09 応酬
フォルネウスは注意深く、しかしすばやく、マルコシアスの瞳の色を探った。
人間からすれば捉えどころのないかりそめの瞳も、同類から見れば察することが出来るところは多くある。
ついで、ちらりとシャーロットを確認する。
彼女をびっしりと覆って守っていたマルコシアスの精霊が作る網にも、ここまでのあいだにほころびが生じていた。
ほころびがあれば、フォルネウスはそこを突くことが出来る。
フォルネウスはマルコシアスをよく知っており、戦争時代には互いに争わない魔神として広く知られていたかれらは、同じ陣営に召喚されることも多かった。
そのフォルネウスが見ているかぎり、マルコシアスは優秀な護衛だ。
与えられた命令にはきわめて忠実で、多少の難事には眉ひとつ動かさない。
裏をかかれることは非常にまれといって良かった。
かれは荒事以外では馬鹿とののしられることも多かったが、逆にいえば、荒事の最中であれば頭が回る。
ゆえに、フォルネウスはじゃっかんの警戒心を掻き立てられた。
指先の向こうにいる少女は蒼褪めて、痛みに顔を顰めているが、その表情から決定的な恐怖が読み取れないことも猜疑心をあおった。
主人が何かを言おうとするのをもう片方の手で押しとどめながら、フォルネウスは念を押すように繰り返す。
「お好きにどうぞ? ――チェックメイトかな、マルコシアス?
この状況からすれば、私は今にもきみの主人を引き裂けるんだけれど」
「あー、うん」
マルコシアスは興味も失せた様子で言った。
溜息を吐いて、爪を弾いている。
「そうだね。やれば? ――あんたは誤解してるみたいだけど、」
淡い金色の瞳でフォルネウスを一瞥して、マルコシアスはあっさりと告げる。
「見れば分かるだろ? その子は僕が仕えた中でも一世一代の間抜けだ。殺されようがどうしようが、僕には関係ない」
シャーロットがショックを受けた様子で後退った。
フォルネウスは意識せずとも、指先で彼女を追いかけた。
シャーロットがよろめくように後退ったのはショーンに近づく方向だ。
「きみは報酬を失うことになるけれど?」
語尾を上げて確認したフォルネウスに、マルコシアスは肩を竦めた。
「あいにく、今の僕はかなり安くこき使われている」
「本当に?」
フォルネウスは信じられない思いで旧知の同胞を見つめた。
「それでどうして召喚陣の中で頷いたんだい」
マルコシアスはあいまいに首をひねった。
「その子、けっこう口が上手くてね」
フォルネウスはなおも眉を顰めていた。
「ついさっきまで、さぞかし大事そうに庇っていたじゃないか」
マルコシアスが瞬きする。
「――……えーっと」
かれは困ったようにシャーロットを見た。
まるで、どう言い訳をしたものか、うかがいを立てるかのように。
フォルネウスは指先に力を入れた。
この目! 断じて主人を裏切っていないとあからさまに示す瞳!
マルコシアスの主人が、さも自分を裏切ったように見せかけよと命令したに違いない。
計画が分からなくとも、意図が分かれば判断には労さない。
だが、そう分かって撃とうとしたときにはすでに、シャーロットはフォルネウスを見ていなかった。
すんでのところで、彼女がショーンに向き直って、はっきりと言っていた。
声は緊張に上擦っていたが明瞭だった。
「――あなたのお父さまのことですけど」
フォルネウスは舌打ちをこらえた。
悪魔に親というものはなく、概念としても理解できない対象ではあるが、少なくとも今の言葉が、若い主人の心を捉えたことははっきりと分かった。
シャーロットはショーンの心情、父への情愛ゆえの好奇心を盾にとって、一時的にではあれ自分の安全を確保したのだ。
シャーロットが、自分が知るべき何かの情報を持っているのではないかとショーンが思っているかぎり、彼はフォルネウスがシャーロットを引き裂くことは許すまい。
もちろん爆発四散させることも。
実際に、ショーンの顔色が変わっている。
彼が、近づいてきた格好となったシャーロットに向かって身を乗り出した。
「なんだ?」
他のときならこうはなるまい――ショーンも警戒するに違いない。
だが、今は。
今このとき、はた目にはシャーロットが追い詰められたように見えるこの瞬間は。
「ぼっちゃん」
フォルネウスは苛立ちを声に出して呼ばわった。
かれが今回の仕事で約束された報酬は、人間の心臓が二つと肝臓が三つ、それから大腿骨が五本と形の整った頭蓋骨が一つだった。
苛立ちを抑えるには足りない報酬だ。
「ぼっちゃん、離れて――」
「黙っていろ!」
ショーンが怒鳴った。
フォルネウスはむっとしたが、それをからかうようにマルコシアスに見られて、あわてていつもの温和な表情を取り戻した。
「あなたのお父さまのことですけど」
シャーロットが繰り返した。
彼女はやはり蒼褪めていたが、それでも毅然とした様子だった。
ショーンが身を乗り出して、シャーロットの顔を覗き込んでいる。
「ベイリー、一つでも嘘をついてみろ――僕の魔神がきみを八つ裂きにするからな。
きみが父を嵌めたんだ――今からでもそう証言するなら――」
シャーロットはショーンの冷ややかな色の瞳を正面から見つめた。
マルコシアスが彼女を見ていることが分かったが、文字どおり見ているだけだ。
この場で何が起きようと、〈同格〉の縛りがある限り、かれはシャーロットを助けられない。
そして同時に、シャーロットに何が起ころうとそれがかれを害さないことも事実であり、シャーロットを見つめる淡い黄金の瞳には、静かで生き生きとした好奇心がきらめいていた。
シャーロットが何をするのか、それに興味をそそられている。
シャーロットは息を吸い込んだ。
フォルネウスは、自分の主に当たることを恐れて魔法を撃てない。
ならば今は、ショーンのそばが最も安全だ。
緊張の糸が、至るところでぴんと張られているのを肌で感じるようだった。
フォルネウスが、シャーロットの一挙手一投足を見ている――
「私は……」
シャーロットは言いよどんだ。
ショーンがシャーロットに詰め寄る風情を見せる。
シャーロットは無意識のうちに拳を握り締めていた。
もっと、もっとこっちへ、せめてあと一歩。
気を引くために顔を伏せる。
視界の隅に、瓦礫を踏むショーンの革靴が見えている。
風が吹いて、ささやかに砂塵が舞い上がる。
「私は、あの日……」
ところが、シャーロットは続ける言葉を持たない。
ショーンを引きつけるためには、彼が信じ込んでいる話にすり寄った筋書きをでっち上げてやればいいのだろうが、肝心の、ショーンの頭の中にある筋書きが分からないのだから。
「ぼっちゃん」
フォルネウスが苛立たしげに呼ばわった。
「ぼっちゃん、こっちへおいでなさい。訊きたいことは私が尋ねてあげるから」
シャーロットにとって運がよかったことに、その口調のなだめるような調子がショーンの癇に障った。
「お前は父を知らないだろう、フォルネウス」
シャーロットはいちかばちか、思い切ってショーンに一歩、歩み寄った。
フォルネウスが、ショーンを巻き込むかもしれない魔法ではなしに、実際に手を伸ばして彼女をつまみ上げて放り出そうとしてしまえばそれまでだ。
だがどうやら、さいわいにも、フォルネウスはマルコシアスと比べても輪を掛けて気位が高いらしい。
子供の喧嘩のような真似はしたくないようだ。
――好都合だ。
こうなってしまえば、形勢逆転のためにシャーロットが打てる手は、子供の喧嘩の延長線上にしかない。
ショーンは一瞬、その場から飛びのきそうにした――だがすぐに、シャーロットが何か、自分の父に関することで重大な事実を話すのではないかという思いに憑りつかれたようだった。
彼が、立ち竦んだようになってシャーロットが近づくのを許した。
シャーロットはその瞬間、わずかにためらった。
だが次の瞬間にはそれを綺麗に拭い去って、震えそうになる指を叱咤して手を伸ばした。
そのときばかりは、唐突な悔悟の念に打たれて、ショーンに縋りついて許しを乞うのではないかと思えるような仕草で。
ショーンも一瞬、混乱した様子で茫然とした。
だが、シャーロットは縋りついたりはしなかった。
はっきりと目的を持って動いた片手が、ショーンの首筋に触れんばかりのところに動いた。
――誰よりも早く、フォルネウスが嘆息した。
形勢逆転を悟ったのだ。
シャーロットの手の中に、鋭く輝く尖晶石の欠片が青く光っている。
刃物としては十分ではないが、少女の力でも全力で喉に当てれば皮膚を裂くだろう硬さで、振り上げて目を刺せば失明に至らせることは出来るだろう鋭さで。
実際のところ、シャーロットの手の中から覗く欠片は、そうして武器として使うには小さく、半ばをこぶしから覗かせている都合上、握っておくにも気をつけておく必要があった。
しかし重要なのは、フォルネウスから見てどうかということだ。
一秒をおいて、ショーンもまた、自分の頸の皮膚に触れる冷たい感触に気づいた。
彼が後退ろうとすると、シャーロットが空いた手で彼の腕にしがみつき、状況が違えば恋人どうしがするような格好で、彼にしがみついて離すまいとした。
ショーンが力づくで彼女を引き剥がそうとしたが、シャーロットは頑として離れなかった。
ショーンの足がもつれ、彼がシャーロットを巻き込んで、もんどりうって瓦礫の上に転んだ。
痛みに呻いたのはシャーロットとフォルネウスの二人が同時だったが、それでもシャーロットは断固として尖晶石の破片を、彼の喉に押しつけたままでいた。
気づけばほとんどショーンに馬乗りになっているような格好になっているが、恥じらいを覚えている場合ではない。
(ああ、良かった――)
頭の片隅で、馬鹿げた考えがちらついた。
(この人の育ちが良くて! 初等学校の同級生の男の子たちなら、たぶん私なんてすぐに引き剥がしてしまえるもの)
「ベイリー!」
ショーンが叫んだ。
彼の淡い色の瞳が大きく見開かれている。
背広に砂ぼこりがついている。
「気が違ったか! 僕に傷のひとつもつけてみろ――」
「残念ながら、」
シャーロットは語調も荒く応じた。
焦るあまりに舌を噛みそうだった。
ついでに、転んだ拍子にスカートの変な箇所を膝で踏んでしまっていて、今にも自分もショーンの上にひっくり返りそうになっていた。
「あなたの生活を保証していたお父さまは牢屋の中です。もっといえば、あなたは魔術で人を殺した廉でカルドン監獄行きになるでしょうけれど、私はあくまで人間ですし、そこまで重い罪には問われませんよ。
ついでに、これは誰がどう見ても正当防衛です」
シャーロットは、緊張のあまり眩暈がするようにも覚えながら、フォルネウスに視線を向けた。
かれは無表情でたたずんでいるが、じゃっかん呆れた様子もあった。
ここまで上手く事が運んでいたというのに、最後の最後で主人が墓穴を掘ったのだからさもあらん。
だが、正確には、まだショーンの側が詰んだともいえなかった。
こればかりは報酬しだいだ。
フォルネウスはシャーロットを傷つけることが出来る――ただし、それをすればそばにいるショーンもなにがしかの傷を負う。
そしてその傷は〈身代わりの契約〉により、フォルネウス自身に転嫁される。
つまり、ショーンが差し出す報酬が、多少の自傷もいとわないほどに魅力的なものであれば――
「フォルネウス」
マルコシアスが親しげに呼びかけて、微笑んだ。
「こっちにはストラスもいるんだぜ。僕のレディがあのぼうやの目を突いたあとだったら、あんたもちょっとは分が悪くなるんじゃない?
ストラスに負けただなんて悪評、あんたは耐えられないだろ?」
フォルネウスが顎を上げて、頭上を一瞥した。
シャーロットには見えようもなかったが、もしかすると上空に、ストラスの精霊が密偵のごとくに飛んでいるのかもしれない。
「お願いだ」
マルコシアスが言葉を継いだ。
そのときばかりは本心からの様子で。
「自分のほかには七十一しかいない兄弟の中で、あんただけはいつだって僕と対等だ。そのままでいてくれ。あんたが致命の一撃を受けるのは、僕だって嫌なんだ。
さあ、降参してくれ」
フォルネウスはマルコシアスに目を戻し、顔を顰めた。
「気持ちは分かる、きみがグラシャ=ラボラスの手に掛かって姿を消したときは、私も多少なりとも清々して、非常に楽しく、寂しかった……」
マルコシアスは仏頂面に笑みの欠片をぶら下げたような表情になった。
「そんなこともあったね。
――心配しなくていいよ、フォルネウス。グラシャ=ラボラスは、まだ今日のことだけど、自分の領域にお隠れあそばしたからね」
「ストラスがいたにせよ、よく健闘したね」
フォルネウスは認めて、それから息を吐いた。
「――きみらしくないね、マルコシアス。
きみは滅多に、主人を前線に出したりはしないはずだったけれど」
マルコシアスはにっこりした。
「相棒がやれるって言うんなら任せるさ。
――あと、そうそう、言い返すのを忘れてた」
ふいに思いついたようにそう言って、マルコシアスが腕を組む。
「あんたさっき、ロッテの命令が間抜けだったと言ったね。――違うね。
僕のレディの命令は、多少お馬鹿だったことは多々あるが、間抜けだったことは一度もないよ」
シャーロットは息を引いた。
汗で尖晶石の欠片が手の中から滑り落ちそうだった。
膝に瓦礫が喰い込んで痛い。
ここでこのはったりを押し通せねば、シャーロットが生きて明日の朝陽を拝むことが出来るかどうかは、かなり分の悪い賭けになってしまう。
だからこそ、これがはったりだとは思わせない程度には落ち着こうとしながら、シャーロットは先ほどのフォルネウスの言葉を返した。
「――チェックメイトかしら、フォルネウス?」




