13 その賢明なることに免じ
「あのあと、どこに行っちゃったの?」
しばらくして身体を離して、まじまじとアーノルドの全身を見ながら、シャーロットは尋ねた。
アーノルドは、咄嗟にそれらしい作り話を考えるにもどうにも骨が折れてしまって、微笑んで返答をごまかした。
「それより、びっくりだな。よくおれのこと覚えてたね」
シャーロットは橄欖石の色の瞳を見開いた。
「そりゃあ覚えてるわよ。あんなに劇的に出会っておいて、それから毎日、『どこに行っちゃったんだろう』って考えてたら、そりゃあ覚えてるわよ」
アーノルドは表情に困ったあげく、愛想笑いを浮かべた。
彼は欄干にもたれ掛かった。
シャーロットの頭越しに、アーチにもたれた少年が、こちらをじっと観察しているのが見えていた。
「毎日? それは――すごい。ありがとう」
シャーロットは首を傾げた。
アーノルドの予想に反して、彼女はもう笑わなかった。
「そうね。毎日、寒い思いはしてないかな、おなかは空いてないかなって思ってたわ」
アーチにもたれていた少年――少年の姿をした魔神が、足音もなくゆっくりと歩き出し、シャーロットのすぐ後ろに立った。
シャーロットがそれに対して無反応なので、きっと魔神が動いたことに気づいていないんだ、とアーノルドは思って、そして益体もないことを考えた――今、魔神が気まぐれに「わっ」と声を出せば、シャーロットは飛び上がって驚くに違いない。
魔神は、淡い黄金の瞳でまじまじとアーノルドを見ている。
足許にいるアットイが、「どうか自分に気づかれませんよう」と祈っていることはあきらかだった。
魔神の眼差しにはどこか現実感がなく、かれの立ち姿が他のものと同じく影を落としているのが、いっそ不思議に思えるほどだった。
アーノルドはさり気なく動いて、アットイを踵で促し、かれを脚の後ろに庇った。
そして、シャーロットに微笑みかけた。
――あの、もう何もかもどうとでもなっていくかのような、そんな気分は消え失せていた。
彼は徐々に、いつもの彼に戻りつつあった。
「すごいね。きみ、おれの母親よりおれのことを心配してるよ」
「そうかしら」
「うん、おれ、あんまり愛情に恵まれなくて」
魔神の視線をアットイに向けさせないことだけを考えた結果、アーノルドはそんなことを口走っていた。
口走ったその瞬間、アーノルドはふいに思い出した――彼が出稼ぎという名の口減らしのために家を出たあの日、彼の母親は確かに涙を見せたのだ。
「手を離されたからって、愛情がなかったわけではないと思うわ」
シャーロットがつぶやいた。
こちらも深く考えたわけではなく、ぼろりと口から言葉が出た様子だった。
彼女はまじまじとアーノルドを観察している――彼が気まずくなるほどに。
「愛情っていうのはときに、確信をもって手を離すことでもあると思わない? 自分がいなくても相手が大丈夫だって信じていられるのは。
――まあ、お母さまがあなたから手を離したのが早すぎたにせよ」
われに返った様子で最後の言葉を口早に付け加え、シャーロットはアーノルドの頭のてっぺんから爪先へ視線を動かし、また視線を折り返して持ち上げて、最後に彼の目を見た。
「アーニー、あなたが、私の目の前に飛び出してきてくれなかったことを思うと、もしかしたらあなたは私に会うと都合が悪かったか、あるいは私のことが大嫌いなのかもしれないけど――」
「嫌いではないな」
アーノルドはつぶやいた。
シャーロットはにこりともしなかった。
「安心したわ。じゃあ、あなたは私に会うと都合が悪かったのね。
――でも、ねぇ、アーニー。期待外れを神さまと人に向かって言うのはナンセンス、よ。ここで私に見つかったことは運がなかったと諦めて、ちょっと質問に答えてほしいんだけど」
アーノルドは、いよいよ怯えているアットイを踵でつついた。
シャーロットの魔神が、ついにアットイに気づいたようだった。
かれの淡い黄金の瞳が、悪魔らしい興味深さでアットイをまじまじと観察している。
「えーっと、あー、答えられることだったら」
アーノルドはつぶやいた。
シャーロットが右手を上げて、指を立てた。
「訊きたいことが三つあるの。
――まず、あなたは今、どこで生活しているのか。
それから、あのあとどこに行っちゃったのか。本当に心配したのよ。私だけじゃなくてグレイさんもね。
最後に、どうしてここにいるのか」
アーノルドは悲しい気分になった。
答えられる質問が一つもなかったからだ。
彼は悲しげな瞳でシャーロットを見て、小さく言った。
「四つめの質問を作ってくれ。おれの好きな食べ物はなに、とか。そうしたら、全部に答えられないなんてことにはならないから」
「四つめの質問があるとすれば、」
シャーロットは真面目に言った。
「そこの、しっぽが二本ある猫はだれ、ってことになるんだけど」
アーノルドはうめこうとしたが、彼よりも早く、アットイが悲鳴を上げていた。
というのも、「待ってました」とばかりに魔神が屈み込み、手を伸ばして、いともたやすくかれを両手で抱え上げたからだった。
マルコシアスは、まるで十四歳の少年が、ねだりにねだった猫を誕生日に贈られたかのような顔で、アットイを両手にぶら下げていた。
アットイが悲痛な声を上げて、ほっそりした身体を懸命にくねらせて逃げ出そうとしているが、逃げ出すにはいたっていない。
「ああ……」
アーノルドは嘆きの声を上げた。
マルコシアスは嬉しそうな顔でシャーロットを窺った。
「僕のレディ、こいつがだれか分かる? あいにく、僕は格下に詳しくなくて」
シャーロットは肩を竦めた。
「魔精って、魔神に比べるところころ姿を変えるひとが多いらしくって、見た目の特徴があんまり伝わってないというか――それに、数も多くて把握が大変だし」
「なるほど。分かった、自己紹介を頼むのがいちばんみたいだね」
合点承知、とばかりに頷いて、マルコシアスは無頓着にアットイを別々の方向にひっぱり始めた。
とはいえ、むろんのことながら、アットイに身体は一つしかない。
アットイは悲痛な声を上げた。
「ちょっと!」
アーノルドは、自分がこれほど悪魔に向かって強い声を出すとはついぞ想像もしたことがないような声を出し、あわててマルコシアスからアットイを奪い返した。
というのも、シャーロットのこの態度からして、彼女が悪魔に対して、「アーニーを傷つけないこと」という命令を出すことを期待できると判断したからである。
マルコシアスは、まるで悪意なくじゃれていたところを誤解されたのだ、と訴えるがごとき罪のない表情を作って、ぱっと両手を挙げて肩を竦めている。
アットイは猫そのものの声でみぃみぃと鳴いて、不当な扱いを受けたことを存分に訴えながら、アーノルドの手の中から胸を這い上がり、肩を乗り越えて彼の後ろに飛び降りた。
二本のしっぽのうち片方が、軽くアーノルドの頬をこすった。
アーノルドは複雑な目で振り返ってかれを見下ろし、つぶやく。
「頼むから、これに感謝しておれに関心を持ってくれるなよ」
「ほう! あんたは僕らとの付き合い方をよく心得てるね。それ、あんたの悪魔かな?」
アーノルドは視線を逸らせた。
「あー……いや……」
「アーニー?」
シャーロットが呼ばわった。
眉間にしわが寄っている。
「アーニー、これは誰の悪魔なの? あなた、今は魔術師の方と一緒に暮らしてるの? どうしてここにいるの――これまで会ったことがなかったんだから、リクニスに来たのは今日が初めてなんでしょう? あなたが私を避けて、今日までこそこそしていたんじゃなければ」
アーノルドは愛想笑いで乗り切ろうとした。
「えーっと、おれたちって偶然にもよく会うよね。運命かな」
「アーニー」
「今はすっごくいい人のところに住まわせてもらってるよ。心配しないで」
「アーニー!」
シャーロットが声を大きくしたので、アーノルドは黙った。
シャーロットは腕を組み、アーノルドの目の前の非常に限られた範囲を、ぐるぐると歩き回り始めた。
「アーニー、あなたがどう思っているかは知らないけれど、私だって馬鹿じゃないわ――」
「承知のうえだよ」
アーノルドはつぶやいたが、小さな声だったのでそれはシャーロットには届かなかった。
「――以前もそうだし、今回もそう。それに、あなたは一生懸命に無関係を装おうとしていたけれど、ベイシャーで初めて会ったときもそうよね。
あなた、私が困った目に遭ってるときに必ず現れるの。これでもあなたに会うのが本当にぜんぶ偶然なら、まさにおっしゃるとおり、運命よ」
「――――」
アーノルドは助言を求めて、シャーロットの魔神の方をじっと見た。
魔神は、感情の読めない瞳で微笑んだ。
「僕のレディの運命の相手なら、僕はあんたにも敬意を払わなきゃ駄目かな?」
そのまま、おどけて魔神がお辞儀しようとするのを、シャーロットが肘で押して止めた。
「そういうことは、私に敬意を払ってから言いなさい」
「レディ、僕はつねにあんたに敬意を払っている」
「敬意っていうのは、伝わってこそなの」
にべもなくそう言って、シャーロットはアーノルドに向き直った。
まったく安心したところのない瞳だった。
「それに、アーニー。自分の保護下にある子供に、ちゃんとものを食べさせない人は、『すっごくいい人』とは言えないわ」
「…………」
アーノルドは言葉に詰まった。これは本心だった。
「いや、ちゃんと食べて」
「嘘おっしゃい」
シャーロットはアーノルドを遮って言って、彼の腕を掴み、ついでにもう一度、彼に抱き着くようにして背中に手を回した。
実際は、彼の胴の細さを、腕の長さを使って表現しようとしたのだろうが。
「こんなに痩せて、――ん?」
何かに気づいた様子で、シャーロットが眉を寄せた。
そして、くるっとアーノルドの後ろに回った。
アーノルドの後ろに避難していたアットイが情けなくもくるくるとその場で回りはじめたが、シャーロットはそちらへは注意を払わなかった。
まごつくアーノルド本人を後目に、シャーロットはきわめてレディらしくないことをした。
つまり、思いきりアーノルドのシャツをまくり上げたのだ。
「――――?」
アーノルドは思わずぽかんとして口を開け、それからあわてて息を吸い込んだ。
今なら悲鳴を上げても許されるということに気づいたためだったが、彼が叫び出すより早く、すばやくシャツを下ろしたシャーロットが、ぐるっと彼を回り込んで正面に戻ってきた。
彼女の魔神は、主人の突拍子もない行動を面白そうに見ている。
とはいえシャーロット本人は、欠片も面白そうではなかった。
むしろ、ここまで血の気が引いて恐怖を滲ませたシャーロットの顔を、アーノルドは初めて目の当たりにした。
議事堂に非合法な手段でもぐり込んだあげくに首相を前にしたときのシャーロットでも、今よりはまだ血の気があった。
「…………」
アーノルドは口をぱくぱくさせてから、一歩下がってシャツの裾を直し、肩を竦めた。
「いきなりなんだよ」
シャーロットはしばらく、声も出ない様子だった。
何かを言おうとして言葉に詰まり、狼狽した様子でじっとアーノルドを見て、それから口許を両手で覆った。
一瞬、アーノルドは彼女が泣き出すのではないかと思った。
うろたえた彼はシャーロットの魔神を窺ったが、かれの方はのんびりしていた。
どうやら、シャーロットの尋常ではない様子も、少しも察知してはいないらしい。
そのときようやく、シャーロットが声を出した。
彼女は泣かなかった――ただ、橄欖石の色の瞳が、強くらんらんと光っている。
「――誰?」
シャーロットが囁いた。
怒濤の奔流をその後ろに隠した声だった。
「誰がこんなことをしたの?」
「は?」
アーノルドは眉を寄せた。
本気で意味が分からなかったのだ。
「なんのこと――」
「アーニー」
シャーロットの声がわずかに震えたが、彼女の眼差しは揺るがなかった。
「背中に傷痕があるわ。転んだなんて言わないで。
――鞭で打たれたみたいだった」
アーノルドは瞬きした。
――確かに、彼の背中には鞭で打たれた痕がある。
二年ほど前に、主人に逆らった代償としてもらったものだ。
傷は治ったが、筋状に盛り上がった傷痕が幾筋も残った。
――それに気づいたのか。
「――――」
黙り込むアーノルドに、シャーロットはほとんど怯えたような声を出した。
「アーニー、誰があなたにこんなことをしたの?
――そんな場所にいる必要ないわ、アーニー、ねえ――」
そのときふいに、羽毛におおわれた翼が空気を叩くとき特有の、やわらかな音がした。
アーノルドは弾かれたように振り返った。
――そしてそこに、どこからともなく翼をはためかせてやって来た、美しい白いオウムの姿を認めた。
オウムの羽毛は、陽光を浴びてやわらかく淡い黄金に近い色に、つやつやと映えている。
金色の足環を嵌めたかれが、かち、と小さな爪の音を立てて、バルコニーの欄干の、アーノルドのすぐそばに止まった。
もったいぶって翼をたたみ、冠羽を寝かせたままの頭が傾げられる。
そして、小さな黒い目が間近にアーノルドを覗き込んだ。
その瞬間にアーノルドは悟った。
自由時間は終わりだ。
さらにいえば、この自由時間も、おそらく彼の主人が考えて彼に与えたものだったのだろう。
おかげでアーノルドは、シャーロット・ベイリーが召喚した魔神をまじまじと観察することも出来たのだから。
シャーロットは、アーノルドが突然黙り込んで背後のオウムを凝視した理由が、咄嗟には分からなかったらしい。
高位の魔神の擬態は、熟練の魔術師でも見破るのが難しいものなのだ。
彼女は黙り込んだアーノルドを自分に振り向かせようと、彼の肩へ向かって手を伸ばした。
「――待って、ロッテ!」
マルコシアスが叫んで、勢いよくシャーロットに飛びつき、彼女を自分の方へ引っ張り寄せた。
いきおい後ろに倒れ込むような格好になって、シャーロットが小さく叫ぶ。
「ちょっと!」
アットイは完全にわれを失って、うろうろとバルコニー中を走り回っている。
マルコシアスは、主人の抗議には注意を払わなかった。
ただ、彼女の肩を守るように押さえ、抱え込んだ状態で、油断なくまじまじと白いオウムを見つめている。
オウムはしばらく、その視線を楽しむように黙っていたが、やがてだんまりを決め込むにも飽きたとみえ、わざとらしく大きな欠伸を漏らした。
そして、言った。
「やあ」
それでやっと、オウムが魔神の擬態であると気づいて、シャーロットがぴたりと口を閉じてオウムを凝視する。
マルコシアスは瞬きひとつせず、会釈した。
視線は決して逸らさなかった。
「やあ」
白いオウムは片脚を持ち上げ、ほんもののオウムそっくりに頭を掻いた。
それからぶるっと身体を震わせると、もったいをつけて首を傾げる。
「以前も会ったかな」
「そうかもね」
マルコシアスは言葉少なに応じてから、ますます強くシャーロットを引き寄せた。
そのためにシャーロットの息が詰まるほどだった。
「ちょっと確認させてほしいんですけどね、あんたはそこの人間を回収しに来たの?」
そこの人間、と言いながら、マルコシアスは顎でアーノルドを示した。
オウムは大儀そうにアーノルドを見て、頭を上下させた。
「ああ、うん、まあね。今、これを手許から離す予定は、僕の主人にはないからさ」
「そう」
シャーロットが何か言おうとしたのを、彼女の口をてのひらで塞いで遮って、マルコシアスは無表情に尋ねた。
「じゃあ、これも確認なんですけどね、僕はこの子を連れて、ここから離れていいかな? お許しがもらいたいんですけどね」
オウムは翼を揺すって笑った。
「へえ。僕がお許しを出さなかったらどうするの?」
「もちろん、」
マルコシアスは即答した。
「あんたを怒らせる前に、僕だけでさっさと領域に逃げますよ。
この子のことは気に入ってるけれども、致命の一撃を許容できるほどじゃないんでね。もっといえば、この子のことを気に入ってるのも、僕がいてこそだ」
オウムはくちばしを開けて笑った。
「おやおや、薄情な悪魔だ」
「情に篤い悪魔なんかいませんよ。僕じゃあ、とてもあんたには敵わないからね。そのくらいは分かる」
マルコシアスの飄々とした答えに、オウムはカチカチとくちばしを鳴らした。
「情に篤い悪魔もいたらしいけれどね。
――でも、まあ、そうだね。きみは賢明だ」
マルコシアスは片目をつむったが、その仕草が緊張しているのをシャーロットは感じ取った。
「僕の賢明さに免じて?」
「行っていいよ」
オウムは笑い含みの声で応じたが、マルコシアスの緊張はまだ解けなかった。
かれがシャーロットの肩を掴んだ手に力を籠めたために、シャーロットはもう一方の手で口を塞がれたまま、くぐもった声を上げたほどだった。
かれは淡い黄金の瞳でオウムを見据えて、試すようにつぶやいた。
「この子を連れて?」
オウムは軽く頭を上下させた。
「好きにしな」
それでようやく、マルコシアスの手から力が抜けた。
シャーロットは焦ってかれの手を叩いて、アーノルドをなんとかするよう合図した――アーノルドの表情は、決して明るいものとはいえなかった。
むしろ――打ち沈んだ、これから独房に戻る虜囚のような――
しかし、マルコシアスはぞんざいにシャーロットの手を振り払った。
かれが用心深くオウムを見て、首を傾げる。
「最後に名前を教えてくれない?」
オウムは片翼を広げて悠々と伸びをした。
その動作に存分に時間をかけてから、かれはからかうように言った。
「自分で分からないの? なら駄目」
マルコシアスは肩を竦め、シャーロットの腕を掴んで強引に彼女を自分の後ろへ押しやった。
シャーロットが声を出そうとしたのを察して、かれはかなりおざなりなやり方でふたたび彼女の口をふさぐ。
オウムはそれをおかしそうに見て、暢気に首を振った。
「僕の気が変わらないうちに、行った方がいいんじゃない?」
「まさにそのとおり。――行くよ、ロッテ」
マルコシアスが言下に告げて、後ろに追いやったシャーロットの腕と肩を掴み、彼女ごと後退る。
そうやって、かれはその場に留まろうとするシャーロットを引きずるようにしてアーチをくぐった。
間もなく二人は、バルコニーから本棟の中へ、陽光の遮られた暗い城塞の中へと戻っていった。
▷○◁
「勝手になにするのよ!」
シャーロットがようやくマルコシアスの手から解放され、憤慨の声を上げたのは、最上階から二階分を降りた階段の踊り場でのことだった。
「アーニーがいたのよ! この二年、私もグレイさんも、あの手この手で彼を捜してもらってたのよ!」
「知らないよ、もう」
疲れた様子でマルコシアスはそうあしらって、両手で顔をぬぐった。
「僕だって万全じゃないんだよ。それに、万全だったとしてもあいつの相手はたぶん出来ない。
あんな魔神がそばについてるなら、ロッテ、あんたの友達のことは諦めるんだ」
「おかしいじゃない」
シャーロットは憤然と言い、そうしながらも階段を昇っていこうとしたので、マルコシアスはあわてて手を伸ばし、かれの主人の襟首を捕まえた。
「こら、お馬鹿さんだな、せっかく逃げて来られたのに。
――おかしいって何が」
「離しなさい。
――お前、言ってたでしょう。格上の魔神がそばに張りついていない限りは、お前の精霊がアーニーを見つけられるって。
そんなに格上の魔神がそばについているなら、どうしてお前がアーニーを見つけられたのよ」
マルコシアスはシャーロットを、猫の子を扱うようにして彼女の首根っこを掴み、階段を数段分引きずり下ろして踊り場に引き戻した。
見た目にそぐわぬ膂力だったが、相手は悪魔なのだからシャーロットは驚かない。
とはいえ、その扱いには抗議した。
「お前ね!」
マルコシアスは溜息を吐く。
「離さないよ。あんた、戻ったら死んじゃうかもしれないよ」
「そうなったら、私の血が悪用される前に、お前が始末をつけなさい」
強情な口調で断言するシャーロットに、マルコシアスは微笑んだ。
それから、シャーロットの言葉に応じた。
「僕があの子供を見つけられた理由? 知らないけど、あいつの気が向いたんじゃない」
「あいつが四六時中はアーニーに張りついてないって考える方が自然でしょう!」
シャーロットが地団駄を踏んだ。
「目を離してる隙があれば、アーニーを連れて来られるかもしれないでしょう!」
「そのあと、僕があいつに血祭に上げられるってわけ? ごめんだね」
「エム!」
シャーロットが憤然と声を上げたが、マルコシアスは顔を顰めて彼女を黙らせた。
ふい、とそっぽを向いたマルコシアスは腕を組み、眉間にしわを刻んでつぶやく。
「あいつ、バエルじゃないだろうな」
さすがのシャーロットも目を丸くして勢いを落とした。
「……はあ?」
バエルといえば序列一位の魔神だ。
つまるところ、人間が召喚できる悪魔としての最上位、最強の悪魔なのだ。
主人が話を聞き入れる態勢に入ったことを横目で確認して、マルコシアスは不機嫌に続ける。
「少なくともそれに近い。以前の僕なら序列の見当もつかなかった」
シャーロットが眉を寄せた。
「……議事堂で、お前が警戒していた魔神がいると思うんだけど。もしかして、かれ?」
マルコシアスは肩を竦める。
「たぶんね。今だから言えるけど、あれは序列一桁だ。どんなに下に見積もっても、パイモンより下ってことは有り得ない」
シャーロットの眉間に、くっきりと「不機嫌の縦線」が刻まれた。
「――お前、最初に、ベイシャーであの魔神を見たって言ってなかった?
それがどうしてここにもいるのよ。――それだと……」
言い淀んでから、シャーロットは息を吸い込み、そして一息に言い切った。
「それだと、オーリンソンさんの一件と今回の件、どちらにも噛んでいる誰かがいるってことになるわ」
しかも、と言葉を継いで、シャーロットは蒼褪める。
「アーニーは……私がらみのことで、ひどい場所にいるってことになるわ」
「そうかもね」
そっけなく肯定して、マルコシアスはシャーロットの腕を掴み、ずんずんと階段を下り始めた。
シャーロットはよろめくようにしてそれに引きずられる。
「癪だけど、僕じゃあいつにはとても敵わないからね。助言させていただくと、レディ、本気であの子供を助けたいなら、あんたの知り合いでもなんでも頼って、少なくともパイモンを召喚できるだけの条件を整えるべきだ。まあ、言っておくけどパイモンは性格が悪いけどね。
――今あんたが戻ったところで負け戦にしかならないし、もっと悪けりゃあんたの血を取られるよ」
シャーロットは息を吸い込んだ。
郵便馬車を襲った悲劇が頭をよぎった。
「だけど――」
「ロッテ、僕が考えるのはあんたの無事だけだよ。他のことはあんたが考えて」
シャーロットは思わず毒づく。
「何が起こっているかもろくに分かってないっていうのに――」
「そんなことはない」
言いながら、マルコシアスはシャーロットの歩調に合わせて例の魔神と距離を置いていくことに業を煮やしたらしい。
くるりと振り返ると手を伸ばし、シャーロットを抱え上げた。
「こないだ僕とあんたが暗中模索していたときよりは、まだ物事がよく分かってるさ。
なんにせよ、あんたは自分の身を守らないとまずいことになるって分かってる」
ふうっ、と、マルコシアスが踊り場の嵌め殺しの窓に息を吹きかけると、硝子が一瞬にして霧と化して漂った。
目を丸くするシャーロットを抱えたまま、身軽に窓枠に飛び乗ったマルコシアスが、頓着なくそこから身を躍らせる。
「――――!」
マルコシアスにしがみついて悲鳴を押し殺したシャーロットには見えなかったが、マルコシアスが宙に身を躍らせたとたん、嵌め殺しの窓は何ごともなかったかのように元通りになっていた。
すたり、と、大した衝撃もなく数階分の距離を落ちた上で地面を踏み、マルコシアスはシャーロットをその場に立たせた。
シャーロットはよろめきつつもマルコシアスから離れ、落下のあいだに乱れた金色の髪をかき上げる。
自分が広い中庭の隅に立っていることを確認した上で、彼女は頭上を見上げた。
もしかしたら、バルコニーからアーノルドがこちらを見下ろすかもしれない――と思ってのことだったが、見上げた先はしんと静まり返っている。
辺りはきわめて静かだった。
ぐるりと見渡してみると、マルコシアスとグラシャ=ラボラスによって破壊された一画も、否が応なく遠目に視界に入る。
「――――」
シャーロットは目を閉じた。
ともかくも、グラシャ=ラボラスの主人を突き止めなければならない。
そうすればおのずと、アーノルドの状況も分かるはず――
彼の背中の鞭打ちの痕が、瞼の裏に甦った。
シャーロットはあわてて目を開けた。
アーノルドは今、決して幸福な状況にはいない――それがまざまざと突きつけられた。
そのとき、マルコシアスが軽くシャーロットの袖を引いた。
「レディ」
シャーロットは両手で顔を押さえた。
グラシャ=ラボラスの主人は、少なくとも、シャーロットが郵便馬車に手紙を預けたことを知っていた――ならば学院内にいたはず。
「待って……」
そこから思考を進めようとしても、アーノルドの痩せた背中の幻影が、何度も脳裏をよぎった。
(私のせいだ……私が、議事堂で彼を巻き込まなかったら……)
シャーロットは唇を噛む。
アーノルドがベイシャーにも姿を見せていたことを考え合わせると、どこから彼がシャーロットが絡む一件に巻き込まれていたのかは分からないが、それでも議事堂でシャーロットが距離を取っていれば。
自己嫌悪と罪悪感で、心臓のあたりが苦しくなった。
そんな彼女の袖を、ふたたびマルコシアスが引く。
「レディ」
「もうっ、なによ!」
シャーロットは顔を上げた。
そして、マルコシアスが一方向をまっすぐに指差しているのを見た。
怪訝な顔でその指先を追ったシャーロットの顔が、ものの見事に唖然とした、あっけにとられた色に染まるのを見て、マルコシアスは笑いを噛み殺した。
「出会うとは思ってなかった人なの?」
いたずらっぽく尋ねても、シャーロットから応答はない。
シャーロットはその場で飛び上がり、叫んでいた。
「――ヴィンセントさん!!」
女子寮の門番、シャーロットと議事堂の橋渡し――先日から行方知れずとなっていたヴィンセントその人が、本棟の勝手口から駆け出して、中庭の芝生の上を、シャーロットの方へと走り寄ってきていた。
▷○◁
「ミズ・ベイリー!」
駆け寄ってきたヴィンセントは、シャーロットから二フィートのところでつんのめるようにして立ち止まり、忙しなく彼女の全身を観察した。
ヴィンセントは五十がらみの男で、白髪まじりの黒髪はくせが強く、その髪を伸ばして後頭部で縛っているのだが、縛られた髪は小さな毬のような形に膨らんでいた。
褐色の瞳があわただしくシャーロットの無事を確認して、血走っている。
春の陽気だけが原因ではないだろう汗に、彼の額と腋の下がびっしょりと濡れていた。
上背のある彼が、窮屈そうな上着に覆われた背中をかがめて、シャーロットの顔を覗き込んだ。
シャーロットはシャーロットで、安堵で膝を折りそうだった。
もしかしたら、ヴィンセントにも何かあったのではないかと――最悪の場合、彼はもういないのではないかと――思っていたのだ。
「良かった、ヴィンセントさん――」
「何があったんだね?」
ヴィンセントがあわただしく問いただした。
彼の目が、一瞬だけマルコシアスの方を向いた。
「そちらは誰かな――きみにボーイ・フレンドが出来たとは聞いていないし、今は少し離れてもらいたいんだが」
「大丈夫です――私の悪魔です」
シャーロットは口早に言って、マルコシアスに首の枷を見せるよう合図したが、かれは従わなかった。
まるで下品な内容の命令を受けたかのように顔を顰めるかれを見て、シャーロットはマルコシアスに言うことを聞かせることは早々に放棄した。
そして、シャーロットは言葉を続ける。
「この緊急事態ですもの、私が魔神を召喚したとしても、ネイサンさまも閣下も、きっとお叱りにはならないはずです」
「緊急事態――」
ヴィンセントがつぶやき、勢い込んで前のめりになった。
「一体なにがどうなっている? 私は――」
そこで言葉を止め、ヴィンセントは腹立たしげに続けた。
「ワルターは何を?」
「医務室にいらっしゃいます」
シャーロットは口早に答え、ヴィンセントに口を挟ませず、怒濤のようにここ数日のことを話し切った。
彼女の話し振りは理路整然として、時系列を間違えることも言葉に詰まることも一度もなかった。
――最初に魔精に襲われたこと。そのためやむなく魔神を召喚したこと。
同日、ヴィンセントが戻らず、ワルターも階段から転落して怪我を負い、議事堂への連絡手段を絶たれたこと。
手紙を書いたが、その手紙を運んでいた郵便馬車が事故に遭い、御者が犠牲になったこと。
そしてつい先ほど、序列二十五番の魔神が襲ってきたこと。
ヴィンセントは茫然とした様子だったが、彼の方も口早になって、ここ数日のことを話した。
――休暇を取っていたのは事実だが、帰路の汽車が突然動かなくなったこと。
そのために途中の駅で足止めを喰らい、ようやくエデュクスベリーへ戻ってきたのがつい先刻であること。
シャーロットは眉を寄せたが、不快に思ったがゆえではなかった。
単純な疑問が湧き上がってきたがためだった。
「先ほどお戻りになったばかり? ――それにしては……」
言葉を探したシャーロットの言わんとするところを察して、ヴィンセントが顔を歪めるようにして苦笑する。
「それにしては慌てているように見えた、だろう?
――自分が不在のあいだにきみに何かあったのではないかと思って慌てたこともあるが、ミズ・ベイリー――」
言葉を切り、ヴィンセントは周囲を見渡した。
「今が何時か分かるかね?」
シャーロットは言葉に詰まった。
朝一番の講義を、グラシャ=ラボラスからの襲撃ですっぽかしてしまっている。
それから説教部屋に連れられ、そしてアーノルドを捜し――彼女は時間の感覚を失っていた。
「お昼くらい……ですか?」
あてずっぽうな言葉は、しかし肯定された。
「そうだ」
ヴィンセントは頷いて、びっしょりと汗で濡れた額をてのひらでぬぐった。
「――それで、どうしてこんなに静かなんだ?」
よろしければ、何か反応を下さい……




