08 詰み
マルコシアスの言う〈同格〉の縛りを、シャーロットはいわゆる「陣取り合戦」のようなものだと解釈していた。
〈同格〉の魔神どうしが、本当の意味で相手に干渉できなくなるならば、そもそもフォルネウスはこの学院を精霊で覆ってしまうことは出来なかったはずだ。
なにしろ、フォルネウスのその精霊たちが、マルコシアスがこの学院から外に出ることを禁じてしまうのだから。
さらにいえば、マルコシアスも同じく、大広間を崩したり、明かりを点けようとしたフォルネウスに先んじて「明かりを点けさせるな」と精霊に命じたりと、先手を打ってフォルネウスを妨害していた。
つまるところ、陣取り合戦。
ここから先はこちらの領域、と、先んじて手を打った方の意思が通るのだ。
ただし、直接的に相手を傷つけることは一切できない。
シャーロットのその解釈はおおよそ正しく、今まさに、彼女自身がどちらの陣に呑み込まれるかというところで揺れていた。
マルコシアスの精霊が彼女をびっしりと覆って守ろうとしているのを肌に感じるほどだ。
彼女をかかえるマルコシアスが、シャーロットを自分の領域であると宣言している――今のところは。
スカートを押さえて、と、十四歳のシャーロットの命令を忠実に守って忠告したマルコシアスは、今や、上へ下へと、ハチドリよりもすばやく旋回しながら飛び回っている。
シャーロットは、全力でマルコシアスにしがみつくか、あるいはレディらしくスカートを押さえておくかという決断を迫られ、片手でスカートを押さえていた。
マルコシアスなら、シャーロットを落っことすような真似はするまい。
彼女はまた、スカートを押さえる手で、義理のようにマルコシアスから与えられた尖晶石の欠片を握ったままでいた。
宙をジグザグに飛ぶマルコシアスを追って、銀の光線が次々に尾を引いて飛来している。
シャーロットはこれと似た魔法、あるいは同じ魔法を見たことがある――あのとき、マルコシアスをこの魔法で追っていたのはハルファスだった。
――威力の桁があまりに違う。
ハルファスが放った光線が可愛らしく思えるほどだった。
フォルネウスがいともたやすく次々に放つ光線は、五フィート離れた石の壁を焦がし、厚さが二フィートある石壁を溶けかけのバターであるかのように貫通し、白熱した大穴を開けた。
その大穴のふちが熱をもって赤く輝くほどだった。
マルコシアスは声を上げて笑いながら、巨大なコウモリの翼をはためかせ、リクニス学院の立派な尖塔のうち一つの周りをくるくる回ったかと思えば、急降下してバルコニーをかすめ、塔と塔のあいだの渡り廊の下を、柱にぶつかるかと思うほどの勢いでくぐりぬける。
かれが女子寮をかすめて飛んだとき、かれを追う銀の光線の一つが、その余波だけで次々に女子寮の窓硝子を割るのが分かった。
硬質なかん高い音が連続して響き、ごうごうと唸る耳許の風の中でもそれを聞き取って、シャーロットは悲鳴を上げ過ぎて空っぽになったかのような肺の中から、それでも怒鳴り声を絞り出した。
「――中に人がいたらどうするの!」
「大丈夫大丈夫、そうだとしても切傷くらい。僕がここであんたを離せば、あっという間にあんたは黒焦げ」
マルコシアスは息も上げずに歌うように応じて、シャーロットの悲鳴を引き連れて、あっという間に女子寮の屋上を眼下にする位置にまで空中を駆けのぼった。
ちらりと振り返ると、迫りくる七つの光線の向こうから、御大、つまりはフォルネウスが、見るからに嬉しそうに宙を駆けてくるところだった。
「おやまあ、見なよ。嬉しそうだよ、あいつ」
「見られない見られない!」
シャーロットはマルコシアスにしがみついて叫んでいる。
抱えられている安心感も、宙を激しく揺すぶられながら急降下と急上昇と急旋回を繰り返されれば泡と消える。
つまり、身体が覚える吐き気の方が、今や圧倒的に優勢だった。
「ほら、あいつ、いつもは僕と追いかけっこなんか出来ないからさ。めずらしい獲物にうっとりしてるぜ」
マルコシアスが、急旋回して螺旋を描きながら降下し、そばのバルコニーに突っ込んでいっている最中とは思えないほどのんびりした声を出した。
シャーロットの方は、迫りくる石の欄干の威圧感に負けて、ぎゅっと目をつむっている。
「前を見て! 前!」
「大丈夫だって」
欄干にぶつかる寸前、マルコシアスは見事に翼をはためかせ、はやぶささながらの勢いでふたたび宙に跳ね上がった。
かれを――というよりは、シャーロットを――捉え損ねた銀の光線が、ものの見事にバルコニーの欄干を砕き、バルコニーの半ばを瓦礫の山にして、その真下にあった屋根の上に石の破片を撒き散らした。
「あああ……」
悲しそうに呻くシャーロットに、マルコシアスはにやりと笑った。
かれの首許のストールが、旗のように後ろへまっすぐになびいている。
「あんたがああやって粉々になる方が良かった?」
「そんなわけないでしょ。でも、とても貴重な場所――」
言葉半ばでシャーロットの声は悲鳴になった。
マルコシアスがまたも急降下を見舞ったからだった。
錐揉み回転で銀の光線をかわしながら、マルコシアスは嘆息してみせる。
「ねえ、もうちょっと感謝してよ。僕はここでぼんやり浮かんでてもいいんだよ。あの魔法は、僕には悪さをしようがないからね。でもあんたは、あれがかすっただけで致命傷。ご主人様のために必死になってるっていうのに、甲斐がないねぇ」
「前を見てっ! 感謝してるの!」
「本当かなあ」
「本当っ! このうえなく本当っ! それで、どう!?」
悲鳴に促されて、マルコシアスはすばやく、かれの配下の精霊たちに、この学院の境界を観測させた。
そして、満足そうに喉を鳴らした。
「よし」
シャーロットはまさにその瞬間、急上昇に煽られて悲鳴を上げている最中だった。
「えっ? なんて!? なんて言った、いま!?」
マルコシアスは呆れて息を吐いたが、律儀に繰り返した。
「“よし”」
「良かった! 合図して!」
「はいはい」
マルコシアスが肩を竦め、その瞬間、かれの精霊が学院のてっぺんで、まぶしい光を忙しなく振り撒き始めた。
「外に出られる、行け」という、ワルターへの合図である。
シャーロットとしては、出来るだけ目立たない合図がよかったのだが、こればかりは仕方がなかった。
派手な現象にでも化けないかぎり、人間には精霊の姿が見えないのだから。
「行ってくれた!?」
息せき切ってシャーロットが尋ねる。
なにしろ合図に関してワルターとの詳細な打ち合わせはなかった。
ワルターへの合図を、彼が罠だと考えてしまうことを最も恐れていたのだ。
マルコシアスは飛びながら少し首を傾げ、そして頷いた。
「後ろも見ずにさっさと行ったよ」
「なんて素敵な人!」
シャーロットは快哉を上げたが、その声も数フィート離れていれば悲鳴と聞き分けることも出来なかろうというほど、吹き散らされて言葉の体を失っていく。
ある意味で内緒の会話にはもってこいの状況といえた――胃袋がひっくり返ろうとしていなければ。
「良かったね」
義理のようにマルコシアスがそっけなく言って、シャーロットは激しく頷く。
だが、とはいえ、
「目的達成したのに、達成感がなさすぎるっ!」
シャーロットが半泣きで叫んだ。
その叫び声も風にちぎられて消えていく。
マルコシアスはにやっと笑った。
「そりゃ、この状況じゃあね。僕の主人を手に掛けられるなんて好機、フォルネウスが逃がすもんかよ。
それに、良かったじゃないか――」
ひゅんっ、とそばをかすめた銀の閃光に、マルコシアスは髪のひとすじすらも揺らされることはなかったが、シャーロットの頬が切れた。
ぱっ、と鮮血が散り、シャーロットが顔を歪める。
フォルネウスの魔法が、その害を及ぼせるものに対して、厳正な線引きをされたうえで作用したのだ。
散った鮮血が見えたのか、フォルネウスが嬉しそうに、あるいはもの珍しそうに声を上げる。
確かに、魔術師が手傷を負うというのは稀な事態だ。
「――あんたの読みどおり、あんたが一世一代の間抜けってことが分かったら、フォルネウスは喜んでついて来た」
マルコシアスは微笑み、親しげに頬を寄せて、自分の頬でシャーロットの頬の血をぬぐってやった。
が、それがますます出来たての切傷を痛ませて、シャーロットは悲鳴を上げる。
「痛いっ! 何するの!」
「あんたは面白いね」
マルコシアスは器用に肩を竦め、ぐるん、とその場で回った。
間一髪、シャーロットをかすめて銀の光線が飛んでいき――
「自分に喰いつくだろうって思ったら、例の無粋な契約に守られてないことも、あっさりばらす作戦を立てる」
――行き過ぎた銀の光線が、行く手で学院の壁に大穴を開けた。
シャーロットはショックのあまり茫然としたが、すぐにわれに返ってわめいた。
「オリヴァーさんにでもあのジュニアにでも、私が大事な契約を忘れた間抜けだなんて知られたら耐えられないわよ!」
マルコシアスはわざとらしく目を丸くする。
「え、でも、あんたが言ったんじゃないか。先にストラスの主人を脱出させて、自分が怪我でもすればフォルネウスが喰いついて、精霊だって全部こっちに向けてくれるって」
「そうだけど! でも絶対、これがばれたら卒業までもの笑いの種よ!」
医務室からあの塔に向かう道中、確かにシャーロットはそう言った。
ストラスだけで、学院の境界からフォルネウスの精霊を引き剥がすことが出来れば御の字。
難しいだろうが不可能ではない――何しろ、シャーロットからすればワルターこそが本命だが、ショーンからすれば違うからだ。
彼がフォルネウスに学院を閉鎖させたのは、シャーロットを逃がさないようにするためだ。
そして加えて、この事態の通報を防ぐため。
だからこそ、シャーロット自身を餌にしてしまえば、学院の閉鎖が解かれる目算もじゅうぶんにある。
それを聞いたオリヴァーは、珍妙きわまるものを見る目でシャーロットを見ていたが、反論はしなかった。
なにしろ大広間でのやり取りがある。
ショーンが個人的にシャーロットを恨んでいることは、今や誰にとっても火を見るよりも明らかだったのだ。
そこでシャーロットとしては、確実に学院の閉鎖を解かせる策を練らねばならなかった。
なにしろ、彼女自身こそが、彼女が切れる最後の手札なのだ。
それを切るときには成功を確実にしておかねばならない。
かくしてシャーロットは、ストラスだけで目的を達することが出来なかった場合は、オリヴァーとシャーロットが別々の方向へ逃げることを提案した。
オリヴァーからすればそれは、二手に分かれることでより多くの精霊を引きつける苦肉の策と思えたのだろうが、実際は違う。
彼女はマルコシアスだけにこそこそと告げた。
――〈身代わりの契約〉が結ばれていないことをほのめかせば、フォルネウスは完全にシャーロットに狙いを定めるのではないか。
マルコシアスは、シャーロットが肘でかれを押して無礼を教える程度には遠慮なくげらげらと笑った(その声に、オリヴァーもストラスも、なにごとかという目でシャーロットを見てきたために、彼女が赤くなったほどだった)が、シャーロットの提案の正しさは認めた。
フォルネウスが、〈同格〉の相手の主人という、世にも珍しいものを獲物にした狩りに夢中になる可能性はじゅうぶんにある。
そしてそうなれば、外部への通報を警戒したショーンが何を命じていようが、彼の思惑よりも早く学院の閉鎖が解かれてしまうはずだ。
魔神を御して、かれら自身の欲求や快楽よりも命令を優先させるのは、並大抵のことではない。
さらに、フォルネウス本人をショーンから引き離せば、フォルネウスは大量の精霊を守護のために彼のそばに残すことになる――当然だ、この場にストラスがいることを知っているのだから、自分が離れてがら空きになった主人を、ストラスにおめおめと狙わせるようなことはするまい。
何から何まで完璧に思える作戦で、立てた当初は緊張もそっちのけでシャーロットは得意になっていたものだが――
「もっと、策が当たったことを喜べる状況にいられると思ったの!!」
理不尽きわまりないことを叫ぶシャーロットに、マルコシアスは声を上げて笑った。
淡い黄金の瞳、陽光を受けては影になり、目まぐるしく色合いの変わるその瞳が、間近にシャーロットを見て細められる。
「良かったじゃないか」
またそう言って、マルコシアスは笑みに歯をこぼした。
「あんたがもし、こんな状況でも暢気に達成感を喜べる人間だったら――」
銀の閃光が炸裂する。
マルコシアスは軽々とそれをかわして、いよいよ深く微笑み――
「――僕、ますますあんたのこと好きになっちゃうよ」
「私、臆病で良かった!」
シャーロットが叫んだ。
心からの言葉だった。
悪魔に気に入られた人間はことごとく、ろくな末路をたどらなかったといういくつかの逸話は、魔術師のあいだではあまりにも有名な話である。
▷○◁
上へ下へ、右へ左へ、凄まじい速さで光景がねじれて視界の外へと飛んでいく。
風を切る頬が痛い。
目的を達成したからには、シャーロットとしてはさっさとフォルネウスを振り切って身を隠し、学院中の人間をマルコシアスに守らせて、助けが来るまで静かに過ごしたい。
ところがそうそう上手くはいかない。
「あんたを餌にしたの、失敗だったかもな」
マルコシアスが舌打ちしてつぶやき、ちらりと後ろを振り返った。
フォルネウスは嬉々とした表情で、飛ぶというより空中を優雅にすばやく泳ぐようにして、ぴたりとかれらについて来ている。
飛来する銀の光線は増えるいっぽうで、先端が欠けた尖塔の数、欄干が倒壊したバルコニーの数は片手の指に収まらず、割れた窓硝子の数を数えようとすれば、ともすれば毛髪まで動員する必要があるか検討しなければならないほどだった。
「見なよ、嬉しそうにさ。僕の主人をなぶれるなんて、これを逃せば二度とない機会だもんね」
シャーロットは悲鳴も嗄れてマルコシアスにしがみつき、片手ではしっかりとスカートを押さえていたが、はたと思いついて真面目に言った。
「ね、いったんお前を解放して、それからまたすぐ、〈身代わりの契約〉も召喚陣に描き加えてお前を呼んだらどうかしら? そうしたら私は安全になるわ。お前も、呼んだら来てくれるでしょ?」
マルコシアスは宙返りし、飛来する銀の閃光を華麗にかわしてから、悪魔の微笑みでシャーロットを見つめた。
「うん、まず、あんたが無事に召喚陣を描き切れるかどうか、そこが見ものかな」
「――そうだった」
シャーロットはうめいた。
そのときふいに、どうしてもっと早く思いつかなかったのだろうという考えが、彼女の頭の中に落ちてきた。
シャーロットは息を吸い込む。
――この作戦の原点に立ち返るのだ。
マルコシアスはフォルネウスにもショーンにも手を出せない、だが――
シャーロットが自分の肩に顔を伏せ、ぶつぶつと一心不乱に決められた言葉を唱え始めるのを察して、マルコシアスは微笑んだ。
稀にみる頑固者、折れないスイセン、砕けない硝子細工。
彼女が折れるとすれば、砕けるとすれば、それはどんなふうに見えるだろうかと興味は尽きないが、だがどうやら、この程度の苦境では、彼女はいっこうに折れないようだ。
だが、そんなことは分かっている――彼女が折れるとすれば、砕けるとすれば、それは彼女が意地になって貫こうとする倫理観と、彼女が望む人生が喰い違ったとき――その矛盾にぶつかったときにこそ、彼女は折れるに違いない。
今この瞬間、シャーロットの中のすべての指針は同じ方向を示している。
それが分かる。
人を殺し、学院を傷つけ、魔術師の名誉を地に堕としたショーン・オーリンソンに、これ以上の傍若無人を許してはならない。
それがシャーロットの結論だ。
そのためならば、シャーロットは手段を選ぶまい――彼女の考える倫理に触れない限りは。
魔神から見れば吹けば飛ぶほどに弱い身体の隅々にまで力を入れて、懸命になって現状にあらがい、考えを絞り出す、そのさまは見ていてなんとも楽しい。
ぶつぶつと呪文を唱えながら、吹きつける風に苦労して逆らうように、シャーロットがマルコシアスの襟を引き、首を傾げたかれに向かって、一方向を指差した。
シャーロットの望みにそむく動機などはなから持たず、マルコシアスはそちらへコウモリの翼をはためかせて飛んだ。
窓をかすめ、塔をなぞるように空を昇り、そして急降下――
――行く手に、崩れた塔の上に散らばる無数の宝石のきらめきが見えた。
もといた場所に戻ったのだ。そしてそこに、大量の精霊に守られたショーンが立ち竦んでいる。
マルコシアスの腕の中で、シャーロットがたかだかと手を振り上げた。
フォルネウスからはどう見えただろう――先ほどまさに、自分を襲った魔術師の呪文の効果を思い出したはずだ。
そして、シャーロットが呪文で借りる他の悪魔の力には、当然にマルコシアスとのあいだの〈同格〉の縛りは働かないということを。
ゆえに、ショーンを傷つけられることは自分を傷つけられることと同義だということを、強く意識したはずだ。
息を呑む声がして、マルコシアスとシャーロットを勢いよく追い抜き、フォルネウスがシャーロットとショーンのあいだに立ち塞がる。
その瞬間、その場のすべてが止まった。
マルコシアスがつんのめるように、地面から六フィートの高さで動きを止める。
フォルネウスがショーンを背中に隠して宙に佇む。
呪文を終え、振り下ろされようとしたシャーロットの手が――
マルコシアスは思わず笑った――かれには分かる、シャーロットは何があっても、呪文でショーンを傷つける真似はしない。
それは彼女が最も嫌い、許し難く感じる行為だ。
だからこそ、この瞬間の狙いも――
――ぱりっ、と、乾いた音がした。
フォルネウスに落ちた雷光が、小さな欠片だけを残して消えた音だった。
風が吹き、動きを止めた魔神と人間の髪がそよいだ。
はぁはぁと響くのはシャーロットの上がった息の音だ。
音もなく降り注ぐ陽光は、いつの間にか橙色を帯びて影を長く伸ばしている。
その光が、本棟の陰とのあいだで明瞭な一線を引いている。
――フォルネウスはおだやかに微笑んでいる。
「おいおい、お嬢さん」
たしなめるようにそう言って、フォルネウスが肩を竦める。
「同じ手が二度通じると思ってはいけないよ。きみのそれは、さっき見た」
シャーロットは瞬きもしない。
「きみも魔術師なら知っているんじゃないのかな。呪文で呼び出す力は、ほんもののわれわれの力の足許にも及ばないよ。いくら私より高位の魔神の力を呼び出したって、そんなものはたかが知れてる」
シャーロットがかすかに首を動かして、マルコシアスを見た。
彼女の唇が小さく動く。
マルコシアスが瞬きして、少し驚いたように彼女に顔を寄せ――
「――それに、」
フォルネウスが明るく破顔した。
「こっちはお披露目がまだだったね」
その瞬間、マルコシアスがふいを突かれて叫んだ。
まさしく見た目どおりの、十四歳の少年のように。
「痛ぇっ!」
シャーロットが思わず悲鳴を上げた。
マルコシアスが身をよじった拍子に、ついにかれの腕から滑り落ちてしまったのだ。
六フィートの高さを落下したシャーロットが、腰をしたたかに地面に打ちつけて悶絶する。
「マルコシアス、命令に対して忠実、質問に対して誠実、それは〈きみ〉の美点だけれど、それでも時と場合は考えるべきだよ。
これまでも間抜けな命令に付き合わされて、危ない目に遭ったことはあるだろう?」
フォルネウスがやんわりと指摘した。
けけっ、と、小さく笑う声がする。
マルコシアスはむっと眉を寄せると、後ろに手を伸ばして、なんの苦労もせずに頭の大きな小人の姿をした魔精の足を掴んで引きずり寄せた。
「いま笑ったの、あんた?」
むっつりと尋ねられて、小人の姿の魔精は今しがたの嘲笑はどこへやら、泡を喰って逃げ出そうと激しく身をよじり始めた。
その抵抗をものともせずにかれをぶら下げて溜息を吐き、マルコシアスがかろやかに瓦礫の上に着地する。瞬きのうちに、かれの背中から巨大な翼が消え失せた。
そのときにはもう、よろめきながら立ち上がろうとするシャーロットに、フォルネウスのブロンズ色の指がぴたりと向けられていた。
「――――」
シャーロットは痛みに顔を顰めながらも、無意識の仕草でスカートをはたき、おそるおそる身体を動かそうとしている。
骨が折れていないかどうかを心配する顔つきだった。
彼女がそっと体重を乗せる足を変えたとたん、足許で瓦礫が小さく崩れ、シャーロットは小さく悲鳴を上げて飛びすさった。
マルコシアスが困り顔で肩を竦めてみせたことに、シャーロットが飛びすさった方向は、マルコシアスよりもショーンに寄った方向だった。
ショーンは目を見開いてシャーロットを凝視している。
どうして彼女が傷を負っているのかが分からないというように。
想像の埒外の愚か者を見たときのものとして、お手本になりそうな表情だった。
「ベイリー、きみは……」
今となっては、ショーンとシャーロットの出で立ちは正反対に見えた。
片や汚れひとつない仕立てのよい背広で、襟まで正している青年と、袖や裾が裂けたワンピース姿で、髪を乱して息を上げている少女と。
フォルネウスの指は、シャーロットの動きに合わせて、ぴたりと丁寧に彼女に向けられたまま、まるで見えない糸でつながってでもいるかのように、マルコシアスの主人を追いかけている。
シャーロットの橄欖石の色の瞳も、今やその指先に釘付けだった。
フォルネウスが、にっこりと笑ってマルコシアスを振り返る。
「――じゃ、マルコシアス、」
マルコシアスは肩を竦め、足を掴んでぶら下げた魔精の腕を、もう一方の手で掴んだ。
そのまま、さながら雑巾を絞るかのように、いともやすやすと魔精の身体をねじり上げる。
悲鳴を上げる間もわずか、あっという間に致命の一撃を受けて、魔精が息絶えるように領域に追い落とされていく。
その身体がかすかな煙となって漂ったのを一瞥して、マルコシアスは他人事のようにつぶやいた。
「あいつもかわいそうに」
そして、砂ぼこりを払うように両手をぱんぱんと合わせて払い、フォルネウスと目を合わせる。
シャーロットに指を突きつけたフォルネウスは、マルコシアスが覚えているなかでも有数の、輝かんばかりに嬉しそうな顔を見せていた。
「チェックメイトかな?」
マルコシアスもにやりと笑った。
「お好きにどうぞ、フォルネウス」




