17 ようこそわが家へ
真っ暗な中で暴走列車に乗せられたような衝撃。
ある一方向へ突き進んでいたかと思えば、別の方向へ強く引っ張られて、目を回しながら奈落の底へと落ちていくような、そんな感覚。
何も見えず、何も聞こえず、わけも分からずあちこちへと引っ張り回されるような、そんな混乱と混沌。
――暴力的なその時間が終わり、しばらくするときわめて静かでおだやかな時間が訪れた。
耳を潰されるような沈黙ではなく、真綿のような無音がある、温かい時間。
シャーロットはぼんやりと目を開けた。
あるいは、彼女に向かって視界が開けた。
というのも、シャーロットには、瞼を上げたという感覚がなかったのだ。
――最初に見えたのは青空だった。
雲ひとつない、澄み渡った蒼穹。
真昼の、鮮明な青い空。
それが果てしなく続いている。
目も見えず耳も聞こえず、混乱しながら暗闇の中を引きずり回されたことを思えば、この青空は沁み入るように優しかった。
安堵とおだやかさが堰を切ったようにあふれ出し、シャーロットの胸をいっぱいにする。
おだやかな風が吹く。
花と肥沃な土の匂いを運ぶその風が感じられ、シャーロットはほっとした。
風が吹いたにも関わらず、不思議なことに音はしない。
木々がそよぐ音も、花や草がなびく音もしない。
おだやかな、不変の、底のない静寂。
あるのはただそれだけ。
そして目の前に広がる蒼穹もまた、流れる雲もなく、ただずっとそこに広がっており――
(……うん?)
シャーロットは首を傾げようとして、自分の意思が霧散していくような奇妙な感覚を覚えながらも、怪訝に思って内心でつぶやいた。
(なんだかちょっと――空が広すぎるような気が……)
あらためてまじまじと見る。
柔らかな色合いで澄んだ青空――それが広がっている。
頭上のみならず、目の前にも――その下にも。
(……え?)
青空を足許に見るという、本来ならばありえないはずの現象に、シャーロットの思考が凍った。
(え? ――待って、ここはどこ? 私は確か……)
記憶を探る。
――轟音とともに崩れ落ちてくる石の天井。
咄嗟に唱えた〈退去の呪文〉。
数秒のあいだに手に取った硝子瓶。
それを目の前に落下してきた石材にぶつけて叩き割ったこと。
次々に石材が落下してきて、生きた心地もしなかったこと。
生き埋めになるにしてもせめて少しでも上へ行こうと、倒れてきた棚をかわしてその上によじ登り、頭から水をかぶったこと――
(待って――あれからどうなったの?)
混乱して、自分の身体を見下ろそうとする。
だが、視線は硬直したように正面に固定されていた。
まるで、ここにぽつんと置かれた彫像の中に入り込んでしまったかのように。
おだやかさは泡と消え去った。
シャーロットは恐慌をきたして叫び出しそうになり――
「――やあ、ロッテ」
耳慣れた声がして、そのときシャーロットは動けるようになった。
勢いよく振り返る。
そしてそこに、まばらな木立を背にして立つ彼女の悪魔の姿を見た。
シャーロットは覚えず歓呼の声を上げ、かれに向かって飛んでいき、勢いよく抱きつく。
地面を踏んだ感触がなかったが、それに拘泥もしていられなかった。
安堵と嬉しさが、間欠泉のように胸中に噴き出してきて、それが何よりも温かかったのだ。
「エム! エム!」
マルコシアスはシャーロットを抱き留めた。
彼女に応じるためというよりも、何かを点検するような仕草だったが、構わなかった。
マルコシアスがそこにいるということははっきりと感じ取れるところであり、それが何より喜ばしかったのだ。
ややあって、マルコシアスは礼儀正しくシャーロットから一歩離れた。
なにやら満足そうにしている。
「よし、元気そうだね。良かった」
シャーロットは首を傾げようとして、やはり自分の意思がどこかへ霧散していくような、奇妙な感覚を覚えた。
身体を見下ろそうとすると、また視線が動かなくなる。
「エム? なにか……」
「ああ、落ち着いて」
マルコシアスは事も無げに言った。
そのかれをまじまじと見つめて、シャーロットは違和感と不安を覚えて、ぎゅっと自分の心臓が縮まるような思いを味わった。
――見慣れたマルコシアスと、どこか違う。
おおまかな姿形は変わらないが、細部が異なる。
髪がいつもよりも明るい色合いに、白に近い色合いに見える。
あべこべに、瞳の色がいつもよりも深い。
いつもの、あの淡い黄金の色ではなくて、透き通った橙色に近い色になっている。
普段よりも身軽そうで――そして気づいた、かれの首に枷がかかっていないのだ。
だからか、今はお決まりのストールも身に着けていない。
「エム……?」
いっそう不安そうに囁くと、マルコシアスは微笑んだ。
安心させるような、あやすような笑み。
「落ち着いて。あんたは完璧に大丈夫だ」
「でも……」
なおもつぶやくと、マルコシアスは指を振ってみせた。
「大丈夫、身体が動かなくても気にすることはないよ。
なにしろあんた、今は身体もないんだし」
「――はっ?」
愕然として声を漏らす。
同時に、かくん、と視座の高さが下がった。
まるで、何かの支えを失ったかのように。
それを見て、マルコシアスが明るく笑った。
「そんなに動揺しなくても。覚えてないの?
あんた、ビフロンスの加護の水をかぶっちゃっただろう?」
シャーロットはなんとか、“体勢を立て直し”た。
自分が不安定に宙に浮かんでいるような、そんな心許なさを覚える。
今にもどこかに漂っていってしまいそうな。
「覚えてるわ。それで……」
「まったく、あんたさぁ」
マルコシアスが大仰に息を吐いた。
呆れたように両手を広げて、かれは嘆息した。
そんなかれに、燦々と陽の光が注いでいる。
その陽光の中に、真珠のような細かなきらめきが見えた気がして、シャーロットはぽかんとした。
「なんでよりによって、〈退去〉なんて唱えたの?」
シャーロットは意識を集中して、咄嗟にあの呪文を唱えた理由を思い出そうとした。
記憶が妙にあやふやになっている。
「……銀が……」
「そうだね、銀が降ってくるところだったからね。
――まあ、それについては、ありがとう」
マルコシアスが珍しくも礼を口に出したので、シャーロットは驚いた。
実際に、彼女がその場で飛び上がったかのように視界が動いた。
マルコシアスが苦笑する。
「にしても、なんでビフロンスの加護の水をかぶったのさ。覚えてるだろ?」
「それは……」
シャーロットはますます意識を集中する。
「……死んじゃうと思ったのよ。押し潰されて死んじゃうって」
「で?」
「ビフロンスの加護の水をかぶれば、もしかしたら生き延びられるかもって」
「それで?」
シャーロットの記憶も、徐々にあきらかになってきた。
もしかしたらそれを誘導するために、わざわざマルコシアスはこの質問をしたのかもしれない。
「そう――それで、ビフロンスの加護の水をかぶったら、たぶん私の……そう、〝真髄〟が、どこかに行っちゃうと思ったのよ。
でも、それは――」
マルコシアスが顔をしかめる。
だが、微妙にその顔が笑っている。
その表情に勇気をもらって、シャーロットは言葉を締めくくった。
「――お前がなんとかしてくれると思ったの」
「あんたは本当に狂ってる」
マルコシアスは容赦なく指摘したが、愉快そうだった。
「よりにもよって悪魔を信頼するとは。
――でも、まあ、このとおりだ」
また両手を広げたマルコシアスの仕草に促されて、シャーロットは周囲を見渡した。
――辺りは、まばらな木立だった。
あるいは、数十年に亘って手入れを忘れ去られた庭園の一画のようにも見える。
柔らかな下草が萌え、そこここに白や黄色の小さな花が咲きこぼれていた。
陽光を受けた花びらは、繻子のように上品につやめいている。
あちこちにほっそりとした若木が生えており、新緑の若葉が陽光を受け止めて、ありえないほど瑞々しくきらめいていた。
さらに奥に目を転ずれば、奥には樹齢を重ねた木々もあるようだった。
さらに、半ばから崩れたような、遺跡の壁にも見える石造りの建造物の残骸が、いくつか点在しているようだった。
それらの壁には蔦が絡みつき、シャーロットには種類の分からない花が咲いている。
振り返ってみれば、シャーロットはどうやら崖のふちに立っていたようだった。
背後数フィートのところで地面がぶつりと途切れている。
音はなかったはずなのに、いつの間にか吹き渡る風の音、そよぐ木々の枝の音、そしてどこかに川が流れているのか、せせらぎの音が聞こえ始めていた。
耳を澄ませてみたが、鳥の声はしない。
花の香りと肥沃な土の匂いがする。
シャーロットはうっとりと周囲を見渡しながらも、怪訝に思って声を出した。
「……ここ、どこ?」
「なんて失礼な」
マルコシアスが笑いながら言った。
「いいかい、無茶をしたあんたの〝真髄〟を、だれが追いかけてやったと思う? 僕だ。
あんたは知らないだろうけどね、身体を失った〝真髄〟は、自分の故郷にまっすぐ戻るものなんだ。だから、放っておいたら、あんたはだれもいない人間の道で、ひとり寂しく途方に暮れるところだった――あ、いや、失礼。これまでにビフロンスの加護の水をかぶっちゃった不幸な人間たちと一緒に、だね。
僕だって、人間の道への入り方なんて知らないからね、ちょっとばかりはひやっとしたよ。
――そういうわけで、大急ぎで僕があんたを追いかけて、捉まえて、ここまで連れて来てやったってわけ」
シャーロットはマルコシアスに視線を戻した。
マルコシアスは迷惑そうにしていたが、同時に誇らしげでもあった。
「あんたは、自分の相棒が自分と同じくらいには狂ってたことに、感謝した方がいいよ」
シャーロットは、しばらく無言で、彼女の魔神を見つめていた。
マルコシアスがそれに怪訝な顔をするころになってようやく、彼女は、自分が生きていること――一か八かの大博打を乗り越え、類稀なる幸運に恵まれて、まだなお目を覚ますことが出来る可能性を残していることを実感した。
感謝と安堵にはち切れそうになりながら、シャーロットは涙声でつぶやいた。
「狂っているかどうかはさておいて、――ありがとう」
心からそう言って、しかしながらシャーロットは繰り返して尋ねた。
安堵はあれど、現在地に見当がつかないことに変わりはない。
「――それで、あの、ここはどこかしら?」
マルコシアスは溜息を吐く。
「僕の領域。他にどこがあるの」
シャーロットは驚きのあまり、止める息があれば息を止めていたところだった。
今の彼女には、驚きを吸い込んだ身体が膨らんだように感じられた――身体があれば。
「――ここ、悪魔の道なの?」
「そりゃそうでしょ」
マルコシアスは事も無げに応じて、肩を竦めた。
それはシャーロットも見慣れたマルコシアスの仕草だった。
「身体もなしに存在していられるのは、あんたたちの交叉点に通じる道だけだ。
僕があんたを安全に連れて来られるのは、もちろん僕の領域にだけだった」
「まあ」
シャーロットは驚きを籠めてマルコシアスを眺め、得心を籠めてつぶやいた。
驚きのあまり、むしろ声音は冷静だった。
「どうりで。なんだかいつもと違うと思ったの。
――ということは、お前は今は、〈マルコシアス〉ではないのね?」
マルコシアスは瞬きし、それからふいににこりと笑った。
「――そうだね。ここでは僕は本来の僕だ。あんたはその名前も知っているわけだけれど、別にそっちで僕を呼ばなくてもいい」
そこで言葉を切り、マルコシアスは付け加えるように言った。
「――悪魔の道を訪れた人間は、僕が知る限りであんたが初めてだ」
シャーロットは有頂天になり、気分としては爪先立って踊り出すようなものになった。
どうやら彼女は、ふわふわとどこかに漂っていきそうになったらしい、マルコシアスが手を伸ばして、彼女の腕とおぼしき場所を掴んだ。
「すごい――すごいわ、本当にありがとう、エム。あちこち見て回っていい?」
「別にいいけど、僕の領域の中だけだよ」
マルコシアスは警戒するように言った。
「忘れてもらっちゃ困るけど、ここは別に平和な場所ってわけでもないんだから。あんたがいるあいだに、ここを狙って別のやつが襲ってくるかもしれないわけだし。
――それに、」
シャーロットががっかりすることを予期したような口調で、マルコシアスは続けた。
「あんたに見えているここの様子は、厳密にいうと、あるがままの形じゃないんだ。ここは、本来なら、あんたたちの交叉点と違って物質的なものは何一つない場所だから。だから急拵えするしかなくて――あんたに居心地よくなるようにはしたつもりだけど」
「まあ!」
シャーロットが歓声を上げたので、マルコシアスは驚いたようだった。
「なに?」
「じゃあ、私に見えるものぜんぶ、お前が私のために用意してくれたものなのね! ますますすごいわ――ありがとう!」
マルコシアスは当惑した様子だったが、少しの間を置いて、言った。
「……僕は基本的に、自分の領域に他人は入れないから。ストラスも、フォルネウスでも、僕の領域に招いたことはない。
――あんたは僕の初めてのお客さまだよ、ロッテ」
その言葉で、シャーロットが風に乗ってどこかへ飛んでいきそうになったがために、マルコシアスは溜息を吐いてシャーロットを強く捉まえることとなった。
かれがしばらくじっとシャーロットを眺めているうちに、ようやくシャーロットにも、自分の〝真髄〟の形をなぞったものというべき、しかし彼女からしてみればかりそめの身体にも等しい、自分の輪郭が分かるようになってきた。
そうするとずいぶんと具合は良くなった。
視線を意識した方へ向けることが出来るようになり、下草を踏みしめる自分の足も、意識すればそうと感じられるのだと、自分に言い聞かせることが出来るようになった。
意を決して自分を見下ろしてみれば、ともかくもそこには見慣れた自分の身体が――少なくとも、そう見えるものが――あり、シャーロットは深く安堵した。
「本当にすてき」
周囲を見渡しながらそう言って、しかし彼女ははっとして息を吸い込んだ。
「――ああ、駄目だわ、のんびりしていられないんだった。
エム、私を私の身体に戻せる? 戻せるって言ってちょうだい。早く戻らなきゃ――」
「だめ」
意外なことに、マルコシアスは厳しくそう言った。
シャーロットがそれに抗議しようとすると、その機先を制するようにして、かれは手厳しく続けた。
「駄目だよ、ロッテ。いま、ストラスにあんたの身体を治療させているけれど――」
「オリヴァーさんにお礼をしなきゃ」
「先に僕にね」
シャーロットは目を見開いた。
「お前が、私を治療するようにってストラスに言ってくれたの?」
マルコシアスは鼻を鳴らした。
「他にだれがいる」
シャーロットはその場で飛び上がり、感謝あまってマルコシアスに飛びつき、抱き締め、かれに頬擦りした。
「――本当にありがとう! どうして――どうしていいか分からないわ、本当にありがとう!
なんて言えばいいのか――」
マルコシアスは、辟易した様子で彼女を押しやり、うんざりとつぶやいた。
「はいはい。分かったから。いいから。
――とにかく、あんたはけっこうひどい怪我をしているんだ。
あんたの身体は、今は〝真髄〟を抱えていないからこそ生き延びてるような状況なんだよ。そんな身体にあんたがのこのこ戻ってごらん。ストラスの尽力むなしく、今度こそあんたは自分の人生におさらばすることになるよ」
シャーロットは口をつぐみ、しばらく考え、質問を変えた。
「……あの、ここまでしてもらっておいて、まだお前に頼らなきゃいけないのが申し訳ないんだけれど。――お前、私の身体が治りそうだったら、分かる? それとも私に分かるのかしら。今も、ぜんぜん怪我をした感覚とかはないのだけれど」
マルコシアスは溜息を吐いた。
「見にいってあげるよ」
シャーロットは泣きそうになったが、あいにくと今は涙腺もなかった。
「そのあとは、私を、元に戻せる?」
「連れて帰ってあげられる。大丈夫。
――だからしばらくのんびりしていいんだよ」
マルコシアスが言い聞かせるように告げ、シャーロットは押し寄せる安堵を噛み締めて、しばらくのあいだじっとその場に立っていた。
――では、シャーロットは、実際にあの大博打に勝ったのだ。
あの一瞬に出来たことは彼女の悪魔を信じることだけであり、そして彼女の悪魔はその信頼に応えようとしている。
シャーロットがかれに与えているものを思えば、不相応なほどの誠実さで。
家出を決意したあの日、召喚する悪魔にマルコシアスを選んだおのれの幸運を思い、シャーロットは震え声で囁いた。
「……エム、何から何まで、本当に――」
マルコシアスは興味深そうに彼女を見つめた。
「いやにあっさり僕を信用するね? 僕は悪魔だよ。なにか罠があるかとかは思わないの?」
「…………」
シャーロットは瞬きした。
「正直、ぜんぜん考えてなかったわ」
素直につぶやき、彼女は首を傾げるような仕草を意識してみる。
「じゃあ、いちおう訊いてみるけれど、エム。たとえば、そうね。長いあいだここにいたら戻れなくなるとか、ここで一日過ごしたらあっちでは十年過ぎていましたとか、そういうことになるのかしら?」
マルコシアスは噴き出して笑った。
「それでこそ魔術師の懐疑主義だ。――ならないよ。
べつに、あんたがしばらくここにいたいっていうなら止めはしないけどね。でも、安心して。時間の流れはここも向こうも変わりない。この道とあっちの交叉点は、時間の流れでつながっているようなものだから」
シャーロットは安心しきって笑みを浮かべた。
「だと思った。――本当にありがとう、エム。
どんなお礼をすればいいか分からないくらいだわ」
マルコシアスは肩を竦めた。
「あんたに何を頼むか、考えておくね」
「お願いね」
シャーロットは真顔で言って、それを受けて小さく笑うマルコシアスを見つめながら、言葉を作った。
「――ねえ、お前、あのときジュニアを見かけた? 呪文を唱えたのは彼の声だったでしょう――近くにいたと思うんだけど」
「ああ、もう、ロッテ」
マルコシアスが頭を抱えて、声を大きくした。
「ここでは、あっちであんたが抱えている問題について触れるのはやめてくれ。のんびりしようよ。――こっちでは僕が招待主だぜ。言うことを聞いてくれ」
シャーロットは咄嗟に反論しようとしたものの、その反論に中身がないことに気づき、息を抜いた――もちろん、比喩的な意味で。
「分かったわ。おたくにお邪魔したうえで、自分の問題をわめき立てるのは失礼だものね」
「分かってもらえて良かった」
愛想よくそう言って、マルコシアスは気安い仕草でシャーロットに手を伸べた。
「じゃ、あらためて――ようこそ、ロッテ。
お手をどうぞ。僕の領域を案内しよう」
▷○◁
シャーロットが卒倒しそうになったことに、ここはいくつかの島で――その島はすべて、空にぽっかりと浮かんでいた。
シャーロットがそれに気づいたのは、マルコシアスに連れられて島のふちを歩いていたときで、目を下に転じて、どうして青空が眼下に見えるのだろう、と考えていたときだった。
ここがむやみに高い山の頂なのかとも思ったが、それにしては眼下に崖の欠片も見えない。
首をひねっていたそのときに、見慣れない、奇妙な形のなにものかが、この島のはるか下を滑空していったのだ。
そのときになってようやく、あまりにもありえないがゆえに頭の中から排除していた、「この島は空に浮かんでいる」という事実に気づいたのだ。
「う――浮いてない? ここ、浮いてない?」
思わずマルコシアスの腕を握って問いかけると、マルコシアスはきょとんとしたうえで頷いた。
「え? うん。――あんたたちの国と違って、こっちには――本当は――重さってものもないからね。左右だけじゃなくて、上下にもどんどん領域が発展していくんだよ」
シャーロットは目を回しそうになったが、マルコシアスが平然としているのでわれに返った。
「さっきの、下を通っていったのはだれ?」
マルコシアスはその後ろ姿をちらりと見て、謎めいた微笑を浮かべた。
「親しい相手だよ。あいつにはこの下を通ることを許してやってるんだ。だけど、悪いね。あんたたちに教えられる名前じゃないんだ」
それで納得して、シャーロットは口をつぐんだ。
マルコシアスは花の咲き乱れる島のふちを、シャーロットを連れて歩いた。
島の、一段高い場所に昇るときには階段を踏んだが、シャーロットが内心でひたすらに感嘆したことに、その階段は、その一段一段が独立した、宙に浮かぶきわめて小さな島、あるいは地面の一欠片だった。
シャーロットが周囲に視線を巡らせ、声もなく感動しているうちに、マルコシアスは彼女を連れて、島の、いわば内陸の方へ入っていった。
道を敷くという考えはマルコシアスにはなかったのか、かれらはつねに下草を踏み分けて歩いていた。
茂みの中では白い大輪の花が咲き誇っており、まばらに立ち並ぶ若木には赤くつややかな大きな木の実が生っている。
シャーロットがしばらくその木の実を眺めていたためか、マルコシアスは咳払いして、「ある程度は自由にしてもらっていいけど」と言った。
「ここで何か飲んだり食べたりするのはお勧めしないよ。そんなことをしたら、あんたを無事に帰せるかどうか、僕にも自信がなくなるからね」
シャーロットはあわてて、いかにも美味しそうな木の実から目を逸らせた。
下草の中からぽつぽつと顔を覗かせる小さな花は、繻子のようにつややかな花びらを持っており、シャーロットが屈んで手を添えてみると、思いの外よい香りがした。
シャーロットは心ゆくまでその香りを吸い込んでから、面白そうに彼女を見遣るマルコシアスに、「蝶はいないのね」と声をかけた。
マルコシアスは肩を竦めて、ひらひらと手を振った。
「あんたが見たいなら」
直後、ひらひらと舞う小さな黄色い蝶が見えて、シャーロットは思わず声を上げて笑った。
二人はなおもぶらぶらと、今度は島の内陸側から、元来た方向へ戻るように進んだ。
そうするうちに茂みが濃くなり、半ば灌木を押し分けるように進む格好になる。
とはいえ、不思議なことに、近づくそばから灌木が身を譲るような具合で、小枝に身体が引っ掛かるようなことはなかった――むろん、今のシャーロットに身体はないのだが。
しばらくすると灌木は途切れ、岩場が現れた。
シャーロットは屈んでその岩に触れ、ほんものと遜色ないその手触りに感心しきりだった。
石はざらつき、硬く、陽光に温められている。
どうどうと流れ落ちる瀑布の音が聞こえてきた。
マルコシアスがひょいひょいと岩場の上を渡っていき、シャーロットもそれに続く。
身体がないのに転びそうになるとはどういうことだろう。
マルコシアスがシャーロットを振り返って、おかしそうに笑った。
「よろよろしてるね」
シャーロットは、マルコシアスが差し伸べた手にすがって、かれのそばに飛び移った。
「小さなころから勉強ばっかりしていると、こうなるわ」
「なるほど」
マルコシアスは面白そうに言った。
「なら、あんたの子供には小さなころからこういう場所で遊ばせてやってくれ」
シャーロットは肩を竦め、そのとき、岩場のあいだを滔々と流れていく、澄んだ水の流れに気がついた。
透き通った水の下で、岩場の下の砂利が洗われてはっきりと見えている。
砂利は奇妙なまでに宝石の欠片に似ていた。
水晶のように透き通っているものもあれば、緑柱石の色合いのもの、柘榴石の色合いのもの、さまざまだ。
マルコシアスに掴まったまま、屈んで岩場の下の砂利を観察する。
そして顔を上げて、マルコシアスを眩しげに見上げた。
「――こんな綺麗な場所は、あっちの交叉点にはなかなかないと思うわ」
「そう? そりゃ残念だね」
さらに岩場を進むと、水の流れは堂々たる瀑布となって、島の大きな段差を越えて流れ落ちていた。
白く泡立つ水流、きらめく水しぶき、そのしぶきが宙に架ける虹。
シャーロットが歓声を上げると、マルコシアスはしたり顔で頷いた。
「気に入ると思った」
マルコシアスは何気ない仕草でシャーロットを手招きして、無警戒に近寄った彼女を軽々と抱き上げた。
気分が完全に五歳程度のころのものに戻り、シャーロットははしゃいで笑い声を上げたが、間もなくそれは悲鳴になった。
というのも、マルコシアスが一切躊躇せず、前振りもなく、岩場の崖から真下へ飛び降りたからである。
悲鳴が響いたのはほんの数秒、まもなくして、ざぷん、という盛大な音としぶきを上げて、マルコシアスとシャーロットは滝つぼの中に落下していた。
水の中で目を見開くと、芸が細かいというべきか――滝つぼの中も、水草のたなびく完璧な光景が広がっている。
すぐに、透明な水面を突き破るようにして顔を出し、マルコシアスが笑い出した。
「ロッテ、水を飲まないように気をつけて――」
シャーロットも水面を叩いて笑い出した。
「馬鹿な悪魔ね!」
「間抜けなレディだな、飛び込む前に止めるべきだったね」
マルコシアスが軽々と岸辺に上がって、シャーロットをかかえ上げて滝つぼの中から救い出す。
地面の上に笑いながら崩れ落ち、シャーロットはくせのようなもので咳き込んだが、実際には水を飲んだということもなかった。
身体があればこうはいかなかっただろう――ここにあるのはあくまで、身体があるというシャーロット自身の錯覚なのだ。
マルコシアスがシャーロットを立たせて、その場でくるくると回らせる。
シャーロットは驚きの歓声を上げた。
したたる水が全て、薄紅色の花びらになって落ちていったからだった。
間もなくして、シャーロットの、「自分は濡れているに違いない」という感覚も消えていった。
水辺には青々とした葦が生えていた。
どれも、現実に見るよりも青々としすぎているし、なんなら宝石のようにきらめている。
シャーロットはそれを見渡して、これはマルコシアスがあちらの交叉点で見る色彩をそのままに写し取っているのか、それともかれの、シャーロットを歓迎しようという心意気のあらわれなのか、その二つの可能性を天秤にかけた。
葦の向こうには、腰が折れた老人のような形の木が生えており、いかにも木登りがしやすそうだった。
その枝に芽ぐむ葉は紅玉のような赤色で、ところどころに生っている身は、どうにもブドウのようだったが、それにしては色が青すぎた。
木の向こうはまた、下草と若木が点在する島の光景だ。
シャーロットが興味深げに周囲を見渡していると、マルコシアスは彼女の肩を叩いた。
「しばらくここで遊んでおいで」
シャーロットは驚いて、彼女の招待主を見つめた。
「どこかに行くの?」
マルコシアスはあいまいに肩を竦めてみせた。
「せっかく、休暇になって戻ってこられたわけだからね。僕の領域に何ごともなかったか見ておきたい。
精霊たちが守っていたはずだけれど、僕がいるときと違って、完璧ではなかっただろうし」
シャーロットは思わず、「一緒に行ったらだめ?」と言いかけたが、それを読んだらしきマルコシアスが、呆れたように言った。
「もちろん、あんたは待つんだ。境界のぎりぎりまで行くと、別の悪魔が平然と攻めてきていたりするし――あのね、こっちでの戦いは、あんたたちに命じられるものとは違って、本当に本気のものなんだ。僕だってあんたを庇ってはいられないんだから、ここで待っててね」
そう言われてしまうと、頷くほかない。
シャーロットは手を振って、彼女の招待主であり、今ばかりは庇護者であるところの悪魔の武運を祈った。
マルコシアスを待つあいだ、シャーロットは赤い葉をつける木に歩み寄り、その幹をよじ登れるかどうか挑戦してみた。
出来た――身体がない今、問題となるのはシャーロットの意思の固さなのかもしれない。
シャーロットは、地面から数フィートのところで折れ、地面と平行に伸びる格好になった幹に跨って、のんびりと空を見上げながらマルコシアスを待つことにした。
風が吹き、葉がそよぎ、青すぎるブドウの実が揺れる。
そのうちに、シャーロットは違和感を覚えた。
蒼穹は一点の曇りもなく、まったくその色合いを変化させない。
つまり、太陽が動いている気配がないのだ。
「あら」
内心で考えたつもりが声に出ていた。
「これだとどのくらい時間が経ったのか、正確なところが分からないわ」
そんなわけで、マルコシアスが戻ってきたときも、それがどのくらい時間が経ってのことなのかはシャーロットには分からなかった。
マルコシアスが木の下で手を振ったので、シャーロットも手を振り返し、それからなにためらうことなくかれ目がけて飛び降りた。
危なげなくシャーロットを受け止めながらも、マルコシアスは目を丸くした。
「あんた、ほんとに思い切ったことするね」
「思い切ったことをしない私なら、そもそもお前と出会ってないわ」
意気揚々とそう応じたシャーロットに、マルコシアスは愉快そうに笑った。
「確かに、それはそうだ」
かれがシャーロットを地面に下ろし、シャーロットは首を傾げた(つもりになった)。
「自領のご様子はいかが?」
「上々」
マルコシアスは鼻で笑って応じて、またシャーロットの手を引いて、今度は別方向へと彼女をいざない始めた。
「あんたにもらった報酬のおかげで、僕の評判はけっこう確固たるものになったんだよ。身の程知らずが二人、僕の境界を削ろうとしているだけだった。精霊だけでは手を焼いていたから、僕が蹴散らしてきた」
「役に立ってるようで良かったわ」
シャーロットはつぶやき、マルコシアスはそれからしばらく、前回の仕事を終えてからの武勇伝を彼女に話し聞かせた。
とはいえシャーロットの退屈を紛らわせてやろうというよりは、八割がたが自慢に終始していたが。
そうするうちに、先ほどとは反対側に位置する島の端に行き着く。
銛の先端のように尖った島の先に触れんばかりにして、別の島が浮かんでいた。
シャーロットは、錘形のように底部が細くなる隣島の形を遠目に見て、そしてその下の遠大な距離を思い、思わずマルコシアスに囁いた。
「この下には何があるの?」
マルコシアスは、どうしてそんなことを尋ねられるのだろうという顔をした。
「別のやつの領域」
「そのもっと下は?」
「また別のやつの領域だよ。なんで?」
シャーロットはあいまいな手振りをした。
「いえ……地面はないのかしらと思って」
マルコシアスは、よく出来た冗談を聞いたように笑った。
「あんたの足の下にあるじゃないか」
ひょい、と渡ったもう一つの島は、一つ目の島に比べても幻想的な仕立てになっていた。
島全体が煙水晶のような色合いの岩石に覆われており、そこに銀色の木立が林立している。
さらさらと流れる小川の底は、ことごとくが砂金に覆われていた。
「すごいわね」
シャーロットは心からつぶやいた。
「こういうのは全部、お前が考えて作ってくれたの?」
マルコシアスは少し考えて、いつもよりもやや真剣な口調で応じた。
「いや、少し違うかな。――僕らの目に見えるようには、あんたはここを見ることが出来ないからね。僕が丹精込めて育てて守ってきたここは、僕らの目で見てもとても綺麗だ。――趣味の悪いやつはそうは言わないけれどね。
だから、その綺麗さに見合うだけのものを、あんたの目に見えるようにするにはどうするか考えたんだよ」
マルコシアスはにやっと笑った。
「僕らがどうして領域を守ることに固執するか分かるだろ?
みんな、何より大事に育てた場所が領域なんだよ」
その島を横切った先にあった、さらに別の島は、高低差のある起伏に富んだ地形で、一面が花畑に覆われていた。
咲きこぼれる花々は、濃紫か瑠璃色、あるいは橙色のいずれかで、大輪のものもあればつつましく咲き誇っているものもあり、繻子のような花びらが陽光を浴びておだやかにつやめいている。
シャーロットが嗅いだことのない良い匂いが、島の上に漂って、風が目には見えない花籠を編んでいるかのようだった。
花々はシャーロットの膝丈の高さでそよいでいる。
声も出ない感嘆をもって周囲を見回しながら歩いていくシャーロットは、間もなくして冷えた洞穴を発見した。
高低差のある地形にあって、地面が隆起した場所がそのまま、黒々とした洞穴の入口になっている。
シャーロットはそこを覗き込み、中が満天の星を湛えた夜空のごとくにきらめいているのを見て取った。
振り返って、花畑の中でポケットに手を突っ込んで立っているマルコシアスを窺う。
「――で、この中に入ると恐ろしい目に遭ったりするの?」
マルコシアスは爆笑した。
「なるほど、それはとても悪魔的な考えだ。けど、残念ながらはずれ。
中に入ってごらん。山ほどの宝石を用意してるよ」




