14 何があったのか聞こう
ショーンの部屋が見つかるかどうか、シャーロットはかなり気を揉んだが、この懸念は斜め上の方向に裏切られた。
ショーンの部屋はそれと分かった。
一目で。
「ああ――」
うめいたのは隣のオリヴァーである。
シャーロットはショックのあまり目を見開いていた。
「やられたな」
ショーンの部屋は既に荒らされていた。
その可能性を考えなかったシャーロットは、思わず自分の頭を叩いていた。
――あそこまでの暴挙に出たショーンである。
部屋にひそんでいるものかどうか、確認したくなるのが人間というものだろう。
たとえば夜中に害虫を発見したとして、それが目の前にいる場合とどこかに姿をくらませてしまった場合、どちらがより眠れなくなるか。
間違いなく後者だ。
つまり、いるならば早く見つけてしまいたいと、おもにショーンのルーム・メイトという、今日のこの学院では最も不幸な立場に置かれてしまった人物が考え、友人知人を動員して、そのささやかな安全確認を敢行したことに、なんら異議を申し立てる権利は誰にもないのだ。
そしてその結果、中にショーンはいないことが確認され、そして今日の彼の行いが腹に据えかねた学生たちが、その私物を荒らしたとして、そこになんらの不思議もない。
ショーンと、彼のルーム・メイトの部屋の扉は開け放たれ、廊下にはショーンのものと思しき空のトランクが、蓋が開けられた状態で放り出されている。
トランクから室内に向かって、ベッドから引きはがされたらしきシーツが伸びており、こわごわと中を覗き込むと、室内の惨状はそれ以上。
衣装箪笥から背広や外套、絹のシャツが雪崩を起こし、ハンカチというハンカチが床に撒き散らされ、身の回りの品ことごとくが宙を舞ったあとに着地したような有様の中に、破れた羽毛布団からふわふわと舞い出した白い羽根が点々と落ちている。
そしてそんな中にあって、唯一丁重に扱われているのが本だというのが、どうにもここは学院なのだと思わせる。
中を一瞥して、シャーロットは悪態をついた。
オリヴァーがぎょっとしたように彼女を見遣る。
「ベイリー、そんなに汚い言葉を吐くのは珍しいな」
「だって」
シャーロットは歯を喰いしばる。
「あの人がここに来たのかどうか、これじゃあもう分からないわ」
そう言いながらも、シャーロットは中に足を踏み入れ、もう一度しみじみと周囲を見渡した。
オリヴァーは戸口にもたれ、手持ち無沙汰そうにしている。
シャーロットはとりあえずも、部屋の中の荒らされた部分――つまるところ、そちらがショーンが使っていた場所なのだろう――を一通り見て回り、そしてついでに、じゃっかんの罪悪感は覚えつつも、彼のルーム・メイトが使っているのだろう側も覗き込んだ。
そちらは整頓されたままになっており、同じ室内にあって落差は歴然だった。
ただ、羽毛布団から舞い出した羽は、ルーム・メイトの机の上にも軟着陸して、ささやかな空気の動きにふわふわとたなびいている。
「――――」
眉を寄せて、唇を噛む。
――グラシャ=ラボラスやフォルネウスが、報酬として認めそうなものは何一つとしてない。
一歩遅かったのだ、アーノルドは自分よりも早くここに来て、ここを荒らし回っていた学生たちにも見つからずに、すみやかに目的のものを運び出したのだ、と、シャーロットは半ば認めた。
だが、ショーンが報酬の品をここではなく、別の場所に保管していた可能性も否定はできない。
もちろんその可能性は低い――私室以外の場所は、全ての学生と教授、そしてここで勤める人々の目に入る危険を秘めているからだ。
もう一度、オリヴァーがいらいらと床を踵で叩く音を聞いて首を竦めながらも、丁寧に室内を見て回る。
通り掛かったほろ酔いの学生が、「なにしてる?」とオリヴァーに警戒ぎみに尋ね、オリヴァーがそれを上手くはぐらかしてくれているのを聞き、シャーロットはやはり彼にコーヒーの一杯でも奢らねばと決意するが、今はそれを考えている場合でもなかった。
注意深く、アーノルドが彼女に残した何かの痕跡でもないものかと室内を点検する。
アーノルドは何も残していないのか、それともそもそもここに来ていないのか、あるいはシャーロットの注意深さが足りないのか、何も見つからない。
あるのは荒らされた部屋だけだ。
雪崩を起こした背広を持ち上げてひっくり返してみても、本棚から本を下ろしてみても、何も見つからない。
床に膝を突き、手を突いて、ベッドの下を覗き込む。
――何もない。
が、何かを引きずったような跡が、白い傷になって床に走っていた。
トランクか何かを、力任せに引っ張ればこんな跡もつくかもしれない。
「…………」
シャーロットは唇を引き結ぶ。
仮にショーンが用意していた報酬の品をトランクに詰めてこの下に保管していたとすると、それを隠蔽すべくアーノルドが引き出したときに、この痕がついたのかもしれない――だが確証は得られない。
シャーロットは渋面を作った。
この部屋を荒らしていた学生たちに総当たりで心当たりを尋ねれば、一人くらいはアーノルドを見たことを思い出すだろうか。
――いや、その可能性は低い。
魔精が彼と一緒にいたなら、人間の目からアーノルドを隠すことは容易かっただろう。
顔を上げ、手を払い、立ち上がって膝を払う。
オリヴァーは戸枠にもたれて、そろそろ忍耐も尽きそうな顔をしていた。
「もういいか?」
シャーロットは唇を噛む。
――もう大人しく助けを待った方がいいのかもしれない、と思った。
ここでシャーロットが下手に動き続けて、アーノルドが現在の彼の雇い主から虐待を受ける危険の方が大きいのではないかと――
「……はい、もう――」
――そのとき、軋むような音とともに床が揺れ、かん高い破裂音が轟いた。
シャーロットは意識するより先に、恐怖というよりも驚きの悲鳴を上げていた。
オリヴァーも驚いた様子でつんのめり、「うわっ」と口走っている。
何が起こったのかと、シャーロットは数秒のあいだ茫然としてしまったが、すぐに夜風が頬に当たって気づいた――窓が割れている。
しかも、外側から叩き割られたように大きな硝子の破片が室内に散らばっている。
そしてそれは、この部屋だけのことではなかった。
あちこちから悲鳴が聞こえる。
この建物だけではなく、離れたところからも聞こえる、立て続けに窓が割れていく衝撃音。
昼間のことがぶり返したのか、泣き叫ぶような声が上がるまでに時間はかからなかった。
「今度はなんだよ!」
廊下から怒鳴り声が聞こえる。
あわただしく走り回る足音が錯綜し、男子寮はにわかに騒然とした。
シャーロットは思わずオリヴァーの方へ飛んでいき、彼の腕を掴んで揺さぶった。
「オリヴァーさん、ストラスは!」
「いや、駄目だ」
オリヴァーがすばやく言って、シャーロットをおざなりに押し遣る。
「そもそも俺とあいつの契約に、こういう荒事は入ってないんだ。昼間はマルコシアスが脅したからストラスも嫌々ながらやってくれただけだ。
――お前こそ、マルコシアスはどこだ?」
「――――」
シャーロットは息を吸い込んだ。
ショーンとフォルネウスが学院のどこかに身をひそめていたとしても、かれらが学院内にいる人間全員を脅かすことはないだろうと彼女は考えていた。
当然だった――ショーンの目的は大量殺戮ではなく、あくまで個人的なシャーロットへの怨恨に基づくものだったのだから。
さらにいえば、ショーンはある種の正義感に則って行動している風だった。
大量殺戮は、誰がどう見ても正義の行いではなく、ショーンとしても、シャーロット一人のために学友を大勢殺した言い訳を立てることは出来まいと考えたがゆえに。
――だが、それゆえに、もしもこれがフォルネウスの仕業であるならば、目的はあきらか。
「……ああ、もう、私のばか」
シャーロットはつぶやいた。
そのつぶやきを拾って、「まさかお役ご免でマルコシアスを解放したのか?」とオリヴァーがすっとんきょうな声を上げたが、それには首を振っておく。
――今、フォルネウスからはシャーロットは見えないはずだ。
彼女にはマルコシアスがつけた精霊の守護があり、〈同格〉の縛りゆえにフォルネウスはシャーロットを見つけられない。
だからこそこれは、「お前の方から出て来い」という、業を煮やしたかれからの脅しに外ならない。
(いや、でも……)
――脅しにしては遅すぎる。
採るつもりがあるならば、もっと早くに踏み切っていていいはずの手段――
(もしかして、はったりかな)
ショーンの方も、学友――と、いっていいのであれば――を傷つけることは本意ではないはずだ。
だからこそ、本音では微塵もそのつもりがないにも関わらず、はったりでシャーロットをフォルネウスの目に届くところに誘い出そうとしている可能性はじゅうぶんにある。
その場合、シャーロットはこの脅しをきっぱりと無視していいことになるが、この読みが外れた場合について怯え続ける覚悟は必要になりそうだ。
だが、どちらにせよ、どうやら学院の外にいることこそが正解だったらしい。
学院の外にいれば、そもそも脅されることもなく――
(――いえ、ううん、そうでもないかも)
シャーロットが学院の外にいようがいまいが、フォルネウスにそれは分からない。
ならば、シャーロットがそもそもこの脅しを受け取ることが出来ない場所にいた場合、無為に学院の中が恐怖に席巻されていた恐れすらあるのだ。
(まずいことになったのは変わらないけれど……)
マルコシアスを手許から離したことは後悔しない――マルコシアスがいようがいるまいが、今この状況下においては、対フォルネウスについてのみ考えれば、マルコシアスは不利きわまりないから。
(――それに、ワルターさんにはエムがついているんだもの、助けが来ることに変わりはないわ。根比べならこっちが有利になる)
そう思いながら、シャーロットは顔を上げて、部屋の掛け時計を見た。
盤面の覆い硝子は叩き割られていたが、まだかろうじて時を刻んでいるその時計。
――時刻は八時四十分を、まさにいま、かちりと一分過ぎたところ。
オリヴァーがシャーロットを見ている。
マルコシアスの所在を訝しんでいる眼差し。
そんな彼を申し訳程度の会釈で誤魔化して、シャーロットは深呼吸した。
――ワルターは今どこにいるだろう、と、耳の中で心臓が跳ねるような焦燥を覚えながらも、シャーロットは祈るように囁いた。
「……エム? エム、聞こえてるわよね。
まずいことになったから――私をよく見てて」
▷○◁
――七時五十分。
ワルターは門衛を締め上げてグレートヒルへの心臓部への隔壁を開けさせた。
門衛を含む衛兵は軍省に属しているから、ワルターの符牒ですぐに、彼が不審者などではなくれっきとした議事堂を訪れる権限のある者だと分かる。
衛兵はすぐに議事堂に向かって、これからワルターが軍省付参考役であるジュダス・ネイサンを訪ねる旨の伝言を預かった一人を走らせる。
ここまでは順調であり、ワルターはひとまずの安堵に大きく息を吐いたものの、すぐにその安堵にも水が差された。
シャーロット・ベイリーの悪魔が、しびれを切らしたようにワルターを引きずり始めたのである。
これには周囲の衛兵も騒然とした。
「なにをする!」
至極まっとうな抗議にも、悪魔は眉ひとつ動かさなかった。
「奥に用があるんだろう、向かわなくてどうするのさ」
「順序というものがある!」
ワルターの主張を、悪魔は鼻で笑い飛ばした。
「あいにくと、僕に命令できるのはロッテであって順序じゃない」
ワルターは天を仰いだが、さいわいにも隔壁の詰め所の衛兵が、議事堂あてに電話をかけたようだった。
この時を得た見事な行動は、どうやらその場にいた衛兵の、ワルターへの友情ゆえに発揮されたものであったらしい。
ワルターはその場に友人がいた偶然に、深く感謝することとなった。
議事堂は外部からの電話は受けられないが、グレートヒルの内部からの電話であれば受けられる。
グレートヒルの心臓部、各省管轄の建物のあいだを堂々と闊歩する悪魔に先んじて、ワルターの来訪を告げる伝言が、議事堂に詰める衛兵に到達したのは、ワルターにとっての幸運だった。
先んじて伝言が到着していたがゆえに、ワルターは議事堂の前に到着したその場で逮捕されずに済んだのだから。
とはいえ、グレートヒルを闊歩する数十分、ワルターの心臓は悲鳴を上げ続けていたわけだが。
なにしろ、正規の手続きをいうならば、ワルターは議事堂からの許可が出るまで、隔壁にて待機するはずなのである。
正規の手続きとは異なる展開ではあれ、ともかくも議事堂に辿り着いたワルターと、そしてついでにシャーロット・ベイリーの悪魔は、あわただしく議事堂の中へ通され、衛兵に囲まれてホールを通過した。
この時刻であっても、議事堂の部屋のほとんどには明かりが入り、ホールを行き来する人々の数も減っていない。
磨き抜かれた大理石の床に、ランプの明かりが照り映えている。
ワルターは一軍人であって役人ではなく、難しい顔をして行き来する役人の群れには、いつもながら腰が引けるような思いがした。
ワルターと悪魔が、揃って議事堂三階に通されるころには、衛兵からその上役へ、さらにその上役へ――という、ワルターには見慣れたものである伝言ゲームが開始されていた。
最終目標は参考役だ。
ワルターと悪魔がここまで押しかけてくることは議事堂側の筋書きにはなく、二人はしばらく、議事堂三階の、とある広い廊下のアルコーヴにて待つよう伝えられた。
ワルターはアルコーヴに置かれた長椅子によろよろと座り込み、今夜のおのれの不幸を思い返して嘆く準備に入ったが、そばに立った悪魔はそうのんびりしてはいなかった。
かれが突然、はっとしたように動きを止めて顔を上げたので、ワルターは覚えず声を上げてしまった。
「おい! ――どうした?」
悪魔は答えない。
ただ、その淡い黄金の瞳が、人間には見えない一点を注視して、大きく見開かれている。
「……どうした?」
もう一度、ワルターは恐る恐る尋ねた。
彼らを囲む衛兵も、様子も変わった悪魔を気にかけている様子ではあったが、この場に魔術師はいないらしい。
かれに向かって掛ける適切な言葉が分かる人間がおらず、衛兵たちがざわめいたそのとき、マルコシアスがつぶやいた。
だがそれは、この場のどの人間に向けられた言葉でもなかった。
「――僕のレディを守れと命令したはずだ」
ワルターはぞっとした。
「僕のレディ」――すなわちシャーロット。
「ミズ・ベイリーに何か――」
ワルターが思わず悪魔に詰め寄ろうとしたとき、悪魔がすうっと手を伸ばした。
ワルターは咄嗟に仰け反る。
悪魔が目の前の空間の一部をぐっと握るような手つきをして、その手指に掴まれたものは、人間の目には空気にしか見えない――いや。
ぱっ、と、白くか弱い光が悪魔の指のあいだできらめいた。
人の目にも見えるほどの現象に化けた、それは悪魔に仕える精霊だ。
マルコシアスは無表情だった。
手に掴んだ精霊を見下ろすことすらしていない。
かれが少しうつむいて、淡々と囁くのが聞こえた。
「――レディみずからが窮状を訴えるとはどういうことだ?」
少し耳を澄ませるような間を置いて。
「ああ――ああ、僕の親愛なるフォルネウスか。――なるほどね」
マルコシアスは顔を上げた。
かれが、義理のようにワルターを見下ろしたので、人外の黄金の瞳を間近に見たワルターは息を呑んだ。
悪魔が微笑む――愛想よく酷薄に。
「あんた、もう大丈夫?」
ワルターは瞬きする。返答が喉に絡む。
「は?」
「だから、」
悪魔は少し苛立ったようだった。
身振りで周囲を示す。
「ここまで来たら、もう大丈夫なのかってこと。
僕のレディの命令は、あんたを無事に議事堂まで送り届けることだったからね。ここのことでしょ?」
ワルターは瞬きし、周囲を見渡し、何人かの衛兵と目が合った上で、頷いた。
「ああ――そうだ。大丈夫だ」
「そう」
悪魔が頷き、ポケットに手を突っ込んでいっそう深く微笑む。
いっそ魅力的にすら見えるような唇の歪ませ方で。
「良かった。じゃあ、あんたは僕のレディのために助けを呼んでくれるんだね?」
ワルターは息を吸い込む。
「それはもちろん――」
「良かった」
言下にそう繰り返して、悪魔は首許のストールを直した。
「じゃあ、僕はもう失礼するね」
ワルターが口を開いたのを見て、悪魔は微笑を左右非対称の歪んだものにした。
「――僕のレディのところに戻らなきゃならなくてね」
ワルターが息を呑む。
彼が急き込んで、シャーロットに何があったのかと尋ねようとしたときには、もうその場に悪魔はいなかった。
瞬きのうちに、影も残さず忽然と消え失せていたのである。
「は?」
思わず長椅子から立ち上がり、周囲の衛兵をぐるりと見遣る。
ほとんどの衛兵が驚きと混乱の表情を見せる中で、数人が興奮したように囁き合っていた。
「見たか――鷹になったぞ」
「馬鹿言え、あれはカササギだ」
「飛んで行ったところしか見えなかった――」
「コウモリじゃなかったか? でっかいコウモリ」
ワルターが茫然とし、どうやらネズミにされた恨みを晴らすためにあの悪魔に一矢報いる機会には恵まれなかったらしい――と悟ったとき、その場の空気が塗り替わった。
靴音を立て、衛兵たちが背筋を正して敬礼する。
ワルターは振り返った。
窓から射し込む月光に影を落としながら、堂々たる足取りでこちらへ向かって歩を進める一団があった。
背広を着こなした数名の後ろに、軍服を身に着けた者たちが続く。
その先頭に、軍省付参考役であるジュダス・ネイサンがいる。
きっちりと後ろに撫でつけられた、白に近いほど淡い色合いの金色の短髪。
あらわになっている秀でた額。
深い灰色の天鵞絨の背広。
そのポケットに片手を突っ込んで、足早ながらも落ち着いた歩調に茶色い革靴の靴音を鳴らし、堂々とその場に現れたネイサンが、引き連れている他の者たちが立ち止まって頭を下げるなか、眉を寄せてワルターを見遣った。
その灰色の双眸に、ワルターの心臓は悪魔を前にしていたときとは別の意味合いで、引き絞られるように苦しくなった。
緊張のために。
ワルターが深々と頭を下げるのを見るともなしに、ネイサンがつぶやくように言った。
「――正規の手続きとは別の方法がお好みとみえる。
どうして隔壁まで迎えが行くより早くここへ来た?」
ワルターは緊張に喉が塞がるような感覚を覚えながらも、頭を下げたまま、床に向かって言葉を絞り出した。
「申し訳ございません――悪魔が……」
「悪魔?」
ネイサンが問い返し、今度こそ正面からワルターをまじまじと見た。
窓から射し込む月光が、その瞳を普段よりも明るい色に照らし出している。
だが、床を凝視しているワルターは、自分に視線が向いたことにも気づかなかった。
「悪魔だって? きみは魔術師ではないはずだが」
ワルターは喉が干上がるような心地を覚える。
「はい――おっしゃる通りです。ミズ・ベイリーの悪魔が――」
「シャーロットの?」
ネイサンが周囲を見渡し、目を細めた。
「どこにいる?」
一拍の間のあと、衛兵の一人が勇気を振り絞るようにして、小さく応じた。
「今しがた去っていったところです」
「――間が悪かったか」
舌打ちしてそう言って、ネイサンがワルターに視線を戻した。
そのときには、ワルターはおずおずと顔を上げていた。
ネイサンが首を傾げ、ワルターを観察する。
ワルターはてのひらに汗が滲んでいることを自覚した。
「――それで? きみ、どうしてここへ?
何があったのか聞こう」
ネイサンは微笑んだ。
目尻に少しのしわが寄ったが、少しも優しげではない笑顔だった。
「私に事を報告するために来たのか、それとも私の助けを求めに来たのか、それをわきまえて話すように。いいね?」




