02 〈同格〉
シャーロットには茫然とする間もなかった。
もうもうたる粉塵はあっという間に大広間中に広がり、あたかも薄汚い濃霧の中に放り込まれたかのようだった。
壁が崩れた拍子に、当然ながらガス灯も消えた。
ガス灯を覆っていた硝子が落ちて砕けるかん高い音も聞こえていた。
堅牢な石造りの大広間は、瞬く間に夜霧ただよう廃墟と化した。
狼狽の声と悲鳴、ショーンの悪態が聞こえ、そしてシャーロット自身も狼狽の悲鳴を上げそうになったところで、だれかが骨ばった手で彼女の口をふさいだ。
本日何度目か、マルコシアスである。
シャーロットは安堵の息を漏らそうとしたが、それもマルコシアスが無頓着に彼女の口と鼻をおおったてのひらに遮られた。
かれがそのままシャーロットを引きずり立たせて、悲鳴と叫び声、さらには瓦礫の崩れる音、誰かがよろめいて倒れるどさっという音が絶え間なく響く大広間の廃墟から連れ出し始めた。
「こっちだ、レディ。安心してついておいで」
耳許で囁かれ、無我夢中でシャーロットは頷く。
「明かりを点けろ!」
ショーンがわめいた。
「ベイリーを逃がすな!」
「いやしかし、ぼっちゃん」
フォルネウスが応じるのんびりとした声。
「彼女にはマルコシアスがついていますからね……そう簡単にはいきませんよ」
マルコシアスは、この暗さ、この粉塵の量であっても、きわめて明瞭な視界を確保できているらしかった。
かれに手を引かれるがままにシャーロットは走り、いく度か瓦礫の破片にぶつかった他には無事に、大広間の隅に――正しくは、先ほどまで大広間の隅だった場所に――辿り着いた。
ショーンは混乱しているらしい――思うに、頬を殴られたのは先ほどが人生ではじめてだったのではないかとシャーロットは推察した。
裏返りそうになる声を必死に抑えて、彼が叱りつけるように命令した。
「明かりを点けろと言っている!」
同瞬、シャーロットは囁き声を聞いた――マルコシアスの声だった。
いつになく緊張している。
かれが小声で、しかしはっきりと、「明かりを点けさせるな」とつぶやいたのだ。
だれに向かってのつぶやきかは明らかで、かれの精霊たちに対しての命令だった。
シャーロットは不安のあまり、強く唇を噛んだ。
――精霊と悪魔を比べてみれば、精霊ははるかに力弱い存在だ。
だが、案に相違して、「おっと」とフォルネウスが言った。
暢気きわまりない声音だった。
「マルコシアスは暗いのがお好みのようですね……――おーい、マルコシアス? どこだ? 明かりを点けさせてくれ」
マルコシアスは応じなかった。
これに、シャーロットはかなり安堵した。
マルコシアスは悪魔であって、人間どうしのもめ事には興味などあるまい。
ここで、ショーンがシャーロットの敵であるということをすっかり忘れて、「なにかな?」などと応じられては目も当てられない。
大広間は、入口のアーチがある壁を除く三方の壁が無惨に崩れ去っている。
大小様々な瓦礫が転がるさまは、その外側――無事を保った、大広間の外側――の廊下の明かりが射し込む場所にまで来ればあきらかだった。
シャーロットはあやうく、「なんてことするの!」と怒鳴りそうになったが、自重した――倒れこんでいた人々がよろめきながらも手を貸しあって立ち上がり、状況が把握できない様子ながらも、唯一残された衝動である生存本能に従って、われ先にと――ずいぶんと風通しの良くなった――大広間から脱出しようとしているのが見えたからだった。
数十人の人間が、水が引くように四方八方の廊下へと駆け込み始めていた。
その足音が無数に反響し、周囲はつかの間、驟雨に見舞われたかのような騒音に満ちた。
主人が薄明りの中で何を見ようとしているのかを察して、マルコシアスが小さく囁いた。
かれはシャーロットの手を引いて、大広間から離れる方向へ――崩れ去った壁に代わる障害物を求めて、いよいよ足を速めて走り出していた。
「誰も怪我なんかしてないよ、レディ」
手を引かれ、シャーロットはよろめきながらもかれに続く。
廊下を奥へ走り、やみくもに何度か角を折れる。
何人かがシャーロットとマルコシアスを追い越して、一目散に走って行った。
大抵の人間が生き延びることに必死の顔をしていたが、何人かがシャーロットを振り返り、興味深げな目で見たり、何か言いたげにしたり、あるいは内乱罪どうこうと彼女が話していたことは忘れてしまったのか、親指を上げて「いい演説だったぞ」と声をかけたりもした。
「僕の精霊が、そりゃもう厳重に、あんたが気にするあの場の人間を守ったからね。
瓦礫に自分から突っ込んでいって打ち身を作ったやつは知らないが、落ちてきた瓦礫が当たった運のないやつはいないよ」
「……良かった」
大広間を出てから、はじめてシャーロットは口を開いた。
遅れてきたパニックで、彼女の唇がわななくように震え始めた。
自分の手の中にある彼女の指が震えているのを感じたのか、マルコシアスが面喰らったような顔をしたあとで、ぎゅっと力を籠めてシャーロットの手を握り直した。
ややあって、彼女は前に進むことが難しくなった。
膝から力が抜けたのだ。
その場にかくんと膝を折った主人を見て、マルコシアスは心底呆れた顔をしたが、付き合って足を止めた。
そして、三々五々に逃げてくる人々を振り返った。
「――ロッテ。誰だっけ」
シャーロットは息を吸い込んで、顔を上げた。
「――なにが?」
「あいつ。ストラスの主人」
シャーロットは瞬きする。
マルコシアスはどうやら、かなり焦っているように見えた。
「オリヴァーさんのこと? ――どうして?」
「協力してくれるにしろしてくれないにしろ、僕には魔神の加勢が必要だ」
マルコシアスがきっぱりと言った。
そして、シャーロットの怪訝そうな顔を認めて、気まずそうに顔を顰めた。
「――――」
少し考えて、マルコシアスが頷いた。
首許のストールを直して、かれがシャーロットと目を合わせ、首を傾げた。
「あんたには事情を話そう。
僕の本当の名前を知っている唯一のご主人様、あんたがこのことを他の誰にも漏らさないことを祈るよ」
「――僕たちが二つの〝真髄〟を持っていることは、あんたも覚えていると思うけれど」
マルコシアスが、珍しくも周囲を気にするような風情でそう言ったのは、廊下をくり抜いたような造りの、小さな休憩所でのことだった。
シャーロットが膝が笑うのを堪えて、ようよう辿り着いたのがここだったのである。
二人はそこに、身をひそめるようにして座り込んでいた。
シャーロットは休憩所の椅子に、マルコシアスはその正面で、どう見ても空中に見えない椅子があるかのように座っている――かれは空中にあぐらをかきさえしていた。
辺りは未だに騒然としており、シャーロットとしては、ショーン・オーリンソンが頭に血を昇らせて、第三、第四の殺人を犯していないかということが何よりも気に掛かる。
「警察に」という叫びがいく度か聞こえてきた――恐らく誰かが、こういった場合の理の当然として、エデュクスベリーの警察に走るべきだと気づいたのだろう。
だが、警官が駆けつけて来たとて――
――不安げに廊下の方を窺う彼女に、マルコシアスが咳払いした。
「レディ、大丈夫だよ。フォルネウスの今の主人に、やつを召喚するように吹き込んだのが誰であれ、そいつは事を大きくする気はない。
僕がここにいることを知っていたのならむしろ、たぶん、グラシャ=ラボラスが暴れた場合に備えてフォルネウスを呼ばせたんだ。あいつなら、僕と喧嘩にはならないからね」
シャーロットは訝しげな目でマルコシアスを見た。
マルコシアスは主人の視線を獲得したことで満足したようだった。
「どういうこと?」
「言葉どおりの意味」
マルコシアスは答えて、それから付け加えた。
「僕は――〈マルコシアス〉の〝真髄〟は、〈フォルネウス〉の〝真髄〟と喧嘩ができない」
シャーロットはますます目を細めた。
ちら、と廊下の方を窺ってから、彼女は小声になって言った。
「その――〝真髄〟のことを知っているのは、お前が言うには、もう私だけだってことだったけれど?」
「そうだ」
認めて、マルコシアスもちらりと廊下の方を窺った。
かれは忙しなく首許のストールをいじった。
「でも、〈マルコシアス〉が〈フォルネウス〉と喧嘩をしないっていうのは、たぶん、――ええっと、なんて言ったっけ、あんたたちがちょっと前までは僕らに頼ってた――そうそう、『戦争』。
戦争時代には、そのことはよく知られていたはずだ。
なにしろ、僕たちは戦場のまっただなかで敵として顔を合わせても、なごやかに雑談して別れるばっかりだったからね」
シャーロットは釈然としない顔をした。
「聞いたことないわ。――でも、そうね、悪魔を戦力にしてた時代のことは、あんまり文献には書かれていないから――」
誰かが、もはや悲鳴ではなく罵声に近い声を張り上げながら、シャーロットたちが身をひそめる休憩所の前を横切っていった。
とっさに首を竦めたシャーロットは、首を伸ばしてその後ろ姿を見送ってから、硬い表情でつぶやいた。
「――それもそうよね。詳しく書いちゃって、また同じことをしようとする人間が出てきたら大変だもの」
昨日までシャーロットは、悪魔を使って人間を傷つけてはならないということ――これは憲法に明記されており、それだけで抑止力としてはじゅうぶんだと思っていた。
だが、そうではないらしい。
ショーンはためらいなく、悪魔の力を人命への威嚇に使い、そして実際に人命を侵害した。
シャーロットは息を吸い込んだ。
「――でも、いいわ。エム、その話が長くなりそうならあとにして。
とにかく急いで、あのジュニアを止めないといけないわ。
それに、アーニー――アーニーがあのジュニアと何か関わりがあるのかも突き止めないと。彼がどこにいるか分かる? あのオウムの格好の魔神も――」
「待って待って、レディ」
今にも立ち上がりそうなシャーロットの肩に手を伸ばして、マルコシアスが慌てた。
「いいかい――僕はフォルネウスに手を出せない。あっちもしかり。精霊どうしもそう。
あんたがいつぞやみたいに、自分を餌にして、フォルネウスの今の主人をおびき出したところで、僕は守ってやれないんだよ。
あいつとフォルネウスのあいだには〈身代わりの契約〉がある」
シャーロットは唇を引き結んだあと、こぶしを握って強情に言った。
「あの人、軟弱そうじゃなかった?」
「人間が軟弱かどうかなんて、僕の知ったことじゃないけどね、ロッテ。あいつが他にも魔精や魔神を召喚しててごらん。僕がフォルネウスに気を取られているあいだに、あんたなんてぷちっと潰されちゃうよ」
マルコシアスが軽く手を振ると、存在しない柔らかいベリーがぷちっと潰れるさまが、実際に空中に色鮮やかに描き出された。
シャーロットは眉間にくっきりと「不機嫌の縦線」を刻んでそれを見て、マルコシアスを見遣った。
「――お前はフォルネウスに手を出せない?」
「金輪際、絶対に」
「フォルネウスの方が格上だから?」
「違うね。あいつは格上じゃない。あいつも僕に手を出せない」
シャーロットはますます眉を顰めた。
「要点はそれだけ? お互いに何も出来ないって話?」
「あのね、ロッテ」
マルコシアスは眉間を押さえた。
「つまり、いつぞやみたいに考えなしに突撃していくのはまずいって話なんだよ。
もっとちゃんと考えないと、あんたが酷い目に遭うよ」
シャーロットはますます眉間のしわを深くした。
――ショーンはおそらく、「気高きスー」のことは知らない。
ならば酷い目に遭うとはいっても、最悪でもそれはシャーロットの死亡しか指さないのではないかと思ったのだ。
だが三秒で、シャーロットの生存本能が目を覚まして頭の中で存在を主張し始めた。
シャーロットは息を吸い込む。
生存本能を封じるのは、本当にまずい状況になったときで良さそうだ。
マルコシアスは仏頂面で、なおも話し続けている。
「それに、言っただろ。僕だってやる気がないわけじゃない――とりあえずストラスに加勢を頼むけど、たぶんあの――えっと、誰だっけ――ストラスの主人は、ストラスをそこまで働かせる契約は結んでないから、あいつはごねる。
僕がストラスに言い聞かせているあいだ、あんたには事情を分かってもらっておいた方がいい。もちろん、ストラスには、あんたが事情を分かっているということは伏せておきたい」
「――――」
シャーロットは息を吐いた。
そして、指を三本立てた。
「分かった、エム。私のことを考えてくれてるのに悪いんだけど、三分以内で話してくれない。
恐ろしいことが起こっていないか、私も気が気じゃないのよ」
マルコシアスは微笑んだ。
かれが手を叩くと、かれのそばの空中に、ぽんと小さな音を立てて、宙に浮かぶ大きな掛け時計が現れた。
かちこち、かちこち、と、秒針が真面目に時を刻んでいる。
ちら、とその時計を一瞥して、マルコシアスは言った。
「じゅうぶん」
▷○◁
「僕とフォルネウスのような関係は、他の魔神にもある。あんたたちの言葉では、なんて言えばいいかな――〈同格〉とでも言おうかな」
マルコシアスが口早に話し始めた。
「大昔の人間たちが僕らと契約を交わしたとき、あの連中は、こっちの交叉点で僕らが大暴れするんじゃないかと気にかけた。
だから、だれかが大暴れしたときに、確実にそれを止められる相手を決めることにした」
離れたところで悲鳴が上がり、シャーロットはびくっとした。
だが直後に悲鳴は罵りの声に変わり、「びっくりしただろ!」と叫ぶ男性の声が聞こえてきた。
どうやら、どこかで学生どうし、あるいは学生と教授、あるいは教授どうしが、出会いがしらにぶつかりそうになって叫び声を上げただけらしい。
「そのために、僕らの二番目の〝真髄〟に枷をかけた。〈マルコシアス〉の〝真髄〟には〈フォルネウス〉という枷。
ちなみにストラスの〈同格〉の相手はガープ、グラシャ=ラボラスの〈同格〉の相手はモラクスだ」
マルコシアスが指先をあいまいに動かす。
「〝真髄〟がある限り、この枷は有効だ。〈同格〉の相手には干渉できない。
アガレスが二千人の人間をたいらげて力をつけたあともバエルが体面を保てたのは、お互いに〈同格〉だからだ。つまり、僕みたいに桁外れの報酬で力をつけたとしても、これは変わらない。
〈同格〉の相手には害を与えられないし、お互いの精霊も干渉し合えないから相手の様子も探れない。〈身代わりの契約〉を結んだ主人にも手を出せない」
「――なるほど」
シャーロットはつぶやいた。
説教部屋でのマルコシアスの言葉が頭の中に甦った――『グラシャ=ラボラスに対しては、モラクスは足手まといだろうね』。
そういう理由だったのか。
さらに彼女は、二年と少し前のことも思い出していた――
「……お前、口を滑らせてたのね」
つぶやくと、マルコシアスはきょとんとして眉を顰める。
「……なんのこと?」
シャーロットは首を振った。
――ベイシャーで、あの海辺で、暴れ狂う名無しの悪魔を前にしたとき、マルコシアスは確かに言っていた――“自分より格上の魔神は三十四人ではなく三十三人である、かれに序列において勝る三十四人のうち一人は、かれと全く〈同格〉なのだ”と。
あのときは緊急事態で、シャーロットも聞き流していたのだが――こういうことだったとは。
「忘れたならいいわ」
短く言って、シャーロットはあらためて情報を反芻した。
「つまり、フォルネウスに対してはお前よりも、ストラスさんの方が立ち回れるってことね?」
「いや、無理だろうね」
マルコシアスはにべもなく言った。
「ストラスは三十六番、わが親愛なるフォルネウスは三十番だ。フォルネウスは頭もいいよ。ストラスが相当がんばっても、たぶん負ける」
シャーロットは爪を噛んだ。
「お前、ストラスさんに加勢を頼むって言ってなかった?」
「だって、それしかないでしょ」
マルコシアスはいかにも悪魔らしく、悪びれなかった。
「僕じゃ手を出せないんだから、あのいかにも頭の悪そうなあんたの敵から戦力を削ぐには、ストラスに犠牲になってもらわなきゃ」
シャーロットは苛立ちのあまりに髪をかきむしった。
「犠牲になってもらっちゃ困るでしょ! フォルネウスをなんとかしないと、警官が来たってジュニアを捕まえられないじゃないの!」
「あ、そうか」
真面目に感心したようにそう言うマルコシアスを睨んでから、シャーロットは立ちあがった。
もう足は震えていなかった。
マルコシアスもそれに合わせて、目には見えない椅子の上から飛び降りる。
ぽん、と軽い音がして、出現していた掛け時計が煙になって消えていった。
「馬鹿な悪魔ね」
「間抜けなレディだな。じゃあ他にどうしろって言うのさ」
ふて腐れたようにそう言うマルコシアスをちらりと見てから、シャーロットは廊下を見渡した。
ちょうどそのとき、真っ青になった顔見知りの女性が廊下の向こうから歩いてきたため、引き留めて、「オリヴァーさんを見かけなかった?」と尋ねる。
彼女は頭のてっぺんから爪先まで震えながら、じろじろとシャーロットを見た上で、無愛想に来た方向を指し示した。
そうして足早に去っていく女性の後ろ姿を眺めて、マルコシアスが面白そうにつぶやく。
「失礼なやつだな。レディ、何かしてほしい?」
シャーロットの方は、欠片も面白そうではなかった。
彼女は眉間にしわを刻んだまま、気難しげに言っていた。
「行くわよ」
マルコシアスは数秒考えて、「オリヴァー」というのがストラスの現在の主人の名前であることを、ようやく思い出したようだった。
足を速め、先に歩き出したシャーロットに並んで、マルコシアスは彼女の顔を覗き込む。
「結局、ストラスのことは頼るんだ?」
「頼り方ってものがあるわよ。頭を使わなきゃ。
ストラスさんだけでは難しいって言われたときのために、ちゃんとこっちも戦力として差し出せるものを用意しないといけないわ」
シャーロットがよどみなく応じ、マルコシアスが首を傾げる。
「あんた、他にも悪魔を召喚してるの?
それか、すぐに召喚できる悪魔に心当たりがあるの?」
「いいえ」
シャーロットがあまりにもきっぱりと答えたので、マルコシアスも虚を突かれた。
かれはぱちぱちと淡い黄金の瞳を瞬かせ、さらに深々と首を傾げさせた。
「――じゃ、どうするつもり?」
シャーロットは決然として断言した。
「悪魔はいなくても、私がいるわよ」




