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19 保証とリンゴと離去

 ――そこに悪魔が立っていた。


 足音ひとつなかった――いつの間にここに現れたのか、アーノルドには見当もつかない。



 十四歳程度の少年の姿。


 灰色の髪、伸びすぎた前髪の下の淡い黄金色の瞳。

 首許を隠すストール。黒ずくめの格好。


 ――シャーロットの悪魔だ。



 突然の悪魔の出現にアーノルドは総毛だったが、悪魔の方は悪魔の方で、少し驚いたようにアーノルドを眺めている。


「――――」


 見合うこと数秒。

 それから、悪魔がふと気づいた様子で言った。


「――ああ、思い出した。あんた、グラシャ=ラボラスのことを僕に伝えにきたやつだね。ええっと……」


 記憶を探るようにこめかみに指を当てて、首を傾げる。


「……――“アーニー”。アーニーだ。

 僕のレディがそう呼んでたね」


 アーノルドは応じず、その場に立ち尽くしている。


 悪魔は周囲を見渡した。

 かれの唇が皮肉っぽく歪むのが、夜陰の中にも見えた。


「ストラス――いないな。仕事が終わって引き揚げたかな」


 悪魔は軽やかな歩調で前に進み出て、アーノルドに並んだ。


 その場で、ベッドに横たわって微動だにしないシャーロットを、まさに器物を観察する目でまじまじと評価する。


 かれがもう一歩前に出て手を伸ばし、シャーロットの顔の前でひらひらと手を振った。

 仕草のひとつにも音が伴わない、影のような身振り。



 アーノルドはその異様さも忘れて、「なんとかなるの?」と尋ねそうになった。



 そのとき、悪魔がアーノルドを振り返った。


 かれの淡い黄金の双眸が、ほとんど人間に近い感情を湛えて瞬きするのを、アーノルドは間近に見た。



 悪魔が首を傾げる。

 何かを考えて、そして探るようにつぶやく。


「――あんた、この子に会うために待ってるの?」


「…………」


 逡巡したものの、嘘を吐いても何にもならないだろうと判断して、アーノルドは首肯した。


 悪魔はもう一度シャーロットを見下ろして、それから頷き、アーノルドに視線を戻した。



 かれが微笑んでいる。

 淡い金色の瞳が、光源によらず、きわめて小さな太陽のようにきらめいている。



 そして、悪魔は秘密を打ち明けるように囁いた。



「――もう少しここで待っているといい。だれが何と言おうと、大丈夫。

 かならずこの子は目を覚ますよ」



「――――!」


 アーノルドが目を見開く。



 彼が尋ね返そうとしたときには既に、悪魔の姿はそこにはなかった。



 ――先ほどまで悪魔が立っていた空間に、おだやかに空気が入り込んで小さな風になる、ささやかな音が耳を撫でた。





▷○◁





「やあ、ロッテ」


 戻ってきたマルコシアスは、ほがらかにそう言った。


 シャーロットは花畑の中であわてて立ち上がり、歓迎の意味を籠めてかれに手を振る。


「おかえりなさい! ()()様子はどうだった?」


 そう言いながらも、ここまで奇妙な台詞はもう金輪際吐くことはないだろうな、とシャーロットはぼんやりと思う。


 マルコシアスは肩を竦めて、手持ち無沙汰そうに足許から花を一輪摘んで、それをくるくるともてあそんだ。


「うん。ストラスはちゃんと仕事をした――もう大丈夫かな」


 その瞬間にシャーロットが発散した喜びに、マルコシアスは眩しげに目を細めた。


 くる、と手の中で花を回すと、それが滴るほどに赤いリンゴになった。


「じゃあ、もう帰れるのね!」


 嬉しげにシャーロットが叫び、マルコシアスは喉の奥でうなった。


「うーん、まあ、そうかも」


 シャーロットは不安そうに表情を曇らせた。


「……何か問題があった?」


「いや、別に」


 マルコシアスは応じて、リンゴを右手から左手、左手から右手に投げ渡す。


「むしろ、あんたは喜ぶんじゃないかな――お捜しの、ええっと、なんだ、そうそう、『アーニー』。あの子供が、今、あんたのそばにいるよ」


「――――!」


 シャーロットが目を見開き、


「アーニー!!」


 絶叫した。


「なんでまだリクニスにいるのよ!

 早く戻らないと、彼、酷い目に遭うかもしれないのよ!」


 衝動的にそう叫んだあとで、「違う!」とまた叫ぶ。

 マルコシアスは愉快そうに口許で笑った。


「違う!! このまま、ネイサンさんが助けに来てくれるまで、私のそばにいてくれればいいのよ! そうしたら何も問題はなくなるわ!」


「喜んでくれたみたいで良かった」


 マルコシアスは真面目に言った。


「じゃなきゃ、こっちの見込み違いだったってことになるからね」


 シャーロットは期待と懇願を籠めてマルコシアスをじっと見つめた。


「エム? じゃあ、もう戻れるの?」


「――かもね」


 マルコシアスはつぶやいて、リンゴを両手でキャッチした。



 風が吹いて、花の香りが舞い上がる。



 シャーロットは首を傾げた。


「エム?」


 マルコシアスは、両手でキャッチしたリンゴを、そのままシャーロットに差し出した。


「はい、これ、あげる。食べる?」


 いきおいでそのリンゴを受け取り、つやつやとした果実の表面にてのひらを添わせながら、シャーロットは面喰らって瞬きした。


「……エム? 私、ここでは飲んだり食べたりしちゃ、駄目なんじゃなかった?」


 マルコシアスは明るく笑った。

 いたずらが露見したときのように。


「残念、覚えてたか」


 シャーロットは困惑に眉を寄せる。


 ここへきて初めて、彼女は不安を覚えていた。


「……エム――?」


「ほら、僕らって気まぐれだから」


 言いながら、マルコシアスが指を振った。


 ぱっ、と、シャーロットの手の中のリンゴが無数の赤い花びらになってはらはらと舞い落ちる。

 シャーロットは瞬きして、てのひらに残った数枚の、天鵞絨のような手触りの大きな花びらを見下ろす。


「僕が飽きるまでは、あんたがここにいても楽しいんじゃないかと思ったんだよね」


 シャーロットは顔を上げ、強張った笑みを浮かべた。


「お前が、飽きるまで?」


「そりゃあね」


 マルコシアスは、意外なことを言われたように目を瞠った。


「飽きてからもそばに置いてどうするのさ。()()()()()()()()に価値があるのであって、好きじゃなくなればそこまでだ」


 シャーロットはぞっとした。

 かろうじて冗談めかせて、彼女は小声で言う。


「――ここまでいろいろしてくれたのに、冷たいこと言うのね」


「だって、()()あんたのことが好きだから」


 きょとんとした様子でマルコシアスは答えた。


「言ったろ? 僕はあんたが好きだけど、それは()()()()()()だ。僕にとっては、僕が見るあんたしかいないんだ。あんたが他人にどんな顔を見せているかは興味もない。僕がいてこそ、僕が好きなあんたがいるんだから。

 僕が好きなあんたがいなくなったら、それでおしまい」


 シャーロットは、てのひらに残っていた赤い花びらを落とした。


 ゆっくりと呼吸をする気持ちで、彼女はつぶやく。


「……本当に、これだから悪魔は」


 そうして、空になった両てのひらをマルコシアスに見せる。

 彼女は慎重に言った。


「エム、そんなに私を気に入ってくれて嬉しいし、ここはとても楽しいから、正直にいえば、おまえが飽きるまでとはいっても魅力的なお誘いよ。

 それに、お前は、」


 微笑んで、シャーロットは肩を竦めた。


「最初に私に、ものを食べたりしないように言ってくれたでしょう。ここはお前の領域なんだから、いくらでもやりようはあるのに、正面からリンゴを勧めてくれたり。――誠実でいてくれてありがとう。

 ここではお前は、『誠実な〈マルコシアス〉』じゃないのに」


 マルコシアスは、慮外のことを言われたかのように固まった。


「うん?」


「それでも、お誘いを受けるには二つばかり問題があって、」


 シャーロットは言葉を続けて、おずおずと微笑んだ。


 マルコシアスが今ここで機嫌を損ねれば、ここがかれの領域であることを思えば、唐突に足許の地面が真っ二つになることも有り得ると、考えないわけにはいかなかった。


 とはいえ、慎重さと媚びへつらうことは違う。

 慎重さと臆病さは似ているようにも見えるが、実はまったく違うものであると、彼女は学んできた。


「一つめ。私はあっちの交叉点(せかい)の人間なの。あっちで生まれて、あっちで生きることを決めているから、投げ出してこっちに来てしまうには残したものが大きいわ。

 私はあっちに属しているんだもの。

 お前だって、この領域を放り出してあっちの交叉点(せかい)に移り住んでくれなんて言われたら、困っちゃうでしょ?」


 マルコシアスは十四歳の少年そのものの膨れっ面を見せたが、反論はしなかった。


 シャーロットは苦笑して、続ける。


「二つめ。()()()()()()()()、でしょう? ――エム。

 お前が好きな私は、他人の好悪に自分の運命を任せたりしないわよ」


 ぷっ、と、頬に溜めていた空気を抜いて、マルコシアスが顔を顰めてにやっとする。


「――確かに、そうだ」


「ね?」


 ほっとしながら、シャーロットはマルコシアスの透き通った橙色の瞳を窺った。



「じゃあ、エム。

 私を元のところに帰してくれる?」



 マルコシアスは少しのあいだ頭上の空を見上げ、何かを考え込んでいた。


 シャーロットからすれば、その時間は永遠にも等しかった。



 それでもやがてかれは、首を振って肩を竦め、溜息をこぼしてから、苦笑してシャーロットの手を取った。


「――じゃあ、ロッテ。

 僕のお客さまから、僕のレディに戻る準備はいい?」


 シャーロットはにっこりと笑った。


「もちろん」


 マルコシアスの白に近い色合いの髪が風に揺れる。

 かれの透き通った橙色の双眸が間近でシャーロットを捉えている。


 かれが微笑み、口を開いて、



「よし。――いち、に、――」



 シャーロットはマルコシアスに手を引かれるまま、かれの瞳だけを見て一歩進み、しかしそこには地面はなく――



「――()()





 ――はっ、と、息を吸い込んだ、その感覚があった。


 最初に覚えたのは閉塞感――それも、()()()()()()()閉塞感だった。


 これまで果てしなく広い場所にいたというのに、唐突に石棺に閉じ込められでもしたかのような。


 そして次に、痛み。

 全身が激烈に痛んでいる。


 つい先ほどまでの、身体がなかった時間を懐かしくさえ思うほどの――。

 身体を持つということは、これほどの痛みに耐えることだったか?

 痛みのあまりに涙があふれそうになる。


 全身をずきずきと痛みが蝕み、そしてなお悪いことに、シャーロットには逃げる場所もない。

 歯を喰いしばって耐えるより他にない。


 そして、喉の渇き――喉が焼けるようだった。

 ざらついた砂が喉の中に張りついているかのようで、口の中では舌が膨れ上がっているようにさえ感じる。


 続いて、飢餓感。

 腹の中が空っぽで、胃壁が溶けるような切実な空腹感を訴えている。



 呼吸が荒らいだ。


 しかし数秒して、思っていたよりも状況は悪くないということに気づいた――身体が痛むのは、怪我をしているからだ。


 ストラスも、全ての傷を完璧に癒すことは出来ないらしい。

 命が危ない段階を脱させ、傷の治りを速めただけで――しかしそれでじゅうぶんだ。



 あえぐように呼吸を繰り返し、瞼をこじ開ける。


 今だけは瞼が二十ポンドもの重さになったかのようだった。



 目を開けてみたところによれば、時刻は夜明け前――夜明けの直前だった。


 室内は完璧な闇というわけではなく、じりじりと影が後退していっているかのような、そんな夜明けの気配の端を感じる。


 まだものの形がよく見えない――目が眩んでいる。


 身体を動かそうとしたが、指先も持ち上がらない。

 焦って呻きのような声が漏れる。



 そのとき、誰かが自分の上に屈み込んできたのを感じた。



「――シャーロット?」


 低い囁き声――アーノルドの声。


 シャーロットは懸命になって瞬きして、焦点を合わせようとした。

 そして、まだ暗い中に影の輪郭として立つ、アーノルドの姿をようやく視界の真ん中にすることが出来た。


(アーニー)


 呼びかけようとしたが、思うように喉が動かず、舌も働かない。



 アーノルドの表情は暗がりになっていて見えなかったが、ぎゅっと手を握られたのが分かった。

 切実なまでに強く。


 彼が握ったシャーロットの手を持ち上げた。

 自分の手の甲が彼の額に触れるのを、シャーロットは感じた。



 アーノルドは何も言わなかったが、大きく深呼吸したのが分かった。


 シャーロットがなおも名前を呼ぼうとすると、落ち着けというように遠慮がちに肩を叩かれる。

 シャーロットはアーノルドの手を握り返そうとして、まだ力が入らない自分の手指を呪った。


(アーニー)


 そのとき、アーノルドがふいに彼女から離れて、身を起こした。


 よく見えないが、窓の方を振り仰いだようだった。


 彼が大きく息を吐いて、シャーロットの手を離す。

 何かつぶやいたが、耳がまだよく聞こえない。


 シャーロットはアーノルドに追い縋ろうとするが、身体が動かない。



 アーノルドが彼女を見下ろしたようだった。


 シャーロットは懸命に目を開けていようとしたが、瞼がいよいよ重く目の上に被さろうとしていた。



(待って――行かないで――)



 声が出ない。


 そのうちに瞼が落ちて、視界は完全な闇になった。



 アーノルドが、もう一度シャーロットの手を握ったのを感じた。


 彼が最後に彼女の上に身を屈めて、シャーロットの髪をひとすじ掬い上げ、その髪に唇を落とした。



 そして、彼は行ってしまった。



 もう一度目を開けようとしているうちに、今度は別の骨ばった手が、シャーロットの頭をぽんぽんと撫でるのを感じた。


 これもあきらかに分かる――マルコシアスだ。


「――悪いね、レディ」


 かれが囁いた。


「あんたのアーニーをご所望の魔神が、どうにも僕には歯が立たなくてね」



 シャーロットは応じることも出来なかったが、理解した。



 ――あの白いオウムの姿をした魔神が、またもやアーノルドを連れていってしまったのだ。


























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