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12 ただ一人

 グラシャ=ラボラスはイタチの口を開けて、とてもイタチとは思えない笑い声を上げた。

 雷鳴のような声だった。


 青白い光の網がびりびりと震えたが、持ち堪えた。


「レディ? 貴婦人(レディ)だって? ずいぶんと乳臭いレディもいたものだ。

 それをわが主人(マイ・レディ)とは、落ちぶれたな、マルコシアス」


 シャーロットはむっとした。


 マルコシアスは椅子に座ったまま手を伸ばして、不穏な微笑みを浮かべてイタチの額を指先ではじいた。


「あんたにあげつらわれる覚えはないよ。

 あと、この子はけっこう面白いよ。あんたにはあげないけどね」


 すげなくそう言って、マルコシアスは腕を組んだ。


「グラシャ=ラボラス、最初に教えてくれないか――あんたの主人について、僕のレディ、あるいは僕でもいいが、とにかくどっちかに吐く気があるのかどうか。

 あるならさっさと吐いて。もちろん、吐く前に僕に痛めつけられる一連の儀式が必要だというならお付き合いしよう――喜んでね。

 吐く気がないなら、それもさっさと言ってくれ。あんたをしばらくのあいだ顔が見られないところに送り込んでやる」


 光の網の中で、イタチはしばらく考え込んだようだった。

 本物のイタチには決してありえない真円の薄青い目が、ゆっくりと考え深げに瞬いた。


「どうにも解せんな。私がお前ごときにしてやられたこともそうだが、お前がああまでしてそこの小娘に尽くしてやることにも納得がいかん」


「おあいにくさま。僕は報酬しだいで自分の主人を選ぶからね。あんたの納得も許可も必要ないよ、ご存じないようだから教えておくけど」


 マルコシアスは皮肉っぽくそう言ったあとで、ふいに何かに思い当たった様子で指を鳴らした。


「ああ、なるほど、分かったぞ」



 オリヴァーがそわそわと尻を動かして、「なあ、早いところお前に喧嘩を売ったやつを突き止めないとまずいんじゃないのか、ベイリー」と囁いた。


「今にも学院長がいらっしゃるぜ」


 シャーロットは顔を顰めた。


「喧嘩じゃないのよ、ノリーくん。あとね、エムは――マルコシアスはいつもこんな調子なんです。でもしっかりしてるから、誰かがこの部屋に近づいてきたら、ちゃんと足止めもしてくれますよ」


 オリヴァーは憂慮の眼差しで彼女を見た。


「昨日も言ったが、ベイリー。悪魔につけ込まれると面倒なことになるぞ」


 シャーロットは肩を竦めた。



 一方のマルコシアスは、片足を椅子の上に載せ、その膝に頬杖をついて、面白そうに肩を震わせている。


「あんた、僕に敵わないと悟って、まあ、悟ってくれたことは賢明だったと思うけど、とにかくそれで、とりあえず逃げ出そうとしてあんなに姿を変えたんだな。魔法も控えたのは余力を残したかったからだね、分かったぞ。

 妙だとは思ったんだ――あんたなら、あの状態からでも一発()()()とでかいのをぶちかまして、僕を困らせることは出来ただろうからね。まさか、僕があんたに付き合ってあんなに姿を変えて、あんたを追い詰めるとは思わなかったんだ。そうだろう?」


 グラシャ=ラボラスは返答しなかったが、否定もしなかった。


 マルコシアスはまだ笑いながら首を振った。


「あんたが思っていたより、僕が雪辱に燃えていた――失礼、僕が主人を守るのに熱心だったからって、しっぽを巻いて逃げようとしたんだ。

 あんたは今の主人が示した報酬に、そこまでご執心ではないらしい。さっさと誰に仕えているか吐けよ、そしたらあんたをいじめたりしないよ」


 グラシャ=ラボラスは薄青い目でマルコシアスを見た。


「お前は私の評判に、どうやらあまり詳しくはないようだ」


 マルコシアスは首を傾げる。


「どういうことだろう?」


 イタチの姿の魔神は欠伸をした。


「私はこれまで一度も、主人を裏切ったことはない」


 マルコシアスは了解を示して頷いて、椅子から立ち上がった。


「僕の方はね、これまで一度も護衛の務めをやり損ねたことはない。

 ――良かった、グラシャ=ラボラス。お互いにお互いの評判を守れるみたいだ」


 グラシャ=ラボラスは、さすがに少しばかり身構えたようだった。


「そのようだ」



 シャーロットは思わず、後ろからマルコシアスの背中をつついた。


「エム?」


「悪いね、レディ。こいつがこう言うなら、時間を使うだけ無駄だ。あんたが死ぬまで付き合ってやっても、こいつは何もしゃべらないよ」


 シャーロットは渋い顔をしてしまったが、振り返ってその表情を見たマルコシアスは笑った。


「すっぱいものを食べたみたいだね。――大丈夫、あんたの敵があんたにご執心なら、まただれかしら差し向けてくるだろう? 僕がいるかぎり守ってあげる。そのうちしっぽも掴めるよ」


 シャーロットは鬱々とした気分になったが、あいにくとマルコシアスはそれを察知しなかった。


「お前の敵ってなんのことだ?」


 オリヴァーが訝しげに尋ねたが、シャーロットはあいまいに首を捻るしかなかった。

 なにしろ、許可なく勝手に話そうものなら、おそらく首相じきじきに彼女の死刑執行令状にサインをすることになってしまうので。


 マルコシアスはグラシャ=ラボラスに向き直り、そして何を思ったか、ふとストラスの方を見た。

 ストラスは仏頂面で黙り込んでいる。


「あんた、こいつにとどめを刺すかい? ちょっとした箔にはなるかもしれないぜ」


 ストラスは鼻を鳴らした。


「けっこう」


「よろしい」


 愛想よくそう言って、マルコシアスはグラシャ=ラボラスに指を突きつけた。


 そして、少しのあいだ、何かを待った。


 それに気づいたグラシャ=ラボラスが、せせら笑うような嘲りの声を上げた。


「――何百年待とうが、私がお前のようにみっともなく、()()()()()と懇願することはないぞ」



 マルコシアスは、何かがかれの顔をぬぐい去ったかのように無表情になった。


 何も言わず、眉ひとつ動かさず、マルコシアスはグラシャ=ラボラスに突きつけた指を、ぐい、と、さらに押し込むようにした。



 その指先が発火した。

 すくなくともシャーロットにはそう見えた。


 真っ白な光がマルコシアスの指先で弾け、白熱して部屋中を照らし出して目を灼き、まるで星がひとつ部屋の中に落ちてきたかのように、凄まじい光を撒き散らしながら、熱のない炎のごとくに燃え上がった。



 シャーロットは堪らずに目を覆って叫び声を上げ、そしてようやく光が収まり、彼女が顔を上げたとき、そこにグラシャ=ラボラスの姿はなかった――()()()()()が、かれに形を留めることを許さず、その場からぬぐい去ってしまったのだ。


 七十二の魔神のうち一人は、これから百年に亘って召喚に応じることはないだろう。



 かれが乗っていた丸テーブルも、消し炭にもならずに消し飛んでいた。


「まあ、エム」


 シャーロットはうめいた。


 オリヴァーは彼女よりも上手く目を庇ったようだったが、それでも痛そうに目許を押さえている。


 唯一平然としているのはストラスだったが、これはかの(じょ)に、光に依存する眼球がないためだろう。

 ストラスは意地悪くマルコシアスを見て、きわめて悪魔らしい満面の笑みを浮かべていた。


「――『やめてくれ』、ですって?」


「黙れ」


 マルコシアスは無表情のままそう言って、それから何の表情も浮かべずにシャーロットを振り返った。


「早いとこ忘れるんだよ、いいね?」


「私が忘れてないことで、お前が忘れちゃってることがあるわよ」


 シャーロットはにべもなく応じた。

 悪魔の機嫌を窺うようでは魔術師は名乗れないのだ。


 マルコシアスの方は、かれが自分の繊細な記憶によって不機嫌になっている、その情動に対してシャーロットが無関心であることに、少々腹を立てたようだった。


 かれは顔を顰めた。

 無表情よりよほどいいとシャーロットは思った。


「なに」


「さっき、私に言いかけたことがあったでしょう。

 私に知らせておいた方がいいことがあるって言ってたじゃない。あれはなに?」


 マルコシアスはしばらく眉を寄せていたが、そのうちに思い当たった様子で手を打った。


 不機嫌な様子はもう欠片もない。

 悪魔の気分は山の天気とは比較にならないほどに変わりやすいのだ。


「そうそう、すっかり忘れてた。

 ――僕にあんたの窮地を知らせた人間がいたんだ。おかげで、グラシャ=ラボラスがあんたに照準を合わせた瞬間に間に合ったんだけどね」


 シャーロットは驚いて目を見開いた。


「まあ、私にヒーローがいたのね。誰?」


「あんたのヒーローは僕だろ。まったく、くたくたになるほど頑張ったのに、あんたって子は」


 オリヴァーが咳払いした。

 シャーロットは溜息を吐いた。


「ノリーくん、そんなに怖い顔をして見張っていなくても、エムが私を食べてしまうなんてことはありませんよ。

 ――それで、エム? そのいい人はなんて人なの?」


 マルコシアスは肩を竦めた。


「知らないよ。あっちは僕のことを知ってたけど、僕は知らない。

 ただ、とても偶然とは思えないでしょ? 知らせた方がいいかと思って。気を利かせたんだよ」


「ありがとう。――お前のことを知ってたってことは、この学院の人ね?」


 魔術師ならば、マルコシアスの名前は知っていよう。

 七十二の魔神を諳んじることの出来ない者がいるとすれば、そいつはモグリだ。


 マルコシアスはおそらく、この少年の姿を好んでいる――過去に召喚されたときも同じ格好をしていたのだろう。


 だから、過去にかれが召喚されたときの記録を呼んでいたならば、この少年の姿を見て、これこそマルコシアスだとひらめいたとしてもおかしくはない。


 そう考えたシャーロットだったが、マルコシアスは首をひねった。


「うーん、いや? そうとは限らないと思う」


 シャーロットは首を傾げた。

 マルコシアスは両手をひらひらと動かす。


「あんた、僕のことを安直きわまりない愛称で呼ぶだろう――」


「安直で悪かったわね」


 シャーロットは剣呑につぶやいた。

 とはいえ、十四歳の彼女が思いついた愛称は、確かに頭文字をとっただけだという、安直きわまりないものだ。


「気に入ってるから別にいいよ。

 ――とにかく、僕をそう呼ぶのはあんただけなんだ。けど、そいつ、あんたの言うあんたのヒーローは、()()()()()()()()()()()()()()()()


「――――」


 シャーロットは目を見開いて硬直した。


「――え?」


「あんたの知り合いかな、ロッテ?

 けど、あんたは知り合いに僕を紹介したことはないね――そこのそいつを除いては」


 そこのそいつ、と顎で示されたオリヴァーは、悪魔の無礼なふるまいに対して顔を顰めた。


 シャーロットはそれを見ていない。

 降ってきた知らせがもたらした可能性に窒息しそうになりながら、彼女は思わずマルコシアスに縋りつくようにして、かれの袖を引いた。


「待って――待って」


「別に、どこにも行かないけど」


 きょとんとした様子のマルコシアスの的外れな返答にも気を配れず、シャーロットはぱくぱくと口を動かしてから、ようやく言葉を絞り出した。


「――どんな人だった?」



 魔神マルコシアスを、「エム」という愛称で認識している人間は、シャーロットの他には()()()()のはずだ。


 ――彼女がかれをそう呼ぶのを、もちろん、ウィリアム・グレイも知っている。

 魔精リンキーズも知っている。


 だが彼らは、マルコシアスを「マルコシアス」の名で知っている。


 だからこそ、面と向かってかれに呼び掛ける必要があれば、迷うこともなく「マルコシアス」と呼ぶはずだ。



 ――()()()()()()()()()()()()()()()()



 シャーロットがかれを「エム」と呼ぶのを間近に聞いていた人。

 魔術師ではなく、初等学校にすら通えず、悪魔のことを知らない人。



 ――シャーロットが、この二年に亘って、捜して見つけ出してほしいと、彼が寒い思いやひもじい思いをしていないか確かめてほしいと、必死にネイサンに頼み込んでいた人。



「どんな?」


 シャーロットの、興奮と期待に息も絶え絶えになった様子にも無頓着に、マルコシアスは首を傾げた。


「そう言われてもね。――えーっと、男だったな」


 シャーロットはいよいよ息を詰まらせた。


年齢(とし)は? どのくらいだった? 分かるでしょう、召喚陣を通っているんだから」


 マルコシアスは顎に手を当ててから、生真面目な手つきで首許のストールを直し、それからまた顎に手をやって、そして答えた。


「――あんたと同い年くらいだったかなあ……」


 不覚にも、シャーロットは泣き出しそうになった。


「――髪の色は」


「えーっと」


 マルコシアスは暢気にも記憶の箱をひっくり返している。


「明るい色だったな――なんて言うんだっけ、――そうそう、金茶色」


 シャーロットは両手で顔を覆った。



 ――初めて会った廃校で、蝋燭の頼りない灯りに照らされていた彼の金茶色の猫っ毛。


 はっきりと覚えている。


 女の子といって通るほどに整っていた顔立ちは、おそらくこの二年で成長したに違いない。


 同世代の男の子にしては声は低くて、口調は落ち着いていることが多かった――シャーロットが彼を困らせて、頭をかかえさせない限りは。



「目の色は、灰色がかった青?」


 くぐもった声で尋ねた彼女に、マルコシアスはびっくりしたような顔を見せた。


「そうそう、ご名答。

 ――あれ? 本当に知り合い?」



「――――」


 シャーロットは息を吸い込んだ。



 がば、と、てのひらから顔を上げたシャーロットは、彼女の事情などマルコシアスが知るはずもないということを頭の中からすっかり放り出し、叫んでいた。


 なんなら、彼女は背負っていたバックパックを下ろして、それをマルコシアスに投げつけそうになったほどだった――思い直して、彼女はそれを床に放り出すに留めたが。


「――なんでもっと早く言わないのよ! 本当に馬鹿な悪魔ね!!」


 マルコシアスは呆れた様子だった。


「早く言ってほしいならちゃんとそう伝えてきなよ、間抜けなレディだな」


 弾けるように叫んだシャーロットに、むろんのことオリヴァーはうるさそうに顔を顰めていたが、シャーロットがそれに頓着することはなかった。


 彼女は両手をもみしぼった。


「もう、馬鹿ばか、本当に馬鹿、なんでもっと早く言ってくれないの、どこかに行っちゃってたらどうするのよ、ずっと捜してたのよ!!」


「落ち着いたらどう?」


 マルコシアスは呆れ返ってつぶやいて、シャーロットの肩を押さえた。


「あのね、ご記憶だといいんだけど、僕には精霊がいる。僕と違ってぴんぴんしている。僕より格上の魔神があんたの尋ね人のそばにべったり張り付いてでもいない限り、僕の精霊は人捜しくらいはこなせるさ」


「すぐ彼を捜させて!」


 シャーロットは叫んだ。

 マルコシアスは礼儀正しく耳を塞いで、その声がどれだけやかましいものかを彼女に教えた。


「はいはい。レディ、僕の耳は別に悪くない――」


()()()見逃した彼よ! どこにいるか私が訊いたときに、『さっきの部屋にいるだろうから大丈夫』って、お前が言ったのよ!! 結局そこにいなくて、私がどれだけ心配してると思うの!」


 シャーロットはきゃんきゃん叫んだが、マルコシアスはいっこうに思い当たった様子もなく肩を竦めた。


「そんなことあったかな。覚えてないな。

 ともかく――ほら」


 マルコシアスのすぐそばで、きらっと空気が輝いた。


 それはまさに、かれに知らせを運んできた、忠実なかれの精霊の姿が、わずかに人間の目にも見えたものだった。


「――見つけてきたって。

 よろしければご案内しましょうか、ご主人様?」



 オリヴァーが、じゃっかん目を剥いた。

 彼は立ち上がろうとした――おそらくこう言おうとしたのだ、「ベイリー、学院長がお出ましになるときに、お前が席を外しているっていうのは上手くないぜ」。



 とはいえ、向こう見ずで定評のあるシャーロットが、今やそんなことに拘泥するはずもなかった。


「当然でしょう! 馬鹿じゃないんだから、いちいち言わなきゃ気が回らないふりをするのはやめて!」


 シャーロットの言いたい放題のわがままに、マルコシアスはからかうようなわざとらしい悲しみの表情を浮かべてみせた。


「もう、あんたはことあるごとに僕を馬鹿っていうんだから。そんなに言うなら馬鹿でいいよ、もう」


 シャーロットは憤然と返した。


「お前だってその同じ数だけ私を間抜け呼ばわりするじゃない!

 主人を間抜け呼ばわりする悪魔なんて滅多にいないわよ!」


「そうかい」



 シャーロットは両手を握り合わせて、もはや居ても立ってもいられなくなって、叫んだ。



「ああ――もう――命令よ、エム、私をここから連れ出して!」





▷○◁





「アーニー、もうここから出て、安全な場所に隠れていてもいいと思うのですが」


 アットイが生真面目な口調で言った。



 アーノルドは、自分の現在地も分からなかったものの、ともかくも広いバルコニーに通じる、てっぺんが尖った形のアーチのそばにうずくまっていた。


 建物の最上階に自分が立っていることだけは理解していた。

 バルコニーの方を覗けば、よく晴れた空と、巨大なスクエア型を描くリクニス学院の、中庭を挟んだ向こう側が、ちょうど半々に視界を割るように見えた。



 アーノルドは、アットイに見えるように気を配りながら首を振った。


「アットイ、まだだよ」


「どうしてですか?」


 アットイは落ち着かない様子で、きょろきょろと辺りを見回している。


 紫水晶の目と氷の色の目が、用心深く何度も廊下を振り返っていた。

 耳がぴくぴくと動いて、左右別々の方を向いている。


「あなたがさっき話した、あの魔神が目的のかれでしょう――あなたがシャーロット・ベイリーのことを話して、顔色を変えて飛んで行ったんですから間違いありません。

 主人の命令は果たしたと思いますよ、アーニー」


「半分はね」


 アーノルドは慎重に答えた。

 あの白いオウムが目に見えるところにいないために、彼としてはかなり呼吸が楽になっていた。


「あと一つ、あっただろう――もし、名前はなんだっけ、とりあえずさっきの彼だけど、彼がシャーロットを捕まえたら報告しろって」


 アットイは二本のしっぽを動かした。

 片方を激しく振り、もう片方を上品に後ろ足に巻きつけたのだ。


「そちらについては、アーニー、上手くいっているとは思えません」


 アーノルドは吐きそうになった。


 先ほどから轟いていた、おそらくは悪魔どうしのやり合いから発生していたのだろう大音響は、すっかり静まり返っている。

 ついでに悲鳴もやんでいた。


 アーノルドとしては、悲鳴が聞こえるたびに錆びついた良心がここぞとばかりに軋んでいたので、これはとりわけありがたかった。


 ――だが、とはいえ、上手くいっていないとは。


「なんだって?」


 シャーロットが危ないと警告したにもかかわらず、あの悪魔はシャーロットを守れなかったのか?


 しかし、アーノルドの恐怖の眼差しを受けたアットイは、訝しそうに目を細めた。


「そんなに必死にならなくとも。彼がシャーロット・ベイリーを捕まえてしまうかどうかは、われわれにとってはあまり関心の的ではないではないですか? あなたが、あの魔神が以前シャーロット・ベイリーが召喚していた魔神と同じものかどうか、それを判断できればいいんです。

 シャーロット・ベイリーが自由の身であったとして、別に困りはしませんよ」


 アーノルドはほっとして、全身の力を抜いて床に手をついた。

 それから壁にもたれ掛かり、すとん、と床の上に尻を落とす。


「ああ、そっちね。そうだよな。――じゃ、アットイ。きみの見立てでは、シャーロットの悪魔が勝ったんだ?」


「私の見立てと言われても困りますが」


 アットイは居心地悪そうにその場に座り込んだ。

 ほんものの猫のように顔を洗って、アットイは渋い声を出す。


「もしかりに、シャーロット・ベイリーの悪魔が負けていたら、屋上にいたもう一人の悪魔は用なしになって解雇されていると思いませんか? かれの気配がまだありますし、私の精霊も怯えています」


 アーノルドはほっとした。

 とはいえ、その表情を出さないようにする機転が、かろうじて働いた。


 彼は両手で顔をぬぐって、しかつめらしい表情を作って、言った。


「なるほどね」


「ですから、もうそろそろここからおいとました方が――」


 そこまで言ったアットイが、ふいに口をつぐんで立ち上がった。


 かれの背中の毛が逆立って、廊下の向こうを威嚇しはじめたのを見て、アーノルドはすばやく立ち上がり、燦々と陽光の降り注ぐバルコニーに音を立てずに滑り出し、廊下からは見えない陰に回り込んで息をひそめた。

 もちろん、影が落ちる方向にも気を配って。


 ――アットイが、誰かが近づいてくることに気づいたのだ。


 悪魔のアットイはいくらでも存在をごまかせるだろうが、人間のアーノルドはそうはいかない。



 すぐに、あわただしい足音が聞こえてきた――足音は廊下で反響し、反響したその残り滓のような音が廊下を抜けて、かすかにアーノルドの耳に届く。



 アットイが急に弱気な鳴き声を出し、文字どおりしっぽを巻いてバルコニーに駆け出し、アーノルドの足許に逃げ込んできた。

 アーノルドは仰天した。


「おいおいアットイ、自分より弱いやつを盾にするなんて。きみはおれに、そこまで()()はなかったと思ってたのに」


「私は自分がいちばんです。

 それに、かれからすれば私もあなたも大差ありませんよ」


 アットイが張り詰めた声でそう答えたので、アーノルドはゆっくりと後退って、建物の壁に沿ってバルコニーを横向きに進み、出入口のアーチから距離を置いた。


 今にも、そこから危険な悪魔が飛び出してくるかもしれないと思ったからだ。



 だが間もなくして、アーノルドは雷に打たれたようにして固まってしまった。


 廊下の中で反響して、こちらにはかすかにしか聞こえない声――その声に聞き覚えがある気がしたのだ。



 ――シャーロットの声だ。


 強気で、元気よく、考えを曲げない意固地さが透けている、高い声。



(やば……)


 考えてみれば、「あんたの主人が危ないぞ」と、あの悪魔に警告したのはあからさまに怪しかったのだ――「危ないぞ」と警告できるということは、むろんその事態をたくらんだ人物を知っていると思われても不思議ではない。


 つまりシャーロットが、彼女の悪魔からその顛末を聞き、よしその怪しげなやつを尋問してやろう、と思い立ったとしても、なんら不自然なことはないのだ。



 アーノルドはますます後退り、とうとうバルコニーの端に到達してしまった。


 ちらっと後ろを振り返ると、欄干の向こうに落ちた場合、傾斜の激しい石瓦の屋根を転がり落ちたあげく、突き出した細い煙突に激突しそうだった。

 そしてその先は中庭に真っ逆さま。


 広いバルコニーから逃げ出す道は、まさに悪魔が飛び出してくるかもしれない、そのアーチ一つだけだった。


 まずいことをしたな、と思いつつもアーノルドは、こそこそと彼の足許に隠れるアットイに視線を向けた。

「なんとかできない?」という意味のその眼差しは、見事に無視されて空振った。



 そのとき、とうとう、シャーロットがバルコニーに飛び出してきた。


 アットイは意外そうな顔をした――猫の顔面にできる範囲で。

 というのも、悪魔を召喚しているのならば、〈身代わりの契約〉があったにせよ、悪魔を前に立てるのが常道だからだ。


 だが、アーノルドはさもあらんと思った――シャーロットはそういう子だ。



 シャーロットは、ここまで急いで走ってきたのがよく分かる顔をしていた。

 この春に、もう既に額に汗して頬を赤くし、はあはあとあえいでいるのだから。



 シャーロットは、一瞬のあいだ、バルコニーが無人だと思ったようだった――不意をつかれたような、きょとんとした表情をした。


 それからつんのめるように足を止め、ぐるりとバルコニーを見渡した。


 アーノルドは、奇跡が起こってシャーロットがバルコニーの片側(()()()片側)だけを見渡すよう祈ったが、そんなことはあるはずがなかった。


 シャーロットは見事な扇形を描くように視線を動かした。



 その視線が、終点でアーノルドを直視した。



 アーノルドはなんとか、「自分はここの学生です」という顔をしようとしたが、どうにも上手くいきそうになかった。



 ――シャーロットは、アーノルドの記憶にあるよりも背が伸びていた。


 格好は、以前に会ったときとそう変わらない――薄い緑色の、丈の長いワンピース。

 顔立ちもまた、それほど変わっていない――アーノルドのように、削がれたように面差しの雰囲気が変わったということはなかった。

 相変わらず青白く、橄欖石の色の瞳は相変わらず大きい。

 癖のない金色の髪にはもう寝癖はついておらず、きちんと櫛が入れられていて――ただし今は、駆け込んできた勢いあまったかのように、少しばかりほつれている。



 その目がアーノルドを見た。

 かちりと音がするほど明確に、二人の目が合った。



 ――暖かい風が陽光のあいだをおだやかに吹き抜けて、どこかで咲いている花の香りと、厨房から温かいスープの匂いを運んできた。



 滅多にないことに、アーノルドは表情に困った。


 シャーロットはもう彼のことを忘れているだろうから、ごまかすのはそう難しくないはずだ――にも関わらず、彼はまごつき、咄嗟に最適な表情を作りそびれてしまった。



 シャーロットが大きく息を吸い込んだ。


 そのときになって、あの灰色の髪の少年が、彼女の後ろから悠々とバルコニーに踏み出してきた。

 かれはトラウザーのポケットに手を突っ込んで、バルコニーに通じるアーチに、疲れたようにもたれ掛かった。



 アットイが呻いた。


 アーノルドは一歩下がり、背中を欄干にぶつけた。



 シャーロットはそんな彼に向かって身体の向きを変え、よろめくように一歩を踏み出し、


「――()()()()!!」


 叫んだ。



 アーノルドは目を見開いて硬直した。


「……え?」



 ――忘れたはずだ、もうとっくに。


 あんな、二年と少し前に、一日に満たない短い時間だけを共有した相手のことなどは。



 シャーロットがアーノルドに向かって突進した。


 アーノルドが身を躱してしまえば、おそらくシャーロットは勢いあまって欄干から外に向かって転落していただろう。


 アーノルドに与えられた選択肢は、自分が欄干の外に落下するか、シャーロットが落下するのを見守るか、あるいはシャーロットを抱き留めることだった。



 混乱しながらも、アーノルドはとりあえずシャーロットを抱き留めることにした。


 シャーロットはといえば、アーノルドが身を躱したかもしれない可能性など考えた様子もなく、全身から懐かしさと喜びを発散させて、まさに飛びつくように背伸びをして、アーノルドの首に熱烈に腕を回した。


 ぎゅっ、と引っ張り寄せられて、アーノルドはじゃっかん背中を曲げるような具合になった。


 シャーロットの頬に自分の頬が触れて、上気した温かさが伝わる。

 息遣い、ぴったりくっついた相手の心臓の鼓動、それらが驚くほど間近になって、アーノルドはぽかんとしてしまった。



「アーニー、どこにいたの、いろいろと捜してもらってたのよ、私もグレイさんも、ものすごく心配したのよ――」



 ほとんど涙ぐんだような声音で囁かれ、アーノルドはますます訳が分からなくなった。



 たぶん――というか、間違いなく――自分は、すばやくここから身を引いて、シャーロットのことなど知らない、あるいは覚えていないふりをした上で、この場をごまかして立ち去るべきだ。



 そう分かったのに、動けなかった。



 この二年でぱっくりと割れてしまっていた彼の心に、何か温かいものが触れて、ゆっくりと心臓がその中に浸っていくような気持ちになった。



 アーノルドは逡巡して、とはいってもその逡巡は、彼の主人のことを考えたものではなく、目の前にいるシャーロットのことを考えたがゆえのものだったが、ともかくもその逡巡のすえ、彼はぎこちなく両手を持ち上げて、シャーロットの背中に腕を回した。


 どきどきしたものの、シャーロットが悲鳴を上げることはなかった。


 アーノルドはほっとして――それほど大きな安堵は、この二年のあいだ覚えることもなかったものを――覚えず微笑み、力を籠めて彼女を抱きしめた。



 この瞬間だけは、人生の他の部分から切り離されますよう、と、彼は祈った。



 ――なんだかもう、何もかも、どうとでもなっていくような、そんな気がした。





















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