18 もう会えないなら
満足するまで辺りの散策をし尽くしても、頭上の蒼穹になんらの変化はなかった。
すっかり時間の感覚が狂ったシャーロットは、そばの悪魔に助けを求めることにした。
「――ねえ、私がここに連れて来てもらってから、もうどのくらい経ったの?」
マルコシアスは空を見上げて、シャーロットには見えない、何かのきざしをじっと注視する顔をした。
それから、かれは事も無げに言った。
「うーん、向こうは真夜中かな。まだ三時間かそこらってとこ」
シャーロットは身体を揺らした(つもりになった)。
「ストラスは、どのくらいで私を治せるものかしら」
「さあねぇ」
マルコシアスは恐ろしいほどのんびりとつぶやいた。
「正直に言うと、僕、あんまりあんたの状況は見なかったんだよね。ぐずぐずしてたら、あんたが人間の道に入っちゃいそうだったから」
「本当にありがとう」
シャーロットが殊勝につぶやくと、マルコシアスはかまわないというように手を振った。
シャーロットは控えめに咳払いした。
「ここ、夜にはならないの?」
マルコシアスはもったいぶって唇を曲げた。
「お望みとあらば」
かれがさっと手を振ると、たちまちのうちに頭上の太陽が天穹をぐるりと巡って島の裏側に沈んでいった。
シャーロットは目を見開く。
空は澄み切った青空から、紫みを帯びた夕暮れのものに転じ、島のふちが燃えるような赤と金色に輝いたあと、頭上は天鵞絨のような夜空に覆われた。
一拍をおいて、さあっと刷毛で掃いたかのように、その夜空一面に小さな星が何千何万ときらめく。
ややわざとらしく、ぽん、という音とともに、頭の真上に銀灰色に輝く大きな月が現れた。
月の表面は紗のようにざらつき、銀箔を振り掛けられたかのようにきらめいて見えている。
そして同時に、花畑に咲き誇る花々が、その咢に小さなランタンが灯されているかのように、柔らかな燐光を放ち始めた。
シャーロットは目を見開いて、息を呑む気持ちで周囲を見渡した。
――このあとの生涯を通じて、彼女がこれよりも美しい景色を見ることはなかった。
「――気に入ったようで何より」
マルコシアスは満足げに言って、シャーロットをうながしてその場に座らせた。
地面に座り込み、胸の下まで花にうもれたシャーロットは、感嘆そのものの口調でつぶやいた。
「――私に絵の才能があったら、戻ったあとにこの光景を描くんだけど」
「そのうち飽きるさ」
マルコシアスは軽い口調で応じた。
そのとき、夜空のはるか遠くで、真っ白な光が弾けた。
シャーロットが息を呑む。
光は遠くで弾けたはずなのに、鮮明にその様子が見えた。
長いたてがみを持つ巨大な蛇のようななにものかが、犬をさらに醜悪にしたようななにものかに後ろから噛みつかれ、激しくのたくっている。
かれがのたくるたびに燐光が弾けている。
シャーロットがぎょっとしたことに、一度目を向けてみれば、大蛇のたてがみの一本一本さえもがはっきりと見て取ることが出来た。
それでいて距離は遠いのだ。
「な――なにあれ」
思わず囁くように尋ねると、マルコシアスは無感動な目でそちらを見上げ、肩を竦めた。
「ああ、だれかが喧嘩してるね。どっちが勝つか賭ける? どこかの領域が空くな――今度見にいかなきゃ」
シャーロットは身ぶるいした。
――悪魔の道での生存競争は熾烈であり、ゆえに悪魔は人間と契約を結ぶに至った。
そうは分かっていても、実際に目にするのとはやはり違う。
さらにいえば、
「――遠いはずなのにすごくはっきり見えるんだけど、どうして?」
「そんなこともあるさ」
マルコシアスは事も無げに言った。
「今の僕の領域は、あんたのために色々といじってあげてるけど、そんなものなんだよ。
遠くにあるものが大きく見えて、近くにあるものが小さく見える日もある。日によっては、遠くに行けば行くほど時間が速くなったりもするんだけど」
シャーロットは目を回しそうになった。
「お前たちの常識は、研究しがいがありそうね」
「そう?」
マルコシアスはその場に寝転がり、後ろに身体を伸ばしながら、シャーロットに微笑みかけた。
「なんでも答えてあげるよ。なにか訊きたいことがあるの?」
シャーロットは、暗いわりには周囲がよく見えることに戸惑いながら、マルコシアスを振り返った。
「お前たちの常識を研究したいっていう人に、その権利は譲ってあげる」
マルコシアスは顔を顰めた。
「あんただから答えてやってもいいっていうのに。――別に他のことでもいいけどね。あんたの暇潰しに付き合ってあげるよ」
シャーロットはもぞもぞと動いて(むろん、それは錯覚に過ぎないわけだが)、マルコシアスに向き直った。
「本当? あのね、私、学芸員になりたいのよ。お前たちに、こっち側では史料が残っていないような昔のことが訊きたくて、魔術師になってリクニスに入学したのよ」
「そうだっけ?」
マルコシアスは首を傾げたあと、身を起こした。
その頭の上に、ほのかに輝く花びらが一枚、ついている。
それを見てシャーロットは笑い出したが、マルコシアスはどうして笑われているのか分からない様子できょとんとした。
そして、まあいいかと思ったのか、口を開く。
「そんなの、別に苦労して何人も呼ばなくたって、僕でいいのに」
「お前だって、どこでもなんでも見てきたわけじゃないでしょ」
マルコシアスはにやっとした。
「世界の果ての出来事までお望みか。欲張りだね、ロッテ」
「ねえ、最初はどんなだったの?」
シャーロットに尋ねられて、マルコシアスは首をひねった。
「最初?」
「私たち――というか、人間と、お前たちが最初に会ったとき」
マルコシアスは苦笑した。
「ああ――あのときね。別に、あんたが思っているほど劇的でもなかったし格好よくもなかったよ――」
少し考えて。
「――確か一人、たぶん相当偉いやつだったと思うけど、そいつがすっかりウァサゴにまいっちゃって――ああ、もちろん、当時はまだ〈ウァサゴ〉の〝真髄〟はかぶってなかったけどね――、大変だったな。他のやつが総出でそいつを止めていて、他の連中に向かって、『今のうちに早く進めろ』って合図しててさ。見ているこっちからしたら、用事があるもんだからいらいらした」
シャーロットは笑い出した。
「ウァサゴからしても、べつに悪気はなかったんだよ。バエルがすっかり怒っちゃって、ウァサゴをこっちに叩き返そうとしてて、ウァサゴがそれに言い訳しようとしたはいいんだけど、いきおい余って湖ひとつを干上がらせちゃってさ。それで人間の方も唖然としちゃって――こっちもこっちで騒然としてたな」
「思ってたよりばたばたしながら契約したのね」
笑いながら言うと、マルコシアスはじゃっかん真面目な顔をした。
「まあ――そうだね。というか、向こうもさっさとけりをつけたくて、わりと無茶苦茶な条件でも呑んじゃったのかもしれない」
シャーロットは息を吸い込んだ(つもりになった)。
「――そうだった。お前たちのせいで、私たちの夢見が悪くなったんじゃない!」
マルコシアスがわざとらしく舌打ちする。
「ちっ、思い出させたか」
「ああ、もう、お前に話して聞かせようと思って、とっておきの悪夢はいちいちメモを取ってるのよ! いろいろあって聞かせるのを忘れてたわ!」
「そんなの、あんたの今際の際でいいよ」
「悪魔に自分の悪夢の話をしながらの臨終なんて、いやだ……」
心の籠もったシャーロットの言葉に、マルコシアスは肩を震わせた。
シャーロットはその腕を掴んで揺らしてみる。
「ねえ、そんなことより、トンプソンについてはどのくらい覚えてる?」
マルコシアスは眉を寄せた。
「誰だっけ、それ?」
「もうっ、お前が仕えた詩人よ!」
なおも数秒悩んだあとで、マルコシアスは「ああ」とつぶやいた。
「あいつね。僕を護衛として呼んだから、人間のふりをしろってうるさかったな」
「彼、滅多にない偏食家だったって本当?」
「いや――いや、でも、食べられないものは全部、僕の皿に乗っけてきてたな。
そのうちに、特定のハーブだけ絶滅させる魔法を編み出せって命令してきて、あれにはどうしようかと思ったね」
シャーロットは目を丸くした。
「そんな人だったの?」
マルコシアスは少し考えた。
「まあ、ちょっと酔ってるときだったかもしれない」
「結局どうしたの?」
マルコシアスは淡々と答える。
「次の日に、あいつのお気に入りだった公園の花壇をぜんぶ枯れさせた。それで命令が撤回された」
目を見開き、それからシャーロットはゆるゆると首を振った。
「――お前、本当に悪魔ね」
「あ、それ、あいつにも言われたよ」
「でしょうね……」
時間が経とうと夜空にはなんの変化も訪れなかったが、ある一点の時間を待っていたように、マルコシアスが唐突に立ち上がった。
ほの明るい花びらが周囲にふわりと舞い上がって、シャーロットは瞬きしてかれを見上げる。
「エム?」
マルコシアスはあやすように微笑んだ。
「あんたの様子を見てくる」
シャーロットはあわてて立ち上がった。
ぱっ、と、燐光を放つ花びらが周囲に舞い落ちる。
「私はどうすればいいの? お前について行く――のは後でってことよね?
出来るだけ大人しくしておいた方がいいとか、何かある?」
マルコシアスは呆れたようだった。
溜息を吐いて、かれはぞんざいに答えた。
「別に、何もないよ。
ここでのんびりしておいで、ロッテ」
▷○◁
アーノルドは茫然としていた。
途中までは、何もかもが上手くいっていた――もちろん、彼の主人のため、という見地に立った場合において。
彼はアットイの助けを借りて、苦も無くショーン・オーリンソンの居室にもぐりこみ、居室を荒らす学生たちを後目に、彼の主人がショーンのために用意してやった報酬が詰まったトランクを引っ張り出した。
泥棒の常として、そうしているあいだもアーノルドは落ち着かなかったが、アットイの守護は完璧だった。
トランクの中身を、アーノルドは知らない――トランクはずっしりと重く、彼をはなはだ辟易させた。
この重い荷物を持って、エデュクスベリーを誰にも見咎められずに脱出することは出来ない、とアーノルドはアットイに向かって主張し、アットイはうんざりした様子を見せながらも、トランクをかれの首の後ろにしまいこんだ。
アーノルドは目を疑ったが、事実、そうなのだ――アットイが独特な身振りをすると、かれの首の後ろが、大きなトランクを呑み込んだのだ。
物理法則も何もないそのふるまいに、アーノルドはしばらく目をこすってしまった。
アットイはげっぷを漏らしてから、アーノルドを胡乱そうに見上げていた。
そして、いざ脱出――というときに、学院中が揺れるような衝撃があったのだ。
もう寄り道はし過ぎました、帰りましょう――とあわれっぽく泣くアットイを置いて、アーノルドがその爆心地を窺う野次馬に加わったのは、好奇心と心配が半々になっていたからだった。
経験上、シャーロットと会った直後に大騒動が起きると、大抵その中心になっているのはシャーロットだ。
議事堂の近くに塔が生えたこともあった。
あのときも真ん中にいたのはシャーロットだった。
そんなことを思い出し、嫌な予感に駆られながら、人混みを透かして様子を見て――
――今に至る。
瓦礫の中からシャーロットをひっぱり出したのはアーノルドだった。
近くにシャーロットの魔神もいたが、アーノルドに会ったことがあると気づいた様子はなかった。
偉丈夫の格好をした悪魔が、いかにも面倒そうにシャーロットの治療に当たっていたが、その悪魔の主人とおぼしき青年は、まったく安心した顔を見せなかった。
それどころか、半ば以上諦めている様子でもあった。
大き過ぎる落胆を必死に堪えているさまはいっそ痛々しく、アーノルドの目からみればシャーロットは息をしているというのに――この魔術師の青年の目にはいったい何が見えているのかと、アーノルドは空恐ろしくなった。
シャーロットは――アーノルドには分からない理由で――厳重に上着にくるまれたうえで医務室に運ばれたが、そのあとに青年はシャーロットのそばを離れて、医務官相手にひそひそと言葉を交わしていた。
ベイリーのご両親に連絡しないと。ケルウィックにいらっしゃると聞いたことがあるのですが。彼女にきょうだいがいたかご存知ですか。
――そのうちにその声が激しく震え始めたので、医務官は彼の肩を叩き、椅子を勧め、温かい紅茶を彼のために淹れようと立ち去った。
青年は椅子に崩れるように座り込んで、シャーロットが眠るベッドの方を、茫然とした様子で眺めた。
アーノルドは医務室の隅に立っていた。
見咎められる不安よりも、今だけは状況が分からないことへの恐怖が勝っていた。
シャーロットの傷は、確かにひどい――だが、最初に瓦礫の中から引っ張り出したときよりは、悪魔の尽力があって格段によくなっている。
血も止まった。
退屈そうな顔をした悪魔はなおもベッドの上に無遠慮に座り込んで、アーノルドには分かりようのない、魔法を使うための、見えない糸を縒って編んでいくような仕草を続けている。
――それなのに、どうして誰も明るい顔を欠片も見せない。
シャーロットが寝かされたベッドのそばに、彼女の友人なのだろうが、数人の女学生が立って、ちらちらと悪魔を気にしながらも、何かをしきりに話している。
意識のない病人や怪我人にするように、聞こえていないとは分かっていても本人を勇気づけるために声を掛ける――ああいった様子はなかった。
まだ若い学生たちが、アーノルドには分からない、「症例」だの「学説」だのといったことについて、懸命に議論をしている。
「ビフロンスの加護の水だったのは確かなの――」
「触って確かめるわけにもいかないけれど、備品庫だったらしいわ」
「ねえ、本当に回復した人はいないんだっけ――」
アットイが足許に滑り込んできて、「もう帰りましょう」と再三彼をうながしたが、どうしても立ち去ることが出来なかった。
アーノルドにとってシャーロットは、文字を教えてくれた人だった。
無垢な親切をもって、彼を無知ゆえの不幸から少しでも守ろうとしてくれた人だった。
そして何よりも、アーノルドにとって彼女は――まだ引き返せるところにいた時期の象徴めいて、ひとつの道標のように記憶に根を張っている人だった。
どうか無事であってくれ、と、ずっと祈ってきた。
それはもしかしたら、二年前のあの日、彼女の事情を利用して、なんとか元の生活に戻る手立てを探っていた、あの日から続いている悪あがきの延長なのかもしれない。
けれど――、彼女のあの明るさ、彼に頭をかかえさせたあの無鉄砲さ、迷うことなく突き進んでいくあのまっすぐさ――それらが無事であるうちは、あるいは無事であると思っていられるうちは、彼のこの真っ暗な道の上にも、遠くにぽつんと明かりが見えるような気がしていたのだ。
それが、今はどうだ。
アーノルドは真っ暗な道の上に立っている。
遠くにぽつんと灯っていたはずの明かりが、無造作に掻き消されようとしているのを感じている。
冷静に考えてみれば、シャーロットと接した時間は長くない――ただの知人以下の関係のはずだ。
それなのに、わけが分からないほど恐ろしい。
こんなはずではなかった、と、強く思った。
こんなはずではなかった。
こんな計画があるなら、アーノルドは夕暮れのあのときに、シャーロットにもっと強く警告していた。
絶対に警官の詰め所から出ないように言い含めることも出来た。
それなのに――
アットイが脚にまとわりつくようにして、彼の気を引こうとしている。
アーノルドは屈んでかれの首筋を撫でてやりながら、小声で囁いた。
「――さっきからみんなが言ってる、“ビフロンスの加護の水”って、なに?」
「知らないんですか?」
アットイはごく普通の声音で応じた。
誰もかれに気づいた様子を見せない。
唯一、シャーロットの治療を続ける悪魔だけが、ちらりとアットイとアーノルドを見たものの、自分には特段の関係のないことだと判断したのか、興味もない様子ですぐに目を逸らせている。
「ビフロンス――魔神の一人が、加護という名目で魔法を与えた水、まあ一種の魔法の品ですね」
「どういうものなんだ?」
アーノルドはなおも声をひそめて尋ねる。
シャーロットがぴくりとも動いていないことは、ここから見ていても分かる。
毒だろうか、と訝る彼に、しかしアットイは笑い含みに応じる。
「人間からすれば奇跡のしろものですよ。身体に掛けたり飲んだりすれば、普通なら――ええっと、なんて言うんでしたっけ――ああ、そうそう、“死ぬ”。死ぬような傷を受けても、なんと生きていられるんですから」
「アットイ」
アーノルドは声を荒らげそうになるのを堪えた。
「ちゃんと話してくれよ。
それでなんで、ここにいるみんながシャーロットの葬式みたいな顔をすることになるんだよ」
「それはですね、」
アットイはあっさりと言った。
「その水に肌を触れたものは、もう目を覚まさないからです」
「――――」
アーノルドは目を見開いて凍りついた。
だが、アットイはそれを感知しなかった。
かれは二本のしっぽでアーノルドを叩いて、急かすように言っていた。
「だから、ねえ、アーニー。ここでぐずぐずしていても何にもなりませんよ。
もう戻りましょうよ、アーニー」
アーノルドは震える両手で顔を覆った。
「……もう会えないなら、死んだのと同じだ――」
「そうですか?」
アットイは意味が分からない様子で、かれは氷の色合いと紫水晶の色合い、二つの色合いの双眸を瞬かせた。
「でも、彼女はそこにいますよ。顔なら見られます。まあ、目を開けたり喋ったりはしませんが」
アーノルドの息がわなないた。
「それは――それは、人間からすると、会うってことにはならないんだ」
「そうなんですか」
アットイは無関心につぶやくと、片目をつむって、氷の色合いの瞳でアーノルドを見上げた。
「それで、会えないのがどうして問題ですか?」
アーノルドは唇を噛んだ。
――炭鉱でジョンが死んだあと、ふと彼に話しかけようとして、もう彼はいないのだと実感したときに襲ってきた胸の痛みを思い出した。
あれは、もう二度と彼と話すことはなく、彼に何も与えることもなくなり、そして彼が与えてくれた全てのものが途絶したと、腑に落ちるよりも先に圧倒的な現実感で突きつけられたがゆえの、やり場のない寂しさだった。
世界がジョンを失った、そのことがどうしようもなく痛かったのだ。
そして今、世界はシャーロットを失おうとしている。
その現実が足許にひたひたと波のように寄せてきているからこそ、だからこそこんなに痛いのだ。
会えないのが問題なのは、すなわち、
「――その人といる時間が好きだからだ」
アットイはもう一度、二本のしっぽでアーノルドを叩いた。
「そうですか。それならこだわる必要はありません。私もあなたも、戻ったあとは主人の折檻が待っていますよ。
私はともかく、あなたがそれを生きてくぐり抜けられるかどうか、私には分かりませんからね」
アーノルドは顔を覆ったまま、低い声でつぶやいた。
「――先に戻ってて、アットイ」
「はい?」
アットイはすっとんきょうな声を出し、それが聞こえたのか、シャーロットの治療をしている悪魔が、うるさそうにこちらを見た。
だが、それ以外の誰も、アーノルドにもアットイにも気づいた様子はない。
アーノルドは絞り出すようにして囁いた。
「……もうしばらくここにいたいんだ」
たとえば、と思う。
それはアーノルドの、本能じみた楽観のなせるわざかもしれなかったが、それでも考えていた。
たとえば、シャーロットが、何か自分が助かるための手を打ったということはないだろうか。
アーノルドの知っているシャーロットは、つねにまっすぐに前を向いていた。
前を向き過ぎていて、邪魔になるものは道理であろうが引っ込めてしまうような、そんな元気に満ちていた。
口の減らないシャーロット、感情表現ゆたかなシャーロット、目的をこれと定めて突き進むシャーロット――そんな彼女しか知らないためか、どうしても、シャーロットが黙って自分に降ってくる運命を受け容れるとは思えなかった。
――アーノルドは真っ暗な道の上に立っている。
遠くにぽつんと明かりが見えている。
その明かりの強さを推し量る。
雨の中でも消えないものかどうか。
夜半を回った刻限、最後まで残っていたシャーロットの友人たちも、おのおの引き揚げていき、アーノルドはいつの間にか一人になっていた。
シャーロットの治療に当たっていた悪魔も、治療が一段落したのか、ひとつ頷くと伸びをして、その場からすうっと消えていってしまう。
アーノルドは、ゆっくりとシャーロットに歩み寄った。
窓から射し込む月光が、ちょうどシャーロットの顔のあたりを照らしていた。
その顔色は月光の青白さを差し引いて考えても蒼白で、どう贔屓目に見ても、二年と少し前のあの日、議事堂で元気に自分の目的を宣言していた少女と同一人物には見えない。
瓦礫から引っ張り出したときにはぐっしょりと濡れていた髪も、今はすっかり乾いて、蒼白になった顔を取り囲み、額にかぶさっている。
胸が規則正しく上下しており、それで息をしていることが分かって、アーノルドはわずかに安堵した。
シーツの外に投げ出された手指には、まだ砂塵とほこりが付着したままになっている。
ベッドのそばの椅子に浅く腰掛けた。
周囲は静まり返っている。
どこかで時計が秒を刻む音が、かすかに聞こえてくる。
かち、こち、こち。
そのどれかの音が合図になって、シャーロットがぱっと目を開けるのではないかと思ったが、シャーロットの瞼はぴくりとも動かなかった。
「シャーロット」
小声で呼んでみる。
恐る恐る、彼女の手指に触れてみる。
すっかり乾いた肌は温かいが、ぴくりとも反応を返さない。
アーノルドはすぐに手を離して、なおもまじまじと彼女を窺った。
「シャーロット」
期待外れを神さまと人に向かって言うのはナンセンスだ。
そう思ってはいても、今ここで返事をくれないシャーロットには、期待外れを大声で叫びたくなってくる。
神さまに対してもそうだ。
どうしてシャーロットをこんな風にしてしまったんですか? と、真剣に問い詰めたくなってくる。
しばらく眺めているうちに、ここにシャーロットはいないのではないかという、荒唐無稽な考えが浮かんできた。
シャーロットはここにいない。
ここにあるのは死体のようなものだけだ。
これが目を開けて、話して、笑って、怒って、主張するからこそ、そこにシャーロットが存在することになるのだ。
これはシャーロットではない。
そう思って、ふと目を上げた、そのとき背後に気配を感じて、アーノルドは飛び上がるようにして立ち上がり、飛びすさった。
――そこに悪魔が立っていた。




