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07 邂逅

「――で、どう言い訳する?」


 アーノルドは苛々と踵で御者台を叩きながら言った。


 魔術師の方は御者台を下りており、御者台に手を突いてうなだれている。



 ――シャーロット・ベイリーが逃げ出した。

 それが判明したのは夜更けのことだった。


 どうやら荷台の様子がおかしい――静か過ぎる――ということに、アーノルドが気づいたときには手遅れだった。


 御者台で二人仲良くうとうとしていたのが悪かったらしい。


 すぐさま周囲を捜したものの、夜陰の中では見つからず、大慌てで馬車を戻して、今に至る。



 時刻は夜明けに近付いている。

 徐々に明るくなっていく辺りの光景が、今は最高に皮肉だった。


「二人してうたた寝してましたって、正直に言う?

 あんた、スミスさんがそれで許してくれるほど優しい人か、知ってる?」


 魔術師はうなだれたまま首を振った。

 返答を絞り出す気力もないらしい。


 アーノルドは伸びて目に掛かる前髪を掻き上げた。


「期待外れを神さまと人に向かって言うのはナンセンスだけど。おれたちのどっちかが、荷台にいるべきだったね。そこの、あんたの悪魔はずっとびびってるし」


「何をぅ」


 リンキーズは小声で反駁した。

 かれは魔術師の足許で、如何にも犬らしくくるくると走り回っている。


 だがやはり、犬にしては目玉が大き過ぎた。


「自分より絶対強いやつがいるんだぞ。僕は好き好んで犠牲になりたいわけじゃない」


「悪魔だから死なないんじゃないの」


 アーノルドはつぶやいたが、返答を期待したわけではない独り言だった。


 彼は頭の中であれこれと考え合わせていた――シャーロット・ベイリーを逃がしてしまった。

 これはもう、スミスから言いつけられた仕事の明らかな失敗だ。


 この失敗がスミスに伝わるまで予断はあるまい――何しろ、スミスに仕える悪魔が幌の上にいるのだから。

 オウムは優雅に背中の羽毛に嘴をうずめてうたた寝しているようだが、それも()()かも知れない。


 ともかく、もう詰んでしまった。

 さて、これからどうしよう。


 この辺りに煙突掃除の仕事はあるだろうか。

 あるいは下水から死体を引っ張り上げるような仕事は?


 もう海が近い。

 ここには、生まれ故郷で彼が言いつけられていたような、水揚げされた魚をひたすら運ぶような、そんな仕事はあるだろうか。


 ――いや、その前に、スミスはこの失敗をどのくらい重く見るのだ?

 下手をすれば、スミスが送り込んできた悪魔に目玉をつつかれかねない事態だ。



「――われわれ二人とも、こういった……無体……」


「むたい? 誘拐のこと?」


「まあ、そうだね……そう、誘拐……それには慣れていない。

 目を離してしまったのは、ある意味では仕方ないんだ……」


 魔術師が呻くようにそう言ってから、顔を上げた。

 目の下にげっそりと隈が浮いている。


 彼が指を一本立てた。


「アーニー、まずきみに関係のあることを言おうね。

 ――ここはもうベイシャーなんだ。ベイシャーに入ってしまっている……ミスター・スミスが、もう既にこの近くにいたとして不思議ではない」


 アーノルドは周囲を見渡した。


 朝靄の漂う光景は、ただの木々の間の一本道といったところだった。

 波の音が聞こえてきて、空気にも微かに潮の匂いがある。

 足許の道は舗装もされておらず、木々の間を透かして、頑丈な石造りの背の低い家が、辛うじて二軒程度は目につく、といったところ。

 これでは、アーノルドの故郷の方がまだ栄えている。


「田舎なんだ、ベイシャーって」


「まあ、そうだね。昔は大きな港があったんだが、そこが廃港になってからというもの……いや、いい。そんなことを話している場合じゃないね。

 つまり、ミスター・スミスが――偶然にであっても――われわれのこの失態であるとか、もっと悪くすれば自由の身であるミズ・ベイリーを目の当たりにしてしまうと、非常にまずいということなんだ」


 アーノルドは小さく顎を引くようにして、頷いた。


「だね」


「それから、きみに関係のないことも言えば」


 魔術師は顎を撫でた。

 無精ひげが生えている。


「明日、私は会社に行かねばならない」


「――――?」


「仕事がある。休むと言っているのは今日までだ」


 アーノルドは無言で目を瞬かせた。

 勤務するということを、彼は理解していなかった。


 その無理解を、どうやら顔色から察したらしい、魔術師は横目でアーノルドを見て、唇を舐めて言葉を考えたようだった。


「――つまり、明日、私が会社に行かなければ、私が何かの面倒事に巻き込まれているということを、同僚たちに知られてしまうんだよ。それはきっと、ミスター・スミスも望むまい……」


 アーノルドは少し考えてから、おずおずと尋ねた。


「つまり、ここで悪いことしてんのがばれるってこと?」


「そっ――そうだね」


 魔術師は、とても大きなものが喉に詰まったかのようにそう(うべな)って、またそわそわと顎を撫でた。

 そして、きっぱりと言った。


「われわれに残された道はただ一つ、可哀想なベイリー嬢を見つけて、再び囚われの身になっていただくことだ」


 アーノルドは眉を顰めた。

 気取った婉曲な言い回しは彼の得意とするところではない。


「つまり――またもう一回捕まえようって、そういうこと?」


「まあ――そうだね」


 罪悪感を覚えたのか、魔術師は少しのあいだ目を閉じた。

 それから意を決した様子で瞼を上げ、困憊した様子ながらも断固として、言った。


「手分けして彼女を捜そう。彼女の年恰好は覚えているね? この辺りには廃墟になっている建物も多いから、隠れるところはたくさんある。気を抜かずに捜してくれ」


 アーノルドは頭の中で、昨日の(もう昨日になったのだ!)朝に見た、シャーロット・ベイリーの姿を思い描いた。


 金髪、ふわふわした茶色いドレス、ひ弱そうな白い顔、頼りなさそうなよたよたした歩き方。よし。


 魔術師は、この状況にせめて少しでも明るい要素を見出そうとしたのか、健気に続けた。


「幸いなのは、きっとこの町じゅうを探しても、電話を引いている家は一軒あるかないか、きっとないだろうということだ。助けを呼ばれてしまってはもうどうしようもないからね」


 アーノルドは頷く。

 彼は電話を見たことも使ったこともなかった。


 魔術師はじっと彼を見た。


 ぼんやりした朝の光の中で、魔術師の顔は急に老けて見えた。

 目尻の皺に、何かの感情――罪悪感のような、憐れみのような、「悪かったねぇ」と今にも言い出しそうな、そんな感情がほの見えた。


 だがすぐに、彼はそれを振り払うように頭を振った。


「よし、では、捜索を始めよう。

 ――リンキーズ、お前もだよ。お前、そんな格好をしているんだから鼻が利くんだろう? 早くあのミズ・ベイリーを見つけておくれ。いいね?」





▷○◁





 アーノルドはふうふう言いながらあちこちを捜し回ったが、シャーロット・ベイリーは見つからなかった。


 いっそ、あの女の子が唐突に霞になってしまったと言い訳するのが容易いのでは? と思い始め、アーノルドは顔を顰める。



 アーノルドの経験上、漁師は暗いうちから活動を開始する。

 だが、この町の海辺は静まり返っていた。

 どうやらこの町に、漁師は残っていないらしい。

 みんなして、他の港に移ってしまったのかも知れない。


 ここに残る僅かな人たちは、どうやって生活しているのだろう。


 アーノルドは郷愁の念に駆られ、いったん海が見える場所にまで迷い出た。

 松林の間を抜けて、長い年月に石段が埋もれてしまったような石段の名残を下る。

 足許は黒くて柔らかい土だった。


 そこを抜けるとしばらく素気ないさらさらした砂の地面が続き、そして岩礁に通じている。

 岩礁の間を、辛うじて形を保っているような、古い桟橋が沖の方へ突き出しているのが見えていた。


 海の波が寄せる穏やかな音を聞き、懐かしい海の匂いを嗅ぎながら、アーノルドは思わず袖でごしごしと顔を擦った。


 母は――もう声も覚えておらず、顔もぼんやりとしてきてしまったが――まさか自分がここでこんなことをしているとは思うまい。

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そう、繰り返し繰り返し言い聞かせてきた母は。


 顔を上げて、辺りを見渡す。


 夜明けの浜辺に人影はない。

 が、右手の方に、ぽつねんと置き去られたような木造の小屋があった。半分以上は廃墟だ。


 義理のような気持ちで、アーノルドはその小屋の中を覗こうとして、触れた途端に蝶番が外れ、内側にばたんと倒れた粗末なドアを見て顔を顰めた。


 もうもうと埃が舞っている。


 ちらっと中を覗き込む。薄暗い、殺風景な小屋の中に人の気配はない。

 顔を背け、ちょっと咳き込んでから、アーノルドはその小屋を後にした。



 魔術師は、今どの辺りを見回っているのだろう――「人にも訊いてみる」と言っていたから、この集落に残る僅かな人たちを回っているのかも知れない。


 確かに、人前に出るならアーノルドより魔術師だ。

 アーノルドには常識が欠けている。



 アーノルドは海を離れ、松林を抜けて、数軒の小ぢんまりした民家を横目に見ながらしばらく歩き、それから出くわした小高い山の斜面を登り始めた。

 道が通っているということは、この先に何かがあるに違いないと思ったからだ。


 道はすぐに分岐した。

 迷ったすえ、彼は登っていく道ではなく、いわば横向きに山腹を切り拓くように続いている道を選んだ。


 冬を迎えてすっかり葉を落とした木々がうなだれるように梢を並べる先に、大きな石造りの平屋の建物が横たわっていた。


 その周囲は丁寧に木が伐られたのか、空地になっている。

 少しの雑草が生えている程度で、後は死んだように静かだ。


 どことなく、故郷における初等学校を思わせる佇まいだった。

 もっとも、アーノルドの故郷のものは木造だったが。


 太陽は、既にやや高い位置にまで昇っている。


 ざっざっ、と靴音を立てながら、その初等学校(仮)に近付く。

 窓には硝子が嵌め込まれている。驚きだ。アーノルドの故郷では全て板木で塞がれていた。

 硝子は黒く汚れており、灰色の水晶のような有様になっていて、中の様子を覗けるものではなかった。


 ドアは蝶番が外れて内側に倒れ込んでいた。


 その様子に目を留めてから、中に視線を向ける。

 石造りで陰鬱な建物。

 埃っぽく、窓も汚れ切って光を通さない中、廊下は夜のように暗かった。


 入口から、朝を迎えた空の明るさが忍び込んではいたが、その明るさの寿命も限られ、奥まで照らすには至っていない。


 差し込む光の真ん中に、アーノルドの形の影が落ちていた。

 アーノルドは瞬きして、ちょっと身体を左にずらした。影も移動した。


 それではっきりと見えた。

 ――倒れたドアの向こう側、厚く積もった埃に、小さな足跡が残っている。


 ひゅーう、と、軽い口笛が出た。


 まさか、ここにシャーロット・ベイリーが逃げ込んだのか?

 ――魔精の言葉が甦る。『あの女の子の後ろにいた奴を見た!? 魔神だよ! すぐ追い掛けてくるよ!』。


 ごくり、と唾を飲む。


 だがしかし、ここでシャーロット・ベイリーを見つけられればしめたものではある。

 アーノルドは一度振り返って、背後から彼に忍び寄っている悪魔がいないことを確認した。


 それから、足音を忍ばせて、倒れたドアを乗り越え、古びた建物の中に入っていった。



 外壁は石造りだったが、床は木の板張りだった。

 ところどころで割れている。


 むわりと埃の臭いがしていたが、アーノルドにとっては慣れたものだった。

 むしろ、足許が崩れ落ちていかないか、そちらの方にはらはらしていた。


 十分に視界の利かない中で、爪先で探るようにしながら一歩一歩、壁を掌で辿って進んでいく。


 入口から、最初の突き当りをアーノルドは左に進んでいた。

 この建物は、外観からも分かっていたが、入口を正面とすれば横に長い建物だ。

 廊下は建物の真ん中を貫き、その両側にいくつも部屋が並んでいる。


 部屋にはドアの他に、廊下を向いた窓もある。その窓硝子は、辛うじてまだ半透明を保っていた。

 薄暗い中で目を凝らせば、部屋の中の様子も見てとれる。


 中には教壇と教卓――教卓の後ろには大きな黒板(これはアーノルドの故郷にはなかったものだ)、そして教卓と向かい合う形で、たくさんの長机と、それと対になる長椅子が並べられていた。

 山積みになったままの本もある。


 ここはやはり初等学校らしい、と、アーノルドは確信を深めたが、この学校が打ち棄てられてからの長い年月、ここには生徒ではない行儀の悪い来客が何度かあったようだった。

 大抵の教室において、机や椅子が引っ繰り返っていたり、黒板が割れていたり、本が床に散らばってページが破れていたりと、荒らされた跡があった。


 明かりが欲しかった。

 廊下は夜のように暗く、積もった埃に残っているはずのシャーロット・ベイリー(ここにいるとすれば、だが)の足跡も見えない。


 そのためにアーノルドは、一つ一つの教室を覗き込み、その教室の外に通ずる窓から差し込む光で、中に人影がないかどうかを確認していた。

 足許の床は抑えようもなく軋んでおり、(重ねて言うが、もしいるとすれば)シャーロット・ベイリーはアーノルドが近付いて来ることを、目で見るよりも先に耳で聞いて察知できることだろう。


 だが、アーノルドはそれについては気にしていなかった。

 同じ場所にいるとすれば、シャーロット・ベイリー(繰り返しになるが、いるとすればだ)が逃げるときにも、床は盛大に軋むことになるからだ。


 唯一の懸念点は、どうやらシャーロット・ベイリーが悪魔を従えているらしいということだが、これについてはもう、気に掛けたからといってどうこうなる問題ではないとして、アーノルドは目を逸らしておくことにしていた。



 ぎぃぎぃと悲鳴を上げる床を踏んで、アーノルドはとうとう一階の奥まで辿り着いた。

 最後の部屋を覗き込んで、中に人の気配がないことを確認する。


 首を振って、埃の積もった床を折り返す。

 足早に入口のところへ戻る。

 いったん外に出て、明るい外に目をしばたたかせながら深呼吸。


 それからもう一度中へ戻って、義理のような気持ちで(何しろ、ここにシャーロット・ベイリーがいるとは限らないので)、今度は右側に進み始めた。


 惰性のように一つ目の教室を見て、その向かい側の教室を覗き――


 かたっ、と、小さな音がした。

 アーノルドは驚いて振り返った。


 入口の右側で彼が最初に覗いた教室の隣の教室から、どうやらその音は聞こえてきていた。


 アーノルドはためらい(というのも、やはり悪魔のことが気に掛かっていたので)、少しのあいだ踵を上下させてから、しかしここで逃げ出したとすると魔術師への言い訳に苦労するだろうな、という思いがあって、やがて意を決して、その音がした教室に近付いた。


 教室のドアは半開きになっている。

 別に珍しいことではない、他の教室のドアも似たり寄ったりだ。


 半透明に曇った硝子窓から中を覗き込む。

 人がいるようには思えない――中では、使われなくなった長机や長椅子が山積みに重ねられているようだった。

 誰もいないように見える――ただ、淡く揺らめく明かりが、曇った硝子越しにかすかに見えたような気がした。


 また、少しためらう。

 中に人がいるとして、浮浪者かも知れない。


 あるいは、明るく見えるのは目の錯覚かも知れない。

 今の音は隙間風か何かでは――


 ――また、かたっ、と小さな音。


 ねずみかも知れない、と思った。

 この古い初等学校に、ねずみが盛大に繁栄していたとして不思議ではない。


 息を吸い込む。

 埃まみれの空気には慣れっこだった。


 手を伸ばして、そうっとドアを押す。

 外気に晒され続けていないぶん、こちらのドアは入口のものよりも頑丈さを保っているようだった――盛大に軋みながらも蝶番は回り、ドアが大きく開いた。


 教室の、外に通ずる窓から薄く陽光が射し込んできている。

 本当に薄い――これでは月光の方が数段明るい。


 しかし、やはり光源はそれだけではなかった。

 教室の中で、ここからは積み上げられた机の陰になっているところだろうが、そこにランプの揺らめく明かりがある。

 暖色の灯りがぼんやりと教室を照らし出して、天井に大袈裟な薄い影を投げ掛けている。


 アーノルドは唾を飲んだ。


 ここには人がいる。

 そうでなければこれは火事の前兆だ。


 人がいるとして、本当にシャーロット・ベイリーか、あるいはこの辺りに住む浮浪者か――


 どきどきしながら、アーノルドは教室の中に足を踏み入れた。

 足許で埃が舞い上がった。


 ちらつく灯り、たぶん光源はあそこだろうという、積み上げられた長机の陰の一画に目を留めたまま、じりじりと教室の中を進む。


 そうしながらも口の中は干上がっていた。

 まさか悪魔が手ぐすね引いて待っていたりは――


 そろそろと歩いて、問題の長机の山の奥へ首を伸ばす。


 長机の上に逆さまに引っ繰り返された長机が積まれているせいで、埃の積もった長机の脚に顔面を激突させそうになる。


 ゆっくりと、慎重に長机の陰を覗き込み――


 ――誰もいない。


 古い蝋燭の燃えさしが危なっかしく刺さる小さな燭台が床に置かれ、ちらちらと火が揺れているだけだ。


 だが、直前まで誰かがここにいたらしい――脱ぎ捨てられた外套が、ぽつねんとそこに残っている。


 アーノルドは拍子抜けしてその場に立ち尽くした。

 火がある、だが人はいない。


 ここにいた何者かは、既にここを逃げ出した、あるいは出て行った後なのか?



 困惑して、アーノルドは無意識のうちに伸びてしまった前髪を引っ張り――



 がたんっ、と、背後で音がした。


 アーノルドは弾かれたように振り返った。


 そしてそこに、頭上で何か――長方形の、厚みがあるもの――を振り上げ、今しもそれを振り下ろそうとして、しかし何の拍子にか衣服の一部(後ろのリボンだろうか?)がどこかに引っ掛かった様子でたたらを踏む、小柄な女の子の影を目の当たりにした。


「うわっ!」


 アーノルドは叫んだ。当然だった。


「わあっ!」


 女の子も叫んだ。よろめいて倒れそうになったのだ。


 アーノルドは驚いて目を見開いて及び腰になり、そしてなんとか倒れずに踏み留まった女の子の顔を、蝋燭の明るさを借りて直視した。



 ――金色の髪、橄欖石の色の目、不健康なまでに白い頬、微かなそばかす。



 女の子もまた、アーノルドの顔を直視していた。

 その目がますます大きく見開かれた。


 アーノルドは思わず顔を隠して後退ろうとしたが、彼が手を上げるよりも早く、女の子はぽかんとした口調で言っていた。


「――あ……急に乱暴なことをしようとしてごめんなさい、あなた――あなた、誘拐犯じゃないわよね?」


 アーノルドは瞬きした。


 その瞬きのうちに、彼は自分にとっての僥倖を呑み込んだ。



 ――御者台にいて良かった。



(この子は、あのときに、おれの顔を見てない)


 そう理解して、アーノルドはこの場合において、最も妥当と思われる返答を返した。


「ええっと……誘拐ってなんのこと?」


 女の子は、「あっ」と言わんばかりに手にした本(本だ、間違いない)で、己の顔の下半分を隠した。


 口許に手を当てる、に準ずる仕草だった。



 アーノルドは息を吸い込んだ。

 間違いなかった。



 ――この女の子はシャーロット・ベイリーだ。


 シャーロット・ベイリーがここにいる。





















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