14 十四のときからの約束事
シャーロットは瞬きした。
彼女はきょろきょろと周囲を見渡す。
青空からは燦々と陽光が降り注いで、中庭の芝生が青々とつやめいている。
――昼。昼時。
戦争のように学生たちが大広間へとなだれ込む時間帯。
いつもは、確かに騒がしい時間帯だ。
大広間へ足を運ぶ者、午後の講義の予定表に余裕があれば、エデュクスベリーの町まで出て昼食を済ませる者。
午前中をずっと講義室に閉じ込められていた若者たちが、一斉におしゃべりに花を咲かせ始める時間だ。
「確かに……静かですね」
「音楽をご所望かな?」
マルコシアスが後ろから、どうやら気を利かせたつもりの様子で言ってきた。
シャーロットはかれを睨んで黙らせた。
ヴィンセントははなから、マルコシアスの言葉など聞いてはいなかった。
彼は手を伸ばし、シャーロットを落ち着かせるように彼女の肩に手を置いたうえで、言った。
「単に静かというだけなら、私も、ついにこの学院の野放図な連中が大人のマナーを身に着けたのかと喜ぶだけなんだけれどね――ついさっき、中を通ったとき、」
中、と言いながら、彼は本棟の中を示した。
彼が先ほどくぐった勝手口の方だ。
「大広間の方から悲鳴じみた声が聞こえてきてね――中にきみがいるか判断がつかなかった。きみが外にいるなら、大広間からきみを遠ざける方が先決だと思ったんだ。
きみが大広間で騒ぎが起こったことについて、理由を知っていれば御の字だしね――たとえば、大広間で成績が悪かった連中が公開処刑される予定がある、とかね」
冗談めかしてそう言ったものの、ヴィンセントの表情には憂慮が強い。
「それで、いちおうは外を先に見回ろうとした矢先に、きみを見つけたんだ」
「――――」
シャーロットは口から飛び出しそうになった暴言を、あやういところで堪えた。
――ヴィンセントは、シャーロットの立場を詳しく理解しているわけではない。
ただ、軍省付の参考役という政府高官じきじきに、「この子の身の安全を図るよう」と申し渡されているだけなのだ。
だから、何か騒ぎが起こったらしいとなれば、まずはシャーロットの居場所を把握し、彼女の安全を確保しようとする――それは分かる。
さらにいえば、ネイサンはシャーロットについて、「身柄を狙われることはあっても、命を狙われることはまずない」と説明したはずだ。
大抵の場合、シャーロットの身柄を押さえた人間は、適切な血抜きが出来る設備がある場所まで、彼女を生きたまま連れて行こうとするはずだからだ。
つまるところ、大広間の中にシャーロットがいたとして、彼女に決定的な命の危険はないと判断し、先にシャーロットの居場所が大広間の外にあるかを確認しようとしたヴィンセントの判断は、非の打ちどころがなく正しい。
――シャーロットの安全を最優先として考えた場合は。
だが、シャーロットからすれば、自分にはマルコシアスがついていた。
「大広間ですか?」
今にも走り出そうとするシャーロットの肩を押さえたまま、ヴィンセントは顔を顰めた。
「悲鳴――歓声だったかもしれない。だから、何かいい知らせが大広間に入ったという可能性もあるんだ。遠かったからね、さすがに機微まで聞き取れない。
だが何よりも悪い場合を考えて、きみの安全を確保しないといけないと思ったものだから――」
シャーロットはマルコシアスを振り返った。
マルコシアスは心得た様子で頷いた。
「僕の精霊に見にいかせようか?」
「お願い」
ヴィンセントはふいを打たれた様子でマルコシアスをまじまじと観察した。
「――便利なもんだな、魔術師ってのは」
だが、ややあって、マルコシアスは顔を顰めた。
かれのこめかみのあたりで、空気に小さな波紋が多方向に向かって拡がるようにして、白いきらめきがあらゆる方向に伸びては消えていっている。
そのきらめきが淡い黄金の瞳に映り込み、白く輝いている。
「――駄目だ」
やがて、マルコシアスが認めた。
「僕の精霊は、中には入れないと言っている」
シャーロットは息を吸い込んだ。
先ほどの、オウムの姿をした魔神のことをありありと思い描いた。
問うようにマルコシアスに目配せすると、かれは肩を竦めた。「分からない」という意味だ。
「僕より格上の魔神は三十ばかりいるからね。そのだれかがそこにいるか、あるいは――」
そこまで言って、マルコシアスはふと何かを考え込んだ。
かれは顎に手をやったが、すぐに、「いや、まさかな」と言って顔を上げる。
そして、微笑んでシャーロットの顔を覗き込んだ。
「いかがいたしましょう、ご主人様?」
「ミズ・ベイリー」
ヴィンセントがマルコシアスを遮った。
マルコシアスはぐるりと瞳を回して呆れたことを表現したが、人と人との会話において、悪魔よりも人間の方に、優先的な発言権が認められるのは当然だった。
「私が確認してくる――きみは、いざとなったらここから離れて市街に逃げられるように、学院の出口の近くにいなさい」
シャーロットは承服しかねるという顔をした。
が、その表情の意味は、マルコシアスにははっきり分かるものだったが、ヴィンセントには分かりかねるものだった。
「分かったね」と念を押した上で、ヴィンセントが足早に中庭を引き返し、勝手口から本棟の中へ戻る。
風が吹いて、芝生がそよいだ。
春の風は暖かい。
陽光が燦々と背中を温める。
眉を顰めたシャーロットの目の前に踊るような足取りで回り込んできて、マルコシアスが彼女の顔を覗き込んだ。
「――さて、たぶん、僕はあんたに、『この学院の出口はどこ?』なんてことは確認しなくていい気がしているんだけど」
「よく分かってるじゃない」
シャーロットは言って、顎を上げた。
「近くにもう一つ勝手口があるの。行きましょう」
無謀な突撃の前に、シャーロットはマルコシアスにいくつか指示を与えた。
「エム、命令なんだけど」
「なんなりと、レディ」
礼儀正しく快活に応じたマルコシアスに、シャーロットは口早な語調のテンポに合わせて指を振る。
「これから大広間に行って、何事もなければいいわ。ヴィンセントさんが聞いた悲鳴が、たとえば有名な教授がご来訪されて、それで上がった嬉しい悲鳴とかだったらね。
ただ、そうじゃなくて、危険なことがあった場合に備えてのことだけれど、――まず、私を守ること」
「はいはい」
かつかつ、と、シャーロットの靴音が薄暗い石の廊下にこだましている。
――この時間にしては、異様なほどに静まり返った無人の廊下。
マルコシアスは足音ひとつ立てず、影のように軽やかに足を運んでいるが、小走りになったシャーロットの靴音は、千々に乱れて響いていた。
「それから、」
シャーロットは断固たる声音でつぶやいた。
その口調に、想像力の欠如ゆえの無鉄砲さは欠片もなかった。
「もしも私を守り切るのが難しい状況になったら、いいこと、だれより早くお前が私に始末をつけてちょうだい。
――その場合、なにがなんでも私の血を守ること。私にとどめを刺すとしたら首を絞めて」
マルコシアスはびっくりした様子でシャーロットを見遣った。
シャーロットの橄欖石の色の瞳に、十四歳のときと変わらぬ頑固さを認めて、ふいにかれは微笑んだ。
「承知しました、レディ。――あんたが良からぬことに利用されそうなときは、絞首台の縄より早く、僕があんたに始末をつけよう」
シャーロットはほっとした様子だった。
マルコシアスがこよなく好む、望む人生以外はお断りといわんばかりの――望む人生を獲得するためならば、みずからの命であっても賭け事のチップにしてしまう、あの幼い意固地さで。
今この瞬間、シャーロットが何よりも恐れているのは――そして、彼女の人生の中にはそんな出来事は不要だと思い詰めているのは――彼女のためにリクニス学院の中にいる人間に危害が及ぶこと。
そして、彼女の血が――“気高きスー”の血が――〈ローディスバーグの死の風〉の再来のために利用されること。
それを正しく理解して、マルコシアスは肩を竦めた。
「まあ、任せなよ」
それからかれは、からかう口調で付け加えた。
「といっても、あんたがそんなことを僕に頼んでいるなんて知れたら、あんたの先生たちはいい顔をしないぜ」
「そうかもね」
シャーロットはあっさりと認めて、足早に進みながらも肩を竦めた。
「でもいいのよ。少なくとも、お前は私のために、普通なら悪魔がしないようなことをしてくれているもの。
――お前は悪魔だから、それだって突き詰めていけば私のためにはならないことなんでしょうけれど」
シャーロットは微笑んだ。
「別にいいわ。お前が悪いことをするかもしれないって想像するのはやめにする。
そもそも、お前と私の契約は、他の人たちとは少し違うし――それに、」
ふと思いついた様子で、シャーロットは面白そうにするマルコシアスの顔を覗き込んだ。
「自分が向けるのと同じ感情を、相手から向けてもらえないとして、それは仲良く出来ないってことじゃないでしょ?
私はお前を信頼することにしたし、お前は悪魔だからそれを裏切ることもあるでしょうけれど、そのときは存分に自分のことを罵倒するわ。
お前が悪いことをするかもしれないって想像するのをやめた代わりに、自分のことを罵倒する準備をしておくことにする」
マルコシアスは少し考え、それから微笑んだ。
「なるほどね。――なにしろ僕には、何があんたにとっての『悪いこと』なのかも分からないけれどね。
けど、少なくとも、僕があんたに信頼されているってことは忘れておいてあげよう」
シャーロットは苦笑した。
十四歳のころに比べれば少し大人びた、十七歳のその横顔を見て、マルコシアスは口許をほころばせる。
「でもまあ、任せてっていうのは本音だよ。――大丈夫。
あんたが、僕に“先に死んでくれ”なんて格好の悪いことは言わないように、僕だって、あんたがあんたの倫理に照らして許容できない結果に落ち着きそうなときはちゃんと、絞首台の縄より早く、あんたに始末をつけてあげよう」
マルコシアスは満足そうに、ひとつ頷いた。
「あんたが十四歳のときからの、それが僕とあんたの約束事だ、レディ・ロッテ」
シャーロットはにっこりした。
この笑顔が、召喚陣をくぐって彼女のしもべに降ったマルコシアスが見る、この交叉点におけるものとしては最後の、シャーロットの屈託のない笑顔だった。
「ありがとう、エム」
▷○◁
広い廊下を長々と歩き、しかるべき曲がり角を折れ、それを繰り返し、ようやくシャーロットとマルコシアスは大広間の近くにまで来た。
石造りの堅牢な城は、昼間であっても陽光の恩恵を拒んで薄暗い。
大広間の入口である巨大なアーチから、薄暗いホールに向かって淡いオレンジ色の光がこぼれかかっていた。
その向こうに口を開けている、階上へと続く広い大きな階段は、アーチの上にかかげられた松明の明かりを受けて、複雑な陰影を描いている。
それが遠目に見えた時点で、マルコシアスは片手を持ち上げ、それをシャーロットの胸の前に伸べて、彼女の前進を阻止した。
シャーロットは、天井の高いだだっ広い廊下の、付け柱が立ち並ぶ壁のそばで足を止めることになった。
「――エム?」
シャーロットが首を傾げる。
緊張はしているようだったが不安な様子は欠片もなかった。
マルコシアスは彼女の前進を止めた手を、今度は人差し指を立てて口許に持っていった。
「しーっ。ねえ、誰かが話してない?」
「――――」
シャーロットは耳を澄ませた。
どうやら、悪魔の五感は――仮初のものであるくせに――人間のものより鋭いらしい。
彼女には、耳鳴りするほどの静寂しか聞こえなかった。
「――いいえ」
囁くように応じると、マルコシアスはがっかりした顔をした。
だがすぐに気を取り直して、声をひそめて言った。
「話しているのは多くても二人。たくさん人間が中にいる時間なら、その二人しか話していないのは妙じゃない? 観劇中か何かで、主役だけが話しているのでもない限り」
シャーロットは息を吸い込み、マルコシアスを押し退けて走り出した。
マルコシアスも、もう彼女を止めなかった。
かれからすれば、シャーロットが無防備に大広間に飛び込んでいかず、ある程度は危険への心構えが出来ていれば、それでよかったのかもしれない。
シャーロットは大広間までの二十ヤードを走った。
マルコシアスがその半歩後ろについていた。
大広間の入口である大きなアーチが、淡いオレンジ色の光を薄く打ち延ばしてそびえている。
数秒後には、彼女はアーチの片側の柱に手をつき、その淡いオレンジ色の光を踏んでいた。
息せき切って、シャーロットは大広間の中を見た。
大広間の調度は、日ごろとそう大きく変わりないように見えた――ただし、様子はあきらかに異様だった。
シャーロットの目はその瞬間、大広間の中の光景を捉え損ねて滑った。
だがすぐに様子は呑み込めた。
学生たちがいる――おそらくは教授も。
昼食のためにここに集まっていたことに間違いはない。
そして、ここで昼食を摂る予定がなかった者も、おそらくは今ここにいる。
彼ら全員が着席しようとすれば、この大広間の収容人数を超えてしまうことに疑いはないが、彼らは座ろうとなどとはしていなかった――彼らは大広間の奥で、そちら側に圧迫されるようにして立ち竦んでいる。
彼らのうちの大半が、何かを捜すように床に視線を這わせている――シャーロットの心情に余裕があれば、それを奇妙に思ったはずだ。
シャーロットはあわただしく大広間の中を見渡した。
マルコシアスが言うには、魔神がいるはずだ。
――見当たらない。
見当たらない脅威ほど恐ろしいものはない。
マルコシアスはぴったりとシャーロットの背中に寄り添っている。
かれも怪訝そうに眉を寄せている。
大広間に並べられたテーブルの上には、昼食の支度が整ったままになっていた。
料理はまだ湯気を立てている。
この場には似つかわしくないほどに芳しい食事の匂いが漂っている。
そして、一度は着席したところに非常事態が起こったことを物語るように、テーブルやベンチが、乱れたように歪んでいるところが複数あった。
大広間の中は静まり返っている――二人を除いて。
一人はヴィンセントだった。
彼はまさに大広間に駆け込んだところとみえ、正面にいる誰かに向かって、声高に言い募っている。
「この馬鹿げた騒ぎはなんのつもりだ、きみ――」
ヴィンセントの正面にいる人影は、足許に落ちる影からそこにいると分かるものの、ヴィンセントの陰になっていて、姿形は見えない。
ただ、冷ややかに鼻で笑う声が聞こえてきている。
シャーロットは声を上げた。
「ヴィンセントさん――」
弾かれたようにヴィンセントが振り返った。
その目が驚愕に大きく見開かれている。
「ミズ・ベイリー、どうして――」
そしてそのとき、彼の陰になっていた人物の姿がはっきりと見えた。
シャーロットは混乱して瞬きした。
オレンジ色の松明の明かりを受けて、金に近い色に照り映えるプラチナブロンドの髪――丁寧に撫でつけられたその髪に、学生とは思えぬあつらえの良い背広姿。
青い双眸が、シャーロットを認めて冷ややかに細められる。
――リクニスに入学し、初めての試験に恐れおののいていたシャーロットに、手酷い侮蔑の言葉を投げつけた青年――「ショーン」と呼ばれていた――
「は――?」
シャーロットが茫然としたのはわずか二秒ていど、しかしその二秒のあいだに、ショーンと呼ばれていた青年は、無造作に手を振っていた。
悲鳴じみたどよめきが、大広間を揺るがせた。




