15 過日の亡霊
悲鳴じみたどよめきが、大広間を揺るがせた。
まるで、大広間の硬い床が水面であったかのようだった。
唐突に、ショーンと呼ばれていた青年の右側、すぐそばの足許の床が、ぼこぼこと泡立ったのだ。
そしてそこから、まさに水面を割るようにして、目を疑うほど鮮やかな濃紺の髪を短く刈り上げた頭が突き出した。
秀でた額が、おだやかそうな目許が、すっと通った鼻筋が、整った口許が――
――ものの一秒とかからずに、海から堂々と姿を現すがごとくに、異界の化け物がそこに立っていた。
上半身は、ブロンズ色の肌の屈強な男のものだった。
ただし下半身は違った。
下半身の前側は軍馬のもの、そしてその後ろは、見たこともない怪魚の尾部だった。
その尾部が、見えない海の中を泳ぐようにゆっくりと動いている。
――マルコシアスが息を呑んだ。
「うっそだろ……」
ショーンと呼ばれた青年は、まだじっとシャーロットを見たままだった。
しかし彼が指差したのはシャーロットではなかった。
彼はまっすぐにヴィンセントを示した。
「――報酬に加えてやろう」
シャーロットは悲鳴を上げた。
何が起こるかを本能的に察知したのだ。
「エム!」
しかし、マルコシアスは動かなかった。
つい先ほど、シャーロットが信頼していると断言した悪魔は、ただひたすらにその場に現れたもう一人の悪魔を凝視しているのみだった。
その悪魔が手を伸ばし、ヴィンセントの頸をたやすく掴んだ。
――シャーロットは総毛だった。
咄嗟に前に走ろうとした彼女の手を、マルコシアスが掴んで引き留めた。
「エム!!」
二年と少し前、かれらがしばらくのあいだ「ベン」と呼んでいた男の末期の姿が、瞼にはっきりと甦った。
ヴィンセントがもがいた。
悪魔の手を頸から引き離そうと、その手首を掴み、指を引き剥がそうとして引っ掻いた。
叫び声は喉の奥で潰された。
やがて、彼の両脚が空しく宙を蹴り始めた――半人半獣の悪魔が、いとも軽々と彼の身体を持ち上げたのだ。
ヴィンセントがもがいたのは、実際には一秒にも満たない短い時間だった。
だがシャーロットにとっては、それは身体が動かない永遠だった。
ヴィンセントを軽々と持ち上げた悪魔は、おだやかな目許を、人の好さそうな笑みに細めた。
その目の色は、灰色に近い銀色だった。
そしてかれは、もの柔らかにつぶやいた。
「すこーし痛むよ。息を止めて」
そのとき、初めてマルコシアスが動いた。
飛びつくようにシャーロットを後ろから抱きかかえ、彼女の目を塞いで無理やりうずくまらせたのだ。
シャーロットは悲鳴を上げたが、マルコシアスはそれを意に介さなかった。
人の頸の骨が折れる、おぞましく重々しい音が響いた。
――いつの間にか、大広間はふたたび静まり返っていた。
誰かがヒステリックに泣き出したが、それもすぐに声が押し殺された。
だらん、とぶら下がったヴィンセントの亡骸を、悪魔はなおも高々と掲げた。
マルコシアスがますます固くシャーロットの目を塞ぎ、彼女を抱え込む。
シャーロットが混乱してわめいたが、マルコシアスは耳を貸さなかった。
そして、静寂が破裂するような悲鳴が上がった。
目を塞がれたシャーロットには、何が起こっているかは分からなかった。
だが、大広間にいる大半の人間は、目を逸らし損ねた。
彼らが見たのは悪夢そのもの、悪夢の中でしか許されないような光景だった。
半人半獣の悪魔の、人を模したのだろうと分かる上半身、その腹部が、第二の口のようにぱっくりと開いたのだ。
しかしこの程度のことでは、魔術師が怯むはずもない。
だが、その直後、高々と掲げたヴィンセントの亡骸を、悪魔がその口に放り込んだのだ。
――大広間を揺るがせた悲鳴が嗚咽と嘔吐に変わった。
彼の身体を二つに折るようにして、まさに文字通り、悪魔がヴィンセントの亡骸を丸呑みにした。
ぼりぼりぼり、と、一人の人間の全身の骨が砕ける音が響き渡る。
臓物がすりつぶされ、筋肉が噛み砕かれるおぞましい音が籠もる。
むせ返るような血の臭いと、吐瀉物のすっぱい臭いが大広間の中を漂った。
嗚咽とヒステリックな啜り泣き、パニックを起こした断続的な叫び声、祈りの声が、大広間の中で湧き上がっている。
半人半獣の悪魔は、大広間の人間たちには無関心だった。
かれの顔貌についた整った口許からは、ほとんど陶然としたような吐息がこぼれている。
どこでそれを咀嚼したのかは定かではなかったが、それでも咀嚼に合わせて、悪魔の全身がぼこぼこと動いた。
ぴたりと閉じ、もはや跡すら見えない腹の口から、鮮血が一筋流れだした。
悪魔は神経質な手つきで、その血を自分のてのひらでぬぐい、そしてそのてのひらを丹念に舐めた。
かれはにっこりと微笑んだ。
そしてその笑顔のまま、マルコシアスに手を振った。
「やあ。――珍しく、ずいぶん大事に守っているね」
マルコシアスは反応しなかった。
かれは無言のまま、ようやくシャーロットを解放し、彼女を後ろから引っ張ってその場に立たせた。
シャーロットは茫然とした、蒼褪めた表情で彼女の魔神を振り返り、そしてその場に立つ悪魔と、ショーンと呼ばれた青年を眺めた。
彼女の唇が震えた。
「なんて――なんてことを――」
「“なんてこと”?」
ショーンと呼ばれた青年が繰り返した。
シャーロットはそれを聞いていなかった。
喉が痙攣して声がひっくり返ったが、彼女は叫んでいた。
「ヴィンセントさんが――彼が何をしたの! あなたは魔術師でしょう!
悪魔にこんなことをさせるなんて――どうして――有り得ない、どうして――どうしてこんな――」
「少し黙って」
ショーンと呼ばれた青年は、うんざりしたようにつぶやいた。
そして彼は笑ったが、それは鋭利な刃物のような冷笑だった。
「きみにだけは、そんなことを言われたくないな、シャーロット・ベイリー」
シャーロットは唇を震わせ、茫然と目を見開いた。
「は?」
マルコシアスが彼女を後ろに引いた。
それを見て、半人半獣の悪魔が興味深そうにゆっくりと瞬きする。
それに対して、マルコシアスは応じるともないつぶやきを漏らした。
「――僕のレディは、へそを曲げると面倒だからね」
ショーンと呼ばれた青年は、冷たい青色の瞳でマルコシアスを見遣った。
そして、鼻を鳴らした。
「それがきみの悪魔だろう、ベイリー――先日、きみが描いただろう召喚陣を見た。シジルも確認できた。
召喚陣は省略されていたから、きみは以前にもその悪魔を召し出したことがある――」
シャーロットはマルコシアスを振り払った。
彼女は激しい瞳で青年を凝視した。
ようやくまともに声が出るようになった――彼女は眼前の犯罪者をなじった。
涙ぐんではいたが、取り乱すことはあと一歩のところで堪えていた。
「それが、あなたが蛆虫にも劣る倫理観の持ち主だということと関係がありますか。
魔術師が守るべき最低限の倫理も守れず、人としての良心の欠片もないということと関係がありますか。
あなたは魔術師の風上にも置けない――これだけの証人がいます。あなたは、明日にもカルドン監獄に送られます」
怒鳴らんばかりのシャーロットの語調に、しかし青年は眉ひとつ動かさなかった。
「そうかな。――だが、まあ、そうだ……魔術師は魔術をもって人間を傷つけてはならない――そう決まっている。それも頷ける。事がこれほど簡単に及ぶとは」
シャーロットの蒼褪めた頬が、いっそう白くなった。
嫌悪と軽蔑のあまりに、彼女は声も出なかった。
――シャーロットは視線を下ろして、ヴィンセントがその場にいた形跡を探したが、何もない。
胸が詰まり、視界が涙で曇った。
「悪魔に命じてしまえば、ここにいる人間に動かないよう命令するのは簡単だった。
もともと、魔術が戦場でこそ多用されていたのも道理だ――戦争の相手国が悪魔を持ち出してくれば、もちろん同等のものでなければ対抗できないだろう――」
「――だから、そもそも持ち出してはいけないんだ」
大広間の後ろの方で、誰かがそう言った。
その声も恐怖と嫌悪に震えていた。
青年は振り返りすらしなかった。
彼はまじまじとシャーロットを観察していた。
蒼褪めて震え、嫌悪をいっぱいにして彼を睨みつける少女を。
「――悪魔には精霊もついている。精霊を動かすよう命じれば、学院内の大抵の人間をここに追い立ててくることもたやすかった。
――きみがいなかったもので、僕は気を揉んでいたんだ。きみが既に学外に出たかと思って――」
ちら、と目を上げて、彼は半人半獣の悪魔を見遣った。
その悪魔は、舐めとり損ねた血液がないかと、神経質に自分の両手をあらためているところだった。
「僕が召喚した悪魔の方が、きみが召喚した悪魔よりも格上だった。きみの悪魔のシジルを見たよ、ベイリー。序列三十五番――頑張ったようだけれど、それでも魔神の序列の真ん中だ。
対抗するにはこの魔神がいいと勧められてね」
「……誰に?」
シャーロットは茫然とつぶやいたが、もちろんのこと青年は取り合わなかった。
「妙なのは、序列で勝るにも関わらず、僕のこの魔神がきみのことを見当たらないと――きみが連れている魔神の妨害に遭っているに違いないと言っていたことだけれど――それはいい……どのみち、ほら、きみはここにいる」
シャーロットは橄欖石の色の瞳を瞬かせた。
「――それで?」
青年は首を傾げた。
「うん?」
「それで、どうしてヴィンセントさんを殺したんですか?
――どうして、正面から堂々と私に会いに来なかったんですか?
臆病だから?」
青年は瞬きした。
「それは、もちろん、」
そして、不可解なことを口走った。
「これは一種の――なんと言うのかな、この国の司法への反旗だからだ。号砲は大きいに越したことはない……だから、――いや」
口をつぐみ、青年は首を振った。
「僕の話よりも、きみの話がしたいな、ベイリー」
「は……?」
シャーロットは軽蔑の表情を見せた。
「人間としてまともでもない人と、話すことなんてあるわけがないわ。
あなたがするべきことは、そこでさっさと膝を突いて懺悔して、捕まる準備をすることだけよ」
青年は微笑した。
「あるんだよ、それが」
マルコシアスは歯噛みしていた。
もうこうなっては、シャーロットがこの場から動かないことは確定したように思われた。
少なくとも、彼女は魔術師が悪魔を使って人を傷つけることを嫌悪している。
“ベン”に対する反応でも、そのあとに議事堂で命懸けの追いかけっこをしたときも、がんとしてマルコシアスに人を傷つけさせなかったことからも、それは明らかだ。
ならば、彼女が嫌悪する人間を前に、しっぽを巻いて逃げ出せと言ってもたやすくは聞くまい。
かれは半人半獣の悪魔を見遣った。
かれは親しげに微笑み、今度は両手を振ってきている。
諦めて溜息をこぼし、かれに向かって軽く手を振り返してから、マルコシアスは首を傾げた。
「――久し振りだね、フォルネウス。
こんな形でなければ、会えて嬉しいよと言うところだけれど――」
「私は会えて嬉しいよ、マルコシアス」
半人半獣の悪魔はおだやかに言った。
マルコシアスは苦笑する。
「そうか。――ねえ、わが友。
あんたの主人は、僕がいると知ったうえで、あんたを召し出したのかい?」
序列三十番の魔神、フォルネウスは肩を竦めた。
「さあね。少なくとも私は、〈マルコシアス〉と〈フォルネウス〉について、何も話してはいないけれど――」
馬の前脚を軽く折って、フォルネウスは銀の瞳を細めて微笑んだ。
「こうなってしまった以上、わが友、残念だが――お互いにとってこの場は膠着状態だ」
「そうだね」
マルコシアスは認めて、すばやくフォルネウスの背後に当たる群衆を視線でなぞった。
「もちろんそうだ、わが親愛なるフォルネウス。
――僕はあんたに手出しが出来ない」
フォルネウスは頷いた。
「まさに。わが親愛なるマルコシアス。
そして、逆もまたしかり」
「そのとおり」
淡い黄金の瞳をフォルネウスに戻して、マルコシアスはつぶやいた。
「そしてもちろん、僕は僕のレディを守らないといけない」
「――ベイリー」
青年がつぶやくように呼び掛けていた。
「一年と少し前、最年少で入学したきみの話を聞いて驚いた。
てっきり入学は出来ないものだと思っていたから――」
「なんの話ですか?」
言いながらもシャーロットは、蒼褪めた顔で訝しげにマルコシアスを振り返っていた。
かれが何の行動も起こさないことに動揺している。
なぜなのかと不審に思っている。
マルコシアスは顔を顰めて、小さく首を振ってみせた。
シャーロットはますます混乱した様子で唇を噛んだが、青年はそんなシャーロットの様子には頓着していなかった。
「きみはきちんと裁かれると思った。
荒唐無稽な作り話をでっちあげたのだから――」
シャーロットは、思わず青年の方を振り返っていた。
不快感がはっきりと顔に表れていた。
「――何を言ってるんですか?」
青年はシャーロットの侮蔑の口調を聞き流した。
彼は青い瞳でまっすぐに彼女を見た。
そして瞬きして、言った。
「自己紹介がまだだった、ベイリー」
「は?」
シャーロットは眉を寄せた。
嫌悪と侮蔑がいっぱいにその顔に広がっている。
「そんなものは要らない。
あなたはするべきは、ヴィンセントさんのご家族への償いです」
「なら、きみは僕に償いをするべきだ」
青年は静かに言って、かすかに首を傾げた。
そして、ゆっくりと息を吸い込んだ。
その顔が強張った。
「自己紹介をしよう、ベイリー。
――僕はショーン・ピーター・オーリンソン」
シャーロットの顔が凍った。
衝撃のあまり凍りついた表情が、やがてじわじわと、ぽかんとした表情に変わっていく。
「え……?」
――そんなはずはない、と、シャーロットの中で理性の全てが絶叫した。
――そんなはずはない。
シャーロットの入学に当たって、ネイサンをはじめとした、事情を知る軍省の人間も、リクニス学院の関係者を洗ったはずだ。
シャーロットの身に危険が及び、ひいては国家に危険が及ぶことを避けるために。
――ならば、それほど分かりやすい危険を見逃したはずがない。
まして、この青年が名前を変えていたというならばいざ知らず――オーリンソンの家名を名乗っているというのに。
驚愕に染まっていくシャーロットの表情を、ショーン・オーリンソンはつぶさに見守った。
「覚えているようで良かったよ」
ぱん、と、音を立てて両てのひらを合わせ、ショーンはその両手を握り合わせた。
「僕は、二年と少し前、きみが虚偽の申し立ててで失脚させた軍省副大臣の補佐助官、ピーター・オーリンソンの一人息子だ」
2章1部はここまでです。
活動報告も書いておりますので、
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