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13 どうかあのまま

 エデュクスベリーは、プロテアス立憲王国の首都ローディスバーグの西側に面する。

 ローディス湾を抱くように海に向かって伸びる半島に栄えた町だ。


 この半島から、ローディスバーグの隣町であるセレスティンガムにまで、海を渡って伸びる橋が海の中に柱をいく本も突き立ててそびえており――もちろんこの橋は魔術師たちの尽力のたまものだった――、その長い長い橋の上に並ぶガス灯の明かりは、よく晴れた日であればリクニス学院の屋上から、まるで海上に列車が浮かんでおり、その列車の窓から明かりが漏れているのではないかと思えるような幻想的な光景として望むことが出来た。


 橋は二層構造になっており、上を馬車や蒸気自動車が行き交い、下側を汽車が走る。



 ワルターは、エデュクスベリーの駅から出発する、この日最後の汽車にかろうじて滑り込むことが出来ていた。

 これに彼は安堵の息を吐いた。

 この汽車を逃してしまっていたら、ローディスバーグまで馬車を乗り継いで向かわなければならなくなるところだった。


 とはいえ、コンパートメントに腰を落ち着けたあとも、彼はそわそわと身体を揺すったり、爪先で床を叩いたりと、くつろぎとはほど遠いところにあった。



 そして、それは目の前にいる、予期せぬ同乗者も同様だった。



 それは、はた目には少年に見える生きものだった。

 ご丁寧にも春用の、丈の長い薄い外套を着て、頭にはハンチング帽、首許にはストールを巻いている。


 かれはコンパートメントの座席に崩れ落ちるように座ったワルターのもとにひょっこりと現れて、苦労して記憶を探るような顔をしたあと、「あんたがワルターだっけ?」と無遠慮に訊いてきて、それから彼の正面に陣取ったのだった。



 ワルターからすれば、目の前の少年には見覚えがあるなどというものではなかった。


 シャーロット・ベイリーが連れていた悪魔だ。

 多少格好が変わろうが、人外の淡い黄金の瞳の奇妙さは間違えようがなかった。



 ワルターが当然ながら驚き、「どうしてきみがここにいるんだ」と尋ねたとき、目の前の悪魔はじゃっかん苛立った様子で、「僕のレディの命令以外の理由がある?」と反問してきた。


「あんたを無事に目的地まで連れていけ、だってさ」


 と言っていたものの、今のところ、悪魔がワルターの様子に注意を払う態度を見せることはなかった。


 かれは落ち着きなくそわそわと身体を揺らし、きょろきょろと周囲を見渡したかと思えば、窓際に肘をついてじっと動かなくなることもある。



 窓の外は徐々に暮れゆき、ワルターはコンパートメント内のランプに、備えつけの点火具を使って火を灯した。


 揺らめくオレンジ色の明かりが夕暮れを窓の外に追いやって、窓硝子は鏡のように内側の光景を映し出し始めた。


 窓に顔を寄せてみれば、眼下に海が見える。

 橋は海を渡っているのだ。

 海の波には月影が落ちて、その白い光を波が歪めて、ちらちらと反射してきらめいている。



 そのころになって、悪魔は一度立ち上がった。

 あまりにも前触れなく静かに立ち上がったので、ワルターはかれが動いて数秒してから驚いたほどだった。


 だが間もなく、悪魔はまた椅子に腰かけた。


「――何かあったのかい」


 ワルターは勇気を振り絞って尋ねた。

 悪魔と口を利くことがあろうとは想像したこともなかったが、ここにはワルター以外には誰もいないのだから仕方がない。


 悪魔はワルターの方を見もしなかったが、意外にも返事をした。


「僕のレディが――まずいことになったかと思ったけど、本人いわく、大丈夫らしい」


 ワルターはぎょっとしたが、悪魔が落ち着いた風情なのを見て、自身も落ち着きを取り戻した。


 ワルターは魔術師ではないが、魔術師の傷が悪魔に転嫁されること程度は知っている。



 やがて、窓の外は真っ暗になった。


 悪魔の淡い金色の瞳は、ぱっと見には人間とそう変わらないように見えていたが、よくよく観察してみると違う。

 光源によらずにきらめいているのだ。


 それを見て動悸を覚えていたワルターは、車掌が切符を確認しにコンパートメントの扉を開いた瞬間に、そちらに向かって「逃げろ!」と叫びそうになった。

 だが、それを堪えて切符を提示する。


 車掌は奇妙なことに、悪魔には一瞥もくれずに帽子を軽く上げて挨拶し、去っていった。


「――あんた、」


 胸を撫で下ろすワルターを見て、悪魔が面白がるように言った。


「僕があいつに何かすると思ったの? ――無視させることくらい簡単なんだよ」


 ワルターは、肌の下を無数の虫が這っているような落ち着きのなさを感じた。

 人外の存在への、それは無意識の嫌悪感だった。


「ああ――ああ、だが、あんたが穏便な手段を採ると、分かり切っていたわけじゃないからね」


 ワルターがそう言うと、悪魔は肩を竦めた。


 かれがまた窓の外を見た――そのときワルターはぞっとした。

 窓硝子――車内の明かりを弾いて、鏡のようにコンパートメントの様子を映している窓硝子に、悪魔の姿が映り込んでいないのだ。


 ぎょっとして目を見開いたワルターに向かって、悪魔が片目をつむってみせる。

 瞬きするうちに、窓硝子にかれの姿が映り込んだ。


 だが、窓硝子に映った悪魔は片目をつむっておらず、これ見よがしにワルターを指差している。


 ワルターは恐怖に腹の底が冷えていくのを感じた。


 そんな彼をまじまじと観察してから、悪魔は溜息を吐いた。


「まあ、こんなふうにささやかないたずらであんたたちを脅かすのは、確かにちょっとは楽しいけどね。でも――」


 マルコシアスは肩を竦めた。


「――僕のレディが怒りそうだからね」


 悪魔は背もたれに体重を預けると、ゆっくりと伸びをした。


 ワルターは思わず、窓硝子に映った悪魔の影も同様にすることを確認してしまい、そしてそこにあるべき影の挙動をみて、心から安堵の息を吐いた。


 そんな彼を鼻で笑って、悪魔は尋ねた。


「――で? この鈍くさい鉄の乗り物は、どのくらい走れば僕たちの目的地に着くわけ?」


 ワルターは息を吸い込んだ。


「海を渡り切れば、そこが駅だ。そこから乗合馬車で――」


「乗合馬車?」


 悪魔が声を上げた。


「おいおい、冗談だろう――レディ・ロッテの言いつけを、そんなのんびりした手段で果たすつもりだったのか」


 ワルターもかっとなった。


「これがいちばん速いんだ。セレスティンガムを横断しなきゃならないんだぞ。だから――」


 しかし、そこで彼は言葉を切った。

 悪魔があきらかに穏やかならぬ瞳で、しげしげと彼を見つめていたからだ。


「な――なんだ」


 思わず尋ねる。


 悪魔は瞬きして、真顔で言った。


「あんた、しばらくネズミかなんかになる気、ない?」





 日もとっぷりと暮れ、セレスティンガムの時計塔が重々しい鐘の音を七回響かせたとき、汽車は騒々しい汽笛とともにセレスティンガムの端に位置する駅に滑り込んだ。


 汽車から降り立った人々はプラットホームを歩き、三々五々に去っていく。


 ある人はそのままホテルへ向かい、ある人は待たせていた辻馬車に乗り込み、ある人は知人の迎えを待ち、ある人は鉄道馬車の駅へ向かい――



 そしてある哀れな男は、必死の抗議も空しく、小さな灰色のネズミに姿を変えられた。



 嘘だろう、馬鹿だろう、こんなことは犯罪だ!

 という絶叫は全て、キィキィというかん高い鳴き声に変えられてしまい、ワルターは発狂しそうになった。


 彼をつまみ上げた悪魔は悪魔で、「言い忘れてたけど」と、ふざけたような神妙さで話し出している。


「こういう魔法って、あんまり身体には良くないみたいなんだよね。

 三回か――四回かな? それくらい前に仕えた主人がピンチになったときに、こういうやり方で逃がしたことがあったんだけど、あれは失敗だったな。元の姿に戻してやったあとも、耳がずーっとネズミのままで、油断するとチュウチュウ鳴いちゃうようになっちゃって。もちろん、例の無粋な契約があったから、僕まで具合が悪くなっちゃってさ。最悪だった」


 冗談じゃない! 最悪だったのはあんたじゃなくて当時の主人だ!

 というワルターの叫びは、キィキィという情けない声になっていく。


「本人はえらくおかんむりだったな。あと、そのあとやたらと咳が出るようになったんだよねぇ。何かある前に、僕の仕事が終わって解放されて良かったよ。じゃなきゃ僕の胸に穴が開くことになってた」


 ワルターは凍りついたが、彼を外套のポケットに押し込んだ悪魔は愉快そうだった。


「だってこうでもしないと、僕、あんたなんかを抱えて走っていきたくないんだもの。そういうことをやってほしいなら、そういうことをやる程度の悪魔を呼んでもらわなきゃね。僕はやらない。でも僕のレディのご命令は果たさなきゃね。ってことで、これしかない」


 あんたなんかの気位のために、私は今こうなっているわけか?

 という、切実かつ逼迫した不満を毒づく言葉も、ワルターのヒゲをぴくぴくさせるだけに留まった。


 周囲を柔らかい布に囲まれて、ワルターは恐慌一歩手前である。

 足場も確かではなく、何度も転んでしまう。

 そして転んでいるのはポケットの中なのだ!


 気が変になりそうだった。


 そんなことも知らぬげに、悪魔が暢気に喋っている。

 いっそ親切そうに。


「ま、大丈夫さ。あんたが口を利くべき場面になったら、ちゃんと口が利ける姿に戻してやるから。でも、間違って鳴いちゃったりしないように気をつけなよ」


 機会があればこいつを殺そう、と、ワルターは固く決意した。


「――あと、」


 悪魔の声音が、じゃっかん真剣で、心配そうなものになった。


「僕のロッテにこれは言うなよ。言ったら面倒なことになりそうだ。

 これ、もしかしたら、僕がロッテとの約束を破ってることになってるかもしれない」


 もちろん言いつけてやる、とワルターは思ったが、それを見透かしたように悪魔は言った。


「もしも言ったら、怒った魔神がどれだけ残酷になれるか思い知らせてやるからね」



 ――このあと、悪魔はその名に恥じぬ疾走を見せ、ワルターは当初の予測よりもはるかに早くローディスバーグに辿り着いた。


 グレートヒルに入る前に、懸命の訴えが聞き入れられ、彼は人間の姿に戻されたが、その際に全裸だったことは、彼が墓場まで持っていくべき事実である。


 悪魔はいかにも悪魔らしい大爆笑を夜陰に響かせながらワルターのために服を出してやったが、それも、「全裸ではミズ・ベイリーの言いつけは守れないぞ」と脅してやっとのことであった。



 そうして本来の姿を取り戻したワルターだが、ざっと点検したところ異常はなく、彼は自分の幸運に胸を撫で下ろした。


 ――彼が、自分が深刻な猫恐怖症を発症したと気づくのは、翌日になってからのことだった。



 さてともかくも、()()うの(てい)ながらもワルターはグレートヒルに辿り着き、門衛を締め上げる勢いで隔壁の門を開けさせた。



 マルコシアスは退屈と焦燥の中間のような気持ちでそれを見ていたが、そのときふと、門衛の詰め所の中を覗き込み、壁の掛け時計で時刻を確認した。


 ――七時五十分。





▷○◁





 シャーロットがリクニス学院の立派な門をくぐったときには、学院の時計塔が騒々しく七度の音を響かせてからしばらく経っていた。


 学院に戻る道々、シャーロットは周囲を絶えず気にしていたが、アーノルドの姿はちらりとも見かけなかった。

 こうなると、自分の考えが正しいのかどうか、じゃっかん不安になってくる。


 また同時に、通りかかるパブやコーヒーハウス、カフェの窓から中を覗き込み、警官に連行された彼女を気にかけているだろうノーマとオリヴァーを捜しはしたものの、二人とも見当たらなかった。


 ノーマもオリヴァーも、一晩中騒ぐことを選ぶ性格ではないから、一夜の宿を探しにいったか、あるいは学院へ戻ったのかもしれない。



 ――学院には、まだショーンとフォルネウスがいる可能性が高い。


 どうか誰もが無事でありますよう、と祈りを捧げるシャーロットは、おのれの人生の善行が、この願いが聞き届けられる程度には足りているかと真剣に案じた。



 シャーロットは正面の柱廊玄関から本棟の中に入り、普段に比べて明かりが絞られた廊下を進みながら、さてショーンは男子第一寮かそれとも第二寮か、どちらに部屋を与えられているのだろう、と考えた。


 だが、こればかりは考えても埒が明かず、人に訊いてみなければ始まらない。


 廊下を歩くだけでも、学院で魔神が暴れ回った痕跡を探すことには苦労しなかった。

 出会う窓硝子がことごとく砕け、廊下に破片が散らばり、壁には大穴、あるいは亀裂。


 シャーロットは罪悪感で胸をむかむかさせながら、この一年のあいだに身に着いた習慣のままに足を進め、女子寮へ向かう外廊下へ出た。


 そうするあいだにも、どこかからかフォルネウスがこちらを狙い撃ちにしてくるのではないかと思うと気が気ではない。

 無意味に周囲を見渡し、風の音に飛び上がり、遠くで足音が聞こえるだけで心臓の鼓動が倍の速さで打ちはじめる始末だ。


 いざとなったら、最悪の事態に陥る前に自分にとどめを刺すように、とマルコシアスに命じたのは本音であっても、自分の人生に未練がないわけでは決してない。


 フォルネウス、ないしはショーンに発見されたその瞬間に、精霊を通じてそれを知ったマルコシアスが、ためらうことなくシャーロットの人生に幕を下ろすだろうと思うと、背後の暗闇ですら恐ろしい。



 そうしてびくびくしながらも、無事に女子寮へ通じる外廊下に行き着いたシャーロットは、いちおうは周囲を窺ってから、外廊下の低い胸壁に手をつき、行儀悪くもそれを乗り越えて外に出た。

 こうした方が、男子寮まで近いのだ。


 周囲を窺った理由はひとつ、なにもスカートをまくり上げている瞬間に狙い撃ちされて、自分の人生の終わり方をもってマルコシアスに爆笑を提供することはあるまいと思ったことだ。



 宵闇が濃くなった中にあって、二つある男子寮の窓にぽつぽつと明かりが入っているのが見える。

 どうやら何人かは、慣れた男子寮で夜を過ごすことに決めたらしい。



 シャーロットはまず、近い方の男子寮に向かって、さくさくと芝生を踏んで歩を進めた。


 とはいえ彼女は男子寮に足を踏み入れたことすらないので、目指しているのが第一寮か第二寮なのかすら分からない。



 女子寮に比べて一回りほど大きなその建物の入口には、女子寮と同じく門番のための詰め所があるが、今は無人になっている。


 シャーロットがひょこりと中を覗いたときには、三人の学生が暴徒と化して詰め所を荒らし、門番秘蔵の酒瓶を戦利品として高々と掲げているところだった。


 戦利品の発見に盛り上がった歓声はシャーロットが顔を見せたことで途絶え、シャーロットはこれさいわいと「ショーン・オーリンソンはこちらの寮にお住まいでしたか?」と尋ねようとしたが、それよりも早く、「あっちに行け!」と怒鳴られて、すみやかに寮の中へと退散することとした。


 声音に、パニックゆえの本気の怒気を感じ取ったのだ。



 寮の玄関広間は狭く、なぜか本棚がいくつか置かれており、そこに歴代先輩がたの置き土産だろうと思われる、古さもさまざまな学術書が、なんの秩序もなく突っ込まれていた。


 目の前には上階へ続く幅広の階段、右手には食堂に続くものだろうと思われる廊下への入口、そして階段の影には、寝椅子が置かれたアルコーヴ。

 その寝椅子には、一人の男性が大口を開けていびきをかきながら眠りこけており、シャーロットは彼を起こすのは断念して、ためらったのちに階段に足をかけた。


 階段には絨毯も敷かれておらず、古い木材が剥き出しになっている。



 二階に辿り着いたシャーロットは目を閉じて、外から見たときのこの建物を思い返した。

 そうして、明かりが点いていた窓はこの辺りの部屋だろうと思う部屋の扉をノックする。


 ややあって、細く扉が開いた。


 その向こうに怯えた顔の部屋の主の二人組が見えて、シャーロットが内心でぎょっとしたことに、扉を開けた方は手にペーパーナイフを握り締め、もう一人はその後ろで、丸椅子を振り上げて武器にしようとしていた。


 シャーロットの衝撃の表情か、あるいはシャーロットの姿そのものかを見て、扉を開けたペーパーナイフ氏が、ぐいっと扉を全開にした上で大声を上げた。


「ああくそ、脅かすなよ! どこのどいつが殺しに来たのかと思ったよ!」


 彼がペーパーナイフを後ろに放り出し、後ろの相棒に向かって、「大丈夫」と合図する。


 ペーパーナイフがかつんと音を立てて床に落ちると同時に、丸椅子氏も丸椅子を下ろして床に置いた。

 彼が悪態をついたので、シャーロットはいよいよ申し訳なくなる。


「あの、すみません……驚かせるつもりはなくて……」


「そのつもりがあったらあんたの人格を疑うよ! こんなときに、なに!?」


 わりと本気で腹を立てている風のペーパーナイフ氏の剣幕に、シャーロットはたじたじと一歩下がった。



 思えば、気が立っていて当然である。

 シャーロットももちろん気が立っている。


 あの惨劇があったのはここから離れた大広間だったから、まだしも慣れた寮で休もうとする気持ちは分かるが、同時に殺人者が跋扈しているかもしれない学院である。


 酒を飲んで騒ぎに騒いでそのことを忘れるか、出入口を固めて息をひそめて軍を待つか、二者択一の状況といって過言ではない。



 そのなかを訪ねていくなど、なかなか悪意ある行動ともいえた。



 シャーロットはあれこれを一呼吸のうちに考え合わせ、今この場において、一連の騒動の犯人であるところのショーンの名前を出せば、その瞬間にここから叩き出されるに違いないと判断した。


 すばやく言葉を切り替えて、シャーロットは口走った。


「あの、オリヴァー・ゴドウィンさんって、こちらの寮にお住まいなので間違いありませんか?」


 もういっそ、ショーンの住んでいる寮はオリヴァーに訊いてしまえ。

 オリヴァーが町にいて、寮の中にいなければ、そのときは別の誰かを捉まえて、なんとか穏便に尋ねればいい。


 そう思ったシャーロットは、精いっぱい殊勝に見えるように慎ましく両手を組み合わせてみせる。


 そんな彼女をまじまじと不愉快そうに見て、ペーパーナイフ氏が鼻を鳴らした。


「ああ、あんた、あの」


 丸椅子氏が後ろから、「誰?」と尋ねる。

 それに対しておざなりに、ペーパーナイフ氏が応じた。


「あれだよあれ、最年少合格者。ナルとなにかにつけて張り合ってるやつ」


 ナル――オリヴァーの愛称だ。

 どうやらペーパーナイフ氏はオリヴァーと知り合いらしい。


「えっ」


 と、後ろから丸椅子氏。


「そいつ、今日、オーリンソンさんとなんか言い合ってなかった……?」


 怯えた風情の丸椅子氏をがばっと振り返り、「そういえば」と口走ったペーパーナイフ氏が、今度はこぶしを握り固めながらシャーロットに向き直った。


「なんだ、ナルになんの用だよ」


「ちょっと話があるだけです!」


 あらぬ誤解にシャーロットは思わず叫び、ペーパーナイフ氏はなおも疑うようにシャーロットを見たものの、「オリヴァーなら自分でなんとかするだろ」との後ろからの丸椅子氏の言葉に頷いて、見るからに嫌そうに部屋から出てきた。


「ついて来い」


 シャーロットはほっとした。


「ありがとうございます」


 ペーパーナイフ氏は顔を顰め、うなじを掻きながらシャーロットを先導し、廊下を進んで三階に上がった。


 そして一室の前で足を止めると、無造作に扉を叩いた。


「おい、ナル! ナル、いないのか! お前の()()()()が会いに来てるぞ!」


 数秒して、中に向かって扉が開いた。

 そこに、不機嫌そうなオリヴァーが立っている。


 シャーロットがペーパーナイフ氏の後ろから首を伸ばして窺ったところ、雑然とした室内には、他にも三人ほどがいるようだった。


 驚いたことに、中の一人はノーマだ。

 ノーマがシャーロットに気づき、室内でぱっと立ち上がる。


 彼女のそばの円卓に、見間違いでなければ酒瓶とグラスが置かれている。


「追っかけ? 誰のこと……」


 言葉半ばでシャーロットに気づき、オリヴァーが苦悶の表情を浮かべる。


 ペーパーナイフ氏は、「じゃ、俺はこれで」と、清々した顔つきで来た道を戻っていった。


 オリヴァーが両手で顔を押さえる。


「お前……お前……警官の詰め所で安全にしているんじゃなかったのか……」


 シャーロットはあいまいに微笑んだ。


「警官の皆さんも、ほら、いつまでも若い女の子のお世話はしていられないから」


 オリヴァーはいっそう苦しげな表情。


「それでなんで俺のところに来るんだよ! 今度はなんだ、何の用だ!」


「ちょっとオリヴァー」


 ノーマが後ろからすっとオリヴァーに近づき、彼の腕に手をかけた。


「シャーロットだって大変な目に遭っているんだから。優しくしなきゃ駄目よ」


 諭すように言われて、オリヴァーはぐっと黙り込んだ。


「――いや、きみが知らないところで、俺はだいぶこいつに迷惑をかけられていて」


 言い訳がましく続けているものの、かなり語調が落ちている。


 シャーロットはこれさいわいと口を開いた。


「別にお邪魔しに来たわけではないんですよ。

 あの、ジュニア――ショーン・オーリンソンって、こっちの寮に住んでいたんですか、それとも向こう?」


「それを訊きに来たのか?」


 オリヴァーの顔が明るくなった。

 口で答えてシャーロットが失せてくれるなら喜んで、とばかりに、彼が前のめりになって答える。


「オーリンソンさんならこの上、五階に部屋があるはずだ。どの部屋かまでは俺も知らないけどな」


 シャーロットはほっとした。


「ありがとう。

 ――それから、オリヴァーさん、あなたずっと部屋の中にいました? それとも廊下に出たりもしました?」


 オリヴァーは肩を竦めた。少しばつが悪そうだ。


「ああ、いや――彼女と、」


 彼女、と言いながら遠慮がちに示されたのはノーマで、ノーマはいたずらっぽく顔を背けている。


「夜通し町で騒ぐのも疲れるなってことで、どうせなら寮に戻って一緒に籠城するかって話をして、戻って来たんだが。

 それからまあ――友人と合流して、酒を調達しに食堂に行ったり……」


 シャーロットは瞬きした。


 シャーロットが知っているとはオリヴァーは微塵も思っていないだろうが、およそ彼と一緒にいるときの視線の動き方を見ていれば、彼が監督生のミズ・ヘイワードに片想いをしているということは明らかだ。

 が、どうやらここで、ノーマという新しい女神が彼に降臨したらしい。

 でなければ、変に真面目なところのあるオリヴァーが、「一緒に籠城」を提案するはずもない。


(引き合わせた形になったなら良かった――)


 いや、今はそんなことを考えている場合ではない。


「あの、そのときに、見かけない人がいませんでした?」


 シャーロットは尋ねた。

 オリヴァーが眉を寄せる。


「いや、今は第二寮からもこっちに人が来てたりするからな……」


「見かければ分かったと思うの」


 シャーロットは身を乗り出す。

 覚えず口調に熱が入った。


「滅多にないくらい綺麗な顔をした、私と同い年くらいの、金茶色の髪をした男の人。私と同い年って若いでしょ。見てたら覚えてると思うんだけど――」


 オリヴァーは眉を寄せ、ノーマに問い掛けるような視線を向ける。

 ノーマは肩を竦めて首を振り、オリヴァーはシャーロットに視線を戻した。


「いや、見てないな」


 シャーロットは唇を噛んだ。



 ――考え違いで、もしかしたらアーノルドはこの寮には来ないのかもしれない。

 あるいは魔精の援助があって、何かシャーロットの思いもつかないような方法で侵入して、もう去っていった後なのかも。



 ――マルコシアスがワルターを守ってグレートヒルに連れていってくれている。

 つまり、遅かれ早かれ助けは来るのだ。


 この件においてシャーロットが自力で果たすべきだった役割は、フォルネウスによる学院の封鎖を解いたこと。


 そしてそれが果たされ、助けを求めるワルターが脱出できたのだから、ショーンが捕縛されるのも時間の問題。

 そうなれば、ショーンの後ろにいた人物について、軍省がショーンを締め上げて吐かせることが出来れば、それで一件落着だ。



 けれど――



 ――アーノルドの、憂鬱そうな眼差しを思い出した。

 たくさんの目に見えない重荷が肩の上に載っていて、なんとかその隙間からあえぐように息をしているというような、弱々しいあの息の仕方を。

 静かに笑ったときの、悲しそうな眉の寄せられ方を。



 ――アーノルドを気にかけて、彼を一刻も早く救い出さなければならないと知っている人間は少ない。

 軍省にはいない。


 ネイサンですら、彼の救出を後回しにする可能性はある。

 この一年の手紙のやり取りから推して。



 手遅れだろうがなんだろうが、シャーロットは動くべきだった。


 もしもアーノルドと鉢合わせすることが出来ればそれは千載一遇の好機、そしてアーノルドが――シャーロットの考えどおりにここへ来ていたとしても――既に姿をくらませていたにせよ、彼がシャーロットを信じてくれていれば、何か手掛かりになるようなものを残しているかもしれない。



「――ありがとう」


 シャーロットは絞り出すようにそう言って、一歩下がった。


 それを見て、ノーマが声を上げる。


「シャーロット? あなた、その人の部屋に行くつもりなの?」


 シャーロットは上の空で頷く。

 それを見て、ノーマが断固としてオリヴァーを見上げた。


「オリヴァー、一緒に行ってあげなきゃ」


「は?」


 オリヴァーが絶句する。


「俺が? なんで?」


「なんでもなにも、あなた、魔神を召喚しているんでしょう。シャーロット一人で、あんな危険な人の部屋に行かせるつもり?」


 オリヴァーは天を仰いだものの、すぐに大きく息を吐いた。


「きみは苦難の道を歩めと命じる女神だ」


 呻くようにそう言って、オリヴァーがシャーロットを見下ろす。


「お前ひとりでうろうろしてたら、そのうち気が昂った誰かに殴られそうだしな。

 ――ついて行ってやるよ」


「――ありがとうございます」



 驚きつつもそう言って、シャーロットはそのとき、開いた扉越しに室内に掛けられた時計を見る。


 ――時刻は八時十分。





 この四年後には、シャーロットはこのときの彼女自身の行動を振り返って、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と、心から願うようになる。























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― 新着の感想 ―
[良い点] ほんとに! シャーロットにバレないかちょっと心配しているマルコシアス、ほんとかわいいですね! 最初っからワルターにイタズラして楽しそうにしていて、挙げ句の果てにネズミにして……絶対楽しんで…
[一言] いやいや何が起こるんですかぁ…。どきどきしちゃいますよ。 しかも振り返ってそれを思うのが四年後って…。
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