01 臆病者の癇癪
二年と少し前、季節が冬の底からやや春に動こうかという時期に、十八歳のショーン・オーリンソンの人生は一変した。
ある朝、郵便馬車が一通の書簡を彼に届けた――それを見て彼は驚いた。
なにしろ、オーリンソン家の封蝋が捺されていたのだ。
魔術師を志すことを表明してからというもの、ショーンの人生から父の関心は去り、母は彼に愛想を尽かしたものと思っていた。
なにしろ、魔術師は政治家にはなれない――魔術の教養があるだけで、政治への道は閉ざされる。
父と同じ道を志すつもりはないと宣言したに等しいショーンの選択は、両親に冷ややかに受け止められた。
魔術の最高学府であるリクニス学院の入学許可を取ってみせても、それは変わらなかった――もちろんそれは、彼が魔術の道を志すことを表明してから、三度目の挑戦で獲得した入学許可だったから――ということもあったかもしれない。
十五になる初等学校八年生で、その許可を獲得していれば、話は違ったかもしれない。
父は自邸でパーティを開いた際にも、あるいはパーティにショーンを同伴して参加した際にも、冗談めかして微笑み、「愚息はいっかな政治事には興味がなくてね」とつぶやくようになった。
誰の目にも触れないところでは、冷ややかきわまる、不用品を見るような目でショーンを見るようになった。
一粒種であるショーンが期待を裏切ったという事実を、父はそれはそれは重く受け止めた。
だから、オーリンソン家の封蝋の捺された書簡を見て、ショーンは驚いたのだ。
両親のうちどちらかが、わざわざ彼に手紙をしたためるなど、入学してからこちら、一切なかったことなのだから。
ショーンは寮の自室で――ちなみにいえば、どこの馬の骨とも知れぬ平民と同室で寝起きしなければならないことは、彼にとって少なからぬ苦痛となっていた――手紙を読んだ。
手紙には、滅多になく混乱したあわただしい筆跡で、母が短い文面をしたためていた。
「お父さまが大変なことに巻き込まれました。何を措いても戻ってきてくれるものと信じます」。
母らしい言い回しだ。
ショーンは迷ったものの、これが母の愛情を失わずに済む最後の機会であることは理解した。
ショーンは「一身上の緊急の都合」による休暇を申請し、それが受理されると(リクニス学院は、学生に懸命であれ真面目であれとは求めない。懸命に真面目にしていなくては、允許が足りずに退学させられるだけだからだ)、すぐに出発するむねをしたため、その手紙を郵便馬車に託し、そして同日にエデュクスベリーを発った。
わざわざ手紙を書いたのは、郵便馬車の方が汽車よりも早く目的地にたどり着く場合もあるからだ。
だがこのときは結果として、ショーンは自邸の広々として採光のすぐれたパーラーにて、彼からの手紙をまさに開封した母を目の当たりにすることになった。
ショーンの荷物を受け取り、彼をパーラーに連れた執事が咳払いした。
パーラーのソファに腰かけ、そのわきの小さなテーブルの上でペーパーナイフを持ち上げていた母は顔を上げ、ショーンを見るとペーパーナイフを絨毯の上に落とした。
そして、久しくなかったことにショーンに駆け寄ってくると、いつの間にか彼女の背丈を追い越していた息子の首を抱き締め、囁いたのだった。
「――お父さまが罷免されました」
ショーンが事態を理解する機会はなかった。
彼に伝わった話は、父が罷免されたという事実と、軽くはない罪のために服役することになったという事実だけだった。
父の罪について、父の腹心を問い詰めても、彼らは何も話さなかった。
ショーンは混乱と羞恥と恐怖の中に置き去りにされた。
なによりも不安だったのは――認めざるを得まい――自分と母への影響だった。
突如として屋敷が差し押さえられることを恐れた。
銀行に預けてある全ての資産が没収されることを恐れた。
そして噂を恐れた――彼と母を、犯罪者の家族だと罵倒する声を恐れた。
だが、新聞に父の罪状が派手派手しく踊る事態にはならなかった。
ショーンも知らない彼の罪状がここぞとばかりに書き立てられることはなかった。
ショーンは内心では、軍省副大臣補佐助官の手が後ろに回ることがあるとすれば、罪状は背任だろうと思っていた――いかにも新聞社が好きそうだ。
政府高官による背任。
だが、その情報が新聞を飾ることはなかった。
新聞を隅から隅まで確認しても、オーリンソンの名前は欠片も登場しなかった。
しかし、不安は尽きない。
くだんの記事を載せた新聞は、今日にも刷られているかもしれない――あるいは明日にでも――あるいは、今まさに記事がしたためられている最中かもしれない――
――不安と恐怖に気も狂わんばかりの数日が過ぎたある夜、ショーンは裏口からの、非公式の来訪を受けた。
訪ねてきた者は軍省大臣補佐官の使者を名乗った。
軍省大臣の補佐官ならば、父の上官に当たる。
真偽を訝るショーンの前で、男は訥々とした小声で、「直接伺うことが出来なくてすまないと、主人が申しておりました」と言った。
そして、一通の手紙をショーンに渡し、今この場でそれを読むよう、有無を言わせず申し渡した。
ショーンとしては、夜陰にまぎれてやってきた、安っぽい背広を着た男に指示などされたくなかったが、邸宅の中に母がいることを考えた。
もしもこの男が強盗で、ショーンが指示に逆らったとたんに刃物を取り出して暴れるようでは手がつけられない。
ショーンはともかく、母に危害がおよべばことだ。
そうして、ショーンは乱暴に封筒を破いて、中の書簡を読み始めた。
一文読むごとに、言葉を呑み下すごとに、彼の瞳は大きく見開かれていった。
手紙には、走り書きに近い文体で、信じ難いことがらが書き綴られていた。
曰く、――父であるピーター・ジョナスン・オーリンソンは無実である。
――彼は嵌められたのであり、その手口たるや史上まれにみる狡猾さ、石ですら赤面するほどの恥知らずであるとの誹りを免れ得ないものである。
――ピーター・オーリンソン氏は愛息に影響が及ぶことを恐れ、無実を主張する口をつぐんでいる。
なにしろ、事がこうなっては既に、否認することの悪影響が、容認することの悪影響を上回るからだ。
――オーリンソン氏の有罪については、首相みずからが証人となっている。
これも相手の狡猾さのなせるわざであるが、ゆえに、自分は手紙を送ることしか出来なかった。
――オーリンソン氏にかけられた嫌疑は内乱の罪である。
これについては、とある子供が手に負えない魔神を召喚し、かれが起こした騒動について、さもオーリンソン氏の企てを防ぐためだったと厚顔無恥な虚偽を申し述べたことによる。
悪いことに、この子供は首相の秘蔵っ子だった。
またオーリンソン氏が軍省のつとめのため、多少不審に見える動きをしていたことも凶と出た。
――自分としては、オーリンソン氏の愛息が、父の冤罪を信じることが忍びなく、筆を執らざるを得なかった。このことは内密にお願いしたい。
――オーリンソン氏は今も、愛息のことを気に懸けておられる。
愛息の進む道を応援してやれなかったことを悔いている。
愛息に懸けた期待が大きく、愛情ゆえにまっすぐに接することが出来なかったと後悔しておられる。
それだけ伝えておきたかった。
手紙を読み終わったときショーンは泣いていた。
父が罷免されたと聞いたとき、身勝手な不安にさいなまれた自分を責めた。
期待にそむき、断じて政治の世界には入れない魔術師という道を選んだ息子を、父は気に懸けてくれているというのに。
使者と名乗った男は、彼の涙について指摘することはなかった。
彼は無言でショーンの手から手紙を取り上げ、彼が止める間もあらばこそ、すばやくその手紙に火を点けて灰にしてしまった。
頭を下げて去ろうとする使者を、ショーンは引き止めた。
「――父に辛酸を舐めさせている、くだんの子供について教えてください」
使者は口ごもり、自分も詳しくは知らないのだと言った。
だが、主人に、ショーンがそれを知りたがっていることは伝えておこうと。
ショーンは厚く礼を言い、そして普段は彼がリクニス学院にいることも伝えた。
申請した休暇が尽きようとしていたのだ。
使者は、「ほう、リクニスですか」と感心したようにつぶやき、そのことも合わせて主人に伝えようと請け合ってくれた。
ショーンにとってみればそれは、二つの意味を持つ光だった。
一に、自分は父に愛されているのだということ。
魔術師を志したときに失ったはずの、あの自慢げな父の瞳を、またふたたび向けてもらえるようになるかもしれないということ。
二に、父は無実だということ。
自分は断じて、犯罪者の息子などではないのだということ。
不当な扱いに耐えるべき、目には見えない名誉を与えられている人間なのだということ。
その二つがあってみれば、多少の不自然には目をつむり、おのれに都合のよいことを信じ込むのに、大した理由は要らなかった。
――彼が想像したはずもなかった。
彼の父が犯した罪が、内乱罪とはいえ秘匿されるべき、国家の中でも極秘に位置する真実に触れるものだったということ。
それゆえ、首相をはじめとしたごく少数の、事の真相を知る者たちが、こぞってオーリンソンの失脚を新聞社のよく利く鼻からも隠し通そうとしていたのだということ。
――彼が分かったはずもなかった。
ピーター・オーリンソンが自分に対して覚えていたのは愛情ではなく、愛情と名づけた満足でしかなかったということ――今も彼が、自分の息子のことなど、思い出しもせずにおのれの運命を呪っているということなどは。
それからショーンは何度か、軍省副大臣補佐官を名乗る者と手紙を交わした。
彼はシャーロット・ベイリーの名前を教えた。
首相の秘蔵っ子、リクニス学院への最年少合格者、オーリンソンに罪をかぶせた張本人。
ショーンは、事の真相があばかれ、ベイリーの名がリクニス学院の名誉ある学生名簿には並ばないことを、半ば確信していた。
軍省副大臣補佐官は政府高官だ。
その人が動くのならば、きっと悪いようにはなるまいと。
――だが、その年の九月、彼はシャーロット・ベイリーの名を、新入学生の名簿の中に見つけた。
それでもショーンは、正義が執り行われるに違いないと固く信じていた。
能天気な顔のベイリーが視界の端に映るたびにぞっとしたが、それにも耐えた。
しかしある日、軍省副大臣補佐官を名乗る例の男から手紙が届いた。
――きみの父君の無罪を立証しようとしてきたが、難しいと認めざるを得ない、と。
ショーンの中で何かが切れた瞬間だった。
そして同じ手紙の中で、彼は勧めていた――シャーロット・ベイリーと同じことをしてはどうだろう――今度はきみが魔神を呼び出し、そしてその騒乱の全てを、シャーロット・ベイリーのたくらみを阻止するためだったとうそぶいてはどうだろう。
彼女を父君と同じ目に遭わせるには、もうそれしかない。
司法が正しきを行わないならば、きみがそれをするべきだ。
知ってのとおり、ベイリーは過去にも魔神を召喚している――きみが魔神を召喚したとて、その魔神をふたたび呼び出し、あるいは他の魔神を召喚し、きみを妨害することは十分に考えられる。
私の部下に優秀な魔術師がいるから、彼から助言を施させよう――
手紙の主の予想は当たり、最初にショーンが召喚した魔精を、ベイリーはためらうことなく召喚した魔神でもって退けた。
そもそもあの魔精には、ベイリーを追い詰めることを命令していたものの、彼女が魔神を召喚することが確認できれば、その時点で報酬を渡すことを約束していた。
――見たかったのはシジルだ。
彼女が呼び出した魔神の名前。
あの夜、ショーンは空き教室でそのシジルを見下ろした。
よく知られているシジル――有名な魔神のシジルだった。
序列三十五番のマルコシアス。
召喚陣は省略されており、過去にもベイリーがかれを召喚したことがあるのを窺わせる。
召喚したことがあるかどうかなど、知ったことではない。
ショーンはパトロンとなった、軍省副大臣補佐官を名乗る例の男の使者に、召喚された魔神はマルコシアスであるむねだけを伝えた。
使者は感心にも、エデュクスベリーの町に滞在していた。
使者は妙に、ベイリーが過去にもその魔神を召喚したことがあるかどうかを気にしていたが、ショーンは苛立っていた。
召喚したことがあろうがあるまいが、魔神は魔神だ。
そう告げると、使者は「それもそうだ」と認めた。
その翌々日、使者は彼の主人からの助言、あるいはその部下である優秀な魔術師とやらからの助言を携えて、エデュクスベリーの町で彼を待っていた。
そして告げた――まず、不測の事態に備えて、部下を一人送り込むこと。
身分はないも同然の青年だが優秀だ、とのことだった。
ショーンは不服の声を堪えた――彼にとっては、身分と能力は等号で結ばれているものだった。
さらに、使者は続けて言った。
どうやら彼の同僚にあたるらしい魔術師から預かってきたのか、封筒に収められたカード大の大きさのメモを差し出しながら。
「――魔神マルコシアスに対するに当たっては、この二人の魔神がよろしいのではないかと、私の同僚の魔術師が申しておりました」
ショーンはその名前を確認した。
――グラシャ=ラボラスとフォルネウス。
序列二十五番と三十番。
確かにマルコシアスに序列で勝るが、しかし魔神を二人も召喚するとなれば、報酬が膨大なものになる。
顔を曇らせたショーンに、使者は持参したトランクを差し出した。
「報酬については、ここに。
これを使うようにと、私の同僚の魔術師からのお墨付きです」
ショーンは瞬きした。
妙な臭いがしたからだった。
黒い、大きなトランクだった――三十インチほどの横幅に、二十インチほどの縦幅。
持ち上げるとずっしりと重い。
寮に戻り、一人になったタイミングでそのトランクを開き、ショーンは悲鳴を上げることになる。
――そのトランクの内側には、撥水性のあるニスが塗られた革が敷き詰められていた。
そして同じ処理が施された革袋が複数、隙間なく整然と並べられている。
その袋からこぼれたのか、きらきらと光る半透明の粒子が、トランクの中をざらつかせていた。
首を傾げ、その袋を手に取ったショーンは眉を寄せた。
奇妙な硬さ――強張ったような硬さを感じたがゆえに。
そして中を覗き込み、彼は悲鳴を上げたのだった。
革袋の中には、ぎっしりと塩が詰め込まれていた――そしてその塩にうずめるようにして押し込まれていたのは、ばらばらに切断された人体の各部位だった。
指や手首、さらには肝や心臓といった内臓までが、腐臭と鉄さびの臭いを漂わせ、赤黒く変色した血に覆われて、徐々に徐々にしなびていきながら、血を吸って赤く染まった塩の中に詰め込まれていたのだ。
▷○◁
シャーロットは愕然として、眼前にある青年の整った顔貌を見つめた。
――オーリンソン。
軍省副大臣の補佐助官だった男。
二年と少し前、ベイシャーへの誘拐に端を発する、シャーロットを襲ったいくつもの災難を仕組んだ人間。
あるいは、そのはずだった人間。
オーリンソンは魔術師ではなかった――議会に足を踏み入れる資格のある者だったのだから当然に。
そしてシャーロットはあのとき、ハルファスをしもべとしていた魔術師にも遭遇している。
ゆえに、例の一件について魔術師が絡んでいたところは全て、彼が取り仕切ったのだと思っていた――実際、裁判でもそのように判断が下されたはずだ。
だが、そうでない可能性は、いまや歴然としていた。
あのオウム。
マルコシアスが二年前も見たと断言したオウム。
かれがこの場にいるならば、オーリンソンのくわだてと思われていたあの一件と今回の一件に、共通して関わっている魔術師がいるということになる。
――シャーロットは息を吸い込む。
目の前にいるショーンは無関係だ、と、咄嗟に強く思った。
シャーロットには、自分の身に危険がおよぶ心当たりがある。
だが、それをショーンが知るはずはない。
知っていればこんな行動には出ない。
わざわざ名乗って、彼女を警戒させるはずがない。
親しげに彼女に近づき、折をみて彼女を昏倒させて、血抜きの設備がある場所に引きずっていくはずだ。
そして――この騒動。
この犯罪。この殺人。
一人ならず二人までをも殺めた悪意。
実行したのはショーンでも、裏に誰かがいるはずだ。
その誰かが、おそらくは二年前の一件でも裏にいたのだ。
ショーンが、格の高い魔神を二人も使役できるほどの報酬を、ぽんと用意できたはずがない。
さらにいえば、彼の言い分には不可解な点がある――
「――虚偽の申し立て?」
なんとか冷静になろうとしながらそうつぶやき、シャーロットは横目でマルコシアスを見た。
マルコシアスは、半人半獣の魔神をまじまじと見つめている。
睨んでいるというのとも違う――敵意のない、相手の出方を待つような、そんな眼差しだった。
(おかしい――)
違和感があった。
マルコシアスはつい先刻、序列二十五番の魔神を相手に競り勝っている。
かれが、目の前にいるこの魔神を、フォルネウスと呼んでいた――ならば序列は三十番。
『神の瞳』で力を増したマルコシアスの敵ではないはずだ。
それを、どうしてためらうような態度をとっている。
どうしてみすみすヴィンセントを死なせた。
――グラシャ=ラボラスを相手取って消耗したから?
けれど、もしそうであるなら、かれははっきりとそう言ってくれるはずだ。
たとえば、そう――“レディ、僕だって疲れてるんだから、あんたを守ってはいられないよ”。
と、視線を感じたように、マルコシアスが瞬きして、シャーロットに視線を移した。
いつもの、あの淡い黄金の瞳。
かれがちょっと顔を顰め、あるかなきかの角度に首を傾げた。
――シャーロットはふたたび、大きく息を吸い込む。
マルコシアスは確かに悪魔だが、悪魔らしく主人の足許をすくおうとしているのならば、あんな顔は見せるまい。
そうであれば、何か理由があるはずだ。
かれが説明してくれるはずだ。
かれの本当の名前を知っているシャーロットにならば。
シャーロットが、なんとか落ち着こうとしながらショーンに目を戻すころには、彼は軽蔑をいっぱいに湛えた冷笑を浮かべていた。
シャーロットはこみ上げてくる罵詈雑言を、吐瀉物を呑み下すようにして呑み込んだ。
――お前は、どうして、この世に一人しかいない人間の人生を途絶えさせておきながら、そんな顔が出来るのだ。
――お前は、どうして、そのあさましい犯罪に走る前に、お前にそれを吹き込んだ人間の言葉をあらためなかったのだ。どうしてシャーロットに直接問い質すことをしなかったのだ。
――もしも、一言でも問い質してくれていれば……
「まだとぼけるのか」
ショーン・オーリンソンは居丈高に言った。
――大広間は水を打ったように静まり返り、全ての目がシャーロットとショーンを見て、全ての耳が二人のやり取りを聞いている。
シャーロットは耳鳴りを覚えた。
頭に血が昇っているのか、それとも逆に血の気が引いているのか、彼女自身にも分からなかった。
ただ、眩暈がした。
ひどい眩暈が。
「とぼける……?」
「きみが僕の父に罪を着せたことは知っている」
端的に言ったショーンを、シャーロットはまじまじと見つめた。
大きく息を吐いて、煮えたぎったような頭の中の熱を外に逃がした。
そして彼女は、冷めきった声でつぶやいた。
静まり返った大広間にあって、その小さな声までもが反響した。
「――あなたがなにを言っているのか分からないわ。
あなたがあのオーリンソンさんの息子だというなら、確かに、オーリンソンさんは内乱の罪で捕まりました」
少し黙ってから、シャーロットは付け加えた。
「現行犯でしたよ」
「きみには分からないだろうが――あるいは知っていて利用したのかもしれないが――、父は仕事上、多少は怪しく見える動きをすることもあった」
ショーンは顔色も変えずに切り返した。
そのあいだにシャーロットは、ちらりとマルコシアスを振り返っていた。
小さく身振りをして、首を傾げる。
ここにいる人たちを守り切れる? と尋ねた意図が伝わることを祈った。
マルコシアスも、他の人間がたかだか十五度ていど首を傾げ、小さな身振りをしたのであれば、さぞかしきょとんとしたことだろうが、シャーロットがこの場で言い出しそうなことはかれにも分かっていた。
マルコシアスは顔を顰めて、ぐるりと大広間を見渡した。
ガス灯が設けられた壁。
その明かりよりも上は暗くなり、梁も見えないほどに高い天井。
等間隔に並ぶ立派な柱は、半ば以上が石のブロックを固めた壁に埋まっている。
シャーロットはショーンに目を戻した。
先ほどまでの激昂とは別の、頭の芯が痺れるような緊張があった。
――ショーンの目当てはシャーロットだった。
では、この場ではもう一人たりとも、怪我人も死者も出してはならない。絶対に。
「あなたのお父さまは内乱の罪で捕まりました。
あなたが何を疑問に思おうと、その事実に変化はありません――」
「きみのくわだてだ。きみの作ったたわごとが通っただけだ」
シャーロットは一歩前に出た。
マルコシアスが小さく頷いたのが目の端に見えたのだ。
半人半獣の魔神は、興味深そうに微笑んで、おだやかな眼差しでマルコシアスを見つめている。
しかしながら、かれがシャーロットにも等しく注目していることはあきらかだった。
魔神の視線を受けて、シャーロットのうなじはぴりぴりと緊張していた。
「――誰があなたにそう言ったんですか?」
シャーロットははっきりと言った。
「オーリンソンさんの罪状はおおやけにされなかったはずです」
ショーンは落ち着き払った目でシャーロットを見返した。
「きみには関係のないことだ」
「そうかしら」
ほとんど好戦的なまでの声音でそう言って、さらにシャーロットは前に出た。
――このとき、もっとも肝を冷やしたのはマルコシアスだった。
シャーロットとかれのあいだには〈身代わりの契約〉がない――その契約を結び忘れるのは、まれにみるほどの間抜けだけだ。
シャーロットは、はた目にはまったく間抜けには見えない。
だからこそ、フォルネウスが一目でその事実を見抜くことはないだろうと思いつつも――何かの気まぐれで、かれがシャーロットに向かって何かの魔法を撃つことを危惧した。
シャーロットとマルコシアスのあいだに〈身代わりの契約〉があれば、シャーロットを害することはマルコシアスを害することと同義。
ゆえにフォルネウスは手を出せないが、実際のシャーロットは無防備なのだ。
しかし、その危惧が表情に出ないよう、マルコシアスは努めた。
平然としていれば、フォルネウスはシャーロットに手を出さない。
かれは、無駄骨と分かり切っていることをするような、そういう悪魔ではない。
シャーロットはもはや、ショーンから一歩の距離にまで、断固として足を進めていた。
彼女のその向こう見ずぶりに、大広間中の人間が息を呑んでいる。
固唾を呑んだ彼らのあいだで、空気が止まっているかのよう。
「いいですか」
シャーロットが、荒らぎそうになる声を必死に抑えたような声で、そう言った。
その声が大広間の高い天井に響いた。
「あなたが何をどう思っていようが、私にはどうでもいいことです。
あなたのお父さまが無実であると思い込もうが、私に責任があると思い込もうが、どうでもいい。
その妄想であなたが生きやすくなるというならけっこうです。
――ですが、」
シャーロットが手を持ち上げたので、瞬間、マルコシアスは彼女が目の前に立つ青年の頬を打つのではないかと思ってわくわくした。
だが実際には、シャーロットは彼の鼻先に指を突きつけただけだった。
「その妄想を理由に人を殺すなんて、有り得ないほど恥ずべきことだと知るべきです。
たとえあなたの考えが正しくとも、人を殺した時点であなたは絶対的に悪人です。
ましてあなたの考えは十割がたが間違っているんですから――あなたは悪人で愚か者です、ジュニア」
ショーンの頬から、さあっと血の気が引いた。
唇を噛んで、彼がののしりの言葉を吐いた。
「きみの嘘をあばく人間が必要だ、ベイリー」
「妄想ごっこは五歳までになさい」
シャーロットが言い放った。
悪魔のマルコシアスであっても、この言いようが相手の神経を逆撫ですることはじゅうぶんに理解できた。
大広間いる人間たちが一斉に身を竦めた気配があった。
何しろショーンには魔神がついているのだから。
だが、シャーロットはそれらを一切斟酌しなかった。
語調も鋭く、彼女はなじるように言葉を続けた。
「少なくとも裁判所と軍省が、あなたのお父さまの罪に疑義なきことをあきらかにしたと、その足りない頭で理解できなかったの?
あなたにその妄想を吹き込んだのが誰であれ、どこの誰とも知らない人から囁かれたことを真に受けて、まっとうにものを見る目も曇らせるなんて、あなたはそれでも教育を受けた人間ですか」
「お前――」
ショーンが声を荒らげた。
だがそのときには、シャーロットの声も大きくなっていた。
「少なくとも正当な手続きであなたのお父さまが有罪とされたのだから、あなたがするべきはこんな――こんな犯罪ではなくて、その手続きや証言に誤りがなかったかを調べることだったはずでしょう!
少なくとも私は目の前にいたのに――どうして私に直接、あなたのお父さまのことをお尋ねにならなかったんですか」
怒鳴らんばかりにそう言って、シャーロットは間近にショーンの瞳を直視した。
「この臆病者。
――子供みたいな癇癪で、よくここまで出来たものね!」
ショーンが手を上げた。
だがそれよりも早く、渾身の力でシャーロットが彼の頬を平手打ちしていた。
ばちん、と耳に痛い音が響き、ショーンの頭が後ろに反れる。
半人半獣の魔神が、痛そうにかれ自身の頬を押さえた。
そして、ショーンに平手打ちを喰らわせると同時に、シャーロットが叫んでいた。
「――エム!!」
マルコシアスがすばやく指を振った。
――その瞬間、地面が突き上げられたように大広間全体が揺れた。
立っていた人間は全員がよろめき、シャーロットもショーンも例外ではなく、その場にしりもちをつく。
地鳴りのような音がかすかに聞こえて、一瞬。
腹に響く轟音とともに、大広間の三方の壁が崩れ落ちた。
さながら見えない巨人の槌で外側から砕かれたかのごとく、脊柱のように立ち並ぶ柱だけを残し、大小の石の破片となって崩壊し、もうもうたる粉塵を巻き上げる、うずたかく積み上がる瓦礫の山と化したのである。




