ顔は青白く、痛みを堪えるように眉間にしわが寄っていたが、仕草ははっきりしていた。
「はい。――あの、」
オリヴァーは混乱しながら、立ったり座ったりを繰り返した。
「こりゃ大変だ。こんなこと、聞いたこともないぜ」
シャーロットはなんとかして、「あれはただの水だったのに」という主張を差し挟もうとしたが、タイミングを見つけられずにあわあわした。
「あの、」
「お前のご両親に学院長か誰かが手紙を書くところだったんだぞ――あ、いや、どのみち書くのか」
「ええっと、」
「こりゃ大変だ――ノーマにも知らせてこなきゃ。あの人、昨日は一睡も出来なかったはずだぞ。俺が寮に連れて帰るときも、泣いちゃって泣いちゃって――」
「それは、あの、ごめんなさい――」
「ストラス、疑って悪かったな」
ストラスの方はその謝罪は意にも介さず、ラズベリー色の目を見開いて、不躾なまでにしげしげとシャーロットを観察している。
シャーロットは、落ち着かずに立って座ってを繰り返すオリヴァーを相手に、疲労の滲む顔で必死に言葉を差し挟もうとしているが、上手くいっていない。
そしてストラスは、その視線をマルコシアスに移した。
マルコシアスが警戒するように顔を顰めた。
それをつぶさに見守りながら、ストラスが責めるようにシャーロットを指差す。
「――目が覚めてるじゃないか」
マルコシアスは肩を竦めた。
「そうみたいだね。ただの水だったのかな。良かった良かった」
ストラスが目を細める。
「おい、お前――まさかとは思うが、変なことしてねぇだろうな?」
「変なこと?」
マルコシアスが首許のストールを直し、冷笑した。
「なんだろう、想像もつかないな」
「とぼけるなよ」
ストラスが歯噛みした。
「お前、そこまで入れ込んではいねぇだろうな。おい、騒動のあいだ、お前はどこにいたんだよ?」
「ストラス」
マルコシアスは咎めるように呼んで、顎を上げた。
そのとき、シャーロットもオリヴァーから注意を外して、二人の魔神の様子に気がついた。
不安そうに自分を見るシャーロットには一瞥もくれず、マルコシアスはストラスを馬鹿にしたように見遣って、含みを持たせて言っていた。
「僕は〈マルコシアス〉だよ。滅多なことは言うな」
シャーロットは、小声でマルコシアスに囁きかけた。
「……お前、まずいことになるの?」
言外に、「人間を領域に連れていくのは、仲間から袋叩きに遭うほどのご法度なのか」と尋ねたわけだが、マルコシアスは鼻で笑った。
「そこでストラスがきゃんきゃん吠えてること? うるさいなら黙らせてあげようか、レディ?」
シャーロットはあいまいに顔を顰めたが、オリヴァーはそのとき、全く別のことを思いついた様子で、すっとんきょうな声を上げた。
「いや、お前、本当にベイリーだろうな?」
さすがのシャーロットも唖然とした。
「――はい?」
▷○◁
続く二時間、シャーロットは学友たち、先輩たち、医務官、教授たちに取り囲まれ、「あれはビフロンスの加護の水ではなかった」という主張をことごとくいなされながら、ありとあらゆる検査を受けた。
脈を図られ、瞳孔を観察され、指先から足先まで感触があるか訊かれ、記憶が確かかどうか、百以上の質問を雨霰と浴びせかけられる。
彼女は目を回しながらも、この未曾有の事態にあって、自分は間違いなくシャーロット・ベイリーであり、どこかの悪魔がシャーロットの身体に憑りついているわけではない、ということの証明に四苦八苦した。
前例がないこの事態において、全員が疑り深くなっていたのである。
シャーロットはあれよあれよという間に、七歳のころに父親の晴れ着にジャムをつけてしまった罪や、十歳のころにとっておきの手袋を失くしてしまい、それを咄嗟にカラスのせいにした罪、十二歳でやっかみ混じりのからかいを受けたときにどういった反撃をしたか、さらには入学してからも、彼女に故意にスープを掛けた先輩に対して五十シレルを請求したことなど、洗い浚い全てを吐かされることになっていた。
シャーロットは消え入りそうな気持になったが、マルコシアスは途中で笑い過ぎたために退席し、医務室の外で思う存分笑い声を響かせてから戻ってきた。
質問攻めにされるばかりで、シャーロットから「ジュニアは見つかったんですか」と尋ねられない。
もっとも、その質問に答えられる者は少なかった――事態が動いたのが夜明け頃だったということもあり、正確なところで事態の推移を追えている者はなかなかいなかったのだ。
そうこうしているうちにこの噂は学院中を回り、あらゆる場所で教授や学生たちに驚きの声を上げさせ、騒ぎになっていた。
昨夜をエデュクスベリーの町で過ごした学生たちも学院に戻りつつあり、この噂話に驚愕の声を添えていた。
一部が崩壊した本棟に加え、この前代未聞の噂話が投入され、リクニス学院は燃え盛る炉のような勢いで悲鳴と叫び声を生み出し、やたらと揺れる一日となった。
シャーロットの「あれはビフロンスの加護の水ではなかった」という主張は、受け容れた者と受け容れなかった者が半々だった。
受け容れた者からすれば、「それ以外に説明のしようがない」ということになる。受け容れなかった者が、「すぐにこの謎を解明するのは無理」と判断して、ようやくシャーロットは解放された。
そのときには彼女はふらふらになっていて、医務官がはたと思いついて食事を運んでこなければ、あやうく飢え死にするところだった。
シャーロットは、ベーコンと豆のスープを、世の中にこんなに美味しいものがあったのか、という気持ちで飲み干し、三回おかわりしたうえで完食し、そのまま一時間程度まどろんでいた。
目が覚めると、ようやく手助けがなくとも身体を起こしておけるようになっていた。
ちょうどそのとき、ノーマとキャロライン、ロベルタが、連れ立ってシャーロットの枕許を見舞いにやって来た。
オリヴァーもいたが、彼は誰がどう見てもノーマに付き添っていた。
起き上がっているシャーロットを見るなり、キャロラインが口許を覆って叫んだ。
「――もう会えないと思った!」
シャーロットは感激し、友人たちの手を取って無事を喜んだが、「どう見ても、一番やばかったのはあなた」と指摘され、苦笑することになった。
全員が寝不足を物語る充血した目をしていて、ロベルタであっても珍しいことに化粧をしておらず、蒼褪めた顔で黒髪をひっつめにしている。
「でも、いちばんよく寝たのは私じゃないかしら……」
そう指摘したシャーロットは、寝不足のうえに泣き腫らした痕跡のある顔をしたノーマに、「あれは眠っていたとはいわない」と棘のある声で言われて首を竦めた。
ロベルタは厳しい顔で眉を寄せ、胡乱そうにマルコシアスを見遣っている。
「ちょっと、ロッテ。だれよ、こいつ」
「ねえ、レディ。誰、こいつ」
マルコシアスが意趣返しとばかりに無礼な口調でそう言ったので、シャーロットは溜息を堪えた。
「エム、覚えろとは言わないから聞いて。――ロベルタ、キャリー、ノーマ、それからご存じ、オリヴァーさんよ。
こっちは私が召喚した魔神よ」
ロベルタは腑に落ちないという顔を見せつつも頷き、キャロラインが床に膝を突いてシャーロットの手を握り、気遣いをいっぱいに湛えた表情で言い出した。
「ねえ、ロッテ、何があったの? 大広間であんなことがあってから、あなたはいないし、あちこちが崩れてくるし、挙句にあなたが瓦礫の下から掘り出されるようなことになるなんて」
「ねえ、なんか、あなたがビフロンスの加護の水を飲んだあとに目が覚めたっていう、眉唾ものの話を聞いたんだけど、ほんとう?」
ロベルタが身を乗り出し、シャーロットの顔に答えが書かれているのではないかと思っているかのように、じろじろと彼女の顔を矯めつ眇めつした。
シャーロットはここぞとばかりに断言する。
「違うわ、ビフロンスの加護の水なんて、触ってもいないわ。あの場所が備品庫のそばだったから、勘違いされたのよ――」
「いや、実際、あの下はビフロンスの加護の水で池になってるぜ。教授たちが規制線を張ってた」
オリヴァーが口を挟んだ。
「お前もびしょ濡れになっていたし」
「そんなこともあります」
澄まして答え、シャーロットはようやく自分に回ってきた質問の番を逃さないよう、口早に尋ねた。
「そんなことより、ねえ、あれからジュニア――ショーンとフォルネウスはどうなったの?」
「まったく分からない」
オリヴァーが応じて、「きみは、何か聞いた?」と、数段優しい声でノーマに尋ねる。
ノーマは、シャーロットが生きて動いていることに相当安堵したのか、ぐすぐすと鼻をすすって、赤くなった鼻と口にハンカチを押し当てており、くぐもった声で答えた。
「ううん。――ただ、教授たちがすごく忙しそうに走り回っていたから、何か手を打ったのかも――」
「――レディ」
マルコシアスが囁いた。
シャーロットがそちらに顔を寄せようとし、勢い余って身体を傾けてしまい、ばったりと倒れそうになると、かれは溜息を吐いてシャーロットを支えた。
「――ごめん、ありがとう。――なに?」
主人の威厳もへったくれもない状態でシャーロットが尋ねると、マルコシアスは肩を竦め、小声で囁いた。
「ストラスに訊いてもいいと思うけど。
あんたにご執心のあの子供は知らないけれど、フォルネウスはたぶん、もうここにはいないよ」
シャーロットは瞬きした。
ノーマたちも怪訝そうな顔をする一方で、オリヴァーが周囲を見渡し、「ストラス?」と呼びかける。
とはいえ返答がなかったため、オリヴァーはじゃっかん気まずそうにしていた。
「……どうして分かるの?」
マルコシアスはあいまいな身振りをした。
「今朝かな――夜明けくらいに、狩りがあったから」
シャーロットはますますぽかんとする。
「狩り?」
「つまり、」
と、マルコシアスは説明に飽きてきたかのように、ぞんざいに言った。
「かなり位の高い魔神が、格下を探し回って追い立ててたんだよ。一昔前にはよくあったんだけどな。
今回はけっこう派手だった――二、三人で狩りをしてたのかもしれない。僕もちょっとひやっとしたから」
「――――」
シャーロットが無言で瞬きをすると、マルコシアスは親切に言い添えるようにして続けた。
「もしかしたらフォルネウスが獲物になってたのかもしれないだろ? 親愛なるフォルネウス――可哀想に。あいつの領域はぜひとも僕が見てやらなきゃ」
シャーロットはなおもまじまじとマルコシアスを見てから、出し抜けに尋ねた。
「どうしてそれをもっと早く言わないの?」
マルコシアスは瞬きした。
「興味があったの?」
シャーロットは、その元気があり、なおかつマルコシアスに何の借りもなければ、かれをまくらで叩いているところだった。
「当たり前でしょ!」
叫んだ拍子に声が嗄れ、彼女がげほげほと咳き込む。
見舞客が狼狽するなか、マルコシアスは呆れた様子で水差しを取り上げ、シャーロットに差し出した。
シャーロットはごくごくと水を飲み、はあ、と息を吐いてから、確信した。
――それほど高位の魔神を呼び出せるとすれば、間違いない。
シャーロットにも分かった。
ジュダス・ネイサンが手を打ったのだ。
――軍省付参考役である彼が、ここにいるに違いない。
▷○◁
間もなく医務官がやってきて、「真相はどうあれ、ミズ・ベイリーは疲れやすくなっているんだから」と、見舞客たちを追い払った。
彼は勇敢にもマルコシアスにも辞去を勧めたが、マルコシアスに馬鹿にしたように鼻で笑われ、すごすごと引き下がることとなった。
シャーロットは名残惜しげに彼らを見送ったが、内心ではそわそわと浮足立っていた。
――ネイサンがリクニス学院にいるならば、間違いなく彼女に会いに来るはずだ。
今回のことを話して、アーノルドを捜索することがいかに大切か――その雇い主を突き止めるという意味でも――を、分かってもらわなければならない。
一方、二年前の件を掘り返し、今回の件にも絡む同一の魔術師がいると主張することは、シャーロットにとってみれば痛手でもある――特に二年前の一件に関して、彼女には表沙汰にできない弱みが多い。
さらにいえば、学院を破壊した責任の何割がシャーロットのものであるのか、それを彼がどう判定するかも聞いておきたい。
期待と覚悟を決めるような心持ちが半々で、シャーロットはネイサンからの使いを待ち構えた。
――が、待てど暮らせどネイサンは現れず、シャーロットはじゃっかん騙された気分で、彼は魔神だけを先にここへ遣わしたのだろうか、と考え始めた。
「ねえ、エム。お前、ネイサンさまがここにいらっしゃるかどうか、見て来られる?」
とうとうマルコシアスに小声で尋ねてみると、マルコシアスは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「あんな狩りをするようなやつらがいるかもしれないのに? レディ、僕は自分がいちばんだよ」
そう言われて、シャーロットも引き下がった。
しばらく退屈に爪先を揺らしていたが、やがてマルコシアスに見守られたまま、またすこんと眠りに落ちた。
――シャーロットは知らないことだったが、さしものネイサンも夜明け前からの強行軍が堪え、じつをいえばその日の朝から昼までを眠って過ごした。
その睡眠を守るために集結した魔神の数々に、教授陣は恐れを成した。
その日の夕方に、ネイサンがあらかじめ告げてあった、追加の客が学院に到着した。
教授たちはいよいよ忙しく走り回ることとなったが、異常事態の匂いに敏感な学生たちはすっかり浮かれ騒いでおり、それを鎮めて、せめて客人の目に見える範囲だけでも格式ある学院の威風を守ることに、何よりも骨を折っていた。
ネイサンをはじめとする来客たちはシャーロット・ベイリーとの面会を求め、これが教授陣を激震に陥れた。
教授陣はまず、ビフロンスの加護の水うんぬんということで噂になっていたこともあり、ベイリーという名の女子学生が重傷を負って医務室にいることを知っていた――そして、教授側からすれば、学生が重傷を負った事実は、学院の名についた傷ともいえたのである。
教授たちもその行方は把握していなかったが、学生の一人がカルドン監獄への投獄間違いなしという罪を犯したばかりということもある。
彼らは注意深く、学院中を駆け巡った噂が、この来客たちの耳にも届いているものか、遠回しに確認した。
そして届いていないと悟るや、彼らの思考は時間稼ぎへと傾いた。
来客の身分が身分である――学生の身に事故が起きた事実が、ますます重く感じられたのである。
必死にごまかす教授陣と来客とのあいだの泥仕合が開始され、その隙を見た教授の一人の依頼を受け、医務官が一度シャーロットの様子を覗いたが、彼女がすっかり眠り込んでいるのを見て取ったことと、彼女のそばの魔神が冷ややかに彼を睨んだこと、その二つがあって、彼は速やかに退散した。
シャーロットはこんこんと眠ったまま夜中を迎え、夜半にぽっかりと目を覚ました。
そして、自分のベッドのそばに誰かがいることに気づいた――あまりにも見慣れた人であり、ここにいるはずがない人だったので、シャーロットは、きっとこれは夢だろうと判断した。
自分を覗き込むその人は、じゃっかんやつれているように見える。
彼がふと、シャーロットが目を開けたことに気づいたようだった――額を大きなてのひらで撫でられた。
シャーロットはそれだけでふわふわのクッションに包まれているように安堵して、またすぐに眠りに落ちた。




