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16 あの一瞬

 シャーロットの靴音が、石造りの本棟の中に木霊する。


 光点はしんぼう強くきらめいて、彼女を本棟の奥へ奥へと連れて行こうとしていた。


 シャーロットの後ろからは、じゅうぶんな距離を置いてマルコシアスが足を進めており、さらにその後ろには、願わくばオリヴァーがいるはずだ。



 シャーロットは魔精から借り受けた力で小さな明かりを点しているが、マルコシアスはそんな必要もなく視界を確保しているようだった。



 シャーロットは光点を追いかけて、本棟の窓がない区画へと到達していた。


 彼女は眉を寄せる。

 この区画にはよく来ていた――管理人から用を言いつかるときに、ここへ最後に足を運ぶことが多かった。


 使われなくなった教室が並ぶ廊下を歩く――廊下が分岐して、さらに奥へと続いていくのを後目に。

 この分岐した廊下の先の教室の一つで、シャーロットはマルコシアスを召喚したのだ。


 その廊下の果てに、広間にも見える大きさの、吹き抜けの天井も高い廊下が現れる。

 彫刻が施された柱が林立したその廊下は、建物の古さを物語るかのような重々しい雰囲気で、夜陰の中にあって遺跡のようにも目に映る。


 ちかっ、と光点が瞬く。

 地下へ入る階段にシャーロットを誘導しているのだ。


 シャーロットは足を止め、後ろからマルコシアスが近づいてくるに任せた。


 ややあってシャーロットに追い着いたマルコシアスは、「どうしたの」と訝しそうに尋ねる。


「何かあった?」


「地下に入れってことらしいのよ」


 シャーロットは囁き、マルコシアスの背後を見遣ったが、人間の視力では見て取れる範囲に限りがあった。


「ねえ、オリヴァーさんか――他の誰か、ついて来てくれてる?」


 マルコシアスは肩を竦めた。


「うん。何人か来てるよ。数えてあげようか?」


「ううん、そこまでは大丈夫。――来てくれてるならいいわ。

 ネイサンさんにも私の居場所は伝わるでしょう」


 シャーロットは息を吸い込み、もう一度距離を開けるようにマルコシアスに合図してから、ゆっくりと地下へと下る階段へと入っていった。



 三段あたりに踊り場が一つといった具合の、ゆるやかな階段を長々と降りていく。


 マルコシアスを召喚した日、ここを半泣きでよじ昇ったことを思い出し、シャーロットは覚えず苦笑した。


 ゆっくりと、必要以上に時間をかけて階段を降り切る。

 そこは広間になっていて、シャーロットの靴音が寂しく木霊した。


 彼女はしばらく足を止めて耳を澄ませたが、後続の足音は聞こえなかった。

 マルコシアスが足音もなく動くことは先刻承知だが、他の後続はどこへ行ったのだろう――もしかしたら、シャーロットが地下に入っていったのを見て、オリヴァーたちは地上階で待機することにしたのかもしれない。

 オリヴァーと――一緒にいるのは誰だろう。

 ノーマやロベルタだろうか。



 目の前で、フォルネウスの光点が苛立ったように強く明滅した。


 どうやらフォルネウスも、早くこの仕事とは縁を切りたいと考えているらしい。

 かれがうんざりしている様子を光点の明滅から感じ取って、シャーロットはわれ知らず微笑し、ふたたび足を進め始めた。



 まっすぐに続く地下通路をゆっくりと歩く。

 魔精がもたらす明かりが、ガス灯よりも明るく闇を払っていたが、それでも足許から九フィート先は見えなかった。

 光の中から闇を見るとき、闇はいっそう濃く見えるものだ。


 用心深く、必要以上に注意を払って廊下を進みながら、シャーロットはこの誘導の終着点を想像できずに首をひねった。

 だいいち、こうした場所をショーンが知っていただけでも驚きだ。



 地下通路が尽きて、目の前が開けて広間へ到着する。

 この広間からは、他にも複数の地下通路が伸びている。


 シャーロットは誘導に従って広間の真ん中まで足を進めてから立ち止まり、周囲をぐるりと見渡した。

 小声で呪文を唱えて、明かりの位置を高くしてみる。


 そうして広範囲を照らしてみても、彼女を待ち構えている影はなかった。


 フォルネウスの光点が、根気強く明滅してシャーロットを待った。

 シャーロットはもう一度広間を見渡してから、光点の指示に従って、別の地下通路に入っていく。



 シャーロットは鼻にしわを寄せた。


 ――この通路は知っている。マルコシアスを召喚したまさにその日にも通った通路だ。


(なんで、ジュニアがこんなところに……)


 訝しく思うものの、光点はせわしなく点滅して、シャーロットを先へ先へと急かしている。


 シャーロットはささやかな抵抗として、また足を止めた。


 いつもならこの廊下には蝋燭が灯されているのだが、非常時とあって今日はそれもない。

 完全な闇の中に、シャーロットが灯した魔精の明かりと、フォルネウスの光点だけが浮かんでいる。


 シャーロットが足を止めたためか、フォルネウスの光点の明滅のテンポが速くなった。

 シャーロットは息を吐く。


「だって、先に何が待ってるか、分かったものじゃないんだもの」


 だが、あまりにぐずぐずした結果、業を煮やしたフォルネウスに背骨を叩き折られるのも本意ではない。


 シャーロットはまた慎重に足を踏み出した。



 廊下を歩く――角を曲がる――階段を昇って半地下へ――



(ほんとに、あの日に用があった順路と同じ……)


 そう思い、実際に、魔精の明かりににぶくきらめく鉄の扉が見えたとき、光点は、「ここに入れ」と言わんばかりに、その鉄製のハンドルの周りをぐるぐると回ってみせた。


(備品庫……)


 どうしてここをショーンが最後の根城として選んだのか、それを訝しく思いながらもシャーロットは一歩踏み出し、――そのとき、後ろから伸びてきた手が彼女の肩を掴んだ。


「――――!」


 シャーロットは悲鳴を上げかけたが、肩を掴んだ手の感触にあまりにも覚えがあったがためにそれを堪えることが出来た。


 振り返る。


 そこに、あきらかに警戒した風情のマルコシアスが立って、シャーロットを後ろに引き戻そうとしていた。


「――エム?」


 低く尋ねると、マルコシアスはあからさまに嫌そうな目で鉄扉を眺めつつ、ひそひそと応じた。


「やめときなよ。嫌な感じがする……」


「嫌な感じ?」


 シャーロットは一歩下がった。


「どんな? ――あのオウムの魔神がいるの?」


「いや、そんな感じではないな」


 マルコシアスは言って、顔を顰めた。


「これは……銀かな。中に銀がある気配があるな。嫌な冷たさだ。毒だよ、僕らにとっては」


 シャーロットは瞬きした。


 銀は悪魔に毒であり、魔精はまず間違いなく逃げ出す。

 魔神であっても銀を嫌がるものは多く、マルコシアスほどの(くらい)の魔神ともなれば、少量であれば純銀であっても触れることは出来るが、大量の銀に晒されればそれが致命の一撃となるだろう。


 シャーロットはゆっくりと息を吸い込んだ。


「銀食器……」


「うん?」


 首を傾げるマルコシアスに、シャーロットはぼんやりと応じた。


「一昨日か――昨日かな。寮からも本棟からも、銀食器が盗まれたって騒ぎになったの。もしかしたら、全部まとめてここに運び込まれてたのかも」


 マルコシアスは鼻を鳴らした。そうとう不愉快そうだ。


「なるほどね。僕らに怯える臆病者なら採る手段かもしれないね」


「でも、それで分かった」


 シャーロットは鉄扉を指差す。


「中にフォルネウスはいないわ。あくまで精霊に私を誘導させただけ。お前が嫌がるほどの銀なら、フォルネウスにも毒でしょう」


 マルコシアスはますます不愉快そうにした。


「短時間なら我慢できないこともないよ。頭の上に降ってくるとかじゃなきゃ我慢できるさ」


「私がいつ来るかも分からないのに? 私がフォルネウスなら、そんな命令は断固として拒否するわ」


 マルコシアスはあいまいに唸ったが、しいて否定はしなかった。


 シャーロットは少しためらう。


「中にショーンがいるかしら……」


「いないなら、どうしてあんたをここまで呼ぶのさ」


 シャーロットは口を開き、しかしそれをつぐんだ。



 ――もしも万が一、ショーンが彼女の事情を知っていたならば。

 ならば、ショーンがここに彼女を誘い入れ、銀で魔神も封じた上で、監禁することも有り得るのではないか。


 ――だが、彼女がここにいることを知っている人間が他にもいる。

 シャーロットの戻りがあまりにも遅いとなれば、オリヴァーが捜しに来てくれるだろう。


 それにそもそも、シャーロットをここから連れ出して、誰かしらの根城に連れていくまでのあいだに、かならずネイサンがそれを阻んでくれるはずだ。



「そう……ね。そうね」


 シャーロットは息を吸い込み、意を決して鉄扉に歩み寄った。


 フォルネウスの光点が、すみやかにその場から消え失せる。


 シャーロットは鉄扉のハンドルに手をかけた。

 ハンドルはなめらかで、冷たく、鉄特有の臭いがある。


 ゆっくりとハンドルを回す。

 ――通常ならば施錠されているはずのそのハンドルが、しかしあっさりと回った。



 がこん、と重々しい音がして、鉄扉はきしみながら内側に向かって開いた。



 ――中は暗かった。

 シャーロットに従う魔精の明かりがその中を照らし出す。


 シャーロットは中に向かって身を乗り出した。

 マルコシアスは嫌そうに鼻をつまみ、シャーロットの後ろでむっつりと押し黙っている。



 備品庫は広く、一定の間隔をおいて、入口の扉に向かって垂直になるような格好で、天井まで届く高さの重厚な棚が並べられている。


 当然ながら見晴らしは悪く、中にショーンがいるかどうかの判別もつかない。


 シャーロットは一歩中に入った。

 明かりもそれにともなって部屋の中へと入り、棚の上段のほう――天井近くで、銀器が燦然と白い光を弾いたのが目の端に見えた。


 ――銀器の数はおびただしいものだった。

 広い備品庫に並ぶ棚の上段の、ほとんど全てに雑然と積み重ねられ、積み上げられているように見える。

 マルコシアスが嫌がるわけだ。



 シャーロットはわけもなく息を止め、もう一歩中に入った。



 棚の下段から中段にかけては、無色透明の液体が満たされた、ぶあつい硝子瓶が整然と並べられている。

 硝子瓶にはことごとく、警告の文言が刻まれた蝋の封印がほどこされている。


 あまりにも有名で危険な、悪魔の加護の品――



 もう一歩。

 マルコシアスも、不本意そうながらも後ろについて来ている。



 銀器に場所を譲ったらしく、床のあちこちに、骨董品のようにも見える備品が積み上げられていた。

 それらが、シャーロットに従う魔精の明かりを受けて、ぼんやりと闇の中に浮かび上がる。


 シャーロットは闇の中を透かすようにして目を細め、出来るだけ備品庫の中をはっきりと見渡そうとし――



 ――こつ、と靴音。



 シャーロットが息を呑む。


 彼女がさらに一歩備品庫に踏み込んだが、マルコシアスはその場に留まった。

 銀の臭気で鼻がまがりそうで、さらにいえば気分も悪くなっていたからだ。


 シャーロットが口を開いた。


 彼女の視線の先を、闇をものともしない瞳で見てやろうとしたが、マルコシアスはうめいてそれを断念した。

 銀のせいで目がくらんでいる。


「ジュニア……――ショーン?」


 シャーロットが呼びかける。


 また靴音。

 誰かが、シャーロットから遠ざかるように備品庫の奥へ向かうような。


 シャーロットがさらに備品庫の奥へ踏み込む。


 マルコシアスはそれを追いかけることを断念しながらも、その場からは動かなかった。

 頭の上から銀の冷気が降ってきて、かれは目がくらむと同時に耳鳴りすらも感じている。


「ショーン――」


 シャーロットがふたたび声を上げたそのとき、轟くような大声が響き渡った。



 シャーロットは打たれたように動きを止めた。


 まさにその瞬間だけは、完全に慮外の事態にあって、彼女の思考が停まったのが分かった。



 声は呪文だった。


 反響していて、どこから響いてきたのかもさだかではない――だがその意図は明白だった。



 悪魔であるマルコシアスにとってみれば、()()()()()()



「――まずい」



 すべてが緩慢に流れる。



 みしり、ときしむような音――石造りの天井にひびが入り、亀裂が広がり、大小様々な破片が落ちる。

 きしむような音は間を置かずに耳をつんざく轟音となり、そして崩れ落ちてくる備品庫の天井。


 その破壊はむろん、上階にまで届き――



 マルコシアスが意識したのは、この破壊の最初の一瞬だけだった。


 かれはほとんど何も考えず、備品庫の中で茫然と立ち尽くす主人に向かって手を伸ばし、そちらへ突進しようとした。


 彼女を抱えた上で脱出できるか、そこまでは考えていなかった――通常ならば何も案じることはないこの事態、しかしこの場には大量の銀がある。



 魔法の効果を打ち消してしまう、悪魔の最大の弱点である貴金属が。



 天井を落とす方はいいだろうが――銀に触れない魔法だから――、銀もろともに落下してくる天井を留める方はそうはいかない。


 精霊に、この破壊を止めるよう命じる――精霊ならば銀にも触れられる。

 言葉を介さない、その一瞬にも満たない命令ののちに、しかしマルコシアスは――その時間があれば――舌打ちしそうになった。


 フォルネウスの精霊がこの辺りを覆っている。

 これではマルコシアスの配下である精霊は動けない。



 シャーロットがその瞬間、こちらを見た気がした。


 破壊されて崩れてくる天井の石材のひとつが、魔精の明かりを遮って、その顔に影を投げ掛けていることさえはっきりと見て取れる。



 ――時が止まったかのようなその一瞬。



 彼女の橄欖石の瞳が見開かれ、その口が開き――



 ――目の前に火花が散った。



「――はっ?」


 だれか、とんでもなく力の強いものに襟首を掴まれ、その場から一瞬のうちに引きずり出されるような感覚。

 あるいは、胸を強く押されてその場を追い出されるような感覚。



 その場から投げ出されるように放り出され、マルコシアスは茫然とした。


 したたかに打ちつけた背中が痛いが、どこに背中を打ちつけたのかも分からない。

 おそらく自分はどこかに転がっているのだろうとも思うが、状況が分からない。


 滅多にないことだったが、事態に頭が追いつかない。


 ここは――どこだ。


 どうして空が見える。

 黒い天鵞絨のような夜空に、細かく砕かれた水晶のような星々が瞬くさまがはっきりと見えている――天井がないのだ。


 さらにいえば、意識してみれば身体の下が柔らかかった。

 これは石の床ではない。むしろ芝生のような――



 吸い込む息に粉塵が混じる。

 何が起こったのか理解できないが、理解できていることは一つだけ――


 ――シャーロットが、〈退去の呪文〉を唱えたのだ。


 主人の意図にそむく悪ふざけをする悪魔に対処するための呪文、一言唱えるだけで悪魔をその場から強制的に遠ざけることが出来る呪文。


「は……?」


 愕然としながら地面に手を突き、なんとか身を起こす。


 〈退去〉を喰らったあとはいつもそうなるように、胸のあたりに強く押されたような痛みがある。

 シャーロットに〈退去〉を唱えられたのは初めてだった。


(――待てよ、なんで?)


 目の前に粉塵が漂っている。

 銀のせいで目がおかしくなったのかと思い、強く瞬きする。


「――ロッテ?」


 つぶやいてみる。

 そばから返答はない。



 ――そのときになって、周囲が騒然としていることに気づいた。


 混乱しながらも立ち上がる。

 主人を捜して周囲に目を走らせるが、いない。


 周りには年若い人間たち――つまりは学生たちがいて、マルコシアスの百倍ほどは狼狽した様子で、「何が起こった」だの、「悪魔が吹っ飛んできたぞ」だのと怒鳴り合っている。



「ロッテ……?」


 いっそうの小声でつぶやきながら、マルコシアスはようやく事態の全容を把握した。



 ――目前にあるリクニス学院本棟の一部、つい数秒前までマルコシアスがいたそこが、見るも無残に崩落している。


 天井が崩れ落ちてきたと察知したマルコシアスは間違っていなかったわけだ――階上、つまりは地上階をも巻き込んで、半地下が潰れた形になって崩壊していた。


 もうもうたる粉塵が上がり、割れた石材があちこちに散らばっている。

 建物の二階あたりから壁がひしゃげ、傾き、まるで部分的に巨大なてのひらで叩き潰されたかのよう。


 眼前などはもう壁の原型もなく、あるのは割れた石材のブロックが、無秩序に積み重なっている光景だけだ。


 三階からは崩落を免れており、まるで宙に浮いたように均衡を保つその様子が、いっそ危機感を煽る。



 マルコシアスはさしずめ、〈退去〉の効果で崩落に巻き込まれることを免れ、さらには奇跡的に、崩壊した壁を突き抜けて、ここまで吹き飛んできたということか。


 あるいはかれの精霊が気を利かせて、かれを銀から遠ざけたのかもしれない。



「…………」


 マルコシアスは瞬きする。

 ――シャーロットがそばにいない。


 ならばどこにいるのか。


 どうして――



「ベイリー!」


 誰かが怒鳴り、崩落した場所に駆け寄っていった。


「中にまだいるんじゃないのか――」


「嘘でしょ、二階から崩れたのよ。地下にいたらとてもとても――」


「そこにいるの、シャーロットの悪魔じゃないの? あの子が無事じゃないなら――」


「とにかく掘り返せるか――」



 マルコシアスは大きく息を吸い込んだ。



 ――崩落した天井。

 大量の銀。


 ()()()()



 シャーロットは、大量の純銀が頭の上から降ってくればただでは済まないマルコシアスのために、〈退去〉を唱えてかれを逃がしたのだ。


 ためらいもせず迷いもせず、そしてパニックのあまりに呪文を間違えることすらせずに。



「――あの、間抜け……」


 思わずつぶやいた。


 自分がそばにいるからと油断した。

 これには反省しきりだ。

 言われなくともあらかじめ、彼女を精霊で覆って守っておくべきだったのだ。



 あわてて、その場で軽く手を振る。


 とたん、重い石材がいくつも宙を飛び、シャーロットが生き埋めになったはずの場所への障壁が薄くなる。


 これには歓声が上がったが、同時に切迫した囁き声が、いくつも周囲から聞こえ始めてきた。


 何人かがちらちらとマルコシアスを窺って、「あれはシャーロットの悪魔ではないのでは」と話し始めるに至って、マルコシアスにも事態の重要性が呑み込めてきた。



 ――そうだ、シャーロットには〈身代わりの契約〉はなかった。


 ――そして、この惨状。

 半地下にいたシャーロットは……



「うっそだろ……」


 つぶやく。


 かりそめの心臓が激しく打ったが、これがいかなる感情によるものなのか、それはマルコシアス本人にも分かりかねた。


(あんたは、()()。ここであっさりと死んで、何も残さずに去ってしまうのは、違う。

 僕があんたを好きなのは、あんたのその自我あってのことだから――()()


 さらに手を振って、精霊を動かす。

 邪魔になっていた石材が砕け、轟音が上がる。


(ああ、()()()()()()()()()()()()()()()()、あんたが死ぬのは、あんたが折れて砕けるさまを、僕が見てからじゃないのか)



 別の学生の一団が、こちらに向かって走ってきた。

 誰もが動揺している。


「何が起こった――」


「中にいたそっちの方がよく分かってるんじゃないの?」


「いや、いきなりすごい揺れがあったから、あわてて戻ったんだ。だいいち、そんなに近くにいたわけじゃない――」


 シャーロットが頼んだ尾行の一団は、どうやら地下まで彼女について来るものと、地上で待機するものと、二手に分かれていたらしい。


 だが、マルコシアスはそちらにあまり注意を払っていなかった。



 分かっているのは、()()()()()()()()()()()()ということだけだ。


 〈身代わりの契約〉はなくとも召喚主は召喚主、シャーロットが死ねば、即座にマルコシアスは悪魔の(せかい)に強制的に戻されているはずだ。


 つまり、どんな状況ではあれ、今もシャーロットは息をしている。



 ――あと何秒、それがもつかは分からないが。



 石材が次々に引き出され、芝生をえぐって放り出され、やがて瓦礫にぽっかりと穴が開いた。


 マルコシアスはためらった。

 内部から、粉々に砕けてなお元素としては変容していない、圧倒的な銀の毒気が感じられる。



 誰かが、ゆっくりと慎重に瓦礫の穴に近づき、中を覗き込んだ。


 足許が今にも崩落するのではないかというような、びくびくした慎重な足取りだ。

 ちらちらと頭上も気にしている。


「ベイリー?」


 怒鳴るように呼ぶ。


「ベイリー、どこだ?」


 そののんびりとしたやりように苛立ちを覚えて、マルコシアスは怒鳴った。


「早く運び出せ。僕はロッテの魔神だ――ロッテが無事だと分からないのか。

 あの子が窒息する前に、早く」


 瓦礫のそばの誰か、たぶん見たことのある顔だが名前は覚えていない彼が、戸惑ったようにマルコシアスを振り返った。


 マルコシアスはさらに声を荒らげた。


「中に銀がある。僕は入れない」


 愕然としてこの惨状を眺める人間は、徐々にその数を増している。


 この崩落の音は寮の方にまで聞こえただろう――何があったのかと、飛び起きて駆けつけてきた人間は多いというわけだ。



 その人垣の中から、まだ若い青年がするりと抜け出して、瓦礫に駆け寄った。


 先に瓦礫に近づいていた人間に合図して道を譲らせて、青年が瓦礫の中に身体を入れる。

 ややあって彼が何か言ったのか、それを聞いたもう一人が、マルコシアスを振り返って、大声を出した。


「精霊ならなんとかなるだろう――でかい瓦礫が引っ掛かって動かせないみたいだ。銀もあるから魔法じゃ無理だろうが、精霊の手を貸してくれ」


 マルコシアスが顎で合図して、精霊が動くのがかれの目には見えた。


 瓦礫が、耳をつんざくような音を立てながらさらに崩されていく。


 集まってきた人間たちが、あからさまに怯えた様子で浮足立っている。


 マルコシアスはその場に凝然と立っている。

 〈身代わりの契約〉がない以上は、かれにシャーロットの状態は分かりようがない。


 ややあって、叫び声がした。


「――馬鹿、駄目だ、触るな」


 くぐもった声――先に瓦礫にもぐった青年の声。

 それを受けて、もう一人が怒鳴っている。


「分からないのか――ここは備品庫だったんだ。それ、ビフロンスの加護の水だ。一滴にでも触れたら二度と目が覚めなくなるぞ。

 ――誰か!」


 その声の主が瓦礫からこちらを振り返って、集まっている学生たちを見渡す。


「上着か何か貸してくれ! 素手じゃ触れない!」


 今度は若い女が、上着を脱ぎながら瓦礫に駆け寄って、上着をその手に渡した。


 その上着がさらに瓦礫の中にいる青年に渡されて、ややあってようやく――シャーロットらしき()()が地上に運び出されてきた。


 上着にくるまれて、まるで荷物のように見える。



 数人の女が、抑えた悲鳴を上げた。



 マルコシアスは戸惑ってそのかたまりを眺めた。


 シャーロットらしさは微塵も感じられない。

 うんともすんとも声を上げず、かれを呼ばわることもない。



 最初に瓦礫に入った青年は、粉塵で見事に汚れていた。

 金茶色の髪がほこりをかぶって灰色っぽくなっている。


 彼が周囲から一斉に制止されながらも、シャーロットらしきそのかたまりの上に身を屈めて頬を寄せ、何かを確認した。

 そして、ごく静かに宣言した。


「――息はしてる」


「だろうな」


 と、最初に瓦礫に近寄った青年が言下に肯定する。

 彼の顔が強張って、痙攣するように動いていた。


「この馬鹿、頭からビフロンスの加護の水をかぶったんだ――そりゃ生きてるだろうさ、目が覚めないだけで――」


 とにかく医務室へ、と言いながら、その青年がシャーロットのそばに膝を突く。


 それでようやくマルコシアスも思い出した。

 あれはストラスの今の主人だ。



 同時に、マルコシアスは思い出したように足を踏み出し、かれの今の主人の方へ歩み寄った。


 シャーロットを挟むように膝を突いている二人の青年が、胡乱そうにかれを見上げる。

 どちらにも見覚えがあった。


 とはいえ、それにいちいち拘泥する気分でもなく、マルコシアスは無言でまじまじと、上着にくるまれたシャーロットらしきそのかたまりを見下ろした。



 上着がほどけて顔が見えている。

 人間の目では光源もなく仔細を見て取ることは出来ないだろうが、悪魔の目にははっきりと見える。


 ――つい数分前とは打って変わった青白い顔。

 固く閉ざされた瞼。


 唯一血の気があるとすれば、それは額からあふれて顔半分を覆おうとしている真っ赤な血液だが、逆にいえば血液がそうしてあふれているがゆえに、顔面からは血の気が失せているのだともいえる。


 変な方向に曲がった脚。

 彼女をくるんだ上着にも染み出した、どこからあふれたのかも分からない血。


 趣味が悪いほどに赤い。

 まったく好みではない色だ、とマルコシアスは判断した。


 そしてシャーロットは、全身がぐっしょりと濡れそぼっていた。

 芝生の上に広がった金色の髪は、濡れたうえに粉塵に晒され、ものの見事に灰色に染まり切っている。



「――――」


 マルコシアスは瞬きした。


 恐ろしいほど馴染みのない感情に、激しい眩暈を覚えた。



 歩いてきた道が唐突に途絶したかのような、めくっていた本のページが何の前触れもなく尽きたかのような、心許なさ――落ち着きのなさ。

 あるいは、居心地の悪さ。


 ()()()()()()()()()()()()と主張するべきだという、根拠のない憤り。



 一歩下がって、マルコシアスは眩暈が収まるまで一拍待った。


 だが眩暈が収まらないので、やむなくそのまま声を出す。


「――()()()()


 すっ、と、前触れもなく、隣に筋骨隆々の偉丈夫が立った。


 刈り上げられた薄紅色の髪、険しいラズベリー色の瞳。

 かれはあからさまに迷惑そうにマルコシアスを見遣る。


「なんだ。――っていうかお前、あのお嬢さんと契約してるんじゃないのか。なんでお前が無事なんだよ」


 マルコシアスはそれには答えず、シャーロットを指差した。もの静かに言う。


「治してやって」


 ストラスはいっそう面倒そうに顔を顰めた。


「お前さぁ、俺の主人がなんて言ったか聞こえてたか? ビフロンスのやろうの加護の水だぜ。もうどうやっても目を覚まさないものを、なんで治してやる必要がある?

 確かに脚が折れちゃあいるが、別にあのままでも棺には押し込めるさ。結果は変わらねぇぜ」


 マルコシアスはぎゅっと目をつむった。


 眩暈がひどかった。

 銀に近づきすぎたのかもしれない、とぼんやりと思う。


 だがそれにしては、胸はむかつくのではなく痛んでいる。

 何かがおかしい。



 ――棺に押し込む。

 シャーロットを。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 彼女らしさの欠片もなくなり、もはや何の声も上げず、何の主張もしないものを。


 そして彼女が残した人生はといえば、彼女が望んだものの半ばでへし折られたものだけになる。



 ゆっくりと息を吸い込んで、マルコシアスはストラスの方は見ないままに繰り返した。


「早く。治してやって」


 ストラスは舌打ちしたものの、ここでマルコシアスと一戦交えてまで、おのれの意見を押し通すつもりはなかったらしい。


 あからさまにうんざりした様子ながらも、かれはゆっくりとシャーロットに歩み寄った。


 かれに気づいた彼の主人が、喜ばしいような戸惑ったような、複雑な顔をする。

 もう一人の金茶色の髪の青年は、落ち着いて見えるものの恐慌に陥ってはいるらしい――シャーロットの顔をしきりに窺い、歩み寄ってきた魔神に向かって、「なんとか出来るの?」と繰り返し尋ねている。


 ストラスはうるさげに手を振って、青年を黙らせた。



 ストラスであっても、素手でシャーロットに触れないよう気を配っていた。


 ビフロンスの加護の水はまだ乾き切っていない。

 この水に与えられた魔神ビフロンスの加護は、人や悪魔の〝真髄〟を身体から引き離す効果を持つ。


 そして、〝真髄〟だけでこの交叉点(せかい)に留まることが許されているのは精霊だけだ。


 ストラスであっても、触れれば即座に悪魔の(せかい)に逆戻りしてしまい、再度、魔術師から呼び出されるのを待たなければならなくなる――



「――――」


 マルコシアスは息を止め、そして次いで、その息を引いた。



 ――シャーロットはビフロンスの加護の水の効果について、正確に理解している。

 〝真髄〟について知っている、ただ一人の魔術師なのだから当然に。


 あの嵐の海辺で、マルコシアス自身がたとえとしてビフロンスの加護の水について話したのだから――


 ――『あれね、実際のところは、あんたたちの〝真髄〟を、身体の外に逃がすものなんだよ。あんたたちの身体は、〝真髄〟を抱えているときよりも、抱えていないときの方が頑丈らしい』。


 つまりシャーロットは、ビフロンスの加護の水をかぶったとき、自身にどういった事態が起きるのか、それを正確に理解していたはずだ。


 そして――先ほど、ストラスの主人は何と言っていた?

 “この馬鹿、頭からビフロンスの加護の水をかぶったんだ”。



 あの場には大量にビフロンスの加護の水が保管されていた。


 天井が崩落した瞬間、もちろんそれら全てが割れた瓶からあふれたことだろう。

 恐らくあの瓦礫の下は、貴重な魔法の品の池になっているはずだ。



 だが、どうやらシャーロットはそれを待たず、ビフロンスの加護の水を頭からかぶったらしい。



 ――なぜなら、それで生き延びる可能性が大きくなることを知っていたから。


 ――そして、身体という()()()から解放されるみずからの〝真髄〟については……



「……あんたは本当に狂ってる」


 マルコシアスはつぶやいた。


「けど、いい知らせだ。

 ――僕もけっこう、狂ってる」



 周囲は騒然としている。


 ストラスが屈み込み、シャーロットを治療してやっている。

 誰かが医務官を呼びに走った。

 すすり泣く声があちこちから聞こえてくる。

 危なっかしい瓦礫の上で、無事を保った三階以上の階もまた、危険なきしみを上げる。



 それら全てを見渡して、暗い夜空を悪魔の瞳で一瞥してから、マルコシアスはおのれの胸に手を当てて、軽く頭を下げた。



「――()()()()()()()、レディ・ロッテ」



 夜風が芝生を吹き渡る。


 そしてマルコシアスの身体は、すでにその風を遮るものではなくなっていた。



 ――かれの姿がその場で薄れる。


 だれにも気づかれないうちに、魔神マルコシアスはすみやかにかりそめの身体を脱ぎ捨て、その場から飛び立っていた。



























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― 新着の感想 ―
[良い点] シャーロットの咄嗟の判断力が流石すぎてすごいですね! まんまとマルコシアスを出し抜いて…。 [一言] ビフロンスの加護の水のこととか「この交叉点におけるものとしては最後の」っていう言い回し…
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